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小妖魔復活せし  作者: 司馬仲
小妖魔復活せし
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4 お姉ちゃんは魔法使い

「ただいまー」

 中に聞こえるように言い、スニーカーを脱いで家に上がった。千代安ちゃんはドアが開いたままの玄関口に突っ立って、私を見つめてもじもじしている。

「ほら、千代安ちゃんも上がって上がって」

「う、む……」

 千代安ちゃんが黒いパンプスを脱ごうと、右脚を上げて靴に手をかけた時、家の奥からお姉ちゃんが黄色いスリッパをパサパサ言わせながら玄関までやってきた。

「おかえりー今日は早かったねえ――えぇ?」

 途中で千代安ちゃんの事に気づいたお姉ちゃん、口を開きっぱなしにして固まっている。よし、ここで一発ぶちかましてやる。

「あーお姉ちゃん、紹介するね。こちら、昨日友達になった藤原千代安ちゃん。要求通り、連れてきたよ」

 堂々と言い放ったが……誰も何も言ってくれない。お姉ちゃんは黙って口を開けたまんま私と千代安ちゃんを交互に見比べるばかり。千代安ちゃんは未だに靴を脱がずに片足立ちしている。その目は前を向いてはいるけど、もはやどこを見てるのか定かじゃない。

 じっと沈黙に耐えていると、お姉ちゃんが私にたどたどしく質問してきた。

「あ、あんた、これ、ほん、ほんとに、連れてき、きたの?」

「当たり前じゃない。あ、まさか友達なんて嘘だと思ってたのお?」

「そんなこと、ないけどさ……」

 目が泳いでいる。ふふ、いい気持ちだ。年上の人に勝つと気分がいい。後ろでは千代安ちゃんがまだ片足立ちをしている。フラミンゴか。

「千代安ちゃん、もう上がりなよ……」

「ん、あ、そうだな……」

 千代安ちゃんもやっと靴を脱ぎ、上がってきた。その動作はまるで石像が動いてるみたいにギシギシとぎこちなく、ゆっくりだった。

 そんな千代安ちゃんに、お姉ちゃんが一歩近付いて右手を差し出し、いつもと違う優しい声で話しかけた。

「藤原千代安ちゃん? 私、木野山憬糸、よろしくね」

「けいと――? よ、よろしく。藤原千代安……です」

 お姉ちゃんの名前に一瞬戸惑ったように見えたけど、その後ちゃんと自己紹介して、差し出されたお姉ちゃんの手をおずおずと握った。敬語なんて珍しい。

「千代安ちゃんって手小さいのね」

「ん……む」

「無口なのね。恥ずかしがり屋さんかな?」

「そんなことはない……です」

 普段お姉ちゃんが私とお父さん以外と話してるの全然見ないから、なんか不思議な感じ。

「あ、いつまでもこんなとこにいさせたらかわいそうね。さ、千代安ちゃんこっちおいで。お茶淹れるわ」

「おおう」

 握ったままの千代安ちゃんの右手を引き、お姉ちゃんはスリッパをパサパサ言わせて居間の方に歩いていった。私を置いて。

「織紙ー早く来なー」

 ふたりの姿が見えなくなってからお姉ちゃんの声がした。もう、ぞんざいだなあ。私はとりあえず居間へ向かった。

「遅かったね」

 居間ではふたりがちゃぶ台を挟んで座り、あぐらをかいたお姉ちゃんがポットのお湯と急須で、正座している千代安ちゃんにお茶を淹れていた。

 私はリュックを床に置いて、千代安ちゃんの左隣にあぐらで座った。が、千代安ちゃんが隣にいることを思い出し、慌てて正座に直した。

「はいどうぞ。熱いよ」

 煎茶が注がれた緑色の湯呑みが千代安ちゃんの前に出された。湯呑みに入った薄い緑色の液体からは、白い湯気が上っている。

「ん……ありがとう。……ございます」

