第千十六話 実質勝利?
リノスたちの控室から出たヴィエイユは、自らの控室に向かう。すぐ後ろからは二人の教徒が付き従っている。彼らはずっとあの部屋の前で待っていたのだ。
部屋に近づくと、後ろに控えていた教徒の一人が前に廻り、扉を開けた。彼女はそれが当然のように、無言のまま部屋に入っていく。そこにはさらに数人の教徒が控えていて、彼女が入室してくると一斉に立ち上がり、頭を下げた。その彼らの前を通り過ぎて彼女はその奥の部屋に向かう。
「しばらく一人にしてください」
「畏まりました」
従っていた教徒はそう言って部屋を出ていく。彼女は部屋に設えてあったソファーにその身を預けた。
……きっと、あのお方は今頃、リコレット様に叱られているわね。
ヴィエイユは心の中で呟くと、クスッと笑みを漏らした。まさに彼女が想像した通り、控室ではリコがリノスに、あのようなことを言ってはいけませんわと言って叱っていた。リノスはゴメンナサイとさも困った表情を浮かべており、その様子を陛下とタウンゼット王妃は優しい笑みを浮かべながら見守っていた。メイもメイで、少し笑みを浮かべながらその様子を見守っている。不穏な空気は微塵もなく、そこには、信頼し合った二人の面はゆいばかりの仲の良い光景が映し出されていた。
あの王子に手を出すなとアガルタ王は言った。手など出すわけはない。そんなことをすれば、このクリミアーナ教国が騒動に巻き込まれるだけだ。そのような火中の栗を拾うつもりは毛頭なかった。
ただ、あの王子が好みか好みでないかと問われれば、正直言って答えは前者だ。ああした自信満々の男を自らの足元に屈服させるのは、ヴィエイユの大好物であると言えた。
アフロディーテの執務室で、あの王子を跪かせる。男は全裸だ。一方のヴィエイユ自身も一糸まとわぬ裸の上に、薄いレースを纏っている。それは纏っているだけで、彼女の体のすべてが見えてしまっている。大事な部分も否応なくさらけ出されてしまっている。彼女は足を組んで椅子に座りながら、王子を引見している。
「どこを見ているのです。私の眼を見るのです」
「ハッ……」
男は必死になって彼女の眼を見る。だが、一瞬、ほんの一瞬だけ、視線が逸れる。それをヴィエイユは見逃さない。
「いま、どこを見ましたか」
「いっ、いえ……」
「お答えなさい」
「申し訳、ございません……」
「私の体を見ましたね?」
「……」
「どこを見ましたか? 乳房ですか、股間ですか」
「ううっ……」
「あなたの股間の逸物……ずいぶん元気になっていますね? 私のこの姿を見て、淫乱な場面を想像しているのでしょう。汚らわしい」
ヴィエイユの言葉に、男は顔を真っ赤にしている。あの自信満々だった男の顔が苦悶に歪んでいる。そんな彼にさらに罰を与える……。怒張している逸物をやさしく触れて焦らす。彼はヴィエイユに襲い掛かりたい欲望を理性で必死に留めている。部屋には誰もいない。一歩間違えば彼女自身も襲われかねない。彼の理性が崩壊したら、一対一の力勝負になったら、到底太刀打ちできない相手だ。そんな彼とのギリギリのせめぎ合いを愉しむ……。悪くはない遊びだ。
「あれ?」
ふと我に返ると、下着が汚れていることに気がついた。彼女はまたやってしまったと思いながら、目を閉じて天を仰いだ。
◆ ◆ ◆
メルシ王太子らとの会食は、サウシ王子が言っていた通りの展開となった。彼はヒーデータとアガルタと誼を通じたい旨を遠回しに言ってきたが、それを陛下がやんわりと断っていた。彼には正妃と側室との間に二人の男子を授かっているが、この二人に関して今のうちに将来を決めておきたいと話したのだが、陛下は、ある程度人格がわかってから決めても遅くはないだろうと言ってのけたのだ。エリルが生まれてすぐにアローズとの結婚を決めた男が、どの口がそれを言うのだとリノスは心の中で思ったが、敢えて顔には出さないでおいた。
