第千六話 本当の優しさ
アミダバルは命からから戦場から離脱した。彼に従う兵士は僅か数駒という有様だった。その彼は主君、ガノブの許には帰らなかった。そのまま逐電したのである。
誰もが草の根を分けて探し出せとガノブが命令すると思っていたが、彼はアミダバルに一切興味を示さなかった。報告を聞いたとき、そうか、とただ一言言っただけだった。
ただし、アミダバルの家族には過酷な運命が待っていた。彼の妻や子は村八分のような状態となり、いつしか住んでいる屋敷を捨て、夜逃げ同然で国を出ることになるのだった。
戦闘が終わった数日後には、ヘルキソ王が数人の供を引き連れてイルシの砦にやって来た。その中にはスガやオノサの顔もあった。彼らはアガルタの保護国になることを承知し、これからもよしなにと言って頭を下げた。その様子を見たザワシゲらは何とも言えぬ表情を浮かべた。ついこの間まで、やれ王様だの、国王様だのと言って崇めていた男が、粗末な砦の中で、どこの馬ともわからないアガルタの指揮官に頭を下げたのだ。彼らがこれまで拠り所としていたものが崩れた瞬間だった。
国王が帰っていくと、ザワシゲはマダクに、俺は旅に出ると言い出した。彼は心の中にぽっかりと穴が開いたような気がしていた。自分の中にあった芯がなくなってしまっていて、どうかすると折れてしまいそうな感覚を覚えていた。
マダクは応とも否とも言わなかった。ただ、兵士たちを家に帰してやらねばならないと言っただけだった。
その兵士たちは大喜びで家に帰っていった。マダク、カヅマ、ザワシゲの兵士たち全員には褒賞として金が与えられていた。彼らは一様に、アガルタに対して忠誠を誓うと言って笑顔を見せていた。
この話は、ルシルナノ地域をまるで雷のように駆け巡った。領主たちはアガルタに従うのか、それとも、ガノブに従うのかの選択を迫られることになった。領主たちは毎夜顔を突き合わせながら、これから先のことを話し合った。そうした者たちには、すでにガノブからの使者が接触していた。
ガノブのやり方はほぼ、脅しと同じだった。従わねば十万の軍勢が町や村を焼き尽くす、王の一族郎党は皆殺しとなると言って、皇帝の機嫌が悪くならないうちに挨拶に出向くべきであると言ってきた。一方でアガルタはそうした動きを一切行わなかった。彼らは人を送ってルレイクとヘルキソの復興に力を注いだのだった。
隣国の様子が見る間に変わっていくのを目の当たりにすると、王族ではなく、民衆たちが反応した。彼らは家を捨ててこぞってヘルキソやルレイクに移住していった。ここでは税が取られないということや、住みやすいという噂は瞬く間にルシルナノ地域に伝えられていたのである。
民衆がいなければ、王や王族はその身分を維持することができなくなる。彼らは苦しみながらも、アガルタの保護国となることに傾いていく。そして、一人の王がそれを承諾すると、まるで雪崩を打ったようにルシルナノ地域の領主や王はアガルタに靡いて行ったのだった。
そうした領主たちに、リノスは気前よく金を与えるのだが、それはまた先の話である。
イルシの砦の接収が完了し、そこに駐屯していた軍勢が引き上げるまでの間、シディーはカヅマの案内で、その周辺の土地を見て廻った。リノスは途中で襲われるのではないかと言ってあまりいい顔をしなかったが、彼女はその心配は全くないと言い切って、日々、彼に誘われるまま砦の周りを歩いて回った。
カヅマの説明は、やれこの辺では美味しい果実が獲れるだの、冬にはこの川を魚が上ってきて、丸焼きにすれば美味いだの、食べ物のことに終始したが、シディーは折に触れて山を見て、落ちている石ころを広い、土を手に取って眺めたりした。
「金山がありますね」
撤退する前日、シディーは出し抜けに報告してきた。リノスもマトカルも明日への準備で忙殺されていたが、その予想もしていなかった内容に、思わず手を止めた。
「それは、本当に?」
「私の直感ですけれど」
「ま、まあ、シディーの直感は外れなしだからな」
「それだけではありません」
「うん?」
「地中に大規模な何か、とんでもないものが埋まっています」
「とんでもないもの?」
「はい。しかとしたことはわかりませんが、とにかく、国がひっくり返るような、とんでもないものが埋まっています」
「そ……そうか。都に帰ったら、メイに相談してみようか」
「それがいいと思います」
その後、シディーの指定した場所を掘ると、そこからは大量の石炭が見つかった。石炭の効能を知ったメイやシディーは狂喜したが、リノスはそれを使用することを当面の間禁止した。それは周囲の環境に大きな影響を与えることを知っていたためであり、その危険性が払しょくできなければ使用することはならないと言ったのだった。
彼の意向を受けて、リコが中心となり、環境や生態系に影響を与えないような措置がすぐに確立され、石炭を使用することになったアガルタの技術力は劇的に向上していくことになるのだった。シディーはその未来を肌で感じていた。本能が強烈にこの砦に来ることを訴えていた理由がようやく理解することができていた。
「それにしても」
リノスがため息をつきながら口を開く。
「今回のことで、ずいぶん派手に金を使ってしまったな」
「いえ、リノス様。金で済めば結構だと思います」
「……本当だな」
「金というのは、人の魂を溶かすと言われています。それを扱う我々は、決してそれで魂を溶かされてはなりません」
「ああ、覚えておくよ」
「きっと、この金の影響で、これまで以上に多くの人々がこの国や私たちに集まってくることでしょう。ですが、それは金や富に集まってきているもので、アガルタという国に対して集まっているものではありません」
「そうだな。金が枯渇すれば、俺たちに従っている領主たちも離れていくし、民衆たちも離れていくことだろう。できるだけ早いうちに、その金に替わる魅力を見つけ出さないといけないな」
「その通りです。それは、早ければ早い方がいいと思います」
「同感だ。俺は、産出する金を使って、アガルタの技術を高めたいと思う。そして、もう一つ、教育に力を注ごうと思う。メイがアガルタ大学で優れた人材を育ててくれている。俺は金を使って無料の教育機関を作ってたくさん優れた人材を生み出せるようにしたい」
「ああ。いい考えですね。屋敷に帰ったら、皆で一度相談しましょう。リコ様やメイちゃんが喜びそうですね」
シディーの言葉に、リノスは大きく頷く。その様子を見て、マトカルはフフフと笑い声を漏らした。
「どうした、マト」
「いいや、何でもない」
「いや、気になりますよ」
「いや、そうした優しさはいいなと思ったのだ」
「どうした?」
「私は、特に軍においては優しさは多くの兵士の命を失うことにつながると考えていた。今のその考え方に変わりはないが……」
「が?」
「やはり、人のため、人が良くなるように考えるのは、本当の優しさなのではないかと思ったのだ。それは、必要なのだろう」
「俺もそう思うよ。でも、俺から見ると、マトも十分に優しいと思うけれどな」
「私が?」
「ああ。兵士たちから厳しいだの鬼だのと言われているみたいだけれど、それは兵士たちが死なないために敢えて厳しい言葉をかけたり、厳しい訓練を科したりしているのだろう。それは、優しさがないとできないことだし、マト自身も、人が、兵士が少しでも良くなるように考えているから、それは、優しいと言えるんじゃないかな」
「……あ、マトが照れている」
シディーの言葉に、マトカルは思わず苦笑いを浮かべた。
これにて、「ほんとうの優しさ」編終了です(たぶん)
例によって、間話を数話挟んで(おそらく)
新章に突入する予定です(きっと)