第千二十三話 王子、アガルタ来訪
そのサウシ王子がアガルタに現れたのは、それから二日後のことであった。
彼は早朝、まだ夜も明けきらぬうちに城門に現れた。アガルタの城門は深夜十二時から朝の五時までは閉じられている。門番に頼めば傍の小さな門が開けられるし、緊急の場合は大門も開けられるが、王子は早朝四時ごろに到着したあとは、特に兵士に話しかけるわけでもなく、ただブラブラとアガルタの外堀に添って都を眺めて過ごしていた。
事前に陛下から王子の来訪を知らされていたリノスは、彼が到着したと報告を受けると、リコを伴って謁見の間に向おうとした。だが、王子が特に礼服に着替える様子もなく、平服のままでいることから、そうした格式ばった謁見をするべきではないと判断し、彼をアガルタ大学に向かわせて、留学生たちと交流させた。
王子はメイに会うと、片膝をついて両手で彼女の手を取りながら挨拶をし、感謝を述べた。メイは大いに恐縮していたが、彼はさながら、涙を流さんばかりに何度も彼女に礼を言った。そして、集まった学生たちに対して、皆は国の至宝である。国の将来は諸君らの双肩にかかっていると言って激励した。
リノスがリコを伴ってアガルタ大学に到着したのは、それからすぐ後のことだった。
その足で学長室に向かう。リノスはどちらかというと地味な格好をしているためか、学生たちから気づかれることはなかったが、その後ろを歩くリコの気品は存在感を放っていた。そのため、学生たちはリノスはそのままスルーするが、後ろのリコに気がついて立ち止まって一礼をするという場面が多く見られた。リコ自身も特に目立った衣装ではないものの、その大きな違いに、リノスは思わず苦笑するのだった。
二人の姿を見ると彼は喜びの表情を浮かべて立ち上がり、ご無沙汰をしておりますと言って笑みを見せた。学長室にはメイのほかに秘書のセルロイトとリボーン大上王が控えていた。大上王は律儀にもリノスの姿を見ると椅子から立ち上がり、それに釣られるようにして、メイたちも立ち上がった。リノスは大いに恐縮をして、気にせずお座りくださいと言って大上王を座らせようとしたが、彼は何故か、アガルタ王を差し置いて座るわけにはいかぬと意地を張った。そんな悶着の間に王子はリコの手を取り、メイのときと同じように片膝をついてお目に書かれて光栄でございますと言って頭を下げた。
皆がようやく席に着くと、王子はアガルタ大学の教育方針を褒め、それからメイを褒め、そして最後にリコを褒めた。まるで歯の浮くようなセリフも多かったが、彼が言うと何故かイヤミには聞こえなかった。さすがにリコはそうしたことに慣れているためか、王子の話に適度に相槌を打ち、お上手ですわねと言って上手く躱していた。
散々褒め倒したあと、王子は真面目な表情になると、リノスに向かって兄から差し向けられた刺客を退治していただいてありがとうございましたと言って、深々と頭を下げた。彼は一言、大変に残念ですと言って悲しそうな表情を浮かべた。
アガルタ大学から迎賓館に帰ろうとしたそのとき、王子が突然、ドワーフの工房を見たいと言い出した。ドワーフがどのように鉱石を打っているのかを見たいらしい。さすがにそれは予定外のことであり、リノスは少し迷ったが、リコの見学くらいなら大丈夫でしょうという言葉に従って、馬車を工房に向けた。
突然現れた三人に驚いたのはシディーだった。彼女は作業着に身を包み、頭にタオルを巻き、手に金槌を持っていた。リノスはその姿を見て可愛らしいと思ったが、シディーは来るならくると言って欲しいと小声で囁いてきた。
王子はシディーの迷惑など知ったことではないとばかりに、次々と工房の外観について質問してきた。どうして煙突はあのように高いのか、この煙突はどうして曲がっているのかと矢継ぎ早の質問に、シディーは仕方なくそれに答えていく。
