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小妖魔復活せし  作者: 司馬仲
小妖魔復活せし
4/82

3 私は手が届く人間

 家に着く頃には太陽が沈んで、すっかり空は暗くなっていた。今はブラジルあたりにでもいるのかな、太陽。

 私の新しい家は、四門市朱雀山町(すざくやままち)の住宅街から少し外れたところにある、二階建てで青い屋根の一軒家。お父さんてば、どこにそんなお金があったのやら。実はお金持ちなのかな。……おこづかい増やしてもらおうかな。

 そんなこと考えながら、玄関のドアを開けた。鍵はかかってない。

「ただいまー」

 奥からスリッパで走ってくる音がする。

「おかえりー遅いじゃん、どこ行ってたの? もう八時過ぎてるよ」

 黄色いエプロン姿のお姉ちゃんがプンスカしながら出てきた。

「初日から門限破るとか、意外と剛胆な女だよねあんた。高校生だった時の私はもっと真面目だった。それとも、最近の高校生はみんなそうなの?」

「そーかもね。お姉ちゃんが高校生だったのって六年も前でしょ。一朝一夕、時代は移り変わるんだよ」

 オレンジ色のスニーカーを脱いで家に上がり、居間に向かいつつ、後ろをついてくるお姉ちゃんにちょっとした軽口を叩きつけてやった。

「五年だし。っていうかなんで遅くなったのさ。あんまり心配させないでよね」

 お姉ちゃんが後ろでプンスカしている。お母さん業が板につきすぎ。

 私は居間に着いたのでリュックをちゃぶ台の横に放り投げて、私専用の、円形で紫色の座布団をお尻に敷いてあぐらをかく。うーん、あぐら。自宅でのみ許される背徳的座方。少なくとも私の中ではね。

「ちょっとー、ちゃんとカバン部屋に持ってってよ?」

 わかってるよ。そんな腕組んで仁王立ちしないでよねー。

「そんなに心配だったならレインでメールくれればよかったのに」

 レイン(RAIN)。何年か前に登場したスマートフォンの無料通話、チャット、その他いろいろアプリ。お姉ちゃんが高校生の頃は無かった。

「私は家族を信じてるの。事件に巻き込まれるとか、暴漢に襲われるとかそんなバカなことにはならないって信じてるのよ」

「なんじゃそりゃあ。じゃあもしほんとに事件とかに巻き込まれてたらどうすんのよ。せんべい食べていい?」

 ちゃぶ台の上のお茶請けにせんべいがあっておいしそうだった。

「だめ。ごはん食べれなくなるでしょ。事件に巻き込まれるようなマヌケは我が家にはいらないわ。劣等種は淘汰。悲しいけど、それが定めよ」

「はあ?」

 お姉ちゃんはわけわかんないこと(のたま)うと、ちゃぶ台を挟んで私の向かいにあぐらで座り、お茶請けのせんべいを食べ始めた。

「私にはだめって言ったくせに」

「わあしはおこながからいいんえふー」

 多分、『私は大人だからいいんですー』と言った。

「いや、あんえ、んん、あんた待ってたらお腹すいちゃって」

 多分、『いや、あのね、んん、あんた待ってたらお腹すいちゃって』と言った。

「お父さんと食べてればよかったのに」

「今仕事中なんだもん。呼んでも出てこないよ」

「そう」

 お父さん、仕事中は話しかけても無視だもんね。せっかく家にいるのに、つまんない。

「だったら早くごはんにしようよ。私もお腹すいたよ」

 そう言って立ち上がり、ダイニングに行こうとすると、座ったままのお姉ちゃんに呼び止められた。

「待って。今日はなんで遅くなったの? ちゃんと言いなさい」

 振り返ると、真剣な目。……心配性だなあ。

「なんでもないよ。ただ友達と近くの公園でおしゃべりしてただけだって」

「転校初日に、暗くなるまで語らうほどの友達ができたの? あんたに? んん……」

 怪訝な顔。疑われてる。

「ほんとだよ! すごく気が合ったの! 転校初日だろうがそういうことはあるでしょ?」

「私は転校したことないから知らんけども……」

「んもういいじゃん、早くごはん食べようよ」

 廊下を挟んだ向かい側にあるダイニングを指差して促すと、お姉ちゃんはやれやれって感じでゆっくり立ち上がった。

「……わかった。今日のところはいいわ。さっき家族を信じてるって言ったばっかりだしね。ただしひとつ、要求」

「要求?」

「その友達、明日この家に連れてきなさい」

「ええ、明日!?」

 なな、なんでよー?

