第三話 たこ焼き 前編
ナターシャが腰を下ろすと、ベッドの古板がギシリと軋んだ。そのまま身体だけを勢い良く横に倒すと、窓から差し込んでくる光に向かうかのように綿埃が舞い上がっていくのが見えた。その光景をしばらくぼんやりと見つめながら、ナターシャは「疲れた」と心の中で独り言ちた。
灰色の魔道士は神域を制圧した際、その中心に〈常闇の魔珠〉なるものを遺して何処かへと姿をくらました。常闇の、という名を冠してはいるが、現在はまだ〈常闇〉には程遠い、美しい光のほうが多く見受けられる。しかし、珠の三分の一ほどが暗く濁っていた。――この魔珠は世界の〈命〉を少しずつ食らって成長している。美しい光こそが世界の〈命〉であり、この珠が漆黒に染まった時、世界は完全に終焉の時を迎えることとなっているのだ。
そして、この魔珠は成長の成果として時折〈異なる者ども〉を生み落とす。――ナターシャは〈灰色の魔道士を討ち倒し、世界を救う〉という任だけではなく、魔珠が創り出した歪より生じる〈異なる者ども〉を滅するという任も担わされていた。
ナターシャが旅の必需品を補充しに近くの街へと戻ると、隣の村で〈異なる者ども〉が一体目撃されたという情報が耳に入った。――魔道士側もナターシャの存在を感知し排除したいと思っているのだろう、〈異なる者ども〉は大抵、ナターシャのいる場所の近くで最初の目撃がなされることが多い。しかし、いくら隣の村とはいえ、軽く数十哩は離れていた。
ナターシャは馬を調達すると、隣の村へと向かった。
そして今ナターシャが横たわっているのは〈異なる者ども〉を倒したことによるささやかな礼として用意された、宿の一室のベッドなわけなのだが。
救世主であるはずのナターシャはどこへ行っても大体が疫病神として扱われるのだが、この村も例外ではなく、先ほども長老から「村の者が怖がるから、どうか部屋からはなるべく出ないでくれ」だの「一晩休んだら早々に立ち去ってくれ」だのと、感謝の言葉よりも先に言われたのだった。
――まあ、部屋を用意してくれるだけ、まだマシだけど。
そう思いながら、ナターシャはおもむろに身体を起こした。そして後ろ腰のダガーに手をかけると、先ほどまでの戦いで染み付いた汚れを綺麗に落とすべく手入れを始めた。
ナターシャの銃はこの世界を治めし四人の王が太古の昔に神より賜った特別な魔装具のひとつだが、ダガーはそのレプリカの更に劣化版(国民の誰もが手軽に入手出来る程度のもの)だった。
狩りや護身用に使用される程度のそれだけを用いて〈異なる者ども〉を倒すことなど、もちろん出来はしない。しかし、今回は手持ちの魔弾が尽きてしまい、このダガーに頼る他ない状況に追い込まれた。幸い、怪我を負うことも無く、何とか退治することは出来たのだが――。
一先ずひとつでもいいから、神器を手に入れることが出来れば。こんなダガーでも少しは頼りがいのある武器になるのだが。――ナターシャは綺麗になったダガーを見つめて溜息を吐くと、それを装備しなおして立ち上がった。そして何か食事を分けてもらおうと、部屋のドアを開けた。
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ドアをくぐると、そこは見たこともない部屋だった。倉庫として使われているのか、薄暗く、何とも説明しがたい物の数々(黒くて四角く、ところどころボタンのようなものが付いている物など)が所狭しと置かれていた。外からはズン、ズン、という腹の底に響くような音とともに騒がしい人々の声が聞こえてくる。――祭りでも行われているのだろうか。
それにしても、宿の部屋のドアがいきなり〈扉〉となるとは思いもよらなかった。村はあの荒野沿いにあるのだが、もしかして荒野の不思議な魔力の影響が及んでいたのだろうか。――そんなことを考えながら、ナターシャはとりあえずこの倉庫から出ようとドアの前に立った。
すると、まだドアノブに手もかけていないというのにドアが勝手に開いた。
「ハ? カウボーイ?」
ナターシャの目の前には赤い髪の男が一人立っていた。赤い髪といってもナターシャのような美しい夕焼け色の赤ではなく、まるで絵の具をぶちまけたかのような原色の赤で、それは不自然極まりないものだった。
ナターシャよりも頭ひとつ分背丈の高いこの男の顔は天使のように整っていたが、服装は悪魔のような黒尽くめで、ゴテゴテとした銀色の装飾品を腰やら腕やらに付けていた。――この装飾品が銀細工であるなら、少なくともこの男は悪魔ではないだろう。しかし、関り合いにならないほうが懸命だろうとナターシャは思った。
ナターシャが男の脇をすり抜けてどこへともなく歩き出すと、後ろから男の「エッ オンナノコ?」という驚きの声が聞こえてきた。そして駆け寄ってくるような足音が聞こえ、嫌な予感がして立ち止まると、案の定男が近寄ってきていた。
「ナア キミ ナンデ ウチノブシツニ イタノ? テニスサークルノ ブシツハ トナリノクカクダロ?」
ナターシャは男をひと睨みすると、再び歩き出した。すると男がまた何やら声をかけてくるので仕方なく立ち止まると、男はあろうことかナターシャの肩に手を回してきた。
「ちょっと! 何するのよ!」
「アー ハンノウナイナト オモッタラ リュウガクセイダッタカ。 ……エット 私の名前は日比谷明です。よろしくお願いします。そして、お願いです。一緒に来て下さい。私はあなたを友達に紹介したいです」
ものすごくたどたどしくそのように話す男の手を払いのけたナターシャは、払いのけたその手を見て驚嘆した。――いや、まさか。そんなはずは。
笑顔で形ばかりの謝罪の言葉を繰り返しながら、男が再び肩へと手を回してきた。――触れられた部分に、凝縮された魔力の熱を感じる。この男が薬指に付けている、まるで獄炎を形にしたかのようなこの指輪は、間違いなく探し求めていた神器のひとつだ!
