第二話 インスタントラーメン
ナターシャは木陰を見つけると、木にもたれかかるように勢い良くどっかと座った。
額に浮いた汗を手の甲で適当に拭うと、水筒にしている革袋に手をかけた。袋の先に口をつけた状態で天を仰ぐも、水が入っているとは言い難く、雫が一滴二滴、舌にじわりと染み込んでいっただけだった。
あのペ●シという素晴らしい飲み物と出会い、唐突の別れを体験した後、目の前にあったはずの〈扉〉はスウっと消えてしまった。どうやらあの〈扉〉は同じ所にずっとあり続けるわけではなく、一度使用したら別の場所へと移動してしまうらしい。おかげさまで、ナターシャは再びこの荒野を彷徨う羽目となってしまった。
〈扉〉が消えてしまうのを見届けてすぐに、あの時発砲に至らなかった原因を探ってみたのだが、どうやら〈扉〉の先では魔法が使えないらしいということが分かった。というのも、せっかく作った弾薬は弾頭(魔法を凝縮し、弾状に具現化してある)が消え失せ、起爆剤であるエーテルも抜け落ち存在していなかったのだ。せっかく万全の準備をと思い体力と魔力を大量に消費して作成したというのに、完全なる作り損となってしまったわけだ。
それが判明してからというものの、ナターシャはいつ〈扉〉を見つけ、くぐり抜けることになってもいいように、必要最低限しか弾を作らないことにした。
近くの街まで戻って必需品を調達し、再び荒野を彷徨い歩いて早数日。いつもの感覚であればそろそろ古井戸の一つくらい見つけることが出来て、水の補充が出来る頃なのだが……。
ナターシャは暑さにうなだれながら、ペ●シに思いを馳せた。――あの砂糖がふんだんに使われた、甘くて冷たくて美味しい、素晴らしい飲み物を飲むことが出来たら。そうしたら、この全身のだるさも、乾きも、何もかも吹き飛ぶでしょうに。
ナターシャは顔を上げ、一時ぼんやりと空を眺めた。そして再び〈扉〉探しを再開すべく、立ち上がろうとして木に手をついた。そしてそのまま、木があるはずの方向にべしゃりと倒れこんだ。
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ナターシャがいきなり倒れこんでしまったことに驚いて呆然としていると、頭上で「オレノヨメガ! オレノヨメガ カエッテキタ!」という聞き覚えのある声がした。まさかと思い顔を上げると、そこにはあの時の男が立っていて、何やら嬉しい事でもあったのか、嬉しそうな顔をくしゃくしゃにさせていた。
「ペ●シ!!」
ナターシャは思わず真顔で叫んだ。すると男が少し申し訳無さそうに「えっ、ごめん、ないよ」と即答した。
ナターシャはショックのあまり一瞬硬直し、そのままぐったりと床に沈んだ。男は心配そうにナターシャに声をかけた。
「顔、赤いよ。大丈夫? お水を持ってくるから、ちょっと待ってて」
ナターシャがのそりと体を起こしてブーツと帽子を脱いでいると、男がちょうど戻ってきた。差し出された水は、先日のペ●シのコップについていたふたと似たような材質の筒状のものに入っていた。筒の先端がすぼまっていて、どうやらここに口をつけて飲めばいいらしい。ナターシャは水を一口含んで驚嘆した。
「冷たっ! まるで氷魔法でもかけたみたいだわ!」
「そりゃあね。えっと……。――アレ レイゾウコッテ ナンテイウンダロ」
ナターシャは首を傾げると、何かに気付いてハッとした。
「あなた、言葉が……」
男は照れくさそうに笑うと、あのあとすぐさまイングリッシュの教室で学び始めたと言った。――まただ。やはり、この男はフレイディアの言葉のことを指してイングリッシュと言っている。一部の単語だけ共通ではないようで、ヴァルマフンドのこともホットドッグと呼んでいたのだ、きっとこちらではフレイディア国はイングリッシュと呼ばれているのだろう。
