episode 5
世界が回っていた。
猫屋敷の苛立った声が届いたけれど、猫屋敷へと声をかけたつもりが、声は全く出ていなかった。教室内がざわざわと騒がしく、その騒がしさに吐き気がしてくる。
『るな……な……見るな……!』
誰かの声だけが鮮明に聞こえてきた。その声に引っ張られるように、俺の中に何かが流れ込んできた。
『あいつってマジうざいよねー』
『いっつも本ばっか読んでて根暗だしぃ』
『まじでオタクじゃないの?』
『それ超ウケるー!』
何人かの女子生徒が一人の女子生徒を囲んでいた。どこかの教室の風景らしいその中で、一人ただただ机を見つめていた。その机には悪態がいくつも文字で書き連ねられていた。
『なんだかここだけ臭いんですけどぉ』
『バイ菌がいるんじゃいないの?』
甲高い笑い声、人を嘲笑い、誹謗中傷していく声。それは酷く耳障りなノイズだった。
聞いているだけで吐き気がした。
そして、その声に、その態度に、いつしか心は何も感じなくなっていた。見る風景の色がモノクロ変わり果て、途切れ途切れに流れる風景は喜怒哀楽。そんな普通の感情すら消え失せていった。
『……ないで。誰も……み、ないで……』
「お前は?」
『みな……見ないで!』
まるで断片的な映像が一方的に終わったかと思うと、微かに聞こえていた声がはっきりと聞こえるようになった。そして、そこには断片的に写っていた暗い女子生徒がいた。
『見ないでって、言ったのに』
「これ、いじめか?」
『えぇ、そうよ。誰も助けてくれなかった。誰も……私なんて誰からも必要とされてなかったのよ』
「それで自殺を考えたのか?」
『私なんて、いなくなったってなにも変わらないでしょう? だから自分で終わらせたのよ。こんなつまらない人生を』
まるで勝ち誇ったように喋るその女子生徒に、俺はいじめていた連中と同じぐらいの吐き気を覚えた。まるで悲劇の主人公のように振る舞うその姿は、哀れを通り越して呆れてくる。
俺は、その女子生徒に近づくと彼女の頬を叩いた。男なら拳で殴っているぐらいだが、相手が女子生徒ということもあって、なんとか張り手で軽く叩くぐらいにおさえこんだんだ。そこは誉めて欲しい。
『なにするの!?』
「自分だけが悲劇の主人公だと思ってんじゃねーよ。お前は、お前の死んだあとのことを考えたのか? 両親は、友達は? 誰一人お前の死を悲しまないなんて言い切れるのか?」
『どうせ、みんな上辺だけよ。誰も本気で私のことなんて……』
「誰だって、死んだら終わりだ。お前にとってそれはそれ以上もそれ以下もないかもしれない。けど、残された奴のことをまったく考えなかったのか? 本当にお前だけが苦しかったのか?」
俺は残された者の悲しみを知っている。
大好きだった祖父がなくなって、それが例え周囲から羨ましがられるほど安らかだったにしろ、俺は悲しくて仕方なかった。大切な存在が亡くなれば、悲しいに決まっている。だから、死んだことが正解だったと簡単に口にする人間に、俺は怒りを覚えた。
「誰も本気で自分のことを考えてくれてないだって? そんなもの自分のことしか考えてないから言えるんだろ! 見てみろよ。お前の知らない人間が、お前を助けようとしてるんだぞ。教師はどんな顔をしてる? お前の友達はどんな顔をしてる? それを見てもお前は自分を本気で心配てないなんて言えるのか!?」
『あなたには関係ないじゃない! どうせ、私は……!』
「しっかり見ろよ。誰からも必要されてないって言うんなら、きっちり見て判断しろ。何も見ないままで勝手に終わらせてんじゃねーよ!」
目を背け続けるその女子生徒に、俺は言い続けた。
誰だって一度は死ぬことを考えることはあるかもしれない。中には実際に自殺を起こすやつもいる。けれど、本当に死ぬことで解決するかどうか、というのは周囲を見てからでも遅くない。俺はそう思うのだった。
「春香……お願い、生きてよ! 死んじゃ嫌だよ」
「そうだよ。なんで相談してくれなかったの?」
「苦しかったならそう言ってよ。じゃなきゃ、分からないじゃんか」
数名の友達らしき姿が写ってきた。全員が涙を浮かべ、見つめてくる。その姿に、春香と呼ばれた女子生徒は同じように大粒の涙を流す。
『なんで……』
「ほら。何が一人だよ。お前を思って泣いてくれるやつ、学校にだって居ただろ」
