第千二十一話 間抜けな者
マトカルの許にその報告がなされたのは、昼下がりのことだった。それは頻繁ではないものの、月に数回は見られる事案であり、彼女自身もその対応には慣れ切っていた。
傍らに置いている剣を携えて部屋を出る。案内役などいない。勝手知った廊下を進んでいく。途中すれ違う軍関係者が直立不動で挙手の礼を取る。彼女はそれに黙礼で答えていく。
とある部屋の前までやってくると、何のためらいもなく、ノックもすることなく扉を開ける。そこには一人の男が後ろ手に縛られて座らされていて、鋭い目つきで睨んでいた。その周囲には三人の兵士が呆れた表情を浮かべながら男を眺めている。
「この男です」
兵士の一人がマトカルの姿を見て顎をしゃくる。彼女は男の正面に立つ。
「間の抜けた男だな」
無表情のまま、言葉の抑揚もほとんどない。情というものを一切感じさせない喋り方だった。目の前の男はなおも憎しみの眼差しを向け続けている。
男はアガルタの都に入る直前に、結界に引っかかって捕えられた。国王リノスの張ったこの結界は、強い邪念や殺意などを持った者に対して反応する。この都にはそうした特殊な結界が張られていることは世界中の国々ではほぼ、周知の事実となっている。結界を張った当初はほぼ毎日のように盗賊や犯罪者の類は言うに及ばず、各国から放たれた間者が引っかかった。だが、ここ最近ではクリミアーナ教国を筆頭に様々な対策が立てられ、結界が反応する程の者が捕らえられるというのは、ひと月に数人という割合まで減っていた。むろん、アガルタも手をこまねいているわけではなく、結界に引っかからずに入ったとしても、中で犯罪の類を犯した者の素性を調べ、対策を調べ上げた上で、結界の強化を行っていた。こうした行為はいわゆる、いたちごっこではあったが、リノスは真面目にこの対策に向き合っていたのだった。
しかし今回、結界に引っかかったこの男は、城門をくぐる前から強い殺気を発していて、それは警備を担当する兵士たちも容易に感じることができる有様だった。彼は尋問した兵士たちを何とか振り切ったが、結界に阻まれ、全身をマヒさせてその場に倒れ込んであえなく御用となったのである。ある意味では恐れをも知らぬ男であるとも言えた。
いま、男は後ろ手に縛られて完全に自由を奪われているが、マトカルを含めた兵士たちは一切油断をしていなかった。結界に引っかかると、アガルタ軍本部に連行される。つまりは、本来入ることの許されない都の中に入ることができているのだ。ここで兵士たちを倒し、マトカルを倒すことができれば、男は易々と都の中を闊歩できるのだ。
ただ、彼らには男を逃がさない自信があった。それだけの十分な訓練を受けてきているのだ。
「で、お前は何をしにこのアガルタにやって来た」
マトカルが口を開く。聞いたところで答えないことは十分に予想が付いていたが、職務上、とりあえず男に聞いたにすぎなかった。
「俺は、暗殺の命令を受けて、ここにやってきた」
男はそう口を開いた。再び兵士たちが呆れた表情を浮かべる。それは、捕らえられたときに質問されたときの答えと同じだったからだ。だが、兵士たちがそれから先、何を聞いても、男はそれなりの立場のある者を寄こせ、そいつになら、喋ってやってもいいと繰り返すばかりで、その報告を受けたマトカルが、わざわざここまでやって来たのだった。
「私はマトカルという。アガルタ軍総司令官である」
「なるほど、その名前は聞いたことがある。氷の将軍と呼ばれている女だな」
「その通り名は知らない。ところでお前は、誰の命令を受けてここにやって来たのか」
「俺はメルシ王太子殿下の命令でここに来た」
「……それで、誰を殺しに来た」
「アガルタ大学に留学している、カラサル、ヘルオレ、マイル、カトロズらを殺しに来たのだ」
言うまでもなく、先日サウシ王子から送られてきた留学生たちだ。マトカルはさらに言葉を続ける。
「その者たちを殺して、どうするつもりだ」
「そんなことは知らぬ。俺はその者たちを殺せと命じられただけだ。だから、殺す。殺せば金が貰える。それだけだ」
「お前の名は」
「ジルミル」
「出身は」
「カトマルズ王国」
「職業は」
「カトマルズ王国軍人」
「軍隊内における階級は」
「伍長」
「送り返せ」
マトカルはそこまで聞いて、兵士たちに強制送還を命じた。ドヤドヤと男が兵士たちに伴われて部屋を出ていく。ジミエルと名乗った男は、捕らえられたときの勢いが嘘のように唯々諾々として従っていた。彼らが去った後には、マトカルと兵士一人だけが残った。
「どう思われますか?」
男の問いにマトカルはしばらく沈黙した。何かを考えている様子だった。ややあって彼女は小さなため息をつきながら、ゆっくりと口を開く。
「一見するとただのバカであるようにも見えるが……。カトマルズ王国側からの、我らに対しての警告とも考えられないこともない」
「警告、ですか……」
「あまりサウシ王子の言うことを聞くなということなのかもしれないな」
「……たかが、そんなことを伝えるためだけに、あの男を寄こしたということですか」
「まあ、万に一つでも成功すればいいという気持ちもあったのかもしれないな。ああいう男……暗殺を実行する、しないはさておいて、ペラペラと命令の内容を喋ってしまうような間の抜けた者を寄こすことで、アガルタから責任を追及されたときに、それを躱す狙いもあるのかもしれないな」
「……恐れ入ります。それは、考えすぎかと愚考します」
「そうか。追及を受けた際に、そのような者を送り込むほど、我が国は間抜けではないと言い切れるではないか」
兵士が困った表情を浮かべていた。
「そんな邪推をする私が、実は間抜けなのかもしれないな」
マトカルは苦笑いを浮かべると、何も言わずに黙って部屋を出ていった。
◆ ◆ ◆
暗殺者が送られたと聞いて、メイの表情がサッと変わった。俺は都に入る前に排除したと言って彼女を安心させた。
聞けば聞くほど間抜けな男だと思う。マトカルは警告の意味もあるのではないかと言っていたが、そんなレベルの高い策略を仕掛けて来るような人物には見えなかった。とはいえ、本気で暗殺を考えてその男を送って来たということになれば、それはそれでかなりヤバイ人たちという評価になる。
大体暗殺というのは、表に出ないようにするのがミソなのだ。知らない間に殺されていたというのがいわゆるきれいな暗殺ということになる。であるにもかかわらず、堂々と都にやって来てペラペラと事の顛末を語るというのは、そもそも暗殺になっていないし、間抜けにもほどがある。むしろこの男は軍人ではなく、お笑い芸人になった方がいい。それが天然であるならば、相当にウケるはずだ。ただし、腕のあるツッコミがいればの話になるが。
「やはり、留学生の皆さんには、あまり表に出ないようにお伝えした方がいいのでしょうか」
メイの心配性が顔をのぞかせている。その彼女を見ながらリコが、
「いいえ。その必要はありませんわ。少なくとも、アガルタの都にはリノスの結界がありますわ。その中にいる限り、暗殺の類は起こらないはずですわ。暗殺を恐れて学生たちの教育が疎かになったり、学生たちの熱意が削がれたりするのは、それこそ相手の術中に陥るだけですわ。このことは学生には伝えずに、彼らには勉学に励んでもらうのがいいと思いますわ」
そう言って力強く頷いた。その様子に励まされたのか、メイも大きく頷いている。ただ俺は、何となくだが、嫌な予感がしていたのだった……。