「すごく気が合ったんでしょ、だったら来てくれるはずよね。そしたらあんたを完全に信じる。もし無理だったら、あんたは嘘をついたってことになる。その時は……もうすごいわよ。もう、本番ありの風俗にでも売り飛ばしてやるから」

 仕打ちがひどすぎる! 本番ありってどういうことかよくわかんないけど。

「もし向こうに予定があったら……」

 正直無さそうだけど。

「なんなら今レインで約束したらいいじゃん。身売りされるーって言えば来てくれるって。ほらあんたそういうスタンプ持ってなかったっけ」

「持ってないよ! ……でもそうか、今のうちに話しておけば……って」

 千代安ちゃんの連絡先まったく知らない……。

「どうしたの」

 スマートフォンを持ったまま固まってる私を見てお姉ちゃんが訝しむ。

「レインもメアドも電話番号も聞いてなかった……」

「え」

 明らかに怪しんでいる。

「そんなに意気投合したのに? そんなことある? うーん、妹の風俗嬢デビューが現実味を帯びてきたわね」

「嘘じゃないの! ほんとなの! あの子ちょっと、いやかなり変わってるというか、現代っ子じゃないというか、流行りに迎合してないというか、浮世離れしてるというか――」

「あんたのというかというか攻撃はわかったから。どっちにしても、明日になればわかることだわ。ごはんにしましょ。今日はから揚げだよ」

 お姉ちゃんは一方的に話を切って、ひとりでダイニングに行ってしまった。

「……ばか」

 お姉ちゃんのわからずや。妹を疑って楽しいか。何がから揚げだ。ひとりで食ってろ。そんで食い過ぎて太ってブスになればいいんだ。……お腹すいた。食べに行こう、癪だけど。

「遅かったね。そっちでなんかしてた? トイレ?」

 ダイニングに入るなり話しかけてきた。ふん――。

 私の分のごはんが、お姉ちゃんの座っている向かい側に用意してあったけど、無視してその隣の椅子、お姉ちゃんの斜め向かいに座った。米も味噌汁もから揚げも全部こっちにずらしてやった。

「何よそれー」

 なんか言ってきたけど、知らんわい。私はごはん食べに来たんだ。喋りに来たんじゃない。

「怒ってんの? 織紙ちゃんおこなの?」

 そうだよ!

「冗談だよー風俗なんか行かせるわけないじゃんかわいい妹をさあ。ねえ?」

 そこじゃない、もう。信じてくれないからだよ。……味噌汁がぬるい。

「あ、味噌汁ぬるくない? 入れ直そうか?」

 いいよ。もう話しかけないでよ。

「んー……」

 私の気持ちが伝わったのか、それから食べてる間は何も話してこなくなった。

 なんか、さっきからこのから揚げ、味薄い。味噌汁も、薄い気がする。いつもこの人の味付けは濃い方なのに。へんなの。

 先に食べ終わったお姉ちゃんが台所に食器を下げ、ダイニングを出ていく、かと思ったら入口の前で止まってこっちを向いた。

「……ごめん、お姉ちゃんが悪かったね。その友達、無理して連れてこなくて、いいからね。皿、ちゃんと流しに持ってってね」

 それだけ言って、今度こそ出ていった。何よ、連れてこいって言ったり連れてこなくていいって言ったり。むかつく。意地でも明日千代安ちゃん連れてきてやる。

 味の薄いから揚げを平らげ、皿を台所に下げて、私もダイニングを出た。


 誰もいない居間からリュックを取って、二階にある自分の部屋に向かった。二階は小さく、私とお姉ちゃんそれぞれの部屋と、物置にしてる部屋がひとつあるだけだ。三部屋とも全部六畳。

