episode 8
暗闇の中に佇むその黒猫の首には赤いリボンと鈴がついている。おそらくそれが鳴ったのだろうという予測はついたけれど、それ以上に驚いたのはその猫を知っていたからだ。
「クロ、なのか?」
『にゃあ』
俺の問いかけに、その黒猫は一声鳴いた。まるで「そうだ」と言いたげな声だ。
暗がりの割に、その黒猫の尾が二本あることが分かった。見えたわけじゃない。しかし、その黒猫が昔拾ってきた黒猫であることを直感した。
「クロ……お前、どこ行って……いや、待てよ。あの時も……」
記憶を掘り起こしていくけれど、クロとの思い出はあまり多くない。けれど、思い出したクロの姿はやはり尾が二本なのである。
つまり、当初からクロは二又と呼ばれる妖怪だったんだ。
「お前って、妖怪なのか?」
『……』
「……そうだよな。確かじいちゃんと二人の内緒にして拾ってきて……それで、ずっと一緒にいたはずなのに」
過去を思い出そうとするが、さきほど思い出した光景の他は出てこない。小さい頃だったから忘れてしまったのか。
けれど、思い出そうとすると頭がズキズキと痛んだ。
「なんで、忘れてたんだ? それにクロ。お前、ずっと一緒にって約束したのに……どこ行ってたんだ?」
頭を軽く抑えながら、俺はクロへと手を伸ばす。あの頃と同じように。
「クロ。一緒に帰ろう。もうお前を一人にさせない。ちゃんと覚えてる」
『お前との約束だった』
「その声って!」
初めて喋ったクロの声には聞き覚えがあった。そして姿形も、俺の知っている奴の姿へと変わっていく。
「お前……猫屋敷?」
『あぁ。お前との約束を守るために、俺は人間に化けた。そしてお前を守るためにずっと傍にいた』
「じゃあ、なんで最初に言ってくれなかったんだよ? そりゃ、忘れてた俺も悪かったけど」
『忘れたのはお前の意思じゃない』
「どういうことだ?」
『時は近い。焦らず待っとけ。それまで、俺はお前になにも言えねーんだ』
そう言う猫屋敷は、少し悲しそうな表情に見えた。言いたいことが言えないことが辛いような。あまり見たことのない表情だ。
木から飛び降りて、猫屋敷は俺の近くに寄ってきた。
「てか、お前妖怪だったらなんで学校に来れてんだ?」
『そこは幻術でな。だから、本来は誰も俺のことは知らねーよ。学校が終われば俺の記憶はお前以外の奴から消え去る』
「そんなことが可能なのか?」
『もともと妖怪は力のある奴しか見えない。だから、本来見えない人間の記憶操作は簡単だ』
「俺の中から消えなかったのはお前を知ってたからか?」
『そうだ。そして、俺もお前の中からは一瞬でも消えたくなかった』
俺の質問に、猫屋敷はいつになく答えてくれる。猫屋敷が前からいっていた今がその時なのだろうか。
けれど、猫屋敷はさっき"時は近い"と言っていた。だから、ここまで話してくれることに少々驚く。
そんな俺の様子に気づいたのか、猫屋敷は少し苦笑している。
『俺のことはバレちまったわけだからな。だから、喋っても大丈夫だろ』
「なぁ、なんでお前そんな制約みたいなもんがあるんだ? 時ってなんなんだよ?」
『お前を守るためだよ。だから、それに関係する記憶を、お前は失っている。否、封印されてるんだ』
「封印?」
『そのことはまた今度な。それで? 俺への質問はあれで終わりか?』
「んなわけねーじゃん。気になってることが多いんだよ」
『そりゃそうだ。どうする? もっと聞くか?』
「いや、今はもういいや。さすがに頭を整理したい」
『そうか』
「次になって答えないなんて許さねーからな」
『言ったろ。俺に関してはバレちまったんだからな。そこに関しての記憶は時期に戻ってくるさ』
「そうなのか?」
『言ったろ。忘れたわけじゃなくて、封印されてるって。つまりお前の記憶は閉じ込められてるんだよ。だから、普通に忘れた記憶じゃねーんだ』
「そっか。なら、じいちゃんのことも思い出せるかな。俺、じいちゃんのことすっげー好きだったのに、なんだか記憶が曖昧にしか覚えてねーんだ。忘れたわけじゃないなら、早く思い出したいよ」
『……そうか』
祖父のことを話すと、猫屋敷は少々苦い顔をする。その顔は祖父と猫屋敷の間になにかあったのかもしれない。
けれど、祖父のことはずっと好きだし、もし封印された記憶の中に祖父との思い出があるなら思い出せるかもしれない。そう思うと、早く思い出したいと気持ちが焦る。
『言ったろ。今は焦っても仕方ねーんだから。ゆっくり思い出していけ』
「そんな悠長なことでいいのか?」