「玉露だからおいしいよ。ここにあるお菓子も食べていいからね」

「……はい。あー、いただきます」

 千代安ちゃんはたっぷり間をとってお姉ちゃんと会話している。よっぽど慎重に言葉を選んでいるみたい。そんなお姉ちゃんなんかに気を遣わなくていいのに。

「ていうかお姉ちゃん、私の分は?」

 いつの間にかお姉ちゃんは自分の分のお茶を淹れて飲んでいる。私の分を用意する気は無いっぽい。

「え、飲むの?」

 確かに普段飲まないけどさ。

「せっかくだから」

「しかたないなあー」

 本当に心底嫌そうな顔をしている。お姉ちゃんが立ち上がり、湯呑みを取りにダイニングへ行こうとしたその時。

「あつっ!」

 声のした方を見ると、目と目の間にしわを作っている千代安ちゃんが右手に湯呑みを持って口を半開きにして、そこから舌を出している。

「だから熱いって言ったじゃないの。大丈夫?」

 お姉ちゃんは千代安ちゃんのそばに引き返してしゃがみ、様子をうかがった。千代安ちゃんはさっと舌をしまった。

「だ、大丈夫だ。心配いらん。早く、織紙にお茶を淹れてやれ」

「ちょっ、ちよ――」

「え」

「――あ」

 まずい。明らかにお姉ちゃん、変な顔をしておられる。今起きた事が信じられない、というような変な顔で千代安ちゃんの横顔をご覧になっていらっしゃる。何これどうしたらいいの? 千代安ちゃんが黙ったまま湯呑みを音もなくちゃぶ台に置いた以外はみんな動かず止まったまま。壁にかかってる時計の針の音が聞こえてくるくらい静か。……ちょっとお姉ちゃん、何か言ってよ、大人でしょ!

 しかしお姉ちゃんはただ千代安ちゃんの横顔を見つめるばかりで喋る気配が無い。千代安ちゃんはというと、口を巾着袋みたいにきゅっとすぼめて、ちゃぶ台に置いた湯呑みを見ている。千代安ちゃん、なんかすごい汗かいてる。

「す、す、す……」

 千代安ちゃんが右腕でおでこの汗をぬぐいながら、何か言おうとしているけど、言葉が出てこないようだ。見ると、左手でおなかのウエストポーチから例の本を取り出そうとしている。でも動揺しているのかなかなか出てこない。見かねたお姉ちゃんがやっと口を開いた。

「どうしたの? かばんごそごそして」

「うぐ」

 お姉ちゃんの言葉でさらに千代安ちゃんの顔に汗が出てきた。一瞬お姉ちゃんの顔を見たかと思うとまたすぐ目を逸らしてしまった。その後は落ち着きなく汗を拭くばかりだ。ただでさえ白い肌がことさらに白くなっている。

 ……まさか千代安ちゃん、極度の緊張状態になってるのかも。昨日公園で言ってた。クラスメイトに言葉のことで嫌な扱いを受けたって。それがトラウマみたいになって、今またお姉ちゃんにも同じ扱いをされるんじゃないかって怖がってるんだ。だから頑張って言葉を選んで、普通の言葉遣いをしようとしてたんだ。――私、私のせいだ。私が強引に家に連れてきたから。私が勝手に意地張って……そのせいで千代安ちゃんに、またつらい思いをさせちゃった……。

「千代安ちゃん、ごめんね」

 ウエストポーチの上に置かれた千代安ちゃんの左手に、さらに自分の左手を重ねて、謝った。真っ白な肌に汗を湛えまくっている千代安ちゃんと、きょとん顔のお姉ちゃんが一斉に私を見た。

「急に、なんであんたが謝ってんのよ?」

「織紙……?」

「ごめんね、私が勝手なことしたから。千代安ちゃんの気持ち、気づかなかった。ごめんね……!」

「織紙、い、痛い……」

 無意識に千代安ちゃんの手を強く握っていたらしい。慌てて手を離す。

「ちょっと織紙? なに泣いてんのよ。どうしたのさ?」

「え? あ――」

 お姉ちゃんの言うとおりだ。涙が出てる。不思議。どうして?