「煙突を高くしているのは、臭気を分散させるため。高くすることで、上空の風に乗って臭気が分散されるのよ。地上に排気口を向けているのもまあ、同じ理由ね」
「あんなに高い煙突にしても、煙は外に出ていくのだろうか?」
「まあ、空気よりも軽いし、風を送っているから問題ないわ」
「なぜ、このようなことを?」
「周囲の環境を維持するためよ。近くには民家もあるし、その人たちに不快な思いをさせるのはよくないことだわ。ここでは使い終わった水もちゃんと中和して、環境に問題ないようにして川に放流しているのよ」
「それも、周囲の民衆のために、か……」
「いいえ、この国のためよ。一度汚れた水や土は元に戻るまでに相当な時間と手間暇がかかる。だから、私たちはこの都の、アガルタの土や水や空気を汚さないように取り組んでいるのよ」
「素晴らしい取り組みだ……。君は……生意気だけれども、私は嫌いではありません。恐れ入りますが、工房の中を、案内していただけますか?」
「ああっ?」
シディーが明らかに怒っている。リノスが間に入ろうとしたが、彼女はそれを拒否するようにチッと舌打ちをして、工房の中に入っていった。
「可愛らしい女の子だ。あの方は、どなたでしょうか」
「まあ、この工房のお姫様のような方です」
「お姫様? ハハハ、それは失礼なことをしましたね。後で彼女に謝っておかねば」
王子はそう言って再び笑みを見せた。
リノスは自分でもそんな言葉を口にした理由がわからなかった。本来であれば、あれは俺の妻です、ニザ公国公王の息女ですと紹介するべきだった。さらには、私の妻に対して無礼でしょうと怒りを見せても許される場面だった。リコもどうして抗議をしないのだと思っている。まさに、彼女が正しい。彼は心の中で、後でリコとシディーに謝っておこうと呟いた。
どこかで彼女がアガルタ王の妃であることが暴露されるのではないかというリノスの心配は杞憂に終わった。工房の中でしばしばシディーはドワーフたちから大姫様と呼ばれていて、割と気軽に声をかけられていたために、王子はこの少女のような女性が本当に工房の中でお姫様扱いされている技術者と思ったようだった。ただし、明らかに機嫌の悪い彼女を見て、最初は大姫様と軽口を叩いていたドワーフたちは、徐々に誰も話しかけなくなっていったのだが。
機嫌の悪さを隠そうともせずにシディーは工房の中をぞんざいに案内した。リノスはひやひやし通しだったが、リコはそうした動揺を全く出すことなく、端然と皆の後ろをついてきた。
「そういえば、この工房ではオリハルコンは製造しているですか?」
「していないわ」
「どうして」
「どうして? できないからできないのよ」
「そうですか……。やはり、オリハルコンはニザ公国でしか製造できないものなのですね」
「オリハルコンに興味があるのかしら」
「まあ、ね」
王子は苦笑いを浮かべた。
◆ ◆ ◆
リノスは迎賓館に戻ると、王子との夕食会に臨んだ。彼はやはり、最初から最後まで褒めどおしだった。リノスを褒め、リコを褒め、料理を褒め、給仕しているサイリュースを褒め、さらには部屋の調度品までも褒めていた。
食事会を終えて屋敷に戻ると、リノスはドッと疲れが襲ってきて、ダイニングの椅子にどっかりと腰を下ろした。ペーリスが心配して何か食べますかと言ってきたが、彼はそれを断り、彼女に休むように優しく声をかけた。彼の隣にはやはりリコが控えていて、夫を心配そうに眺めている。すでに夜も更けていて、子供たちは休んでいる時間だった。リノスは大きなため息をつくと、リコにゆっくりと視線を向けると、やおら口を開いた。
「すまないが、メイとシディーを呼んでくれないか」
リコは無言のまま頷くと、ゆっくりと立ち上がった。