6 彼女の指先、海の香り
枕元からけたたましいベルの音が鳴り響く。スマートフォンの目覚ましアプリの音だ。うるさいうるさい。手探りでスマートフォンを握りしめる。ぼんやり眼でアラームを解除。
「んぐーう……んああ!?」
目覚ましアプリを終了して数秒、私の眠気は一気に消し飛んだ。スマートフォンの画面が、千代安ちゃんからの着信履歴で埋め尽くされていたのだ。
「怪奇現象……」
画面をスワイプしながら思わず震え声が出た。今午前七時だが、千代安ちゃんはなんと午前四時から六時半まで五分おきに、私のスマートフォンに電話をかけてきていたのだ。気づかなかった……。
「うわあ……」
昨日の千代安ちゃんの言葉を思い出す。
――明日、電話するから出てくれよ?――
ふと私の脳裏に『ヤンデレ』という言葉が浮かんだ。――まずい。っていうか朝すぎだよ! 四時って。
とにかく急いで千代安ちゃんに電話をかけよう。ごめんね千代安ちゃんー。……四コール目で千代安ちゃんに繋がった。いきなり悲鳴のような声がする。
「織紙!? なぜ電話に出ない? 昨日あれほど言ったじゃないか! 死んでしまったのかと思ったぞ!」
「ごめんね、寝てた――」
「寝てただと。朝かけると言っただろう、なぜ起きていない!」
自然と正座になる。ベッドの上で正座する女。私。
「まさか四時とは思わなくて」
四時はきついっすよ。農家じゃないんだから。
「むう、仕方ないな……。それで、ここに来るまでどれぐらい時間がかかる?」
ここ、って、千代安ちゃんもう公園にいるの?早いよ早すぎるよー。
「うーんと……三十分。三十分で行くよ」
頼む、せめて着替えと歯磨きをさせてくれ。
「そんなにかかるのか……」
電話の向こうから意外そうな呟きが聞こえた。かかるよ。さすがにノーブラでは出かけられないよ。
「わかった。じゃあ三十分後に公園で会おう。待ってるからな」
「うん、わかっ……あっ」
切れた。一方的に切られてしまった。もう、勝手なんだから。しょうがない。急いで準備しよう。ベッドから降りてパジャマを上下とも脱ぎ捨てる。
パンツ一枚でタンスを開けて服を選ぶ。何着ていこうかなあ。あれ、今日寒いのかな? スマートフォンでお天気アプリをチェック……うん、少し涼しすぎる程度の寒さか。どうしようスカートに黒ニーハイとかで……いや待てよ、もしかしたら走ったりするかも。
だったらスカートじゃなくて……ショーパン? そうだな、ショーパンに黒タイツで……上は、そうねぇ、ああこの赤と黒チェックのシャツとかでいいかな。でも変じゃないかな。あー待ってよどうしよう。やっぱりせっかくだから思い切ってスカートに……いやでも風強いかなあ。バサバサしたらやだしなー。だったら普通にジーパンの方がいいよなあ。でもこれ最近着てないな、入るかな……ちょっと履いてみる。あーちょっとふくらはぎが目立つかも! やめよう。
やっぱり下はこのデニムのショーパンにして黒タイツ入れよう。上どうしようかな。あー横腹かゆ。とりあえずブラしよ。……新しいブラ買おうかな。なんかおんなじようなのしかない。これでいいや、パンツと色違うけど、誰にも見せないし。脇周辺の肉を中央に集めて巨乳気分。……寄せたところでこの程度である。どうでもいいわ。タイツ履いてショーパン履く、っと。あ、シャツの下忘れてた。この黒いTシャツでいいや。いや寒いか。長袖にしよう。黒の長袖もあったはず。これだ。なーんか白いのぽつぽつついてるなあ、なんだよこれお姉ちゃんちゃんと洗濯したこれえ? コロコロかけよ。……全然取れない。むかつく。いいわ、どうせシャツも脱ぐつもりないし。このままこの長袖着よう。
うん。で、赤黒チェックシャツ。裾をショーパンの下に入れ込んで……オッケー。多分。鏡……うん、うん。ああ襟立ってる……。
そうだ髪とかさないと。今日は寝癖少なめでよかった。鏡を見ながらピンクのブラシでがりがり頭を引っかき回す。よし、こんなもんでええやろ。ブラシに髪の毛が十本ぐらいついている。怖いな、はげたくない……。
もう一度鏡で確認。赤黒チェックのシャツに青いデニムのショートパンツ。黒いタイツで生足ガード。うん。まあ見た目はこんなもんでしょ。最後は顔で勝負だ。笑顔が大事よ。うふふ。……笑顔がきもい。
持ち物はどうしよう。千代安ちゃん何も言ってなかったからなあ。とりあえずスマートフォンだけでいいか。あれ、画面を見てびっくり。もう十分も経ってる! やばいやばい、時間かけすぎた。歯磨かなきゃ。
スマートフォンをショーパンの右ポケットにしまう。そして部屋を出て階段をどたどたと駆け降りる。ダイニング前の廊下を通ると、中でお姉ちゃんがぼけーっとご飯を食べていた。通りすがりの私に話しかけてくる。
「あえ、早いね」
「うん」
急いでるからそのまま廊下を通り過ぎた。ダイニングから「えーちょっとー」みたいな声が聞こえたけど急いでるから無視した。洗面台で顔を洗って歯を磨く。いつもより急いで、しかし丁寧に。もちろん舌も磨く。
「おえっ」
吐きそう。いい加減慣れてもいいのではないだろうか。それともこの、歯ブラシで舌を磨くという行為は絶対的に間違ってるのだろうか?