「もうなんなのよふたりともどうしたの? 急に挙動不審になるわ急にわけわかんないこと言って泣き出すわ。ふたりしてなんか変な薬でもやってんじゃないでしょうね?」

 なに言ってんのよう。そんなわけ、ない、じゃん。

「そんなわけ、わけ、わけ……う、うう、う……ひぐっ」

 なんでよお。なんで、こんな、泣いてるの、私。

「織紙、織紙!」

 正座のままうずくまって丸まった背中を、私の名前を呼びながら千代安ちゃんが撫でてくれる。

「わかったわよお茶淹れてあげるから、ふたりとも飲んで落ち着きなさい!」

 いつもの、ちょっとめんどくさそうな声で一喝された。その後スリッパの足音がパサパサとダイニングの方に遠ざかっていった。

「うぐ……ひっぐ、ちよ……ちゃん……」

「泣くな、織紙。私のせいで泣いてるのなら、謝ろう」

 また耳元で。くすぐったいよ。

「わた、私、だよっ、私が、悪いの。わる、悪いのよ」

「織紙は悪くない。私が取り乱してしまったのが悪いんだ。だからもう、泣くな。な?」

 顔を上げて千代安ちゃんを見る。いつもの顔だ。大きな黒い目に低い鼻。ぱっつん前髪は汗でくたっとなっている。

「ちよ、千代安ちゃんは、もう平気なの?」

「はは、なんだかな、織紙が泣き出したのを見て、いつの間にか緊張が引いた」

「なによそれえ。あたしだけ、かっこ悪い」

「ははは」

 笑われてしまった。でも、私もちょっとだけ落ち着いてきた気がする。

「はいはい、ふたりともこれ飲んで。玉露よりいいやつだから効くわよ」

 お姉ちゃんが丸いお盆にマグカップをふたつ乗せてやってきた。それと同時に、千代安ちゃんの手が背中から離れた。

「あれ、お茶じゃないの?」

「ココア。どうせこっちの方が好きでしょ。はい」

 ちゃぶ台にマグカップとお盆を置いて、お姉ちゃんは私の隣に座ってきた。ふたりに挟まれてしまった。

「まあ、好きだけど……」

 私はかわいいクマの絵が描いてある黄色いマグカップを手に取った。中には甘い匂いがするこげ茶色の液体が注がれている。ふーっと息で湯気を吹き飛ばし、ココアをひとくち飲んだ。――おいしい。あったかくて甘いチョコレートの味が、口の中を広がり、支配した。

「はあ」

 思わずため息。気づいたら涙、止まってる。

「おいしい?」

 そう訊きながら、お姉ちゃんは私の背中に手を置き、優しく撫で始めた。お姉ちゃんのくせに、優しくだなんて。

「正直何がなんだか全然わかんないけど、泣く時は泣くって言ってから泣いてよね。いきなり泣かれるとびっくりするじゃん」

 無理だよそんなの。……昔、寝るときによくこんな風に、お姉ちゃんに背中撫でてもらってたなあ。嫌な事があった日も、お姉ちゃんに撫でてもらうと嘘みたいにすぐ眠っちゃって。ふふ、なんでこんなこと思い出したんだろ。ココアがおいしいからかな。

「ほら、千代安ちゃんも飲みな? 私のココアはおいしいのよ」

 私の背中を撫でながら、お姉ちゃんは千代安ちゃんにココアを勧めた。

「え、あ、えっと……はい」

 しどろもどろになりつつ、千代安ちゃんはピンク色のマグカップを手に取った。そして中の液体をじっと見つめ、匂いをかいでいる。ココアのこと知らないわけじゃないよね? さすがに。

「おいしいよ」

 私もそれとなく勧めた。

「ん、ああ……」

 意を決したように、そっとひとくち飲んだ。

「……うまい」

 マグカップから口を離し、千代安ちゃんはため息混じりに感嘆の声をあげた。

「でしょ? 私が作ったココアはどんな人間をも穏やかな気持ちにさせる、魔法の力があるんだから」

 まあこの子人間じゃないけどね。

「魔法」

 千代安ちゃんがお姉ちゃんの話に食いついた。

「そうよ。秘密の魔法」

「じゃあ、おま――じゃない、憬糸、さんは、魔法使いということー、になる、の、ですか?」

「あはは、そうかもね。あ、知ってる? 三十歳まで童貞を貫くと魔法使いになれるのよ」

 は? 何言ってんのこの人。

「どうてい? じゃあ、その、憬糸さんも、えーと、童貞を貫いたのか? あ、いや、童貞を貫いた、んですか?」

 女の子がそんな童貞童貞言わないの!