ナターシャが驚愕し戸惑っていると、男はそんなことなど気にも留めずにグイグイと彼女を歩かせ始めた。
「えっ? ねえ、どこに行くの?」
「オレノ トモダチノ水野ガサー コスプレトカ ダイスキデサ。キミノ ソノカンペキナ コスプレヲミタラ アイツ ナンテイウダロウナ」
言葉はどうやら通じているようなのだが、彼は共通の言語では返答してくれなかった。しかし、聞き覚えのある単語というか、名前が出て来たので、ナターシャは思わず声をひっくり返した。
「えっ、水野!?」
「エッ ナニ キミ 水野ト シリアイナノ?」
驚いて男を見上げると、男も驚いた顔をしてナターシャを見下ろしていた。男はナターシャと目が合うと、何やら言って半ば嬉しそうににやりと笑った。悪いことを言われたわけではないようではあったが、ナターシャは何となく腹立たしい気分になって男から目を逸らした。すると、ナターシャの視界にたくさんの人とテントのようなものが飛び込んできた。ナターシャは思わず感嘆の声を上げた。
ナターシャはまるで城下町の祭りにでも来たかのような賑やかさに目を奪われた。そして見たこともないような食べ物の数々に心を踊らせた。その間も男が色々と話しかけては来たが、意味も分からぬ言葉のため、男の顔色を伺いつつも無視をした。――男の機嫌を損ねてしまったら、神器を譲ってもらうための交渉をする際に不利になるだろう。どうやら水野と知り合いのようだから、事はなるべく荒げたくはなかった。
しばらく歩くと、男が「水野!」と声を上げて手を振った。男の視線を追いかけてみると、そこにはナターシャも知っているあの水野がいて、男とナターシャのことを驚いた表情で見つめていた。
「ナターシャ!?」
肩に回されたままの男の手を振り払うと、素っ頓狂な声を上げた水野のほうへとナターシャは走り寄った。水野はテントの中で、汗をかきながら何かの準備をしている最中だった。
「ああよかった。知ってる人がいるって、何て心強いことなのかしら……!」
「えっ、どうしてナターシャがうちの大学に!? ていうか、何で日比谷と一緒に!?」
「あら、ここは大学なのね? じゃあ、あなたは大学生なの?」
しどろもどろに肯定する水野に、ナターシャはとても驚いた。ナターシャの国では、神官を目指す者や学者として王宮に仕えることを目標に掲げる者など、ほんの一握りの選ばれた者しか大学への進学は認められないのだ。――そんな最高学府に通えるだなんて、水野は見かけによらず、素晴らしい才に恵まれた者だったのか。ということは、もしや、この無礼な男も?
ナターシャは自分と同じ目線上にある愛嬌のある嬉しそうな笑顔から視線を外すと、軽薄そうで天使とも悪魔ともつかぬ男を見上げた。
男――日比谷は目を瞬かせると、ああと呻き、そして続けて言った。
「あなたは水野の妻ですか?」
「はあ!? んなわけないでしょ、何言ってんの!? どういうことなの!?」
怒り狂うナターシャに日比谷はたじろぐと、水野の方を向いて何やらぽつりと言った。そして水野はというと、まるで氷水でも被ったかのような表情で固まっていた。
誤解があってはいけないと思い、ナターシャは「水野は恩人である」ということを日比谷に身振り手振りで説明した。しかし、「恩人」という単語が理解できないのか、日比谷は俄然戸惑い顔のままだった。考えあぐねた末、ナターシャは「恩人」を「友達」という単語に置き換えた。すると何故か、水野は更に絶望の淵に立たされたとでも言いたげな表情となった。
ナターシャは気を取り直すと、二回に渡って飢えから救ってくれたことを心から感謝した。すると水野は少し気を持ち直したのか、気にしなくていいよと言って笑った。
言いながらも忙しなく何かをしている水野に、ナターシャは不思議そうに尋ねた。
「ところで、水野は一体何をしているの?」
「ああ。今日はうちの大学のお祭りでね。俺は今から〈たこ焼き〉を焼くんだよ」
「たこ!?」
あからさまに嫌悪を示すナターシャに、水野は苦笑した。まあ見てなよ、と言うと水野は半円形の窪みがたくさん並ぶ不思議な鉄板の上に淡い黄色の液体を四角い枠いっぱいに注いだ。




