第三話 たこ焼き 後編
ジュウッという小さな音を立てて注がれた液体が窪みの中でグツグツと煮えだすと、何となく心がほっこりとしてくるような、とても気持ちの落ち着く香りが漂った。卵と小麦粉を水で伸ばしただけでは、このような香りは起こらない。きっと、水ではない別の何かが入っているのだろう。
窪みのひとつひとつに丁寧に茹でたたこが入れられるのをナターシャが苦い顔で見つめていると、たこを入れ終わった水野が掌を出すようにと声をかけてきた。言われたとおりにすると、大小様々な黄色い粒が一摘み、掌の上へと置かれた。〈天かす〉と説明のあったそれを口に放り込んでみると、サクサクとした食感が今までに経験したことのないような控えめさで面白かったが、油っぽい味に少しだけ胃が凭れた。その〈天かす〉とやらを、水野はまんべんなくパラパラとまぶし入れた。そして生姜を細かく刻んだものを同じように鉄板上へと投入した。――ナターシャは生姜の色に少しばかり驚いた。こちらの世界の生姜は赤い色をしているのだろうか。それとも、酢漬けか何かにする過程で染色でもしているのだろうか。
火が通ってきて端のほうが固まってくると、水野は錐のような道具を両手に持ち、器用に生地を均一に切り裂いた。そしてその生地を窪みの中に仕舞いこむかのようにちょいちょいとまとめ上げ、くるんとひっくり返した。どんどんとひっくり返されていく様は見事なもので、ナターシャは思わず感嘆の声を上げた。
しかし、同時に疑問も生じた。――これ、今、半球が窪みの上で盛り上がっている状態になったわけだけど、それってつまり、窪みの中で具が大暴走してるんじゃないのかしら……。
ナターシャが不思議そうに鉄板を見つめる横で、日比谷も感心するように唸った。すると彼は水野に対して何やら話しかけた。水野はたこ焼きに油をかけながらげっそりとした顔でそれに受け答えると、思い出したかのようにナターシャの方を向いて苦笑いを浮かべた。
「今日のために、たこ焼きを焼くのが得意なやつに教えてもらって、毎日練習していたんだよ。だから、毎晩毎晩たこ焼きを食べ続けてさあ……」
ナターシャは水野の顔を見ながら相槌を打ち、ジュウジュウと音を立てている半球に視線を戻した。日比谷に対してげっそりとした顔を向けていたということは、飽き飽きするほどの日数を食べ続けていたということなのだろう。一体、水野はどれだけ毎日コレを食べていたのだろうか。
半球の色味がきつね色に近づいてくると、水野は二本の錐状の道具でそれをくるくると回転させ始めた。半球だと思っていたそれは、少しいびつではあるが、球体に近い形となっていた。しかも、ぐちゃぐちゃになってしまっているのではと不安に思っていた中身は球の中にしっかりと内包されていた。
くるくると動かすたびに、たこ焼きの表面はカリカリの状態となり、色味も深くなっていった。そして完全な球体へと近づいていくのを見て、ナターシャは瞳を輝かさずにはいられなかった。
焼き上がったたこ焼きが八つ、紙の皿の上に乗せられた。――これで完成かと思いきや、まだ作業が残っていたようだ。
水野は鉄板横のスペースに置かれた壺に手を伸ばした。中には濃茶のねっとりとした液体が入っており、彼はそれをたっぷりとたこ焼きに塗りたくった。香りからして、この液体はウスターソースか何かのようだった。――ナターシャは地元にある食堂の、ロベルトおじちゃん特製の手間ひまかけた自家製ソースの味を思い出して頬を緩ませた。
出し抜けに、水野が「マヨネーズはどうする?」と聞いてきた。ナターシャは思わず顔をしかめてしまった。――ソースにソースを混ぜたら、せっかくのソースの味が台無しになってしまうじゃない。
すると、日比谷が水野に何やら話しかけ、水野は彼の言葉に顔を明るくした。どうやら日比谷が水野に対して何やら提案したようで、水野はその案を受け入れたらしい。
水野は楽しそうにたこ焼きの乗った皿をもう一つ用意し、片方はソースのみ、もう片方はソースの上にマヨネーズをかけた。そしてそのどちらにも潮の香り漂う緑色の何かをかけ、更にその上に木くずのようなものをまぶした。――どうやら乾燥させた魚を削ったものらしい。
「はい、たこ焼き、お待ちどうさま!」
差し出されたそれは、ほかほかと湯気を立ており、まんべんなくまぶされた魚の削りくずがまるで踊っているかのようにゆらゆらと動いていた。それはまるで街の大広場に集まった群衆がカーニバルのダンスを押し合いへし合いしながらも楽しんでいるかのようで、見ていて飽きなかったし、今この場で行われている祭りの様子にも似ているなと思うと微笑まずにはいられなかった。
ナターシャは水野からマヨネースのかかっていないほうを受け取った。木で出来た棒を一緒に渡され戸惑っていると、日比谷がその棒の使い方を見せてくれた。――棒を二つに割り、その二つに割った棒で器用にたこ焼きを挟み持ち上げている!