さらに王太子は、末弟のサウシがお伺いして何やらお願いをしたようだが、そうした願いは聞くに及ばないと言って牽制してきた。それに関しても陛下はのらりくらりと躱してうまく話を逸らせていた。その会話術は見事の一言に尽きるもので、リノスは隣で、俺もこういう会話の運び方を勉強せにゃならんなと心の中で呟いていた。
食事会に同席している王太子の弟たちは、ただ兄の言葉に賛同するだけで、二人には単なる賑やかしで来たのだなという風にしか映らなかった。この二人としても、兄の機嫌を損ねれば自らの地位が危なくなるのだろう。ある意味で必死の姿勢が随所に垣間見え、リノスは心からこの二人を哀れんだ。
結果的に両者の会談は何の進展もなく終了した。これは王太子らにとっては敗北に近い結果であり、最後に握手を交わした際は、王太子の顔は引きつっていた。
彼らは時間も時間であるし、この王宮に宿泊するように勧めたが、ヒートはそれもやんわりと断り、自船に戻ることを選んだ。リノスとしてもその決定に不服はなく、彼の決断に賛同したのだった。
すでに深夜になろうとしていた時間だったが、ヒーデータとアガルタの両王は馬車を仕立てて王宮を出た。彼らの傍には、物々しい警備の兵が囲んでいた。メルシ王太子がどうしても警備の兵を付けると言って聞かなかったからだ。仕方なく、あまり大勢で警備されては民衆の心をいたずらに刺激するために、少人数でよいと言ったにもかかわらず、彼は数百の兵士を帯同させてきた。リノスはこれを当てつけであると受け取ったが、リコやメイは特段不快感は示さなかった。
「……この兵士たちがこの馬車を襲ってくると、厄介なことになるな」
誰に言うともなく呟いたリノスに、リコが
「そのようなことはあり得ませんわ。こんなところで我々を襲わせたとなれば、この国は世界中を敵に回すことになりますわ。メルシ王太子はそのような暗愚な方ではございませんわ」
「まあ、そうだね。ただ、物々しすぎないか?」
「仕方がありませんわ。この国で私たちに何かコトが起きれば、それこそ、国の威信を失うことになりますから……。警備が物々しくなるのは、仕方がありませんわ」
リコの言葉に、リノスは諦めたように頷いた。
港町に着くと、すでに到着していた陛下の馬車がヒーデータの兵士たちに囲まれていた。一体何事かと思いながら扉を開けると、リノスたちの到着待っていたかのように陛下とタウンゼット王妃が馬車から降りてきた。陛下はリノスらの許にやってくると、
「今日は互いにご苦労であった。また、近日中に会おうではないか」
そう言って陛下は右手を差し出してきた。リノスもそれに応えるように彼の手を握る。ふと、彼の手に陛下から紙片が渡された。リノスはそれを無表情のままポケットにしまった。
桟橋を通って自船に戻る。そうしておいて彼は、ポケットにしまったヒートからのメモを開いた。そこにはこう書かれてあった。
『沖合にて会談したし。我が貴船に乗り移る』
「まあ……兄上らしからぬことですわね」
後ろから覗き込んできたリコが驚きの声を上げる。
「そうだな。一体何事だろうか。……それよりもリコ、香水つけた? 何だかいい香りがする」
「何もつけていませんわ。……フッ」
リノスがリコの首筋に鼻を近づけて香りを嗅いでいる。リコはくすぐったそうに身をよじっている。
「リ……リノスの気のせいですわ」
「馬車に乗っていたときは何も感じなかったんだけれどな。この距離にならないとわからないということは、リコの体臭かな?」
「や……やめてくださいませ」
リコは顔を真っ赤にしてその場を離れた。その様子を見てリノスはリコを可愛いと思った。だが、すぐに頭を切り替えて、陛下がこの船にやって来る理由に思いを馳せるのだった……。