「ぷっ、違うわよ。そもそも三十過ぎてないし、童貞じゃないし」

「えっ、お姉ちゃん童貞じゃないの!? いつ?」

「女なんだからあたり前でしょ! いつって何よ」

「あ、いや」

 そうか、女だもんね。そりゃそうだ。焦っちゃった。

「あの、女だと、童貞にはなれない、のかい? ん、なんか違うな……」

 千代安ちゃんは頭をかしげ、ココアのマグカップをちゃぶ台に置き、ウエストポーチのファスナーを開けて例の本を出そうとしたが、思い直したらしく、そっとファスナーを戻した。

「あれ、もしかして千代安ちゃん、童貞の意味知らないのかな?」

 お姉ちゃんがニヤッとしている。この人のニヤリ顔も千代安ちゃんに負けず劣らず小悪魔感たっぷり。でもお姉ちゃんの場合、小悪魔ってよりは、閻魔大王かな。

「し、知ってるわ、よ! ど、童貞だろ、ええと、あれだろう……と、とにかく知っている!」

 あ、千代安ちゃんムキになってる。こうなるとお姉ちゃんは止まる所を知らない。どうでもいいけど、私を挟んで童貞童貞言い合わないでほしい。 

「ほう、千代安ちゃんは童貞をご存知で。したらば千代安ちゃんは童貞のこと好きかな?」

 好きなわけないだろ! あ、いや、そういうわけでも……うーん。

「好き? ああっと、そうだなあ……うーん、ああ、どうだろう……むう、そ、そうだな。好き、だぞ。童貞」

「ぷーっ、あははは! ああおかしい、涙出てきたわ」

「えっ」

硬直している千代安ちゃんをよそにお姉ちゃんは背中から床に寝転んで大笑いしている。

「ちょっとお姉ちゃんひど過ぎるよ。純情な女子高生捕まえてこんなこと言わせるなんて」

「ふうー。いやーついついね。だって千代安ちゃん反応が面白くてかわいいんだもん」

 寝転んだまま言い訳をしている。

「か、かわいい? 私がか」

「うん」

 お姉ちゃんは体を起こして、人差し指で自分の顔を指す千代安ちゃんに話し始めた。ひとしきり笑い終わったのか、もうにやけてはいなかった。

「さっきはごめんね、なんか気まずくしちゃって。いきなり言葉が変わったからびっくりしちゃったの。別に気にしてないからさ。そのココアで、許して?」

「あ、あう……」

 千代安ちゃんはちゃぶ台に置いてあるピンクのマグカップを一瞥して何か考えている様子だった。やがて千代安ちゃんはお姉ちゃんの目をまっすぐ見つめて、口を開いた。

「その、私の方こそすまなかった。言葉選びが下手で、気を抜くとすぐ使い慣れた尊大な物言いをしてしまう。白い目で見られたくなくて、努力したがだめなんだ。ちっとも身につかない、覚えられない。――そんな私と友達になってくれた織紙。その家族に不審がられるわけにはいかないと思って臨んだが、やっぱりだめだった。お茶が熱かっただけのことで、言葉の意識がすっかり抜けてしまった。……でも憬糸は、許してくれるのか?」

 いつもの千代安ちゃんの言葉だ。よどみなく、すらすらときれいな、かわいい声だ。

「なんだ、やっぱりそうなんじゃん」

 お姉ちゃんは安心したようにため息をついた。

「なんか無理してるような感じがしたから、下ネタで揺さぶったのよ。そしたら案の定、そっちの口調が本当だったのね。うん。そっちの方が自然でいいよ。かわいい声なんだから、無理して言葉に詰まって会話成立しなくてコミュ障呼ばわりされるよりずーっと素敵だわ」