『嘘だよ……だって、誰もとめてくれなかった……』
「それ、ちゃんとあいつらに言ったのか?」
『……』
「自分に起こったことを、誰にも言ってねーんなら誰も知らなくて当然だな。なんで相談しなかったんだよ?」
『言えるわけないじゃない! だって、だって……それ言ったら、みんなまで私のこと……』
「同じことをするかもしれない、そう思ったのか?」
俺の言葉に、春香は頷く。その反応に、俺は呆れて物が言えなかった。
「酷いのはあいつらじゃなくて、お前だな」
『な、どうして?!』
「そうだろ。いじめのことを相談して、同じことをしてくるかも、て疑ったんだから。しかも、勝手に自分は一人ぼっちだとか勘違いして自殺して。ほんとくだらねー」
『わ、私にはくだらないことなんかじゃないわ!』
「あっそ。なら、その思いをあいつらに伝えてやるんだな」
『え?』
「どんな辛いことでも、相手にとってどんなに小さなことだったとしても、自分にとってそれが下らないことじゃねーんなら、それをきちんと伝えてやれ。それが友達ってやつだろ」
春香は流していた涙を拭くこともなく、ただ両手で顔を覆った。隙間から流れ落ちた涙があたり一面に広がり、暗かった世界が一気に明るくなる。その様子に、春香の気持ちが晴れたんだと直感した。
「さて、俺の問題はここからどうやって戻るのか、だよな」
これ以上春香にかける言葉がなく、俺は現状を考えた。
猫屋敷が言っていたように、おそらくここは春香の精神世界のようなものだ。よく幽霊なんかは生きている人間が羨ましくて一緒に引っ張って死なせようとするって聞いたことがある。あの時はそれが本当だとは思っていなかったけれど。
それでも、今実際にそんな世界にいると人の忠告は聞いておくものだと痛感した。春香の様子から、これ以上死を迎えようとはしないとは思うが、俺はどうやって戻ればいいのかわからない。
イヌガミは暴れてないだろうか。
慌てていそうな姿が思い浮かび、俺はクスリと笑う。ふと自分の指へと目を向けると、白と緑の糸が指から二本繋がっているのが見えた。その糸を辿っていくとその先は眩いほどの光がある。その中へ、俺は戸惑いもなく歩いていった。
◇◆◇◆◇
目を開けると猫屋敷の顔やイヌガミの顔が覗き込んできていた。他にもざわざわと音がする。どうやら俺は仰向けに倒れているようだ。
「この、馬鹿!」
「馬鹿ってなんだよ、猫屋敷?」
目覚めて早々、怒られた俺は不服そうに口を尖らせた。けれど、猫屋敷がとやかく言う前に、涙を浮かべたイヌガミが全身体当たりで体をぶつけてきた。その重さに俺は一瞬気を失いそうになる。
「イ、イヌガミ。ちょ、たんま……」
『ご主人さまぁぁぁぁぁーーーー!!』
「ちょ……!」
人の話など聞かず、イヌガミは体を押し付けてくる。いくら実物の犬でないといってもそれなりに力は強かった。
周囲に人がいることも忘れ、俺は起き上がることができなくなってしまった。
「あの、犬神くん、大丈夫?」
「あぁ、平気平気。特になんてことないから」
見えないクラスメイトたちから少し冷たい視線をもらいつつ、俺は苦笑した。暫く見守っていた猫屋敷がイヌガミの首根っこを掴み、俺から引き剥がす。
「サンキュ、猫屋敷」
「あぁ」
ひとまずイヌガミから押し潰される状況は改善されたが、イヌガミは体を小さくした状態で、俺の首にずっと引っ付いていた。心配してくれているのは有難いけれど、正直少々鬱陶しいように感じる。それでも、本当に心配してくれたのであろうイヌガミを邪険にはできなかった。
騒動はやがておさまり、俺たちは日常に戻っていく。白昼堂々と起こった自殺未遂事件だったが、それでも急遽休みになるということもなかった。
少しあの春香っていう女子生徒のことが気になったが、去り際に見た光景を思い出し、俺は胸を撫で下ろす。
苛めというのは何年経ってもあるものだ。他人を虐げ、貶めるのも、また人間の一面だ。それは完全に消し去ることはできないだろう。
どんな時代になっても、どんな世界になっても、人は他人と比べ、競い、そして蹴落とす。けれど、そんな一面だけではないことを理解していればいい。蹴落とす人間もいれば、友達のように手を差しのべてくれるのも、また人間の一面だ。
そこでふと、一匹の黒色の子猫の姿が脳裏をよぎった。どこにでもいる普通の猫のようなのに、なぜか妙に胸に引っ掛かった。
