episode 4
家へとついた俺は、今日一日が何日も経っていたかのような気だるさを感じてベッドに倒れ込んだ。そんな俺を心配したのか、イヌガミは心配そうにウロウロと歩き回る。そんな様子は本当に犬のようだった。
『だいじょうぶ、ご主人さま?』
「んー。てか、お前って本当に誰にも見えないんだな?」
今更ながらの感想を口にした俺に、イヌガミは小首を傾げた。どうやら頭が良いというわけではないようだ。明日にでも猫屋敷を問い詰めて、今の現状を把握しないと。
そう頭の片隅で考え、俺は就寝の準備へと入る。何かお腹につめなければと思うが、食欲すら沸いてこなかった。仕方なしに簡単に風呂へと入り、俺は部屋の明かりを消す。
『ご主人さま!?』
「安心しろって。寝るだけだから」
『くらいのだいじょうぶ?』
「あぁ、いつもこうだから。お前も寝ろよ」
『……』
少しそわそわとした動きをなんとなく感じ取った俺は、自分の布団を上げてイヌガミを招き入れた。イヌガミは身体を自在に変化させることができるらしく、本当の子犬サイズへと変化してベッドへと上がり込んだ。猫屋敷はイヌガミのことを霊力の圧縮によって生まれた一種の式神だと言ったけれど、微かに感じる温もりは何なのだろうか。
気になることへの探究心が疼くなか、睡魔のほうが勝った俺は抗うことなくその波の流れに心を委ねた。
「おやすみ、イヌガミ」
『おやすみなさい、ご主人さま』
イヌガミへの配慮など忘れ、俺の意識は睡魔によって遠くの彼方へと連れて行かれた。
そして、俺は久しぶりにゆっくりと熟睡をすることができた。変な夢も見ず、それまで靄がかかったような感覚がすっきりと晴れ渡ったような感覚だ。隣で眠っていたイヌガミも式神らしくなく欠伸をしている。
「お前って、本当に式神なわけ? なんか、イメージ違うし」
『しきがみ? よく分からないけれど、ぼくのご主人さまはご主人さまってことだけは分かるよ』
「あー……さいですか。分かった。お前じゃなく、やっぱ猫屋敷に詳しく聞くわ」
『えぇぇー! ぼく、なにかわるいことしたの?』
「いや、そうじゃないって。お前は気にすんな」
『うん……』
少し落ち込んだような声音に、声をかけようと口を開く。しかし、なんと声をかけるべきか分からずにすぐさま口を閉ざした。その変わり、イヌガミに向かって手を差し伸べる。その仕草が何を意味しているのか分からないのだろう。イヌガミはキョトンとした表情を向けてきた。
「おら、一緒に行くんだろ? お前は、俺の式神なんだから」
『うん!』
俺の言葉を受け、イヌガミはヒョイと俺の肩へと乗ってきた。別にそこに乗れと言った覚えはないが、何かの小動物を首に巻いているような感覚にほんの少し口元が緩む。けれど、玄関から出る前にふと我に返った。
「そういえば、お前の姿って本当に皆に見えないのか?」
『みえる?』
「あぁ。もし皆に見えるんならお前は連れて行けねーよ。大騒ぎになる」
『そんなぁ……せっかくご主人さまといっしょにいられるとおもったのに……』
明らかに頭を垂れるイヌガミに、俺はどうすることもなく頭を掻いた。一緒に連れて行ってやりたいことは山々だが、万が一他の人にも姿が見えるのならば一緒には連れて行けない。出かけるだけならば犬らしいことをさせればいいんだろうけれど、俺がこれから行くのは教育過程で行かざるを得ない学校だ。そんなところに、ペット同伴で登校できるわけがなかった。
「猫屋敷に聞くっつっても、一緒に登校してねーし……」
途方に暮れている中、何とも呑気にチャイム音が響いた。誰かが訪ねてきたらしいが、朝早くから誰が訪ねてきたのだろうか。俺はイヌガミに部屋の奥へ隠れるよう伝えてから玄関のドアを開けた。
「よっす」
「ね、猫屋敷……」
ドアの先から現れた人物に、俺は拍子抜けをしてしまった。先ほどまで会いたいと思っていた人物が、まさか早朝から現れると思ってなかったからだ。一緒に帰ることはあっても、登校まではしたことがない。
「なんで俺ん家に?」
「何でって。もう正体知ってんだからわざわざ別行動しなくてもいいだろ」
「……まぁいいや。ちょうどいいし。なぁ、猫屋敷コイツの事なんだけどさ」
「ん?」