「素敵? 本当か? でも学校だと――」

「まあ学校じゃ浮いちゃうかもね。でももう悩むことなんてないわよ」

「ん、なんでだ?」

「私の妹があなたと一緒にいるからよ。もし千代安ちゃんが学校のやつらにいじめられても織紙が守ってくれるわ。ね、そうでしょ?」

「え!」

 急に振るなよー。

「うん、もちろんだよ。安心して千代安ちゃん」

「織紙……!」

 妖魔と友達になっちゃったんだもん。それくらい覚悟しなきゃね。――不思議と千代安ちゃんのためなら頑張れる気がする。

「さすが木野山家の次女、私の妹! あっぱれね!」

 まったく、調子いいんだから。

「織紙、私は今日ここに来てよかった。ありがとう。だから、もう泣くな」

「もうとっくに泣いてないから」

「はは、そうだったな」

「あははは」

 三人で笑い合った。途中泣いたのが嘘だったみたいに楽しい気分。

「おい」

 何か聞こえた。

「織紙。憬糸」

 後ろから名前を呼ばれた。全員で振り返ると、そこにはスウェットにどてら姿で腕を組み、襖の前に立っているお父さんがいた。お姉ちゃんが驚いた声を上げる。

「お父さん、いつからいたの?」

 お父さんが姿勢を崩さず答えた。

「仕事してたらこの部屋から童貞童貞と聞こえてきて、女だけで一体どんな話してるのか気になった。家とはいっても、あまり女がそんな言葉言うもんじゃないぞ」

 めっちゃ聞かれてたのか……。恥ずかし。

「お父さんあの、これには事情があるというか、やましいことはないというか、お姉ちゃんのせいというか――」

「んやあ、ちょっといろいろあったのよ。普段からそういう話してるわけじゃないから。ね、パパ信じて?」

 お姉ちゃんまた調子いいこと言ってる。

「そうか。で、そっちの子、織紙の友達なのか」

 千代安ちゃんに目をやって、お父さんが私に訊いてきた。

「そう。藤原千代安ちゃん。同じクラスなんだ」

「そうか。よろしく、木野山貴司だ」

「タカシ……普通だな」

 千代安ちゃんが小声で呟いたのを私は聞き逃さなかった。たしかに我が家では一番普通な名前だ。

「じゃあ俺は戻る」

 お父さんたら愛想悪いんだから。もう自分の部屋に戻ろうとするなんて。

「貴司、待ってくれ!」

 驚いた。千代安ちゃんが自分から、しかもいつもの自分の言葉で、初対面の人を呼び止めるなんて。あとお父さんが『貴司』と呼ばれてるの初めて聞いた。お父さんもびっくりしような顔で千代安ちゃんを見ている。

「……なんだ」

「貴司は、織紙と憬糸の父親なんだろう?」

「そうだが」

「では仕事はしていないのか? 父親は仕事をするものだろう?」

 ひえー、直球だなあ。

「千代安ちゃん、あのね――」

「俺は家で仕事してるんだよ」

「家で?」

「俺は小説を書いてるんだ。奥の部屋で」

「小説。じゃあ貴司は、小説家というわけか」

「そうだ」

「ほう……」

 千代安ちゃんの目が襖のその先に向けられた。親指と人差し指で自分のあごを撫でている。

「この奥でその小説を書いているのか。私に見せてはくれないだろうか?」

 そう言いながら千代安ちゃんは立ち上がり、お父さんに近づいた。ああ、近づきすぎだって。もはやくっついてない? お父さんけっこう背高いから身長差ありすぎて千代安ちゃんほぼ真上向いてるよ。

「いや、あまり仕事場は見せたくないんだ」

 お父さんの胸の高さに千代安ちゃんの頭があるもんだから、お父さん真下を向いて断っている。

「そうか、残念だが仕方ないな。ではこっちでもっと話そう。貴司の話、聞かせてくれ」

「え、ちょっと」

 千代安ちゃんはお父さんの腕を引いてちゃぶ台の所まで連れてきた。そしてぴったり隣に座らせ、ふたりで話し始めた。心なしかお父さん、照れてるように見える。

「話と言ってもな……」

「最近ここに引っ越して来たんだろう? なぜだ」

「……ああ、静かな所に住んでみたくて。ここが丁度よさそうだったんだ」

「近くに大きな公園があるが、知ってるか?」

「ああ、八千代原平安星見自然公園か。行ったことがある」

「よく知ってるな。では……」

 話が弾んでいる。ふたりの様子を眺めていると、お姉ちゃんに袖を引っ張られた。

「ちょっと」

「何?」

「こっち来て」

 お姉ちゃんに引っ張られ、廊下の居間から見えない所まで出てきた。小さな声で問いただされる。

「ねえ、千代安ちゃんっておじさん好きなの? まさか半年後に私たちのお母さんになってたりしないわよね?」

「そんなわけないじゃん! あの子、距離感が下手くそなの」

「下手くそ過ぎだって。あれじゃまるでキャバクラよ。あんたじゃなくてその友達が先に風俗嬢デビューとはさすがに予想できなかったわよ」

「違うってば! たしかに男の人相手でもあの距離感なのはびっくりしたけど」

「はあ。それにしても、あんなにデレデレしてるお父さん初めて見たわ」

「え、デレデレしてた?」

「してるわよ。まったく、友達のお父さんを狙うなんて、とんだ大物ね」

「だから違うって」

「まあいいわ。なんかこの気持ち、今すぐあんたに伝えたかっただけだから。それにしても、誰にでもあの距離感じゃ、いつか勘違いする男が出てきそうよね……」

 と言ってお姉ちゃんはひとりで居間に戻っていった。

 廊下でひとり考える。――お姉ちゃんの言うとおりだ。千代安ちゃんのあの態度。興味を持った相手にはかなり積極的に、ゼロ距離でコミュニケーション。私は女だから変な気は起こさなかったけど、もしこれから誰か男の人と千代安ちゃんが関わることになったら……。その時は、どうなっちゃうんだろう。千代安ちゃんかわいいからなあ。私の千代安ちゃんが、他の人の所にだなんて……やだな。そもそも千代安ちゃんは男の人のことどう思ってるんだろう? 勝手なイメージだけど、あんまり恋人とか欲しそうな感じしないよね。ライク止まりというか、男に興味無さそうというか、性欲無さそうというか。