「うげっ」
もうやめよう。苦しいわ。
歯磨きが終わり、私は直接玄関に向かった。いつものオレンジのスニーカーを履く。
「行ってきまーす」
家の中の方に向けて言い、ドアノブに手をかけた。するとダイニングの方からお姉ちゃんの慌てた声が。
「えー待って! もう行くのー?」
その後すぐにスリッパをパサパサ言わせながらお姉ちゃんが玄関までやってきた。手にはいつも私がお弁当入れに使ってる、レモン色の巾着袋を持っている。
「朝ごはん食べないの?」
「急いでるから」
「ずいぶん早くに待ち合わせしたのね」
「意外と朝早い子だったみたいで」
「あっそう。これ持って行きなさい」
軽く流され、お姉ちゃんから巾着袋を渡された。中には海苔がぴっちり巻かれ、上からラップで包まれたおにぎりが三個入っている。
「何これ」
「おにぎりでしょ。後で食べなさい」
「でも鞄持ってない」
「そのまま持って歩けばいいじゃない」
「ええ……」
だっせーよそれ……。
「ほら急いでんでしょ。早く行きなさい」
「んーわかったよ。じゃあ行ってきます」
「帰るときレインしてね」
「うん」
私は玄関のドアを開けて外に出た。手に黄色い巾着袋を持って。待ってて千代安ちゃん、今行くよー。真っ青な晴天の下、早足で平安自然なんとか公園へ。
七時三十八分。ようやく公園前に着いた。数メートル先で千代安ちゃんが入口ゲートの下、腕組みをして立っている。その目線は斜め上。無表情で、どこかわからぬ虚空を見つめている。
制服じゃない千代安ちゃん初めてだなあ。そう思いながら近づくと、千代安ちゃんが気づいてこっちを向いた。私が手を振ると、千代安ちゃんは腕組みを解いて駆け寄ってきた。
「遅かったじゃないか」
声は不満そうだけど、顔はなんだか嬉しそう。口の端が緩んでいる。
「ごめんねー。……あ」
「どうした?」
かぶっている。ショーパンが、かぶっている。といっても、私は青いデニム。千代安ちゃんのは緑のチノ。私はタイツだけど彼女は生足。寒くないの? 上は白い無地のTシャツにベージュのカーディガンだ。へえ、意外とおしゃれな感じにしてあるんだなあ。でも、相変わらずお腹にウエストポーチをつけている。それいる?