『さあな。でも、お前の記憶の封印はもうすぐ解ける』
「なんでそれが分かるんだ?」
『……妖怪、だからな』
「なんか嘘くせー」
『うっせーよ。それより帰らなくていいのか? お前のお袋さん、今日は少し帰ってこれるんじゃなかったか?』
「あ、そうだった!」
猫屋敷に言われ、俺は母親のことを思い出した。もともと月一ペースではあったけれど、いつもより早く帰ってくる日がある。
それが今日だった。
いくら早く帰ってくるといっても、塾のほうが早く終わるため、家にいるはずなんだ。そこで帰ってなかったら、なんと言われるか。
お説教をするような家庭ではないけれど、後々理由を訪ねられることのほうが面倒だった。
『ご主人様、急ぐのなら僕に乗って!』
「へ?」
唐突に言ってきたイヌガミを見ると、目の前で大きな姿となった。大きいといっても車一台分ほどだろうか。大人一人が十分に乗れるぐらい大きい。
「大丈夫なのか、これ?」
『ま、お前のために頑張ろうとしてんだ。ここは甘えとけ』
「お前は?」
『俺?』
「どこか部屋とか貸りてんのか?」
『俺は猫の妖怪だぜ?』
「どこも行く宛がないのなら、俺ん家に来いよ。どうせ親は滅多に帰ってこねーし。その姿なら人間には見えねーんだろ?」
『まぁな。けど、いいのか?』
「友達を招待するのに、なにか問題でもあるか?」
俺の言葉に、猫屋敷は少し驚いた表情をしたが、すぐさまニヤリといつものようにシニカルに笑う。
「ほら、帰ろうぜ?」
『あぁ、ありがとうな、実殊』
手を差しのべると、猫屋敷は本来の黒猫の姿へと戻った。そして、その姿を抱き上げ、俺はイヌガミの背中へと乗る。
「頼むぞ、イヌガミ」
『任せてよ!』
イヌガミは楽しそうに、嬉しそうに地面を蹴った。一瞬にして空中へと跳んだその姿に、俺は落ちるイメージが脳裏に浮かぶ。しかし思っていた落下はなく、むしろ空中を優雅に歩き始めたのだった。
「イヌガミって飛べるの?」
『飛ぶ?』
「ほら、鳥とかが羽を使って飛んでるだろ?」
『こいつの……というか、妖怪の飛ぶと鳥とかの飛ぶってのはちょっと違うぞ。根本的に重力なんて関係ねーからな』
「重力の法則関係ないのか?」
『イヌガミは式神だからな。それに、イヌガミは普通の式とは違い、お前の力の具現化したものだ。普通の法則を当てはめる必要はねーよ』
そんな設定でいいのだろうかと突っ込みをいれたくなる。けれど、現に空を自在に駆けるイヌガミがいるのだ。目の前に起こったことを、とやかく言っても始まらない。
「あ、もう見えてきた」
ふと下を見ると、見慣れた我が家があった。塾から往復三十分で行ける距離なのだから、そこまで遠くないのはわかっていたけれど、イヌガミの背に乗っている時間があっという間だったように感じる。
イヌガミが着地し、俺たちはその背中から降りた。そしてそそくさと家の中に入った。幸い母親はまだ帰宅していないようで、家の中は真っ暗なままだ。俺はクロとイヌガミに部屋に行っているように言い聞かせ、俺はダイニングへと向かう。
真っ暗な部屋にチカチカと光るものが見えた。電気をつけて確認すると、それは留守番電話のメッセージランプだったようだ。
そのランプに、俺はすぐさま察しがついた。
あまり期待せずにメッセージの再生ボタンを押すと、こんなメッセージが流れた。
ーー急な会議が入りました。いつも一人にさせてごめんなさい。夕飯は作ってあります。暖かくして食べてください。
その無機質な報告のようなメッセージに、俺はすぐさまメッセージ消去のボタンを押す。
帰ってきたとしても夜遅く、そして俺よりも早朝に出ていく両親。帰ってきたことは料理があれば分かるぐらいで、その回数も俺が大きくなるにつれて少なくなってきた。
仕事が大切なことは分かっているし、両親がいなくて寂しい年頃でもない。けれど、家のなかに一人でいると閑散としたしていて、たまらない気持ちになることもあった。
『実殊、大丈夫か?』
「クロ……」
声をかけられ、俺は目を向けるとそこにはクロの姿があった。猫の姿では表情が読めにくいが、それでも俺を心配しているのであろうことは分かった。
「大丈夫だよ。母さん、また帰ってこれねーみたい。なんか作るからさ、一緒に食おうぜ?」
『……あぁ』
俺は母親が作ってくれたシチューに、さらに二品ほど付け加えて夕食の支度を終えた。クロは猫の姿ではなく、俺を気遣ってから人間の姿になってくれた。
その優しさに感謝しつつ、俺は普通のお泊まり会のようにはしゃいだ。両親のいないことを忘れたい一心で。
