序 平星と千代
雨夜の林道、八歳くらいの少年と少女が手を繋ぎ、息急き切って走っていた。ふたりとも直垂に括袴という和服を着て草履を履き、その顔は恐怖でひきつりながらも、ずっと走ってきたことで息があがり、頬が紅潮している。
度々背後を確認しながらひたすらに走っていたが、少女が地面のぬかるみに足を取られ転んでしまった。少年のほうも繋いでいた手を引っ張られ尻もちをついた。
「大丈夫か!」
少女は泥まみれの顔を上げ、痛みと恐怖で泣きそうになるのをこらえている。
「だ、だいじょう、だいじょうぶ。う、ううう……」
「泣くな!早く逃げるんだ、泣いてなんかいられないんだ。もう少しだ、頑張れ!」
「うん……」
少年は手を引っ張って少女を立たせ、ふたりはまた駆け出した。
「千代、見ろ! 黒の鳥居だ。もう少しだ!」
「ほんとだ! あれを越えれば逃げられる」
ふたりの遠い視線の先に、真っ黒な鳥居が立っている。林の道に唐突に存在しているその鳥居は、見る者を不気味な気持ちにさせる。しかし今のふたりにとってこの鳥居は、希望に輝いて見えた。走る速度を速め、鳥居のもとへ、その先へ向かった。ふたりは気づかなかった。今まさに自分たちが踏みしめ、蹴った、その地面に、大量の幾何学模様が描かれていることを。
「うあっ!」
ふたりは悲鳴と共に地面に倒れこんだ。懸命にもがくが全く立ち上がれないらしい。
「結界だ、やられた…もう少しだったのに……!」
「もう、だめなの? 平星、もう、あたしたち、もう、もう、う、うえぇ……」
悔しそうに歯を食いしばる少年の横で、とうとう少女は泣き出した。
「千代……泣くなよ、お前に泣かれたら、俺は……」
「いたぞ!平星と千代だ! 結界の罠にかかってる!」
「ひっ!」
男の叫び声が響き、少女の涙顔がびくんと跳ねた。やがて10人くらいの男たちが倒れたまま動けないふたりを取り囲み、思い思いにしゃべり始めた。
「やっと捕まえた……」
「こんなガキがなあ」
「どうしてやろうかなあ、おい」
「ここで八つ裂きにしてやろうぜ」
「俺らが決めることじゃないだろ」
「褒美がもらえりゃなんでもいい」
「さっさと連れていこうぜ」
数人が大きな網を持ってふたりに近付く。何かの特別製なのか、網には赤青紫、様々な色の丸い玉石がくっついている。
「ひらほしぃ! やだよお! 怖いよ助けてよお!」
「千代!」
「やかましいぞこのクソガキが! ぶっ殺すされてえか!」
力なく叫び暴れるふたりを押さえつけ、男たちは少年と少女を別々の網の中に放り込み、担いで、もと来た方向へ歩き出した。
「平星! ひらほしぃ! やだよ! あたし死にたくない! 平星も! 平星も死んじゃいや! ひらほしぃ!」
「千代……ごめんな……」
網の中で泣き叫ぶ少女とは対照的に、少年の方はすでに全てを諦め、ただ涙を流すだけ。雨の降る夜。林には、男たちの哄笑と、少女の泣き声。やがてそれも消え、雨の降る音だけが、いつまでも、そこに残った。 鳥居の黒い体が、その雨を受け止め続けていた。