ナターシャが納得して小さく頷くと、男は頭を掻きながら続けて言った。
「まだ上手には会話できないけどね」
「そんなことないわよ」
男はナターシャに褒められたのが嬉しかったのか、目を輝かせると嬉しそうに相好を崩した。ナターシャは一寸呆気にとられて目を瞬かせた。――あら、意外と……。
どうかしたのかと尋ねる男に、別にとナターシャが返すと、頃合いを見計らったかのように腹の虫が鳴いた。ナターシャが恥ずかしそうに俯くと、男は笑って立ち上がった。
「ちょっと待ってて。今、ヌードルしか無いけど、いいかな?」
「ヌードル? 何それ?」
「エッ アレッ ラーメンッテ エイゴデ ヌードルジャナカッタッケ」
男は困惑しながらそんなことを言った。ナターシャが顔をしかめると、食材らしきものが置いてある棚から何かを掴んだ男が、謝罪の言葉を繰り返しながら戻ってきた。
これこれ、と男が見せたそれは、オレンジ色の袋に鳥のような絵が書いてあった。ナターシャは男から袋を受け取ると、それをしげしげと眺めた。ナターシャが袋の開け方に戸惑っていると、男がいとも簡単に開封してくれた。中にはスパゲッティよりも細くて縮れた麺が円盤状に固められたものが入っていた。――乾燥させたスパゲッティの麺よりも細いだなんて、どうやって作っているのだろうか。
とある地方では、麺をまるで糸のように細く伸ばして乾燥させると聞いたことがる。しかしそれだって真っ直ぐな麺であって、こんなに縮れてはいない。それに、こんな綺麗な円盤状に仕上げるのは、職人技でも無理だろう。本当に、どうやらここにはまだ見ぬ魔法がいっぱいあるようだ。
ナターシャは袋に鼻を近づけた。麺の表面がざらざらしているように見えたため、スパイスか何かが振りかけられていると思ったからだ。胡椒などの、食欲が刺激されるような香ばしい香りがするのだろうと思っていたが、実際には何ていうか、口の中がしょっぱくなるような香りがした。香ばしいといえば香ばしいが、微塵もイメージに無かった香りだった。
眉間にしわを寄せて袋から顔を離したナターシャに、男が「そろそろ返して」と言ってきた。ナターシャはそれを無視して再び袋に顔を近づけると、麺に一口かじりついた。そして思わず、踏み潰されたカエルのような声をあげた。――何これ、すごくしょっぱ……。香りから想像してたのの何倍もしょっぱい……。
麺は思っていたほど固くなく、チップスのようにパリパリとした軽い口当たりだった。しかしその味はお世辞にも美味しいとは言えなかった。得も言われぬ不快な塩辛さの奥に、ほんのりと油の味がした。それがまた、ご勘弁願いたいという気持ちを募らせた。
味の濃さのせいか、油のせいか、口の中がパサパサに乾いてきた。ナターシャが小さく咽ると、男がナターシャを窘めた。
「あーあー。そりゃあ、そのまま食べるからだよ。ほら、こっちに貸して」
男は袋を受け取ると、大きな椀状の器の中に麺を入れた。そして麺の上に卵を割って乗せた。更にそこに、大きな水差しのようなものから湯を注いだのだが、いつの間に沸かしたのだろうか。火を焚く作業なんて一度もしてはいないというのに。
椀にふたをすると、男はナターシャに笑いかけた。
「三分待ってね。そしたら食べられるよ」
「たった三分で?」
男は笑顔で頷き、きっかり三分経つとリズミカルに「スグオイシイ」などと言いながら椀のふたをとった。椀の中の麺はふにゃふにゃに柔らかくなっており、麺の表面のスパイスが湯に溶けたのか、湯の色が茶色く変化して、その代わりに麺の色味が褪せていた。
「何これ、魔法!?」
ナターシャは驚嘆して叫んだ。男からフォークを受け取ると、恐る恐る麺を口へと運んだ。――あ、あまりしょっぱくない! 意外と美味しい!