俺は、その子猫を知っている。知っているはずだと、確信した。
けれど、いくら思い出そうと記憶を探っても、まったくそれらしい子猫との思い出が出てこなかった。あまり思い出そうと頑張ると少しだが頭痛がしてくる。
「?」
そのことに、俺は小首を傾げた。
どこにでも居そうな子猫のことが、なぜこうも気になるんだろうか。
「なんだったっけなー」
「どうした?」
「いや、なんか黒い子猫のことが頭から離れねーんだ。なんかあったと思うんだけどなー」
「……そうか。いいなじゃないか。そんなの忘れちまえ」
「なんでだよ?」
「つか、お前こそなんでそこまで気になるんだ?」
「……さっき、自殺しそうだったやつに引っ張られたとき、とっさにジイちゃんのことを思い出したんだよ。そのことと、黒い子猫のこともうっすら思い出してさ。けど、なんでかその子猫のことうまく思い出せねーんだよ。けっこう一緒に遊んでた気がするんだけどな……」
「……それだけで十分だよ……」
「何か言ったか?」
「いや。人間はどんな思い出だってすぐ忘れちまうんだ。忘れちまった記憶なんて、所詮その程度の思い出だよ。だからさっさと忘れちまえ。そうじゃないと、またどこかに引っ張られるぜ」
「うっ……」
猫屋敷にそう言われたけれど、その子猫のことが頭の隅から離れることはなかった。
忘れてはいけなかったような、忘れたくなかったような、そんな感じがずっと胸の中に止まっていた。
『ご主人さま、げんきない?』
「大丈夫だよ、イヌガミ」
心配そうに見てくるイヌガミの頭を撫でて、俺はフッと笑った。
放課後になり、俺たちは帰路につく。
最初こそ見慣れないと思っていた妖怪などの類いは、今では無視ができるほどには慣れてしまった。その慣れが良いのか悪いのか分からない。けれど、見るからといっていつでも襲われるわけではないことを知った。
その光景が、なんだか少し不思議だった。
「そりゃ、イヌガミがお前の周囲に結界を張ってるからだよ」
「結界?」
気になった俺は猫屋敷に聞いてみると、猫屋敷はいとも簡単に答えを出す。しかし、結界だ、式神だという知識に疎い俺には、どういうことかうまく理解できなかった。
「イヌガミはお前の力の具現化だ。それは前に話したな?」
「あぁ」
「お前の力はお前を守るために働く。この力が結界となって、お前や俺の周りを透明マントみたいに覆っているんだよ。つまり、俺たちにはあいつらの姿は見えるが、あいつらには俺たちの姿が見えないってことだ」
「それは分かるんだけど、俺、別に力使ってる感じしねーんだけど?」
「お前にとっては微々たる力なんだろうよ。小さな刺激には気づきにくいように、な」
無知な俺でもなんとか想像しやすいイメージができたが、それでも猫屋敷の言う力を使っているかというのはよくわからなかった。イヌガミ自体、俺の肩に乗っている状態で特に何かしているようには見えない。
「そんなに気になるか?」
キョロキョロと周囲を気にする俺を見かねたらしく、猫屋敷はそう言ってきた。気になるって言われたら当然だろう。
昨日まではうようよと変な生き物がいて襲われたんだ。そう簡単に安全だと単純に信じられるものでもない。
「気になるよ」
「しゃーねーな。ちょっと繋いでみ」
「は?」
そう言って猫屋敷は俺に手を差し出してきた。その意図を理解できず、小首を傾げた。そうした俺の様子に、猫屋敷は小さくため息を吐き出しポンっと俺の頭に手を置いた。
「なんだよ?」
「見てみろよ」
「?」
促されるように目を周囲を向けると、今まで見えなかった光景が見えた。薄い光の壁のような周りを包んでおり、その先には先日見たような変な生き物がうようよと漂っていた。時折俺たちのほうへ向かってくるが、その薄い光の壁にぶつかって消滅していく。
「これがイヌガミの力なのか?」
「イヌガミのっつうか、お前のな。こんな無意識下で結界を張るとは思わなかったけどな」
「いや、全然気づかなかったんだけど」
「まぁ今まで溜まっていた力でイヌガミが生まれ、それを使ってるだけだからそこまで気にならねーのかもな。驚くはそれをイヌガミが何も教わらずに使ってることもだな」
「確かに」
「お前にその知識があれば情報の共有で納得できるもんもあるが、全然知らねーからな、お前」