猫屋敷の言葉に引っ掛かりを覚えつつも、俺は早速本題へと話を移した。イヌガミを呼び、猫屋敷を家の中へと招き入れる。
「よぉ、ちびすけ。どうよ、ご主人様の傍は」
『うん! ご主人さま、すっごくやさしいよ!』
「そうかそうか。良かったなー、お前」
「おい、なに呑気に話してんだよ」
猫屋敷を見たイヌガミは嬉しそうに尻尾を振っている。対する猫屋敷も特に嫌そうな表情はせず、イヌガミと呑気な会話を繰り広げていた。猫と犬っていえば仲の悪いイメージがあったが、そうでもないのだろうか。
変な偏見を改めつつも、俺は猫屋敷へと突っ込んだ。
「まぁ、いいじゃねーか。ようやくお前の力の覚醒が済んで、これからこっちの世界ともっと深く関わっていくんだ。こいつの先輩として少しは情報を入れといてやって損はないだろ」
「先輩って。イヌガミは式神なんだろ?」
「式神っていっても、俺とそう変わらねーよ。ま、その話はまた今度だ。で、相談ってなんだ?」
「あぁ、コイツの姿って他人にも見えるのかどうか聞きたかったんだ。俺の式神ってことは離すとやばいんじゃないかと思って連れて行こうと思ったんだけど」
「まぁ、確かに式神は主とずっと一緒だからな。下手に離れると式神へ流れ込む霊力が極端に減り過ぎて、力のない奴はすぐに消えちまうし」
「やっぱり。で、結局イヌガミの姿は他の人間にも見えるもんなのか?」
「いいや。言ったろ、こいつは式神。力のある奴らにしか見えねぇよ。それと、死に際の人間な」
「死に際の人間?」
「あぁ。つまり、これから死のうって奴とか、死ぬって運命が決まってるってやつ。ここらへんは妖怪とは別分野だからあまり詳しく知らねーけど、死に際の人間ってのは境界線が曖昧になるらしい。だから、普段より感覚が敏感になっちまって見なくてもいいもんを見ちまうって言ってた」
「言ってたって……誰が?」
「そこは秘密な。でも、お前の知ってる奴だよ。それより、そろそろ出ないと学校に遅刻すんぞ」
色々と話を聞いていくうちに深まる謎に追求しようと口を開くが、猫屋敷のその言葉で時計の針に目を向ける。猫屋敷の言う通り、そろそろ家を出なくては本当に遅刻してしまいそうな時刻だ。俺はイヌガミを先ほどと同じように肩へ乗せると、猫屋敷と一緒に家を出た。
まさか、そんな話を聞いた日に限って思ってもみなかったことが起きるなんて想像していなかった。
イヌガミの姿が誰にも見えないってことはそれはそれで面倒なことこの上なかった。基本的には俺の言うことに従ってくれるが、興味が惹かれるものに対してはそちらが勝るようで勝手に行ってしまおうとする。猫屋敷に言えば、それは式神が己の領域の印をつけようと歩き回るのと同じだって言われたけれどいまいち理解できなかった。最初はきちんと言うことを聞く姿からかなり忠誠心が高いんだと思っていたが、生まれて間もない赤ん坊の面倒を見ているような感じだ。
「生きてるか?」
「な、なんとか……てか、頼むからもう少しジッとしててくれないか、イヌガミ?」
『でも……がっこうをたんけんしないとどこがあぶないか分からないから……』
「まぁ、そう叱ってやんなって。言ったろ、イヌガミの行動はお前を守るための行動だって」
「そこが意味分かんねーんだよ。そもそも学校で危ないってどこがだよ」
「学校ってのは結構危険なところだぜ? 思春期の人間ってのは様々なものに影響を受けやすい。それに、学校の立地場所は大抵曰くつきだ。人間どもが知らないだけでこの学校だって穴場に建てられたもんなんだぜ?」
「穴場?」
「そう。イメージ的に言えばあの世とこの世が繋がりやすいってことだ。戦場跡地ってところか」
「え?」
「お前にはまだ見えないんだろうが、あちらこちらに人間の霊がいんだぜ。恨みつらみを抱えた奴らの魂がな」
「幽霊なんて……」
「いるはずない、なんて言えねぇーよな。昨日は妖怪たちが跋扈する光景を見ちまったんだから」
猫屋敷にそう言われ、俺は口をつぐんだ。確かに、昨夜のことは目の裏に焼きついている。イヌガミの卵が現れたとき、そしてイヌガミが生まれたとき。今まで全然見たことのない非現実な光景。それでも、イヌガミの存在や猫屋敷の正体。それらが夢でないことを物語っていた。
「なぁ、いつか俺にも見えるようになるのか?」
「……そうだな。つか、まだ見えてないのが俺には驚きだよ」
