第千七話 大上王の苦悩
フラディメ王国アリスン城。リボーン大上王は居室で窓に映る月を眺めていた。
見事な満月だった。誰もがその姿を見ればそのあまりの美しさに吐息を漏らすことだろう。大上王もご多分に漏れず、大きなため息をついている。だが、その表情は何かを我慢しているかのような厳しいものだった。一体何が気に入らないというのか……。家来たちは息を殺して彼の様子を見守っている。
「うむ!」
ややあって彼はやおら立ち上がった。二人の家来がさっと彼の傍によって片膝をついた。すでに秋も深まりつつあり、部屋の中は少し肌寒ささえ感じるが、家来たちは背中に汗をかいていた。
そんな二人を大上王はこの世のものとは思われぬほどの恐ろしい形相を浮かべて一瞥すると、無言のまま歩き出した。
「……」
会う者会う者、彼の姿を見ると、まるで見てはならない者を見てしまったかのように、あわてて頭を下げる。大上王の姿を見ると、そのように頭を下げねばならぬ決まりはない。彼は忌々しそうに家来たちに鋭い視線を向けながら歩く。
「……ツ」
息子のメインティア王の部屋に通じる扉を自分で開ける。ここを開けることを許されているのは女官だが、大上王のあまりの迫力に彼女たちは一歩も動くことができず、言葉をかけることさえできなかった。そんな彼女らには用はないと言わんばかりに、彼は大股で息子の部屋に向かう。
扉を開けると、一糸まとわぬ裸の女性が恥ずかしそうに俯いていた。
さすがの大上王も、予想もしていなかった光景に目を丸くして驚く。その女性も、突然入ってきた大上王に気づいて、目を丸くしている。
「キャッ!」
絶叫にも似た声を出しながら、女性は足元に置いてあったガウンを取り、体を隠しながらその場を去っていった。すぐ傍には、メインティア王がキャンパスを前に置き、絵筆を持ちながら固まっていた。
「のぉわにぃおしておるのだぁお前わぁぁぁぁぁぁ!」
大上王の声が響き渡る。そのあまりの声量に窓がビリビリと震えている。メインティア王も迷惑そうな表情を浮かべながら両耳を塞いでいる。
「なにって……。写生をしているのですよぉ」
「しゃ、写生ぃぃぃ?」
「月があまりに見事だったので、それを絵にして残そうとしたのですよぉ」
「月を描き残すのに、今の裸の女は何だっ!」
「美しい月には美しい女性を並べた方が、よろしいでしょう」
「ふぅん?」
いま、息子は美しい女性といった。先ほどの女性のことを言っているのだろうか。会話の流れ、文法的に考えてみても、彼の言う女性というのは、今、叫び声をあげて出ていった女性のことだろう。息子の体の二倍は優にある体を持っていた。顔も丸い。それに比例しているのか、乳も大きかった。あれの、どこが、美しいと言えるのか。大上王は理解に苦しんだ。
「お前は、ふくよかな女性を、好むのか?」
「最近はね」
メインティア王はそう言ってフフフと笑う。
「確かに、細い女性もいい。細い腕や足が体に絡みついてくるのは何ともよろしいが、ふくよかな女性は抱き心地がいい。それに、抱かれ心地もいい。何と言っても、あの体つきがいい。最高ですよ」
「りっ、理解が、できぬっ!」
「何を仰います。父上だって、メイリアス殿にご執心ではありませんか。あのお方だって、立派な乳をお持ちだ」
「貴様……。それ以上言ったら、殺す」
「スミマセン……」
大上王の形相が悪魔のようなものに変貌していた。我が父ながら、ここまで狂相になるのは、全くもって異常と言うしかない。メインティア王は呆れながら目を逸らせる。
大上王の体からは、確かな殺気が漂っていた。リノスならば即時に臨戦態勢に入る程の濃密なものだった。実際彼は、それ以上息子がメイリアスのことを喋れば、本気で殺す気でいた。彼にとっては、神聖にて侵すべからずの存在である彼女を、汚れた汚い手で汚されたように感じていたのだった。
