第千九話 不測の事態が起こったら
そのまま彼女はさらに顔を近づけてくる。てっきりキスでも求めているのかと思ったリノスは、背中に手を廻すが、シディーは態勢を元に戻すと、腕組みをしながら大きく頷いた。
「やっぱり、そうなるよね」
「どうしたんだ一体」
「いま、リノス様は私の行動を予想していませんでしたね?」
「うん」
「でも、私が体を向けた瞬間、仰け反りましたね?」
「そりゃ驚いたからね」
「そうなのですよ。そうなのよ」
「シディー。わかるように説明してくれないかな」
「つまりはですね」
シディーは目を閉じて腕を組みながら天を仰ぎ、フッと小さなため息をついて、再び目を開けた。
「リノス様も相当の剣の腕を持っています」
「……どうだろうな」
「持っているのです!」
「はい」
「おそらく、殺された剣豪も、リノス様ほどではないにせよ、相当の腕前であったことは確かです」
「まあ、そうだろうね」
「それなりの腕を持つ者は、不測の事態が起こっても自然と体が反応するものです。さっきのリノス様のように。たとえ、犯人が殺気を完全に消していたとしても、いざ斬りかかって来られたとしても、体が瞬時に反応するので、まともに斬られると言うことなどないはずです」
「ううん……」
「で、あるにもかかわらず、袈裟懸けに斬られていた。これはあり得ないことと言えます。何か毒物などを飲まされて体が動かないようにされていたのであれば別ですが、殺されたのが剣豪自身の屋敷であることを考えると、その可能性は極めて低いと言えます」
「うう……ん」
「で、あるにもかかわらず剣豪は斬られ、腹を刺されている。目にもとまらぬ速さで剣を抜き、斬ることができると言っても、それだけの腕を持つ者が正面にいるのです。絶対に警戒を解くことはない。リノス様ならわかるはずです。例えば、マトカルが正面にいた場合、襲ってくる可能性は皆無とはいえ、一切警戒しないと言うのはないと思います」
「う~ん。まあ、彼女は俺の妻でもあるしな。警戒はしない、かな」
「剣を持っているマトが正面にいたら、怖いな、とか、この距離なら斬られるな、とは考えませんか?」
「あー思わないこともないな」
「そこなのです。ある程度の腕を持つ者は、一瞬なりともそう考えるのです。そう考えれば、襲われたときには自然と反応するものなのです。ただ、剣豪は反応せずに斬られた。ということは、殺したのは、相応の腕を持つ者ではないと言えます」
「まあ、言っていることはわからなくはないけれど、その説明では大上王は納得しないんじゃないのか? あのジイさんのことだ。証拠を出せだの、目に見える形で百人がいたら百人が納得する形で説明しろだの、ややこしいことを言ってきやしないか?」
「言ってくるでしょうね」
「……ダメじゃん」
「要は、証拠があればいいのです」
「証拠、ねぇ」
「剣豪を殺した凶器は未だに見つかっていないと聞きました。ということは、犯人は凶器を隠しているに違いありません。それが見つかれば、いいのです」
「どうやって見つけるのだい?」
「う~ん。それは……」
「それが見つけられなければ、シディーの推理が推理だけで終わってしまう」
「いいえ。大体の目星は付いています」
「マジで?」
「ただ……そうなると、現場に行かないといけないんだよな。調べなきゃいけないこと、確認しなきゃいけないこともあるし……。そうなると、絶対にあのジイさんが出しゃばってくる。で、色々と質問攻めにされて、下手をすると大声で怒鳴り散らして私の推理を邪魔するんだ。それが、面倒なんだよな」
「……メイに一緒に行ってもらうか?」
「うーん」
「メイが一緒なら、色々とフォローを入れてくれるだろうし、大上王の機嫌もいいだろう。まあ、あまり効果もないかもしれないが、取り敢えずあのバカ殿にも、オヤジの面倒を見ろと言っておこうか」
「わかりましたと言って、何もしないと思いますけれど」
「やっぱり?」
「ああ~面倒臭いな。あのジイさんさえいなきゃ何とかなるのに……。こんな依頼、引き受けるんじゃなかったよ……」
「まあでも、引き受けてしまったんだから、やるしかないじゃないですか」