「え?」
「お前の力は高いって前に言ったろ。幽霊や妖怪を見るなんて造作もないことなんだよ。それに、妖怪は見えるのに幽霊がまだ見えないってのが不思議でならねーよ」
猫屋敷にそう言われたが、全くピンっとこなかった。今だって周りを見回したところで、イヌガミ以外の存在は見えない。本当に猫屋敷が言うように幽霊がそこらへんを闊歩しているんだろうか。
「イヌガミには見えるのか?」
「まぁな。だから、あっちこっち歩いて結界を張りたいのさ」
「結界なんて張れるのか?」
「あぁ。生まれたてっていってもお前の力から生まれたんだ。結界を張るなんざ、造作もねーわな」
「へぇ。すごいんだな」
『ぼく、えらい?』
自分のことを話されているのを感じたのか、イヌガミは嬉しそうな顔で聞いてきた。俺はその頭を優しく撫でてやる。
「あぁ。お前って凄いよ。偉い偉い」
『えへへ』
嬉しそうに笑うイヌガミは、犬とは言い難い。それでも、ペット感覚で接してしまう。
「まぁ、あと二時間ほどだ。頑張れよ」
「他人事だと思いやがって……」
猫屋敷の言葉を軽く突っ込み、俺は残り二時間のことを考えて脱力していく。イヌガミがいるせいなのか、単に気疲れなのか。
「とりあえず大人しくしといてくれよ、イヌガミ。あと少しで終わりだから」
『わかった! それじゃがっこうのなかをたんけんしてくるよ!』
「分かってねーだろ!」
今回ばかりは、俺も結構本気で声を上げた。しかし、イヌガミにはすでに効力はないのか、イヌガミの雰囲気はふわふわしたものだった。
「なぁ、本当に式神、なんだよな?」
「あぁ。学校終わったら俺と一緒に探険するか、イヌガミ?」
『ほんとうに! うん、たんけんしたい!』
「ちょ、勝手に決めんなよ!」
「さっさと探検させとけば後が楽だぜ?」
「知るか! てか、結界なんてどうやって張るんだよ?」
「こいつの霊力を数箇所に残していくんだよ。微量でも適した場所に残せば十二分に結界が張れるさ」
猫屋敷の言葉を信じる信じないはこの際置いといて、俺は平穏無事な生活が一変するのを感じざるを得なかった。
そんな俺の変化など世界にとっては小さなもので、いつもと代わり映えのしない時間が流れていった。しかし、そんな授業中の最中、俺は胸の辺りに違和感を覚えた。嫌な感覚が胸に広がっていく。
『ご主人さま?』
そんな俺を心配して、イヌガミが呼んでくる。けれど、何も答えないまま俺はチラリと猫屋敷へと目を向けた。猫屋敷は俺の視線に気づくと、猫屋敷も何か感じているのだろう。少し怪訝な顔をしていた。
その直後、校内がざわめいた。誰かの悲鳴が校舎を駆け巡り、担任教師は何事かと廊下へと出ていく。数名の教師仲間と話したあと、俺たちの担任教師は唐突に自習と言い残した。理由は何も伝えられない。ただ、教室から出ないこと、と言い残して教室を去ったのだった。
一瞬静まった教室内はまたもや騒ぎだす。しかし、誰一人教室を出ていく人はいなかった。俺と猫屋敷、そしてイヌガミ以外は誰一人として外には出なかった。
「猫屋敷、何があったか分かるのか?」
「さーてな。けど、死臭がすんぜ」
「死臭って……誰か死んだのか!?」
「いいや。これはまだ死んではねーよ。だが、嫌な臭いだ」
「嫌な臭い?」
「死ぬ直前の臭いだよ」
「じゃあ、先生たちが騒いでたのって……」
「誰か自殺しようとしてるんじゃないのか? まぁ、俺たちには関係のない話だ」
「このまま教室にいるのか?」
「行ってどうなる? 誰が死のうとしているかなんて、俺たちには関係ない。実殊、この世界はな、関係のないことには関わらないのが常識だ。無駄に首を突っ込んでも、下手に命を落としかねないからだ」
「関係ないって、なんで分かるんだよ?」
「お前に関係のあるやつなら俺が気づくからだお前と関わってきた……少なくともこの校内のやつらにはマーキングしてある」
「マーキングって?」
「俺の霊気をつけてあるんだよ。あいつらに異変とかあればすぐ分かる」
「じゃ、今回のことは俺とは関わりがない生徒ってことか?」
「そういうことだ」
猫屋敷は淡々とそう言った。どこか冷たい物言いだけれど、たぶん興味がないだけなのだろう。昔から、猫屋敷は自分に興味のない相手にはどこか冷たいんだ。