 階段を登り、すぐ左側にあるのがお姉ちゃんの部屋。中にいるのかな。……部屋のドアを蹴りたくなるのを抑えて、その奥に並んでる自分の部屋のドアを開けて中に入った。

 左奥の角にあるベッドにリュックを投げて、自分もその横にうつ伏せダイブをかました。赤い掛け布団に顔を埋める。いい気持ち。横になった途端眠気がやってきた。

 ……いやいや、まだ眠気はお呼びでない。まだ十時にもなってないし、まだお風呂にも入ってないし。

 その時スカートの右ポケットの中からピロリンと音がした。スマートフォンのレインにチャットが来たのだ。うつ伏せのままスマートフォンを取り出して確認する。

――お風呂沸いてるからね――

 お姉ちゃんからだ。直接言えばいいのに。ふん。

 既読無視を決め込んで、お風呂に入ることにした。

 部屋でセーラー服を脱いで、Tシャツを脱いで、スカートを脱いで、靴下を脱いで、パンストを脱いで、パンツを脱ぎそうになったのを慌てて元に戻した。

 セーラー服とスカートをベッド上の壁にあるハンガーにかけて、次にベッドの足側、入口のドア近くにあるタンスから薄ピンクのパジャマと、これまた薄ピンクにイチゴ柄のパンツを取り出す。

 パジャマとパンツと、今脱いだシャツとパンストと靴下を持ってお風呂場へ。部屋のドアノブを握った時ふと、自分の脱ぎたての服が知らないおじさんたちに高値で売られているビジョンが浮かんだ。

 ――きもい。きっとお姉ちゃんがふざけた事を言ったからだ。でも、千円でTシャツを買って何日か着て、それが一万円で売れるとするなら、こんなに簡単で効率のいい商売は他にないかも。……やらないけど。

 ため息をひとつついて、握ったままだったドアノブを回してドアを開け、廊下に出る。

 お姉ちゃんの部屋からドア越しにテレビの音が聞こえる。ニュース番組らしい。どうでもいいや。

 そのまま部屋を横切って階段を降りて、玄関の手前にある脱衣所のドアを開けた。バスタオルがあるのを確認してからかごにパジャマと新しいパンツを置いて、隅の洗濯機の中に、持ってきた脱ぎたての服をぶちこんで、着ているブラとパンツを脱ぎ、これも間髪入れず洗濯機にぶちこんだ。

 最後にぐーっと縦に伸びをして、いよいよ浴室に入る。

 まず浴槽内のお湯の温度を手で触って確認。うん、よろしい、いいと思います。

 シャワーを出して全身の汗を流す。まあ今日そんなに汗かいてないけど。ひと通り流したら、ありえないくらい小っちゃい黄色い椅子に座って、ボディソープで体を洗う。

 左腕からスタートして左肩、鎖骨、首を通って右肩、そのまま下って右腕。次に胸を擦ってお腹、左わき腹、背中、右わき腹、ぐるっと一周。私は背中に手が届くタイプの人間である。

 そして下半身、右ももから洗う。もも、ひざ、すね、足。左も同じように。

 終わったら立ち上がって、最後に下腹のさらに下の所とお尻を洗う。

 手だけ泡を流して、次にシャンプーを手に取って頭を洗う。体の泡、厳密に言うとお尻の泡を流すまでは椅子に座らない。以前泡ついたまま座ろうとしてずるっと滑り、お尻を打ったことがあるからだ。

 頭のシャンプーを流して、続いてトリートメント。パパッと髪に塗りつけておく。やっぱり髪は肩くらいまでが楽だな。中学生の時はもっと長かったけど、めんどうなのよね。

 トリートメントの浸透を待つ間に洗顔フォームで顔を洗う。炭入りのいいやつらしい。肌荒れとかあんまりしないからこだわってないけど。顔全体に伸ばして優しく擦る。

 ここでいよいよ頭からつま先まで全身をシャワーで流す。泡が流れた後の肌はツルツルしてて、自分で触って気持ちよくなっちゃう。特におすすめはすね。弁慶の泣き所と呼ばれるとこだ。まあいつまでも自分のすね擦ってても仕方ないのでとっとと湯船に浸かる。今日のお湯はオレンジ色。フレッシュオレンジの香り、らしい。