夕食を終え、片付けが終わり、風呂までが終わった。そこで俺たちはダイニングの大きなTVを使ってゲームをすることにした。
両親とも帰ってこないことは明白だったため、イヌガミには好き放題させた。そして、クロも珍しそうに俺の家の中を見ていた。
猫屋敷として何度か遊びにきたことはあったけれど、それでも数える程度だった。
『また寂しそうだな』
「そんなこともねーって。俺、もうそんな子供でもねーし」
『家の中だよ。ジイさんとこにいたときは、もっと家が暖かくて明るかった』
「そう言えばお前は、じいちゃんと一緒にいるときに拾ってきたっけ。確かに、じいちゃんもばあちゃんも優しかったからな~」
『お前の両親のことは、ジイさんから少し聞いたことがある』
「そっか」
『お前はそのままでいいのか?』
「仕方ねーって。そりゃ、小さい頃は寂しかったけど、今はそんな年でもねーしさ。自分たちのしたかった仕事を、今存分にやってるんだ。俺が邪魔する必要はねーだろ」
『……』
クロの言葉に、俺は平気なふりをしてそう言った。
そんな俺に、クロは訝しげな表情を向けてきた。けれど、俺はそれを気づかないふりをしてなにも返さなかった。
クロに言ったことは半分本当で、半分嘘でもある。
小さな頃から両親が忙しそうにしている姿を見ていた俺は、両親に「寂しい」と言ったことがない。幼いながらも、どこかでそれを口にしてはいけない気がしていた。
あまりにも家に帰る時間が遅いということなどで、俺のことを心配したじいちゃんが、俺を実家に呼んだのすぐさまのことだった。
せめて自分のことが一人でもできるぐらいの年になるまでは、ということで俺は両親から離れて実家に住むじいちゃんたちに引き取られた。
そこでの毎日はすごく楽しかった。
家に帰ればじいちゃんたちが迎えてくれて、暖かいご飯が用意されている。一緒にお風呂に入ってくれて、一人でいる時間は短かった。
そして、そんな日常の中でクロに出会った。俺の両親は共に動物が苦手だが、俺はその反動か、動物が大好きだった。じいちゃんたちに動物園にも連れて行ってもらったときはすごく胸が踊ったのを今でも覚えている。
クロを拾ったとき、これで一人ぼっちじゃなくなるんだと思った。じいちゃんたちとの生活も、ずっと出来るわけではないことは分かっていた。だから、あの家でも一人にならない方法を探していた。じいちゃんが許可をした猫であれば、きっと両親も許してくれると思ったんだ。しかし、両親のもとに戻るとき、クロの姿はそこにはなかった。
けれど、そのときは不思議とクロのことを忘れたように、俺は両親とともに家に帰ったんだ。
そこまで思いだし、俺はクロを再び見た。そして、あれだけ一緒にいてほしいと思った存在を、どうして俺は探さなかったのかと疑問に思った。
もしかしたらクロならなにか知っているのかもしれない、と思って聞いてみた。
「なぁ、クロ。なんであの時いなくなったんだ?」
『あの時?』
「俺がここに戻ってくるときは、お前も一緒にってずっと言ってただろ? けど、家に帰る日、俺はお前のことを置いて行っちまった」
『……あぁ。あの時はもう、お前に俺の姿は見えてなかったからな』
「見えてなかった?」
『俺は昔から妖怪だったんだよ。だから、お前に拾われたときは驚いたぜ。人間の子供に俺のことが見えるなんてなって』
「て、ことは俺、小さい頃は妖怪が見えてたのか?」
『……』
「そこは教えてくれねーの?」
『お前の力に関することだからな。けど、あの頃はそうするしかなかったんだよ。そうする方法しか……浮かばなかった』
そう言ったクロは、ひどく辛そうな表情をしていた。そんな表情をいままで見たことはなかった。けれど、きっとクロも俺が忘れてしまったことが辛かったんだろう。
だから、人間に化けてでも俺の傍に来てくれたんだと思う。
「ごめんな、クロ」
『お前が謝る必要のないことだ。それに、俺は別にお前と言葉を交わしたことは一度もなかったからな』
「そうなのか?」
『あぁ。ジイさんとの約束だったんだよ』
「じいちゃんとの?」
『俺が妖怪であることを明かさないこと。喋らないこと。普通の猫のように振る舞うこと。それが守れるなら家にあげるってな』
「そうだったんだ。てか、じいちゃんも妖怪が見える人だったんだな」
そう言うと、クロはまた押し黙ってしまった。けれど、その沈黙が妖怪が見える人物だったことを肯定していた。
俺はそれ以上追求しないように、クロと同様に口を閉ざした。しばらく俺たちの会話が途切れたことで、部屋の中は無音だった。
