第千五話 撃退
カヅマら百名の兵士は、我先に切通の中を全速力で走って逃げた。その先頭を走るのはカヅマ本人だった。彼は手に大きな蜂の巣を持ったまま、何やら訳のわからない奇声を上げながら全速力で駆けた。その様子は滑稽そのものであり、アミダバルはすぐさま全軍に総攻撃を命じた。
「……すごいな」
切通の手前にある丘でその様子を見ていたリノスは小さな声で呟いた。彼の傍にはマトカルとシディーが控えている。二人は夫が口走った言葉の意味がわかりかねているらしい。シディーは不思議そうな表情を浮かべながらリノスに視線を向け、一方のマトカルは戦いの状況を把握せねばならないためか、少しだけ顔をリノスに向けていた。
「マト、お前はあの兵士たちは、敵に恐れをなして逃げていると思っているだろう。さらに言うと、そのあまりの不甲斐なさに、怒りすら覚えている。違うか」
リノスの言葉に彼女は一切反応を示さない。そんな彼女に向けてさらに言葉を続ける。
「あれが単に臆病風に吹かれて逃げてきていると思っているなら、とんだ勘違いだ。騙されたな、マト。あれは演技だ。しかも、そこいらの役者では太刀打ちできない程の腕前だ。まるで、本当に敵から必死に逃げているようだ。あんな芝居は、なかなか見られるもんじゃない。いや、いいものを見た」
「……リノス様、そのくらいでいいのでは? なにもあの兵士たちを庇う必要はないと思いますが」
「……まあ、シディーの言う通りなんだけれどな。ただ、マトが怒っていたからな。その意識を逸らせようとしたんだ。そう考えれば怒りもわかないだろうし、そう言えば、彼らの顔も立つだろう」
マトカルは思わず視線をあらぬ方向に泳がせた。彼の言っていることが図星だったからだ。確かにあのカヅマの兵士たちはアガルタの兵士ではない。だが、マトカルの常識に照らし合わせてみれば、あり得ない戦いぶり、あり得ない振る舞いだった。目の前で繰り広げられたあまりにも無様で不甲斐ないカヅマらの体たらくを見て、マトカルは無意識のうちに怒りを覚えていたのだった。敵を蹴散らせとは言わないが、せめて敵に一太刀なりとも加えて砦を防衛する姿勢を見せるべきだと思っていた。常日頃から、指揮官とは冷静であるべきであると部下たちに指導し、自分もそうなるように律してきた。だが、今のような感情を持ったまま指揮を執ると、判断を誤る恐れがある。彼女は己の不甲斐なさを恥じると同時に、そうして自分の立場を悪くしないように諭してくれた彼に心の中で礼を言った。
「敵を迎え撃つ」
そう言って兜をかぶり、愛馬に跨るときには、いつものマトカルに戻っていた。その後ろ姿を見て、リノスは無言のまま大きく頷き、この戦いの勝利を確信した。
「続けぇ!」
マトカルの雄々しい声と共に、つい最近まで厳しい訓練に明け暮れていたルレイク王国軍の兵士たちが、大きな返事と共に、一糸乱れぬ動きで彼女の後ろに続いた。
その彼女と入れ替わるように、カヅマがやって来た。彼はハアハアと肩で苦しそうな息をしながら、両手に持っていた大きな蜂の巣を差し出した。
「お嬢様、このカヅマ、命を賭して、お嬢様のために、このハチミツを取って参りました。ええ、最高級のハチミツが獲れたと自負しております。どうぞ、どうぞご賞味ください」
「ありがとう」
シディーの声を聞いた瞬間、カヅマは心から嬉しそうな表情を浮かべた。彼はその笑顔のまま、蜂の巣を真っ二つに割り、中から黄色いかけらを取り出して差し出す。どうぞこのままお食べ下さいと言って、大きく頷いた。
「んんっ!? 美味しいッ!」