「はぁー」

 気持ちいいー。全身の疲れがお湯に溶け出して、湯気になって消えてゆく。なんてねー。

「んーふー、んふーふーふーふふーふー」

 お風呂浸かりながらの鼻歌、これこそ至高。……って、私ってば上機嫌ね。さっきまでのモヤモヤした気持ちはどこ行っちゃったのか。疲れと一緒に溶けて湯気になったのかな。まだお姉ちゃんの事は許せないけど。

 明日千代安ちゃんを家に誘ってみよう。お姉ちゃんをびっくりさせてやる――!

 お風呂から上がってバスタオルで体を拭き、イチゴパンツとパジャマを着た。そして脱衣所の洗面台で歯を磨く。赤いクリアボディの歯ブラシ。私のお気に入り。ああ、歯磨き粉があとちょっとしか残ってない。まあお姉ちゃんがそのうち買うでしょ。

 歯を磨き終わって部屋に戻る途中、ダイニングの横を通ると、中でお父さんがご飯を食べていた。お父さんがこっちに気づいて話しかけてきた。

「帰ってたのか」

「うん。仕事は?」

「そこそこだ」

「今日これからまだやるの?」

「ああ」

「そう……がんばって。完成したら私にも読ませてね」

「……ああ」

 短い会話が終わって、私は二階の部屋に戻った。お姉ちゃんの部屋からは何の音もしなかった。……もう、寝たのかな。

 ドライヤーで髪を乾かして、勉強机の椅子の背もたれに、今使ったバスタオルをかけた。――そうだ、明日の準備しなきゃ。

 時間割を確認して教科書とノートを、っと。ベッドの上のリュックに明日学校で必要な物を詰めて、バスタオルのかかった椅子の上に置く。

 やること無くなったので再びベッドにうつ伏せダイブ。そしてスマートフォンを起動。まずレインをチェック。なんも来てない……。

「ほあー……」

 あくびが出た。眠い。やっぱりベッドに横になるとドバッと眠くなる。布団の中入ろう。動画サイトでも見るかな。それとも面白そうな小説でも探そうかなあ。どうしよ――。


 気づいたら朝七時だった。いつ寝たのか覚えてない。目覚ましかけ忘れてたけど奇跡的に起きれてよかった。

 とにかく着替えよう。パジャマを脱ぎ、タンスから適当にブラとTシャツとパンストと靴下を取り出して着ける。ハンガーにかかってる制服も適当に着た。

 リュックと昨日使ったバスタオルを持って部屋を出て脱衣所に向かう。階段を降りて歩いてるとダイニングからお姉ちゃんの声が聞こえた。

「おはよー。ご飯できてるよー」

「……んー」

 小っちゃく返事しておいた。ダイニングの入口のとこにリュックを置いて早足で脱衣所に。バスタオルを洗濯機にぶちこんで、洗面台で顔を洗って歯を磨く。あ、歯磨き粉少ない。昨日もそうだったっけ。

 パッと終わらせてダイニングに行く。お姉ちゃんはエプロン姿で椅子に座ってスマートフォンいじりながら、焼いたソーセージを食べている。こっちを向いた。

「おはよー」

「……おはよ」

 私はわざと小さく返事して、米と味噌汁とソーセージの用意してあるお姉ちゃんの向かいにの椅子に座った。

「まだ怒ってんの?」

 お姉ちゃんが私の顔を覗き込んで探りを入れてくる。

「別に怒ってないよ」

 ほんとはちょっと怒ってるけど。

「ならいいけど。ほら食べなさい」

 言われなくても食べるよ。ソーセージをかじる。歯磨き直後だからまずい。

「そういえばあんた昨日お風呂入った?」

「入ったよ」

「そう、よかった」

 レイン無視したの気にしてるかな。まあいいや。味噌汁を飲み干して 、学校へ出かけよう。

「じゃ、もう行くね 」

「あ、うん、行ってらっしゃい」

 私が椅子から立ち上がると、お姉ちゃんも一緒に立ち上がったが、別については来なかった。リュックを背負って玄関でスニーカーを履く。そして下駄箱の上にある鏡で軽く身だしなみチェック。うん、悪くない顔だ。