先ほどのエグみのある、くどいくらいの塩辛さはどこへと行ったのか。ほどよいスパイスの刺激と、チキンスープを煮詰めたような味が空腹感を煽った。香ばしい香りが鼻をくすぐり、口の中によだれが溢れてきて、次の麺が運ばれてくるのを今か今かと待っている。
スパゲッティのように綺麗にまとめ上げるのが難しく、掬い上げた麺を一度に全て口の中に入れるというのが難しかった。行儀の悪い食べ方で恥ずかしかったが、麺の一部を口に含み、入りきらない部分は噛みちぎって椀の中へと戻した。
もたもたと食べづらそうにしているナターシャをまじまじと見つめて、男はぼそりと呟いた。
「ヤッパ ススレナインダ」
「ん? 何か言った?」
口元を隠し、咀嚼の合間にもごもごとナターシャがそういうと、男は何でもないと首を横に降った。
「ところで、君、何ていうの? 俺は洋。水野洋」
「ナターシャよ。――ねえ、そう言えば、この前もあなたの食事を譲ってもらっちゃったけど、もしかして、今回も?」
口の中のものを飲み下すと、ナターシャは心配そうに水野に尋ねた。すると、彼は笑顔で首を横に振った。ナターシャはホッと胸を撫で下ろすと、水野に笑顔を向けた。
「ねえ、だったら、あなたは食べないの? 一緒に食べたほうが、きっともっと美味しいと思うわ」
「いや、俺はいいよ」
「もしかして、食事はもう済んでた?」
「そういうわけじゃないけど、見てたいっていうか。恐れ多いっていうか」
ナターシャは彼の返答に少しだけ悲しい気持ちになったが、気を取り直してヌードルに視線を戻した。しかし、その顔には困難の色が浮かんだ。
ナターシャが難しそうな表情で椀を見つめているので、水野は不思議そうに尋ねた。
「何か問題でも?」
「いや、どうやったら卵を避けて食べられるかなって」
「卵、嫌いだった?」
「いや、病気が怖いじゃない。まさか、ほぼ生の状態のまま出されるとは思わなかったし。でもせっかく作ってくれたんだし、卵さえ食べなければ平気かなって」
水野はナターシャの言わんとしていることを理解するのに少しばかり時間がかかった。ようやく気が付いて、あーあーと声を上げると、そのまま食べても問題ないということをナターシャに告げた。
日本の鶏卵産業は衛生管理が行き届いているし、購入後冷蔵庫に入れること無く外に出しっぱなしにしていたということもないので、サルモネラ菌汚染の心配はほぼないと言っていい。そもそも、サルモネラ汚染が起きていたとしたら、その卵が入っているものを食している時点でアウトだ。――それを上手く説明できたらいいのだけど、と思いながら、水野は再度「大丈夫」とナターシャに笑いかけた。
それでも一応避けておきたいのか、ナターシャは卵を睨みながら麺をつついていた。しかしフォークをうっかりと引っ掛けてしまい、黄身が麺の上にもったりと広がった。ナターシャはひどくがっかりして肩を落とすと、ちらりと水野を見た。水野は相変わらず笑顔を絶やさない。ナターシャは観念したとでも言うかのように溜息をつくと、卵の絡んだ麺を口へと運んだ。そして、麺の一部を口に含んだまま、びくりと小さく身を跳ねさせた。ゆっくりと麺を噛みちぎり上体を起こすと、驚愕の表情で椀を見つめたまま静かに咀嚼を繰り返した。――うそ……。すっごく美味しい……! 生の卵って、こんなにも濃厚で、甘くて、まったりとしていて、とにかく美味しいものだったの!?
口の中が空になると、ナターシャは上体を勢い良く椀へと近づけて一生懸命麺を掬った。上手いこと口に運べずにもたついてしまうのがもどかしい。一刻も早く、この美味しいもので腹を満たしたいとナターシャは心の底から思った。
卵を生で食べるだなんて、到底考えられない。しかし、ここではそれも可能なのだ。こんな素敵な食べ物も、たった三分という短い時間であっという間に作れてしまうし。本当に、一体どんな魔法なのだろうか。こんな経験、もしかしたら二度と出来ないかもしれないのだから、しっかりと味わっておかねば。嗚呼、本当に凄い。こんなに凄いことが満ち溢れたところなのだから、これはきっと、いや絶対に神器はここにあるに違いない。今度こそ…
「今度こそ、これ食べ終えたら神器を探すわ!」
言いながら、ナターシャは椀を両手で掴み、恥じらいも忘れて椀の縁に口をつけた。スープを口に含んだところで、水野が何やら叫んだ。そして、ナターシャは自分の体が透けていることに気がついた。
「え!? また!?」
ナターシャが戸惑っていると、水野が「オレノヨメガ オレノヨメガ マタ」と叫んだ。――先日も叫んでいたけど、オレノヨメって一体なんなのかしら。何だか、気味が悪いわ。
そう思い、眉間にしわを寄せた瞬間、ナターシャは荒野へと戻った。あちらへと行く前にもたれかかっていた木が背後にあるのを確かめると、ナターシャはその木に背中を預けた。
ナターシャはぼんやりと空を眺めた。彼女の心には今回も食べ物を食べただけで戻されてしまったという虚しさだけが、そして口の中には湯を掛ける前の麺をかじった時にも似たくどい塩味とエグみのある苦み(きっとこれが湯に溶けたスパイスの味なのだろう)だけが残っていた。
そのままかじったらどんな味だったっけと思い、実際にかじってみました。