「その服、千代安ちゃんが選んだの?」
「えっ」
なんとなく訊いただけなんだけど、妙にうろたえている、ように見える。
「あ、あ、当たり前だろう。他に誰が選ぶんだ。私の服だぞ」
「ん、うん……? 別に疑ってないけど」
「そうか。ならいい。さあ行こう。今日はな、もっと深いところを紹介したい」
「深い? あうっ――」
いきなり千代安ちゃんに手を引っ張られた。そしてそのまま公園の中へ進む。朝だからか、公園の中ではジョギングをしているおじいちゃんや、ベンチに座ってハトに餌をやっているおじいちゃん。あとは木に向かってカメラを構えているおじいちゃん……おじいちゃんばっかじゃん。とにかく、いつもの放課後よりは多少人が多い。おじいちゃんばっかりだけど。
そんな他の人たちには目もくれず、千代安ちゃんは私の手を引いてどんどん奥に歩いていく。広場の真ん中にある大きな池も通り過ぎていくと、整地された広場から一転、木が生い茂る林のような細い道に入っていく。ちょっと不安になってきた。
「千代安ちゃん大丈夫なの? これ公園の敷地なんだよね?」
「ああ、心配するな。この先に椅子もある」
振り向きもせず早口で言い、またずんずん進んでいく。千代安ちゃんは自分の家の庭のように、迷いなく歩いている。私は手を引かれ、何回か転びそうになりながら付いていく。――千代安ちゃん、かなりこの公園に詳しいんだなあ。
「ほら、着いたぞ」
「わあ」
円形に開けた場所に出た。と言っても、私の部屋くらいの広さ。さっきの広場とは比べ物にならないくらい狭いし、地面も草を刈ってあるだけででこぼこしている。周りに木がたくさんあるから日の光も途切れ途切れ。
その真ん中に、背もたれの無い、丸太を縦に真っ二つにしただけの、ふたりがけのベンチらしきものがぽつんと置いてある。……なんだろう、森のオアシスって感じ。ここがこの公園の最深部なのかな。今歩いてきた道の他には、進んでいけそうな道らしきものは見当たらない。千代安ちゃんよりも背の高い草むらと、そのさらに何倍もある木々たちが、まるで『ここで行き止まりだよ』と言っているようだ。
「ここならほぼ誰も来ない。うってつけだろう」
「へえ……」
手を握ったまま、ふたりで丸太ベンチに腰かけた。左に千代安ちゃんの肩が並ぶ。タイツ越しに千代安ちゃんの生膝を感じる。
「ところでそれは何だ?」
千代安ちゃんにおにぎりの入った巾着袋を指された。
「あ、これ。おにぎりだよ。お姉ちゃんが持ってけって」
繋いでいた手をやんわり離し、千代安ちゃんに巾着袋のひもを緩めて中身を見せた。
「ほう、憬糸が作ったのか」
千代安ちゃんは巾着袋の中を覗き込み、そこに入っているおにぎりをしげしげと眺めている。
「そうだ。千代安ちゃん食べる? これ」
「いいのか」
私は巾着袋からおにぎりをひとつ取り出し、千代安ちゃんに手渡した。
「中身何かわかんないけどいい?」
「ああ、構わん。食べていいのか?」
「いいよ」
「では」
千代安ちゃんはおにぎりのラップを全部外して地面にポイ捨てし(行儀悪い)、その丸っこい、微妙に三角形っぽい形をした黒い塊にかじりついた。
「……うむう」
「まずくない? 大丈夫?」
「ん、ん、もい、あぐ、あい。うあい。うん」
――全然わかんない。お姉ちゃんなら食べながらでもなんて言ってるのか大体わかるんだけどな。千代安ちゃんちょっと口に詰め込みすぎじゃない? ほっぺがぱんぱんだよ。
「えーと」
「うまいと言ったんだ。わからんか」
「ああ、よかった」
私もおにぎり食べよう。巾着袋からひとつ取り出しラップをめくる。
「え、おい織紙。まさか私に味見をさせたわけじゃないだろうな」
「あっ違うよそんなつもりじゃないよ!」
「ならいいが」
千代安ちゃんは特に気にしてない様子でおにぎりを食べ続けている。私もひと口。あ、中身は鮭とゴマのふりかけだ。ご飯に混ぜ込んである。いつも通りのお姉ちゃんのおにぎりだ。
一足先に食べ終わった千代安ちゃんが、おにぎりを持っていた自分の指を舐めながら問いかけてきた。
「なあ、織紙の家では、いつも憬糸が食事の用意をしているのか?」
「うんそうだよ。お母さんがいなくなってからは、お姉ちゃんが作ってるの」
「そうかあ……ふうん」
ずいぶんと気の抜けた返事だな。……千代安ちゃんが巾着袋の方をちらちら見ている。
「どうしたの?」
「その、あとひとつ残ってるが、それはどうするんだ?」
「あーどうしようかなあ」
なんでみっつも持たせたのかなあ。お姉ちゃんバカなんじゃないの? こんなに食べるわけないじゃん。
「もし食べないのなら……その……」
その時。後ろの草むらから音がした。草が何者かに揺らされ、がさがさと音を鳴らしている。その音がだんだん大きくなる。こっちに近づいてくる……? 野生動物? まさか……変質者!?