 さて――。玄関のドアを開けて外に出た。青空。今日はいい天気だ。深呼吸をひとつして、私は学校へ向かって歩き出す。

 家から学校まで徒歩で約三十分かかるが、私は歩くことを選んだ。若いうちから歩くことをやめて楽をしていると、年老いた時に歩けなくなってしまうからだ。私は運動は苦手だけど、せめて歩くぐらいのことはしておきたい。

 やがて学校に着いた。校門を越え、玄関のガラス扉を押し開け、下駄箱で靴を履き替える。下駄箱すぐ近くの階段を上って二階へ。そして右の一番奥左手にあるのが私の教室、一年C組だ。後ろ側の扉を開けて教室の中に入る。

 昨日ほどは緊張しない。クラス三十人のうちの半分ぐらいがすでに来ているように見える。ただいま午前八時十分。ホームルームまであと二十分。うーん、もっと遅く家を出てもいいかもなあ。――と、私に気づいた何人かが寄ってきた。

「木野山さんおはよー」

「おはようー。あっ――」

 この子、昨日の放課後に話しかけてきたバレー部のポニーテール女子だ。

「どう、バレー部のこと考えてくれたでしょ?」

 考えてねえー。

「木野山さんバレー部に入るの?」

 他の女子が口を挟んできた。入らないよ。

「ううーん、どうしようかと思ってて。他にもいろんな部活あるみたいだし」

 どんな部活あるのか知らないけどね。ポニーテール女子が残念そうにしている。

「そうかあ、でも待ってるね。ずっと、待ってるから」

 静かにそう言うと、ポニーテール女子は自分の席に戻っていった。他の女子たちもそれに合わせるように自分たちの席に戻っていった。

 私ひとりだけリュック背負ってぽつんと教室の後ろに立っているのも恥ずかしいので、おとなしく席に座る。リュックも席の横についてるフックにかけた。リュックからとりあえず筆入れだけ出して机にしまう。梨のプリントがたくさん入った黄緑色の筆入れ。中学生の頃から使ってるから、汚れて黒っぽくなっちゃってる。でも気に入ってるんだ、これ。

「織紙」

「んっ。ん」

 今日は変な声出なかった、はず。千代安ちゃんがまたいつの間にかすぐ左に立っている。

「お、おはよう。織紙」

「おはよう……」

  また耳元でささやかれている。

「昨日は遅くまですまなかったな。だが楽しかったぞ。どうだ、今日もまた行かないか?」

 うああ耳がぞわっとするう。

「きょ、今日も?」

「ああ、無理にとは言わないが。しかし私は織紙といるのが気に入ったんだ。なあ、いいだろう織紙?」

「うぐうっ」

 耳がっ、耐えられない! 体が無意識に千代安ちゃんの吐息から逃れようとして、机に突っ伏す形になった。こんな可愛い声でなんかイケメンみたいなこと耳元でささやかれてたら頭が変になる!

「どどどうした、織紙よ」

 千代安ちゃんの慌てた声が聞こえる。少しだけ声が大きくなっている。

「ごめんね、大丈夫だよ。なんでもないから、はは」

 勇気を出して、千代安ちゃんの声がする方をゆっくり向いた。そこには目を大きくしてこちらを心配そうに見つめる、前髪ぱっつん少女の顔があった。

「いきなりうめいて体勢を崩すからびっくりしたぞ。どこか痛いんじゃないか?」

 痛いというか、耳が生温かいというか。

「大丈夫、どこも痛くないよ。それよりさ、千代安ちゃん。そんなに私と一緒にいるの……好き?」

「む、当然だ。好きだぞ、織紙のこと」

 また告白されてしまった。昨日に引き続きだ。……顔がにやけそうになるのをぐっと引き締め、私は千代安ちゃんのデカ目をまっすぐ見つめた。

「そ、そう。じゃあさ、今日はあの公園じゃなくて……その……私のー、家に……来ない?」

 そうだ。誘うなら今しかない!