メインティア王自身は、少し言い過ぎたなと少しは反省するものの、父親の考え方が理解できずにいた。父の凝り性はよく知っていたが、メイリアス王妃は父が初めて執心した女性だった。しかも、それを己の欲望の標的とはせずに、まるで神のごとく崇める対象として執心しているのだ。彼はそんな父をバカにしていた。
確かに王妃は聡明で抜群の知性を持っている。そこは認める。だが、所詮は男と女だ。房室に入ればアガルタ王と愛を交歓するのだ。二人の間に姫が生まれているのが何よりの証拠だ。彼は多くの女性との交流を通じて、こうした知性の高い女性が房室を好む傾向にあることを知っていた。きっと、あの王妃も閨に入れば、割と積極的に夫の愛を求めているに違いないのだ。
そんな光景を見たら、この父は発狂するだろうな。そんなことを考えると、何やら可笑しさが込み上げてきた。
「で、本日お見えになったご用は何ですか。前々から申していますが、こちらに来るときには、一言連絡をいただけませんか。せめて、部屋に入るときは、ノックの一つもしていただけると助かるのですが」
このままでは笑い出しそうになったので、話を変えようとする。大上王は、
「サラボのことだ」
「ああ……」
相変わらずこの父は人の話を聞かないなと思いながら、メインティア王は面倒くさそうに向き直る。
「確か、カナロダ副総司令官を殺害した罪で、死罪と決まりましたね。それが何か?」
「儂は、サラボは無実だと思う」
「はあ?」
「実際、サラボもカナロダを殺していないと言っておる。儂は、あのサラボが人を殺すような男ではないと信じている」
「父上……。お言葉ですが、状況として、カナロダ副総司令官を殺めることができるのは、彼一人だと私も思います。闇討ちされたのであればまだしも、白昼堂々、真正面から袈裟懸けに斬られています。そんなことができるのは、彼しかいません」
「ううっ」
「殺されたカナロダ副総司令官もサラボも我が国きっての剣豪……。二人は互いにしのぎを削っていたと聞きます。それに、カナロダが殺された当日、サラボは彼の家に尋ねております。死体が見つかったのは、彼がカナロダの家を出たそのすぐ後のことでした」
「だが、その現場を見た者は、おらん」
「私にはわかりかねますね」
「……」
「確かに、父上の言われることももっともです。その現場を見た者はおりません。しかし、我が国の取り締まりの者が証拠を積み重ねて、彼以外にはカナロダは殺せないと断じています。それに、人を殺めた場合は、死罪に処すと決めたのは父上ですよ? まあ、父上が、その処刑を差し止めよと言われれば死罪は免れるでしょうけれど、それでは父上が行ってきた政治を自ら否定することになります。その点、よくお考えになってください。私は、あまり人が死ぬのは好みません。父上の仰せに従います」
……散々儂の小言を無視してきておいて、今さら何だと言いたかったが、大上王はグッと堪えた。息子の行っていることは正論だった。
「もし、まだ何か疑問があるのでしたら、メイリアス王妃に聞いてみるとよろしいのでは?」
そう言ってメインティア王はそっぽを向いた。これ以上息子は儂と話をする気がないらしい。そう思った彼は、無言のまま部屋を後にしていった。
翌日、大上王の姿は、アガルタ大学の学長室にあった。
いつものランチミーティングよりも早めの時間に現れたにもかかわらず、メイは優しく彼を出迎えた。そして、秘書であるセルロイトに、少し早いですけれどお昼にしましょうと言って準備を始めた。と、セルロイトが大上王を見て、口を開いた。
「何か、ご相談が、ありますか?」
「ううっ……」
大上王は昨日の話を言って聞かせた。むろん、息子の部屋にふくよかな裸の女性がいたことは言わずにおいた。メイはじっと話を聞いていたが、やがて小さく頷くと、大上王の眼を真っすぐに見据えながら口を開いた。
「それを、解決に導く方を存じています。大上王様に、お引き合わせいたします」
その眼は、確信に満ちていた……。