「ちよ――」
「しっ」
千代安ちゃんの方を見ると同時に、彼女に口と鼻を塞がれた。千代安ちゃんはそのまま、音を立てて揺れている草むらを、キッと目を細めてにらんでいる。私もそうしたかったが、もはや草むらの方には集中できなかった。
――小さい右手が、私の口と鼻を包んでいる。さっき千代安ちゃんが舐めてた指……ぴったりと、わたしの顔にくっついてる……。
千代安ちゃんの手。千代安ちゃんの手のひらのにおい……。ゆっくりと鼻から息を吸い込むたび、この子のかすかな香りと、ぬくもり。それらが私の体の中、奥の深くに入ってゆくような、不思議な感覚……。
あ――。今ほんの一瞬だけ、私の顔に触れている指たちに力がこもった。私の肌を押さえつける五本の指の存在を強く意識させられた。そのせいかな。頭の中に、自分の右手の指をぺろぺろと舐めている千代安ちゃんの姿が浮かんだ。千代安ちゃんを映す私の頭の中のカメラレンズは、次第に、その少女の、ピンク色の舌にずいっとズームし、フォーカスを当てている。大きく映し出されたつやつやの舌が薄い唇の間から伸びて、海苔とご飯粒でてかてかしている五本の細い指を、艶めかしくなぞっている。……このカメラマンは変態だな。
急に場面が切り替わった。私が仰向けに寝転んでいる。その真上、目線の先に、小悪魔のような笑みを湛える千代安ちゃんがいた。私の頭の横に両手を置き、脚を開いて私の脚の付け根のところに跨って、私の体に影を作っている。
千代安ちゃんは聞こえない声で何か言うと、右手の人差し指で私の唇をもてあそび始めた。最初は唇を上からなぞったり突っついたりしていたが、しばらくすると彼女は、上唇と下唇をかき分けて、口の中に入ってきた。私はびっくりして、「汚いよ、やめてよ」と言った。千代安ちゃんは妖しく笑い、人差し指で私の上前歯の裏側を撫でながら、何か言った。また聞こえない声だった。「え? なに?」と訊こうとして――訊こうとしたら、私の舌が、彼女の、人差し指に……触れた。
すると今度ははっきりと、彼女の声が聞こえた。
「おいしいか――?」
この声を聞いた瞬間、堰を切ったように、私は彼女の人差し指を舐めまわし始めた。止まらなかった。はあはあと息を漏らして、ぺろぺろぺろぺろと。人差し指は私の舌から逃げるように、でも誘うように、どんどんと位置を変える。唇の表面、裏側、奥歯の上の歯ぐき、舌の上にある口の天井、いわゆる硬口蓋。私の舌は子犬のように人差し指を追いかけ、ぺろぺろと舐め続ける。この間私はずーっと、千代安ちゃんを見つめていた。
途中千代安ちゃんは床に左ひじをついて、空いた左手で私の頭を撫でてくれた。そのおかげで私と千代安ちゃんの顔の距離がぐっと近づいた。彼女の大きな目が、私の目を見ている。彼女の黒くて長い髪の毛が、私の顔にかかる。彼女の吐息が、私の肌をくすぐっている。彼女の人差し指が、私の舌を優しく蹂躙している。彼女の全てが、私を……犯そうとしている。
ああ――私、この子に飼いならされちゃうんだ。いとも簡単に。子犬みたいに。ああ、千代安ちゃん……私は……!
「わっ! 何をする!」
いきなり耳の奥をぶっ叩かれたような衝撃。ふわふわとした夢のような時空からこっちに戻ってきた。無意識に、妄想状態になってた……?
そっと目を開けるとそこには、妄想ではない、本物の千代安ちゃんがいた。――目を開けると? いつの間にか目をつぶっていたらしい。
「……ちよあ、ちゃん?」
千代安ちゃんは私から右手を離して、その手のひらと私とを見比べている。まるで幽霊でも見たような顔だ。
「お、織紙よ。お前今、私の手のひら……舐めなかったか?」
「ふえ!?」
今さっきまで見ていたのにおぼろげになっていた妄想が、再びよみがえる。私、千代安ちゃんの指、舐めてた……。夢中になって。なんて妄想! 頭おかしいんじゃないの!? 恥ずかしさというか自己嫌悪というかよくわからないもやもやした感情が湧きあがる。思わず両手で顔を覆う。
「おいなぜだ。なぜ私の手を舐めた?」
「……舐めて、ないよ」
舐めたのは、妄想の中でだけだもん。ほんとには舐めてない、もん。
「いや確かに何かが触った。ほら、ここ濡れてるぞ! ここ舐めただろう!」
指と指の間から目を出して見ると、怒ってるのか恥ずかしがってるのかよくわからない表情の千代安ちゃんが、右の手のひらをこちらに突き出している。……確かに、手のひらの真ん中が濡れて光っている。そんな、まさか……。
「織紙が舐めてないというなら、これは一体……」
千代安ちゃんは手のひらを自分へ向けた。そしてそれを鼻に近づけてにおいをかごうとしている!