「織紙の家に、今日、行くのか? 私が、かあ……え、えっと」

 なんだろ千代安ちゃん、もしかして照れてる? 小さな体をくねらせて顔を赤くしている。意外な反応だ。

「織紙の家に、最早呼ばれるとは……お前、そんな顔して意外と手が早いんだな。ふふ、ふ、ど、どうしようかな……」

 な、なんか乙女な顔してるなあ。千代安ちゃんたら両手でほっぺを押さえている。何がこの子の琴線に触れたんだろう……? 昨日私の家においでって言った時はこんなんじゃなかったのにな。

「わ、わかった。織紙がそこまで言うなら、私も覚悟を決めるぞ。お前の家についていこう。ふふ、ふふ」

 なんだろう、何か勘違いしてるのかな。いや、そうとしか思えないけど、勘違いするような所どこかにあったかなあ? まあ、来てくれるみたいだから、とりあえずオーケーか。

「ん」

 ふと前を向くと、数人の男子女子が私と千代安ちゃんのことを見ていた。何よ、何か言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ。と――実際言う勇気は無い。

 私の視線に気づいたのか、みんなさりげなく目線を逸らした。バレバレだよ。

「ふふ、ふふ……」

 千代安ちゃんは自分の席に戻ってからも、自分の世界に迷い込んだまま時折ひとりで笑っていた。クラスメイトに見られてた事には気づいてないらしい。


 放課後。また耳元に甘い吐息吹きつけられないように、サッと席を立ち、ササっとリュックを取って背負い、サササッと千代安ちゃんの机に急行する。完璧な立ち回りだ。急行って言っても二歩で着くけどさ。ともあれ、椅子の後ろから、本を読んでいる千代安ちゃんの小さな背中に向かって声をかける。

「千代安ちゃん、じゃあ行こうか」

 一瞬間が空いたが、やがて千代安ちゃんは読んでいた本をウエストポーチにぎゅっと詰め、そのポーチを着けてやおら立ち上がった。その顔は一見すると、いつもと同じ普通に見える。

「うん、行こう。今日は織紙が前を歩け」

「うん。昨日とほとんど道同じだけどね」

「そうだったな。はは」

 軽く笑い合って、今日は私が先頭で教室を出た。ここまであまり時間をかけなかったおかげで、今回はあのポニーテール女子に話しかけられずにすんだ。左耳への負担を減らそうとしただけだったけど、思わぬ副産物だ。

 玄関で靴を履き替えて校門を出た。昨日と同じ道を辿って家に向かう。斜め後ろ、と言うよりほぼまっすぐ左に千代安ちゃんが並んで歩いている。なんだかそわそわもじもじしてるように見える。どうしたんだろう。思えば今日の授業中、千代安ちゃんずっとそわそわしながら例のカバーがかかった謎の本を読んでいた。私の家に来るのがそんなに緊張するのかなあ?

 若干様子がおかしい千代安ちゃんと他愛ない話をしながら約三十分歩き続け、やっと家の前に着いた。スマートフォンで時間を確認。うん、五時ちょっと過ぎ。これならお姉ちゃんも文句無いでしょ。

スカートのポケットにスマートフォンをしまったところで、横の千代安ちゃんが家の屋根を見上げて感嘆の声を上げた。

「はあー、意外と大きな家に住んでるんだな、織紙は」

 意外と?

「じゃあ入ろう?」

「ま、待て!」

 ドアを開けようとしたら止められた。

「確認させてくれ。この家には、織紙の親がいるんだよな?」

「ん、うん。あとお姉ちゃんもいるよ」

「え、織紙には姉がいるのか。そうか……」

 お姉ちゃんがいると言った途端千代安ちゃんたら焦った顔でウエストポーチから例の本をぐいっと取り出してページをめくり出した。なんで急に本を?

「どうしたの?」

「ちょ、ちょっとだけ待ってくれ」

 千代安ちゃんは本のページをめくって何か探しているようだったが、探しているページは見つからなかったようで、神妙な面持ちで本をポーチにぐぐっと戻した。

「すまんな。もういいぞ」

 いいぞと言う割には不安そうだ。

「う、うん。じゃあ入るよ」

 そう言って玄関のドアを開けた。相変わらず鍵はかかってない。不用心。

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