ふと、中学生のときを思い出した。中学生の時、俺は初めて猫屋敷と出会った。最初から不思議なやつだった。時期外れの転校生。それが猫屋敷だった。
◇◆◇◆◇
あれは夏休み入る前のことだった。時期外れに、その転校生はやって来た。彼の名は猫屋敷。少し大人びたような雰囲気の彼に、クラスメイトは少し近寄り難い雰囲気を感じていた。けれど、その雰囲気が女子には人気を呼び、また物怖じしない性格から男子からも注目を集める存在だった。
そんな猫屋敷と友達になったのはたまたま席が近かったからだ。また彼から声をかけてくれたのも、友達となれたきっかけだった。
「僕、犬神実殊。よろしくね」
「俺は猫屋敷クロ」
当初は猫屋敷なんて面白い名前に、クラスの反応は様々だったが、上級生に対しても物怖じせず、教師に対しても中々肝の据わった物言いをしていた。だから、猫屋敷は瞬く間に人気者となった。そんな奴が、友達だった俺は子どもなりに鼻が高かった。
何事もない普通の日常のなかで、その事件は起こった。もともと上級生に物怖じしない性格だった猫屋敷は当然のように上級生たちの標的となった。基本的には学校帰りに絡んでくることが多かったが、その現場を見ていた俺がこっそり先生に告げて、喧嘩という大きな騒動になることはなかったのだ。けれど、俺が告げ口していることがばれてしまい、今度は俺が標的にされたのだった。
「お前いい子ぶってんじゃねーよ!」
「うわっ!」
上級生ににらまれ、足が鋤くんだ俺は動けなかった。簡単に突き飛ばされ、尻餅をつけば、大きな上級生がさらに大きく見えた。
恐怖だった。
反抗できない俺を、上級生たちは嘲笑い、リーダー格の一人が俺に股がってくる。
殴られる、そう思って目をつぶった。けれど、その痛みは一向に訪れない。体の上に乗っかっていた体重もいつのまにか軽い。
恐る恐る目を開けると、俺の周りには襲ってきていた上級生全員が倒れていた。
「え?」
驚いて目を見開く俺の耳に、チリンと鈴の音が届いた。周囲を見回すと、そこには先ほどまでいなかった猫屋敷の姿があった。
「猫、屋敷くん?」
「大丈夫か? ったく、人間はいつの時代になっても変わらねーのな」
「え?」
「何でもない。それより、立てるか?」
「うん……ねぇ、これって猫屋敷くんがやっつけたの?」
「ん? さぁてな。そんなことよりさっさと行こうぜ。こんな暇な連中相手にしてる場合じゃねーだろ」
「なんで?」
「お前、いっつも塾があるっていってたじゃねーか」
「そうだった! ありがとう、猫屋敷くん!」
猫屋敷に言われ、塾の時間をすっかり忘れていた。慌てて立ち上がり、俺はその場を去ったのだった。その後、俺を襲ってきた上級生のグループは猫屋敷にも絡むこともなくなった。それは、あの一件のあと上級生たちは揃って口にしたのだ。
妖怪に襲われた、と。
けれど、そんな話を周囲はおろか、大人たちも信じようとはしなかった。そのうち彼らは自ら口を閉ざし、俺たちに絡んでくることはなくなったのだ。
◇◆◇◆◇
猫屋敷にとって、無関係な存在はどうなっても良い。そんな感じだった。昔からそうだったのに、俺の前では全くそんな雰囲気を出さないから、あまり気にしていなかった。
けれど、周囲から言われ、俺も猫屋敷が周囲に溶け込むように色々と試行錯誤していた。それは、猫屋敷が一人になっていく姿を見たくなかったからだ。
「わり、俺、やっぱり……」
気になるから行く。
そう言おうとした瞬間、ピリッとした空気を感じた。窓へと目を向けると黒い物体が地面へと向かっていくのが見えた。慌てて窓から顔を出した。
「っ!」
「実殊!」
その目に飛び込んできたものは一瞬だった。一瞬だけ、時間が止まったかのように地面へと落ちていく女子生徒の顔が見えた。まるで壊れた人形のような虚ろな瞳と目があった。
そのあと、首根っこを引っ張られ教室のなかへと戻される。
「ばか野郎。お前、一緒に連れて逝かれるぞ!」
「……」
「ちっ! あの女……引っ張りやがった!」
猫屋敷の声が遠くに聞こえる。何かを言っている声は、なんだか焦っているような声音だった。けれど、それが何を言っているのかは、よくわからない。
俺は猫屋敷に声をかけたけれど、彼からの返事はなかった。