リノスの言葉に、シディーは腕組みをしながら、大きなため息をついた。
「それにしても……」
リノスもシディーと同じように腕を組みながら考える。
「確かに剣豪は相応の腕を持っているのはわかる。ただ、何か不測の事態が起こったら体が勝手に反応するというのは、わかるようなわからないような感じだな。例えば、普段のマトにいきなり斬りかかられたら、俺はなすすべもなく斬られると思うな」
「そんなことはありませんっ」
シディーは少し怒気を込めた声で口を開いた。それが予想外の行動であったらしく、リノスは驚いた表情を浮かべながら、隣のシディーに視線を向けている。
「私にはわかるのです。私も、これでも子供の頃から剣の修行をしてきたのでわかります。ある程度の修行を積むと、不測の事態が起こったときは体が勝手に反応するものなのです」
「そうなんだ」
「そうなのです。……ツ」
気がつけばシディーはリノスに組み敷かれていた。ほんの一瞬の出来事だった。
「……反応できていないようですけれど」
「そ……そんなことは……。こ、このくらい、いつでも、脱出は、できるんだから」
「……そうですか」
リノスはそう言うと、淡々とシディーのパジャマのボタンを外しだした。一瞬にして彼女の表情が変わる。両手で彼の手を掴むが、その手が止まることはない。
「……全然、脱出できていないと思うのですけれど」
「ううう……。私が本気を出せば……うわっ、ちょっ、待って」
気がつけばリノスの手が下着にかかっていた。彼女は恥ずかしそうに、しかし、必死の面持ちで脱がされまいとそれを両手で掴む。明るい場所で自分の体を見られるのが、何よりも恥ずかしかった。お風呂であれば仕方がないが、こうしたベッドの上で、夫と二人っきりの状態で、明るい場所で自分の体を見られるのは、何としても恥ずかしかった。いつもは、明かりを消した状態で、やさしくしてもらうのが常だっただけに、今の状況はシディーにとっては全くの想定外の状況であると言えた。
「……想定外の出来事が起こると、人間の体は反応するよりも、硬直するというのが俺の考え方だな。殺された剣豪は確かに予想外の出来事が起こったのだろう。それが何かはわからないが、袈裟懸けに斬られてしまったのは、体が硬直してしまったことが、原因なのかもしれないな」
そう言ってリノスは下着から手を放して、腕を組んだ。シディーは下着を掴んだまま、少し潤んだ眼をしながら、呻くように口を開いた。
「そ……そんなことは、ないはずだわ。剣の師匠が言っていたもの。修業を積めば、不測の事態が起こっても体が勝手に反応して、その身を守るのだって。私だって、それなりに修業したんだから。きっと、剣豪も……」
「本当に、真面目に修業をしましたか? 剣の稽古は一番嫌いでいつもサボってばかりで、剣の先生に頼み込んで認可を貰ったという噂がありますが」
「えっ、何で? ……ミンシか。あのヤロ―。そんなことは、ありま、せん」
「いや、師匠の言っていることは間違っていないと思うよ。深い言葉だ。修行するというのは、剣技を磨くことだけではなくて、心の修行も必要なんだよな。心。心が落ち着いていれば、常に平常心を保つことができれば、体に無駄な力が入らなくなる。不測の事態が起こっても反応できるというは、そう言うことだと思うよ。人間、予想外の出来事が起こると、体に無駄な力が入って硬直してしまうからね」
「ううう……。そんな、ことは、ない」
「現に必死で下着を掴んでいるじゃないか。無駄な力が入っていると思いますが」
「こっ、これは、芝居ですっ! 迫真の、演技を、して、いるの、ですっ。もう、油断なんて、しないんだから……うわっ!」
一気に下着を取られ、上着も取られて、一糸まとわぬ裸にされていた。恥ずかしさに、彼女は体をくの字に曲げている。
「……剣の修行は、サボっていました。スミマセンデシタ」
蚊の鳴くような声で呟く。
「あっ! しまった!」
「どうした、シディー」
「そう言えば今日……体、洗ってない。湯船につかるだけでお風呂、出ちゃった……」
「ハハハ」
リノスは呆れたように笑うと、灯りをゆっくりと消した……。