第千二十九話 綻び
そこには、王子が去った部屋の様子が書かれていた。机が黒く汚れていたというのだ。
直感的に、それはインクで汚れているのだろうと察した。彼が利用したのは、いわゆる民間会社が運営している船で、むろん彼はその船の中でも最も上級の船室を利用していた。
念のため迎賓館長のミンシを通じて、彼が泊まった際の部屋の様子を聞いたが、特段変わったことはなかったのだと言う。ゴミの類も鼻かみ程度で、特に普通の客と変わらなかったらしい。まあ、きれいに部屋を使ってくれたなという印象だったと言うのだ。
ちなみに、迎賓館では宿泊客を秘かにランク付けしていて、特にひどい場合は俺のところに報告が上がってくる。部屋の使い方で人間性を把握できるし、そのお国柄も想像することができるのだ。もっとも上級の格付けがされる客は、部屋を綺麗に使うことはもちろんだが、部屋を出る際に感謝の言葉をかいたメッセージを残したり、チップを置いて帰ったりする。基本的に迎賓館ではチップを受け取ることは禁止しているが、それでも例外的に出立の際に部屋に残していく分に関しては受け取ることにしている。それはミンシの管理でプールされ、年明けに全員で山分けをすることにしている。
次のランクは部屋をきれいに使う客。ここまでがいわゆる上質の客の部類に入る。大抵の者はここに格付けされる。これが実は何でもないように見えてなかなか難しい。彼らは少なくとも一週間程度はここに宿泊する。一週間丸々部屋をきれいに使い続けるというのは相当に気を使わねばならない。ただ、ミンシ曰く、宿泊して一日目に掃除に入った際に、大体わかるのだと言う。きれいに部屋を使うものは大体滞在中はきれいに使うし、汚す者はどれだけ注意をしても汚して帰る。そうしたごく一部の困ったちゃんは、これより下のランクを付けられる者もいて、部屋を汚すだけでなく、スタッフに罵詈雑言を吐いたり、おさわりをしたりする者などもいて、そうした人はさらに下位のランクに格付けされる。ひどいのになると、部屋の備品を持って帰るなどという、ほぼ泥棒と変わらない振る舞いをする者さえいる。そういう者は二度と来ることはないが、来ても迎賓館は使わせない。言わば出禁の状態になるのだ。
なお、サイリュースの人気ナンバーワンのパターソンの場合は、使ったタオルなどはきれいに折りたたまれているし、メッセージも気の利いたものを残していく。スタッフの名前を全員覚えていて、ちゃんとその名前も記していく。彼女たちが気付きもしなかった良い点をあげてくれるし、チップを置いて帰るのは言うまでもない。そりゃ、人気が出るよね。
話を元に戻す。
王子は隙を見せないために、一挙手一投足に気を配っているのだろう。ガルビーまでの移動中に眠っていたのは、その疲れが出たためだと解釈した。そんな彼が民間の船とはいえ、部屋を汚して出ていくというのは考えにくい。何か不測の事態があったのか、例えば、たまたまインクのツボを倒してしまったとか、紙が薄くてインクがその下に滲んでしまったとか、そういうことなのだろうか。それとも、何か、自分の中で感情が爆発してしまったのか、色々なことを考える。
そうしているうちに、執務室の扉がノックされてマトカルが入室してきた。
「カトマルズ王国のことを調べてみた」
「おお、すまないな、マト」
聞けばあの国は金と鉄が豊富に獲れるのだそうだが、亡くなった国王が国を息子たちに分け与えてしまったため、その資源も分割されてしまうことになっていた。つまりは、金山がサウシ王子の支配下にはいり、鉄などの鉱物資源は兄であるメルシ王太子の支配下となっていた。
「金山って普通、次期国王に相続させないか? 国の基盤となる金を王太子に相続させないで、サウシ王子に相続させるというのは、先代の王はサウシ王子に国を譲る気だったのだろうか」
と思わず呟く。マトカルはそんな俺を淡々と眺めている。
「金を得た王子はその資金をもとに国を富ませようと考えている。さらには、技術力を上げてさらに金の産出量を増やそうとしているのだろうか。対してメルシ王太子は資金がないので鉄を掘り出すことが難しくなっている。そのためにヒーデータに膨大な借金をして鉄を産出して武器を作り、それで弟の領地に侵攻する気でいる、というところか」
「そこまでは調べて見ねばわからない」
「そうだな、マト。引き続き調べてもらえるか」
俺の言葉にマトカルは静かに頭を下げた。
◆ ◆ ◆
ヒーデータの帝都に戻ってきたサウシ王子は、再び皇帝ヒートに謁見した。彼が戻ってくると聞いて兄のファクトは逃げるようにして帝国を後にしていた。
サウシ王子はヒートの前でアガルタのことを褒めた。高い技術力と強力な軍事力があり、なるほど世界に覇を唱える国である、そんな国と誼を通じている貴国がうらやましいですと言って笑顔を見せた。そしてさらに、アガルタ王リノスに実妹たるリコレットを嫁がせ、アガルタを建国させたヒートの慧眼を褒めた。
彼はにこやかにその話を聞いていた。
「いやいや、かの国は義弟殿の力量に寄るところが大きい。余自身も、あの国があそこまでになるとは予想もしておらなんだ。義弟殿は果報者だ。よき妻たち、よき家来たちに守られている。とりわけ妻たちはどの方も皆、美女ぞろいだ」
「左様でございました。私も、ソレイユ王妃、リコレット王妃、メイリアス王妃、マトカル王妃とお会いしましたが、どの方も魅力的なお方ばかりでした」
「ははは」
ヒートはそう言って笑う。王子はヒーデータと何らかの条約を結ぼうと色々とその方向に話を持っていこうとしたが、ヒートにその都度、上手に話をはぐらかされていった。このままでは埒が明かないと判断したのか、彼は出し抜けに話題を変えた。
「陛下に一つ、お願いがございます。ドワーフ公国王様へ謁見できますよう、お取り計らい願いませんでしょうか」
彼は一気に言った。それだけは叶えたいと言う気概が溢れていた。ヒートは、我が国と誼を通じる以上に、ドワーフ公国との関係が重要なのだろうなと心の中で呟きながら、少し考えるそぶりを見せた。
何とも言えぬ沈黙が訪れる。
「ドワーフ公国、か。余も公王にお目にかかったことは数度あるだけだの。確かにかの国と我が国は同盟関係にあるが、貴殿もご存じのように、公王の息女が我が義弟殿に輿入れしている。公国に用事があれば義弟殿を介して行っている。廻りくどいが、それが最もうまくいくのでな。貴殿も義弟殿と謁見したのであろう。義弟殿を介して行けば、その望みは叶いやすくなるだろう」
「なるほど。そういうことでしたか。承知しました。あまり貴国にも長居をしてはいられませんので、今回は出直すことといたしましょう。重ねてのお願いになりまして恐縮ではございますが、陛下よりアガルタ王様に、公王様への目通りの件をお伝えいただければ、大変に助かります。我が国はいま、国を発展させるために技術開発に力を注いでおります。それには世界最高の技術力を誇るドワーフの力が欠かせません。どうぞ、よろしくお願い申し上げます」
王子はそう言ってその場を後にした。
サウシ王子を見送ったあと、ヒートはしばらく謁見の間に留まり、玉座に座ったまま動かなかった。
王子がアガルタに逗留している間に、公国に行きたいと希望して断られていたことを彼は知っていた。であるにもかかわらず、敢えて自分にそのことを頼んできたということは、あの男はある程度余裕がなくなっているのではないか。彼の聡明な頭脳が思考を開始していた……。