第千十九話 合格
相変わらず陛下は喋り続けた。食事中は静かにするものではないのかと思ったが、敢えて何も言わないでおいた。それよりも、タウンゼット王妃とアローズの二人のテーブルマナーが完璧で、思わず見とれてしまった。
特に王妃は平民の出で、皇太子時代の陛下付きの女官だった人だ。マナー教育などはほとんど受けたことがないはずだ。それがここまでになるということは、彼女は彼女なりに苦労し、努力をしたのだなというのがよく伝わってくる。
一方のアローズは、これも教育の賜物だろう。とても行儀がいい。ただ、何と言うか……。初見のものに対しては対応が苦手のようだ。彼にとって初めて見る料理のスタイルに戸惑いがあるのだろう。料理に手を付ける前に一旦固まる。最初は気に入らないのかと思っていたが、どうやら頭の中でこの料理をどう食べるのかをシミュレートしているらしい。しばらく固まる、料理を口に運ぶ、美味い、体が震える。そういうことを繰り返していて、時間を経るにつれてこの動きが何とも言えず可笑しかった。
「ウフフ」
エリルも同じように感じたのだろう。笑顔を見せながら彼の様子を眺めている。
「……何か」
アローズがキョトンとした表情を浮かべながら口を開く。
「私どものお料理は、お気に召されましたか」
エリルがアローズに話しかけている。その光景を見て俺は感動してしまった。まだ小学校にも上がっていない子供が、『私どものお料理は、お気に召されましたか』と言ったのだ。大事なことなので繰り返すが、小学校に上がる前の子供が、うちの娘が、『私どものお料理は、お気に召されましたか』と言ったのだ。下手をすると五十代のオッサンやオバサンでもこんなセリフは言えないだろう。なに? そんなフレーズを言うシチュエーションがない? そういう問題じゃねぇんだよ。ウチの娘は、大人でも言えないセリフを自然に言える。何て育ちのいい娘なのだろう。いや、皆で手塩にかけて育てた甲斐があったというものだ。
話を元に戻す。
エリルの問いかけにアローズは思わず隣の母親に視線を向けた。それはほんの一瞬のことだった。王妃は料理を口にしていたので視線を合わせることはなかったが、確かに意識は彼に向いていた。二人の空間の中にいろいろな情報のやり取りがなされたようだった。それは決してマイナスの意味ではないのは何となくわかった。
「あ、ああ。非常に、美味である。初めて食べる、味です」
アローズがぎこちない様子で答える。エリルはよかったです、と言って再び笑みを見せた。
「アローズ、そのような紋切り型の返答ではいかん。男なればもう少し女性を愉しませる会話をしなければな」
陛下の言葉にアローズはしゅんとなっている。
「いや、アローズ殿下の年では、それは難しいでしょう」
俺の言葉に陛下が意外だと言わんばかりの表情を浮かべる。
「そうですわ兄上。兄上が殿下と同じ年の頃に、女性を愉しませる会話ができまして? ご自分でもできぬことを子供に求めるものではありませんわ」
リコが援護射撃をしてくれる。彼はバツの悪そうな表情を浮かべる。
「むしろ、このお年で女性を愉しませる会話ができたら、それはそれで、警戒しなければなりません。将来が恐ろしいです」
「なるほどの、ヴァイラスのようになられては困るの。いや、アローズ許せ。今の言葉は取り消す。これは父が悪かった」
「いや、ここでヴァイラス公爵の悪口は止めてください」
「そうだの。今頃ヤツはくしゃみをしておるだろうて」
そう言って陛下は呵々大笑した。
食事会自体は和やかに進んだ。基本的にペーリスが給仕をしてくれたが、デザートに至るまでほぼ、リコの手による料理は実に美味しかった。デザートのケーキに至ってはおかわりをしたくらいだった。
「いや、大いに堪能した」