シディーが頓狂な声を上げる。リノスも食べたが、確かに美味しいものだった。普段食べているハチミツもそれなりの品質を誇るものだが、これの足元にも及ばない。ハチミツの旨味が凝縮された味わいだった。美味しいでしょう、とカヅマもまるで子供のようにはしゃいでいる。さらに彼は白い小さなイモムシのようなものを取り出して二人に勧める。見た目がよくなく、リノスは少し逡巡したが、シディーは何のためらいもなく、それを口に運んだ。
「これは……。うん、美味しい!」
「そうでございましょう。この蜂の子は滋養強壮にとてもよろしいのです。特に女性はお肌がきれいになり、若返ると言われています。あ、お嬢様が若返ってしまいますと、赤ちゃんになってしまいますな。これは失礼しました、ウワッハッハッハ」
このカヅマがシディーのことを本気で子供だと思っていることに、リノスは覆面の下で思わず苦笑いを浮かべる。一方でシディーは、若返るという言葉に反応して、この蜂の子は全部私が食べる、と息巻いている。
そのとき、切通しの出口付近で動きがあった。カヅマの軍勢を追ってきたアミダバルの兵士たちが現れたのだ。その兵士たちは、切通しを抜けた直後にマトカルに斬られていた。彼女は馬に乗ったまま敵を斬り伏せながら、少しずつ後退していく。それを追って、敵の兵士たちが次々と襲い掛かってくる。と、そのとき、盾を構えた兵士たちがマトカルの前に出た。今度はルレイクの兵士たちが槍で敵を攻撃し始めた。しかも、彼らは鉄の盾を使って、敵兵を切通しに押し戻していった。そこから出ようとする兵士と、推し戻されて後退していく兵士との間で、切通の出口は大いに渋滞した。そのとき、ドラのような楽器から大きな音がジャンと鳴り響いた。それは、切通しの上に潜んでいたマダクとザワシゲの軍勢への合図だった。
二つの軍勢は当初の計画通り、転がっている大小様々な石を雨あられと投げつけた。アミダバルの兵士たちも盾を装備していたが、それらは用をなさなかった。兵士たちは成すすべもなく石の餌食になった。ある者は脳天を割られて即死し、ある者は、大きな石に当たったことで、大けがを負った。後ろから進んでくる部隊と、前から引き揚げようとやってくる部隊が狭い切通しの中でぶつかったために、大混乱を引き起こした。そんなアミダバルの軍勢に、マダクやザワシゲは上空から容赦ない攻撃を加える一方、マトカルが率いる兵士たちも、目の前の敵を次ぎ次ぎと槍で尽き伏せていった。そのため、切通しの中は見る間に兵士たちの遺体で埋まっていた。それでも、敵兵の一部はそうした激戦を掻い潜って撤退する者たちもいた。
「さすがに殲滅とはいかなかったか。まあ、多少の敵が逃げるのは、仕方がないことなのかもしれないな」
そう呟くリノスに、カヅマがニコニコと笑みを浮かべた。
「ご心配には及びません。あの兵士たちは五体満足では帰れますまい」
「どうしてそう言い切れる」
「つい先ほど、私が蜂の巣を獲って参りました。ロエハルは朝にエサを探して大半の蜂が飛び立ちます。ちょうど今頃、蜂たちが巣に戻ってくる頃です。巣を奪われたことを知った蜂たちは怒りのあまり誰彼となく攻撃してくることでしょう。アミダバルの兵士たちは、たとえこの場を逃げおおせても、切通しを抜けたところに、ロエハルの大軍勢が待ち受けていて、容赦ない攻撃を加えることでしょう。逃げた兵士たちも、五体満足ではいられますまい」
「何と、まあ……」
「マダク殿やザワシゲなどは、この儂を無能な男と考えていて、何にもできぬヤツだと思っているようだが、儂だってやるときはやるのです」
リノスは思わず腕組みをしながら何かを考えていたが、やがて、優しい口調で口を開いた。
「つまり、ハチミツだけに、用法(養蜂)が優れているんだな」
リノスの言葉に、シディーが無表情のまま視線を向けた。