「だー! 待ってー!」
「うわ」
必死で千代安ちゃんの右手にしがみついて止めた。
「ごめん……。全然覚えてないんだけど、その、手、舐めたかも……」
反応が無いので顔を上げて千代安ちゃんを見ると、彼女は眉間にしわを寄せていた。
「手を舐めたかどうか、覚えてないのか。普通覚えてるだろう。舐めたか舐めてないかぐらい」
千代安ちゃん、怯えた目をしている。
「ごめん。引かないで……引かないで……」
訴える声が震えてる。余計に気持ち悪く聞こえてそう。
「むむ……あーすまない。……織紙が他人を舐める癖があるとは知らなかったな。少し、いやかなり、びっくりした」
「そんな癖、無いんだけど……」
「どっちでもいい。とにかく、他人の体を舐めるのは衛生的によくない。これから慎んだ方がいいぞ」
「……はい」
注意を受けてしまった。千代安ちゃんは私の無意識の妄想を知る由もなく、真面目に私の事を心配してくれているのだ。それが逆に恥ずかしくてたまらない。もし妄想のことが千代安ちゃんに知れたらと思うと……うう、胸のあたりがぞわぞわする。
「だからな、織紙」
千代安ちゃんの話はまだ続いていた。
「もし、どうしても舐めたくて我慢ならない時は、その、私の手を……舐めてもいいぞ。今度からはちゃんと、洗って綺麗にしておくから」
き、綺麗にって! いや、舐めないし!
「だから、今日のところはな、もうやめておけ。今私の手は、少し汚れているからな。はは」
「う、うん。ありがとう……」
ありがとうじゃないよ! まるで舐めさせてくれてありがとうって言ってるみたいじゃん!
「ははは、織紙の秘密をひとつ知れて嬉しいぞ。」
秘密じゃないー。他人の指なんて舐めたことないよー。
「楽しそうだな」
背後から千代安ちゃんの声がした。でも千代安ちゃんは確かに隣にいる。隣で笑っている。
「こっちだ」
まただ。後ろから千代安ちゃんと同じ声が。慌てて振り向いたが誰もいない。――いや、目線を落とすとそこには狐がいた。茶色い小型犬みたいな大きさで、でこぼこの地面の上にちょこんとおすわりしている。狐なんて生で見たの初めて。でも、この狐が?
事態が飲みこめずにいると、その狐がおすわりしたまま、千代安ちゃんの目を見つめて首をかくんとかしげた。
「千代安、この娘は誰だ?」
驚き。今、この狐から、口は一切動いていないけど、確かに千代安ちゃんの声が聞こえた。千代安ちゃんの声で、千代安ちゃんに問いかけている。どういうことなのかさっぱりわからない。当の千代安ちゃんは何食わぬ顔で狐と向かい合っている。
「織紙だ。私の、友達だ」
千代安ちゃんが狐の質問に答える。
「まさかお前に友達ができるとはな。もはや諦めたのかと思っていたぞ」
狐が言った。声も口調も千代安ちゃんそのものだ。
「ふん、言うじゃないか。さっき草むらにいたのはお前だったんだな」
千代安ちゃんは一度鼻を鳴らすと、私の目を見た。
「織紙、紹介しよう。これは尾咲。妖魔だ」
「オサキ……?」
尾咲と呼ばれたその狐は次の瞬間ぴょーんと高くジャンプした。そして私のすぐ隣、丸太ベンチの右端に音もなく着地した。じっとこちらを見ている。よくある狐の細目なイラストとは違って、この尾咲は青色の大きな丸い目をしている。
よく見ると、ふさふさな白い尻尾の先端が花のつぼみのような形をしている。なるほど、それで尾咲か。まだ咲いてないじゃん。
「お、尾咲……ちゃん? よろしく……」
恐る恐る話しかけると、尾咲はさっきまでの、千代安ちゃんとは全然違う声でこう言った。
「織紙っていうのね。よろしく! 私、尾咲っていうの」
――もしかしてこれって、私の声?