陛下が両手を広げ少しオーバーな様子でリコの料理を称賛した。酒も入っているために顔が赤い。基本的に酒には強く、酔ったところを見せたことのない彼だが、今日は気を許しているのだろう。少し酔っているようだ。
「リコレットはこのような食事を毎日摂っておるのか。実に羨ましいの」
「いえいえ、そんなことはありませんわ。むしろ、ペーリスの料理の方が、私のものよりも美味しゅうございますわ」
「何と、それは……また、食べに来なければならぬの」
陛下はそう言ってまた笑った。彼は俺たちに向かって、このリコレットは偉そうなことを言っているが、実は結構な年になるまで手洗いに一人で行けなかったのだ、などとどうでもいい話を続けた。
「さて、あまり長居をしてもよろしくはないの」
そう言って陛下は立ち上がった。やれやれようやく緊張の時間が終わるなとホッとしながら三人を見送る。
「おおそうだ。これを、エリル殿にやってくれ」
陛下が突然立ち止まり、懐から小さな何かを取り出してリコに渡す。彼女はそれを見た瞬間、体を震わせた。
「兄上……これは……」
「余が持っていても仕方のないものだ。これはそなたにやるものではないぞ。エリル殿にやってくれ」
陛下はそう言うと、俺たちの後ろに控えているエリルに視線を向けると、満面の笑みを浮かべた。
「ではエリル殿、またお近いうちに、見えましょうぞ」
そう言って彼はその場を後にした。
「……それは、なんだい?」
陛下の見送りが終わると、リコは掌に彼からもらったものを載せて、じっと見入っていた。そこにあったのは、キラキラと光る小さな宝石が付いたネックレスだった。
「母の……形見ですわ」
「リコの、か」
俺の言葉に彼女はゆっくりと頷く。聞けばこのネックレスは、陛下とリコの母上がヒーデータに嫁ぐ際の結婚式で着用したものであり、母はこれを大切にしていて、儀式などでたまに身に着けることがあったらしい。
その大切なネックレスを彼女は婚約が成立したヒートの正妃に送った。先だって離縁された、デウスローダ王の娘、ニーシャだ。だが彼女はこのネックレスを気に入らず、身に着けることはなかった。そして、離縁された際、彼女の持ち物はすべて実家であるデウスローダに返却されたが、これだけはヒートが自分の手元に戻したのだった。
「……これをリコではなく、エリルにということは、輿入れを早めろということか」
「無論その意味もあるでしょうけれど、どちらかというと、兄上はエリルのことを気に入ったということですわ。つまりは、次期皇帝の皇后になる女性として、合格ということですわ」
「そうなの?」
俺の問いかけにリコは答えなかった。だが、その表情はどこか嬉しそうだった。彼女にしてみれば、手塩にかけた娘が認められたということで、喜びもひとしおなのかもしれない。しかし俺は、何となく複雑だった。エリルはまだまだ子供だ。輿入れなどと言うのはもっと先、彼女が成人してからの話だと思っていたが、今の様子を見ると、一週間後には輿入れさせましょうと言いかねないような雰囲気があった。エリルはいいお姉ちゃんだ。弟や妹たちからもとても慕われている。いま、彼女を輿入れさせれば子供たちが悲しむだろうし、何より、俺が悲しい。俺はもう少し、この娘の成長を見守りたいのだ。
そんな心境を察したのか、リコは俺に視線を向けると、いつもの表情に戻り、
「まあ、輿入れ自体はまだまだ先の話ですわ。さて、このネックレスはどうしましょうか。エリル、陛下がこれを下さりましたが、あなたはこれを身につけたいかしら?」
リコの問いかけにエリルはゆっくりと首を振った。
「それでは、これはあなたが大人になったときにつけるといいですわ。それまでは……お母さんに頼んで、きちんと保管してもらいましょうか」
そう言ってリコはエリルを連れて離れに向かって行った。その後ろ姿を見て俺は、ホッと胸を撫で下ろした。