 そういえば妖魔って……するのかな。ばか、何考えてんだ。はあ、私も戻ろ。

 居間に戻ると千代安ちゃんとお姉ちゃんとお父さんの三人でちゃぶ台を囲み、なにやら話している。千代安ちゃんが私に気づき、話しかけてきた。

「織紙、どこに行ってた? 今貴司と憬糸から聞いたが、お前の母はずいぶん前に死んでしまったそうだな。さみしくはないか?」

 お母さん、か――。私は千代安ちゃんの向かいに座って答えた。

「お母さんは、私がまだ小さい時に死んじゃったから、あんまり覚えてないんだ。だからあんまりさみしいって思ったことは、無いかな」

「そうなのか。もしさみしければ、私のことを母と思ってもいいんだぞ。なんてな」

「えっ」

 私と一緒にお姉ちゃんまで驚きの声を上げた。その様が意外だったのか、千代安ちゃんも若干驚いている。

「な、なんだ。冗談だ冗談。私に母は務まらない」

「だ、だよねー。気持ちだけ、もらっておくよ。ありがとね」

 苦しい返事だったかもしれない。

「うむ。ああそろそろ帰らなければならない時間だな……」

 壁の掛け時計を見て千代安ちゃんが唐突に立ち上がった。

「もう帰っちゃうの?」

 お姉ちゃんが慌てて尋ねた。

「もう六時を過ぎている。あまり長い時間居つくのも悪い」

「そう? 別にこっちはいいけど。でも帰るっていうのを止めるのも変ね。わかった。お見送りするわ。よいしょっ」

 お姉ちゃんは掛け声で立ち上がり、スリッパをパサパサ言わせて千代安ちゃんと一緒に玄関へ歩いていった。私も立って見送りに行こう。お父さんは座ったまま動こうとしない。

「お父さんは行かないの?」

「俺はいい」

「ふうん」

 恥ずかしいのかな? まあいいか。早く行かないと。

 玄関では、靴を履いた千代安ちゃんがドアに背中を向け、お姉ちゃんと向かい合っていた。

「じゃあね、千代安ちゃん。織紙と仲良くしてやってね」

「うん。ああ織紙。……また、ここに来てもいいか?」

「当たり前じゃん。いつでも好きなときに来てね」

「ふふ、嬉しいな」

「この家なら、好きなだけ自分の言葉で喋っていいんだからね。話聞くわよ」

「ありがとう憬糸。……じゃあ、またな!」

「うん、ばいばーい!」

「またねー」

 千代安ちゃんは玄関のドアを開けて、外へ出て行った。

 ドアが閉められ、お姉ちゃんと一緒に居間に戻った。居間に戻るなり、お姉ちゃんはお父さんに向かって声を荒げた。 

「お父さん。一応言っておくけど、あの子に手出しちゃあだめだからね!」

 お姉ちゃん……ほんとに心配してるんだなぁ。

「出すわけないだろ何言ってんだ」

「でも密着されてデレデレしてたでしょ」

「してない」

「してたね。私の目はごまかされないんだから。私ごはんの用意するからそれまで仕事でもしててよね!」

「なんだお前」

 お姉ちゃんの態度に困惑しつつ、お父さんは襖を開けて奥の部屋に戻っていった。襖を開けたとき、ちらっとお母さんの仏壇が見えた。

「あんたも部屋行ってなさい。ごはんできたら呼ぶから」

 そう言ってお姉ちゃんはダイニングに消えていった。私も部屋に戻ろう。階段を上り、自分の部屋のドアを開けて中に入り、ベッドにダイブして仰向けに寝転がる。

 そして目を閉じて思う。――お姉ちゃんは心配してるけど、私はそんなにしてない。だってお父さん、自分の部屋にお母さんの仏壇置いてるんだもん。浮気なんてできるわけないよね。

 

 ――あ、リュック居間に置きっぱなしだ。

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