「十六年間生きてきた中でそんなもんと関わってきたことねーからな。漫画とかラノベとかでそういった内容は知ってるけど」
「あー……まぁ、イメージとしては悪くねぇか。とりあえず、少しはイヌガミを信じてやれ。何て言ったってお前の力なんだからな」
猫屋敷はそう言うと、俺の頭から手を離した。その瞬間、先ほどまで見えていた結界や妖怪は何一つ見えなくなった。
その様子は俺の力というよりは猫屋敷の力のように見える。
「ここまでで気になることは?」
「まだ何がどうなってるのかとか、全然理解できねーんだけど」
「そりゃそうだろうな。お前の両親は、ずっと勉強ばっかさせてきたんだから」
「普通の両親なんだから、仕方ねーだろ」
「普通は、な」
「?」
猫屋敷の言葉は含みのある話し方をよくしていた。けれど、いつも突っ込んでもはぐらかされることもあり、深く突っ込んだことはない。今まではそれほど気になることもでなかったけれど、なぜだか今日だけは妙に気になる。
「なぁ、猫屋敷。普通はってなんなんだよ? 俺の家族は普通じゃねーのか?」
「……」
「黙りかよ」
「実殊、焦るな」
「焦ってなんか……」
「これだけは言っておく。俺がお前にすべてを語らないのは、お前の祖父との約束だからだ」
「じいちゃんと?」
じいちゃんのことを聞き、俺の熱くなっていた頭は一瞬にして冷めた。そして、猫屋敷の顔をマジマジと見つめ、俺は片手で額を押さえた。
「わりぃ、猫屋敷」
「別に平気だ」
「けど……やつ当たった」
「気にするようなことじゃねーよ」
「わりぃ……なぁ、聞いていいか?」
「なんだ?」
「じいちゃんは、なんで全部話すなって言ったんだ?」
「……話すな、とはいってない。けれど、時期がくるまでは喋るな、とは言われた」
「時期って?」
「今はまだ言えねー。けど、お前を守るためだってことだけは理解してくれ」
「……わかった」
納得できないことは多いけれど、猫屋敷に詰め寄ったところで何も言わないであろうということはわかる。
それにじいちゃんが猫屋敷に頼んだことを、破らせたくないとも思った。どんな約束をしたのかはわからないけれど、じいちゃんも猫屋敷も、俺のことを考えてのことだろうということはわかったから。
俺たちはそれからそれぞれの帰路へとつき、家についたときにはどっと疲れが出てきた。力を使ったときの、というよりは頭がオーバーヒートしているような状態だ。塾の日でなくてよかったと思う。
『ご主人さま、だいじょうぶ?』
「あぁ、ありがとな」
心配してくるイヌガミの頭を撫で、俺は夕食を作った。イヌガミは何を食べるのかはわからないけれど、俺の作った料理を美味しそうに頬張っていた。どうやら人間食は口に合うようだ。
そんな些細なことにクスリと笑うけれど、意識はずっと上の空だった。
気づけばベッドのなかに寝転がっていた。イヌガミは俺の横に寝そべっており、すやすやと寝息をたてている。その姿は犬そのものだった。
なんだか眠れないまま、俺はイヌガミの寝顔を見つめていた。
『……しい……』
「ん?」
『さび……』
「誰だ?」
かすかに聞こえた声に、俺は体を起こした。周囲には真っ暗な暗闇が漂っているだけで、これといった気配は感じられない。だからだなのか、イヌガミ自身も起きてくる感じがしなかった。
「何が寂しいんだ?」
それでも、俺はその声の主へと声をかけた。懐かしい感じがしたんだ。けれど、聞き覚えがあるとか、そういう感じではない。イヌガミや猫屋敷のときとはまた違う、なんとも言いがたい感情だ。
『……っしょ……我は……といっしょ……さびしい』
「誰と一緒なんだよ? そいつがいないから寂しいのか?」
俺は何度でも呼び掛けた。応えるかどうかは考えていなかったけれど、イヌガミのそばで、うっすらと白い光に揺らめきながら一匹の犬の姿がスッと現れてきた。けれど、それはすぐさま消えてしまったため、それがなのかは見当がつかない。
それでも、一瞬に現れて消えるその姿はまるで幽霊を連想させた。
「……今日はあんなことがあったからか? それとも……これも俺の力だっていうのかよ、じいちゃん」
軽く痛む頭を押さえながら、俺は驚く気力もなく深い睡魔へと吸い込まれていく。先ほどまで眠れなかったのが嘘のように、俺の意識はすぐに途切れてしまった。