聞きたいことはいっぱいある。しかし、質問をすれば余計にクロを追い詰めてしまいそうだった。
どうして話してくれないのかは分からない。けれど、俺のことを考えてくれているんだろうと思う。
昔から、クロは俺の傍にいてくれたから。
「クロ、お前はこれからはここで一緒に暮らせるんだよな?」
『いいのか? お前の両親、動物嫌いだろ』
「クロは妖怪だろ? なら平気だって。それに、俺ももうお前を一人ぼっちにさせたくねーし」
『俺は……』
過去ばかりではなく未来を見ようと、俺はクロへ一緒に暮らせるのか聞いてみた。しかし、クロからの返答は即決ではなかった。何を気になっているのか、クロは中々頷くことをしない。
「なにか問題でもあるのか?」
『俺がいてもいいのか?』
「どういう意味だよ?」
『ここはお前の家だ。お前たち家族の。そこに、俺が入ってもいいのか?』
「イヌガミだっているだろ。だから大丈夫だって」
『……』
「それとも、一緒に暮らしたくないのか? どこか帰る場所があるのか?」
『否。俺の帰るところはいつでもお前のところだよ、実殊』
「だったら……」
『妖怪と人間がそう容易く暮らせるものじゃねーんだよ。妖怪がいるところには、別の妖怪を引き寄せることがある』
「それはイヌガミがいても一緒だろ?」
『イヌガミは妖怪じゃねーよ。力が強いから引き寄せられただけだ』
「俺の力が強いって言ったのはお前だぞ。それなのに、今さら一緒に暮らせないっていうのか?」
『俺は……お前を不幸にするかもしれねーことを心配してんだよ』
クロの言葉に、俺は理解できずに首をかしげた。その様子に、クロはなにかを諦めたように説明し始めた。
『俺は二又という猫の妖怪だ。猫には色でそれぞれの役割がある。特に黒は不吉を呼ぶ存在なんだよ』
「だから、俺が不幸になるって?」
『……あぁ』
「ふざけんな! そんなんでお前を一人になんてさせれるかよ!?」
クロの言い分に、俺はカッと熱くなったまま声を荒げた。そんなことをクロが気にしていることは意外だったけれど、それ以上に俺を不幸にしたくないから俺から離れるということを言うクロに怒りが込み上げた。
「俺は、俺は……またお前と別れるなんて嫌だ」
『今生の別れじゃねーよ』
「それでも、もうお前を一人にしたくない。俺が不幸になるのだとしたら、クロ。お前がまた俺の前から姿を消すことだ。学校にいけば猫屋敷として会えるんだろうけど、でも本来のお前はこっちだろ? 俺は猫屋敷も、クロも失いたくない」
『……』
胸が早鐘のようにうるさく鳴っていた。その音がクロに届けばいいと思った。クロが俺から離れていくって考えただけで、胸がズキズキと痛む。その音を、クロに聞かせてやりたい。
『いいんだな?』
「お前を失うことが俺にとっての最悪だ」
『……分かった』
ようやくクロは頷いた。そんなクロの言葉に呼応するように、小さな鈴がリンと鳴った。
『実殊。俺の真名を授けよう。妖怪を使役するために必要なものだ』
「従えたいわけじゃ……」
『いいから聞け。もともとお前と共に歩むと決めたときは、そうしようと決めていた。真名は妖怪の力を、人間が自在に操れる力にするためのものだ。そして、それ故に真名は決して他の存在に知られてはいけない名だ。この真名をお前に授けることによって、俺はお前から離れることはない』
「RPGで言う契約みたいなもんか?」
『そんなところだ。実殊、名を呼べ。俺の名はーー』
クロから伝えられた名を、俺は口にした。けれど、それは音にはならず、口パクで名前を呼んだだけにすぎなかった。それでも、クロとの契約はできたみたいだった。
俺の耳にトクン、トクンという心音が届く。おそらくそれがクロの心音なんだろう。
『これで終わりだ。お前が離れるといっても、すぐには離れられねーからな』
「あぁ。もう別れなくていいんだな。ここで一緒にいてくれるんだよな?」
『あぁ』
ずっと一緒にいられると言うことを聞いて、俺は幼い頃のように胸が高鳴った。それはクロも同じようで、クロから伝わる心音が嬉しそうなことが分かる。
その鼓動に、俺は嬉しくなってニッと笑った。
これからはイヌガミも、猫屋敷も、クロも俺の傍にいてくれるんだ。一人じゃないと分かったことに、今まで寂しく思っていた家の中が暖かくなったように感じた。その暖かさに包まれたまま、俺は安心したように睡魔へと落ちていく。
普段なら見るはずの夢も、今日ばかりは見ることがなかった。