ナターシャも懸命に真似したが、そもそも二つの棒をいい塩梅に持つということが出来なかった。しょんぼりと肩を落とすと、とりあえず棒の一本をたこ焼きに刺した。しかし、それだと持ち上げた時に生地の表面が完全に破けてしまい、そこから中身がどろりと漏れ出して紙皿の上へと落ちていってしまう。ナターシャは持ち上げられないもどかしさで眉を曇らせるのと同時に、漏れ出た〈たこ焼きの中身〉に一抹の不安を覚えた。――何で……。何で表面はカリカリなのに、中はどろどろなのよ。もしかして、火がきちんと通っていないのかしら。
ゆっくりと紙皿から目を離して水野と日比谷を見つめると、二人ともにこやかな顔でこちらの様子を窺い見ていた。ナターシャは再びゆっくりと紙皿へと視線を落とすと、皿を口に近づけ、形の崩れたたこ焼きを一つ分、掻きこむように口の中へと入れた。
「あっつ! あつっ! 熱ーい!!」
ナターシャが叫んでしゃがみ込むと、水野は慌てて飲み物を用意し、日比谷に手渡した。日比谷がそれをナターシャに手渡すと、ナターシャは目に涙を浮かべながら可能な限り口内へと液体を流し込み、そして口の中のものを一気に飲み込んだ。それはあの夢にまで見た愛しの飲み物に似ていたが、それよりも甘ったるく、後味が好みではなかった。
ナターシャがショックのあまりに「こんなのペ●シじゃない!」と叫ぶと、心配してテントから出て来た水野が苦笑いを浮かべた。彼女が大丈夫そうだと分かると、彼は鉄板の前へと戻っていった。――彼にはたこ焼きが焦げないように、くるくる動かすという大事な任務があったからだ。
最初の一つは、あまりの熱さに味がよく分からなかった。次は慎重に食べよう。――そう思い、ナターシャは次の一つに念入りに息を吹きかけた。しかし、それでもやはりかなりの熱さで、ナターシャは身をびくびくと震わせながら少しずつたこ焼きを口に運んだ。
鼻から息をふうと吐くと、そこへソースの香りが突き抜けていき、それと同時にうっとりとした声が思わず漏れ出た。ソースはロベルトおじちゃんの作るものよりも材料で使われている野菜や果物の種類が多いのか、より複雑で深い味わいだった。そこにあの潮の香りと魚の削りくずの独特の塩辛さが折り重なり、ソースの甘さと絡み合ってナターシャを夢の世界へと誘った。ナターシャは目を閉じると、その夢見心地にしばらく浸った。
二つ目のたこ焼きをもう一口、口の中へと入れてみる。――作っている最中に試食させてもらった〈天かす〉とやらは姿を消していた。〈天かす〉の材料はたこ焼きの生地と同じ小麦粉だと言っていたから、きっと焼いている最中に同化したのだろう。そしてその〈天かす〉とやらのおかげで、完全に火が通りきって固くなることなくとろとろの状態を保っているのだろう。これは、この調理方法は、ものすごい大発明なのではないだろうか。
時折感じる、しょっぱくてしゃりしゃりとしたものは生姜だろう。これがまた、味のアクセントとなっていて癖になりそうだった。
二つ目のたこ焼きの残りをしばらく見つめ、ナターシャは思い切って全て口の中へと入れた。――味などを確かめる余裕はなかったが、既にさっき食べているのだから、たこだって怖いものではないはずだ。
たこは、ほんのりと甘みがあり、そしてコリコリとしていた。ただ、イカよりはふんわりとした食感だった。……ただそれだけだった。恐るるに足らぬ存在であった。嫌悪していたのが馬鹿らしいくらい、呆気無いものだった。
たこ焼きの何たるかを知ったナターシャは、三つ目のたこ焼きに勇み挑んだ。熱さに身を震わせながら、幸せそうに顔をくしゃくしゃにして背中を丸め、「んー!」と歓喜の声を上げて棒を握りしめたまま腕をブンブンとしきりに動かすナターシャを、男どもは微笑ましく見守っていた。
そんなナターシャの眼前に、唐突に新たなたこ焼きが出現した。反射的にそれにかぶり付いたナターシャは、がくりと膝を折った。
しゃがみ込んだまま微動だにしないナターシャの隣に屈みこむと、日比谷は心配して彼女に声をかけた。ナターシャからの返事はなく、その顔は棒を握った手の甲で押し隠されていて表情が窺い知れない。水野も心配になってテントから出て来て彼女に声をかけた。すると、ようやくナターシャは言葉を発したのだが、声が小さすぎて聞き取ることが出来なかった。聞き直そうと男どもが再度声をかけると、ナターシャは「素晴らしい!」と叫びながら勢い良く立ち上がった。天を仰ぐ彼女の頬には涙が伝い、その表情はまるで神から最大級の祝福を受けたとでもいうかのようだった。
ナターシャは再びしゃがみ込むと、あのたこ焼きを差し出してきた主―― 日比谷に向かって止めどなく溢れてくるたこ焼きへの思いを捲し立てた。呆気にとられた日比谷は表情を変えることなく、再びたこ焼きを差し出した。ナターシャは問答無用で食いつき、そして精一杯身を丸くして「んー!!」と喜びを撒き散らしながら先ほどよりも速く、そして小刻みに腕をブンブンと振った。――ああもう、本当に素晴らしい! 素晴らしい以外に言いようがないわ! まさか、まさかソースとマヨネーズがこんなにも素晴らしい組み合わせだっただなんて! 神が創りたもうた楽園は、ここに! このソースとマヨネーズが混ざり合った中に!! その中にあったのね……! こんな天国がこの世に存在していただなんて! ああ、私は何て幸せ者なのかしら!!! 私は生きながらにして、この祝福の地に降り立ったのよ!!! こんな夢のような食べ物を、水野は毎晩食べていたというの!? しかも飽きるほど!? 私なら! 私なら、絶対に飽きないわ! むしろ、飽きる意味が全く分からないわ!! ああ、神様! 私は地元に帰ったら、この素晴らしい組み合わせをロベルトおじちゃんにも知ってもらって、村中のみんなにこれを伝道して回ると誓います! 必ず! 必ずこの楽園へと、みんなを導くと誓います!!
ナターシャが感動に打ち震え、ソースとマヨネーズに感謝を捧げていると、日比谷がナターシャの持っていた紙皿を取り上げ、代わりに自分の持っていたほうを手渡してきた。――マヨネーズのかかっているほうのたこ焼きだ。
くれるの? と聞くと、彼はうんうんと頷いた。ナターシャは喜びで顔を綻ばせると、恍惚の表情でたこ焼きを見つめた。そしてふと、たこ焼きの異変に気がついた。――どのたこ焼きも少しだけ生地が引き裂かれていたのだ。
そう言えば、先ほど彼が食べさせてくれたたこ焼きはどちらも食べごろの熱さで、一気に全部を口に含んでも飛び上がるほど熱いということはなかった。――もしかして、無礼で軽薄だと思っていた彼は、実は意外と気の遣える良いやつなのではないだろうか。
ナターシャは日比谷に笑いかけ、そして感謝した。彼はまるで「気にしなくていいよ」とでも言うかのように微笑み返してくれた。
ナターシャは彼の反応に満足すると、再びたこ焼きに集中することにしたのだが。
テントに戻っていたはずの水野が何故か不機嫌極まりないという体でやって来て、「せっかくの大学祭だし、フォトをとろう」と言い出し、長方形の板をぶっきらぼうに日比谷に渡した。フォトというのが何なのか、ナターシャには分からなかったが、とりあえず日比谷が渡されていた板のほうを見ていれば良いとの事だった。たこ焼きを口に運びながら板を見つめていると、不意に水野が肩に手を回して抱き寄せてきた。
驚いて思わず握っていた棒を落とし、水野の方に顔を向けた瞬間。板の一部がピカリと光り、板の放ったその光が目に痛く、ナターシャは咄嗟に目を瞑った。
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目を開けると、そこは宿の廊下だった。口の中に残っているたこ焼きを慈しむように咀嚼しながら、ナターシャは部屋に戻った。
あの光さえなければ、もっとたこ焼きを堪能出来ただろうに。そして、あの和やかな雰囲気の中であれば、神器を譲って欲しいという交渉も円滑に行えただろうに。
つまるところ、水野が急に不機嫌にならなければ。――というか、水野は何故あんなにも不機嫌だったのだろう。マヨネーズがけのたこ焼きを食べ始めた辺りから、彼の態度が硬化していったように感じたのだが、一体どうして……。
ナターシャは口の中が空になると、舌で上顎を触った。火傷をしたみたいで、ざらざらとした感触を舌に感じた。
そしてナターシャの心にもまた、何となくざらざらとしたものが残ったのだった。
今回、少々長くなってしまったので、前後編に分けました。
ソースとマヨネーズの組み合わせは、至高にして究極だと思うのです……。




