episode 3
大きな犬がいた。真っ白で、大きな体。俺一人なんて簡単に乗せることができるほどの広い背中に、凛々しい顔立ち。しかし、俺を見つめるその眼差しはとても穏やかで。どこか、懐かしいとさえ感じさせた。
「おまえは……」
声を掛け、その犬へと手を伸ばした。触れそうなほど近くまでいくのに、俺の手は触れることなどできなかった。目の前にいたはずの犬は姿を消し、真っ黒な暗闇の中にいる。
「ここは……?」
どこにいるのか分からない。けれど、頭を過ぎるのは先ほど見た大きな白い犬のこと。
見たことなんて、ないはずだ。そもそもあそこまで大きな犬なんてこの世界にいるはずない。そう、ありえないぐらい大きかったんだ。
「けど、なんで……」
こうも懐かしい気持ちになるのだろうか。
不思議だった。非常識な大きさの犬に、こうも懐かしい気持ちになるなんて。
知っているように感じた。けれど、どれだけ思い出そうと頭をひねっても、白い犬のことなんて全く思い出せなかったし、何よりそこまで大きな犬など現実にはいるはずもない。
「ここが夢ってことだけは確かなんだろうけどな……」
さすがに非現実的なものを見れば、たとえ眠っていようと夢の中である以外に考えられないだろう。夢と思いたい現実も、確かにあるけれど。
ふと、猫耳男を思い出した。あいつは、なんで俺を助けてくれたのだろうか。そして、どうして俺の名前を知っていたのだろうか。結局詳しくは答えてくれなかったけれど、それでも、あの青年にもどこか懐かしさを感じた。どこかで見たことあるような、そんな感じ。
「……て、見たことあるんだったらなんで忘れてんだよ。あんなの見たら、普通忘れないだろ……」
自分に自分で突っ込む。しかし、自分に突っ込んだところで虚しさだけが広がるだけだった。
「じいちゃん……あんたなら、何か知ってんのかな?」
もう居なくなってしまった人を思い浮かべる。
そう、爺ちゃんはもういない。俺が幼い頃に亡くなってしまった。結構な歳だったし、医者の診察も何の疑問ももたず、単なる老衰だった。最後に見た爺ちゃんの顔は随分と穏やかで、まるで微笑んでいるようだった。今にも起き出しそうなほど安らかだった爺ちゃん。俺は幼すぎたのか、ずっと呼んでいた。呼びかければ起きてくれると、そう信じていた。
けれど、爺ちゃんが目を覚ますことは二度となかった。
「……ッ……」
今でも思い出すと涙が出てくる。大好きだった爺ちゃんが、もう二度と話せないと分かった瞬間。もう二度と会うことが出来ないと理解した瞬間、俺は大きな声で泣き叫んだ。これでもかってぐらい泣き叫んで爺ちゃんを呼んだ。いつもなら優しい声音で答えてくれた。けれど、爺ちゃんからの返事はなく、ただただ悲しみだけが俺を包んでいた。
「もっと、ちゃんと覚えておけばよかったな……そしたら、きっと今も……」
幼かったことが悔やまれる。もっと大きかったら、今ぐらい大きかったら、爺ちゃんが教えてくれたことや色々と覚えておけただろうに。
『かなしまないで……』
「っ! 誰だ!?」
『かなしまないで。ぼくがずっといっしょにいるから……ずっと、きみのそばにいるから』
夢の中のはずだった。しかし、突如響いてきた声に、俺は動揺して怒鳴った。けれど、俺の質問に答えが返ってくるはずもなく、永遠と同じ言葉だけを繰り返していた。
『かなしまないで』と。
『ぼくがずっといっしょにいるから』と。
そうして、俺は知ることになる。
この夢で聞こえてきた声の主が誰であるかを。
そして、非日常的な世界へと引きずりこまれていたことを。
それを知るのは、そう遠くない未来だった。
*****
ジリリリとうるさい目覚まし時計の音量に驚き、俺は飛び起きるようにベッドから起き上がった。何かを確認するように自分の部屋を見回し、昨日あったことを思い出そうとする。
「……まぁ、忘れてないし……やっぱ現実、か?」
あまりにも強烈に、衝撃的に起こった出来事を単なる夢だとくくりつけて忘れてしまいたかった。けれど、忘れようとすればするほど余計に昨日のことが鮮明に思い出す結果となった。
いつ眠ったのか。
きちんと布団にくるまって寝ているのは両親のおかげだろうか。
疑問に思うことはいくつかあったけど、今は卵のことが気になった。腕にもなく、ベッドの上にも見当たらない。
「……え?」
昨日猫耳男に言われたことを思い出し、俺はサアッと顔から血の気が引いていく。
「嘘だろ、おい!」
決して手放すなと言われた卵。その卵が、腕の中から消えていることに気がついたのである。慌てて卵を探し回るが、部屋の中からは見つからなかった。
「まさか……」
迂闊にも、昨日は卵を隠さずにいつの間にか寝入ってしまっていた。帰ってきた両親が巨大な卵を見て驚かないはずがない。
「捨て、られたのか?」
決して簡単に人の物を弄る両親ではないと分かってはいるものの、今俺の傍にないことや非現実的な卵の大きさを考えられると捨てられたと考えるほうが妥当な気がしてくる。
「……」
顔から血の気が引いていくのが分かった。しかし、疑問も感じていた。
どうして俺はそこまであの卵のことを気にかけるのだろうか、と。
いきなり頭上に降ってきたあげく、変なものに襲われたのだ。普通は手放して清々するのではないのだろうか。なのに、なぜこれほどまでにあの卵のことが心配なのだろうか。
「なくなって当然だろ……なのになんで?」
ここまで胸が苦しく感じるのだろうか。
不思議なほどに、卵のことで頭が一杯になっていた。
「とりあえず、母さんに聞いて……」
ベッドから立ち上がり、一階へと足を向ける。しかし、歩き出そうとした足が、その場で止まってしまった。
何をどうやって説明すればいいのだろうか。
そもそも説明したところで信じてもらえるのだろうか。
そんな疑問が頭に浮かび、俺は母親に聞くという選択肢を捨てようとしていた。もともと共働きで滅多に家にいないことが多い両親。根は真面目でこんな非現実的な話をしたところで信じてもらえる確証はない。もし、信じてもらえるのならばあの時だって信じてもらえたはずだ。
「……あの時?」
信じてもらえないと考えていくうちに、俺は自分の言葉に眉をひそめた。けれど、いつの時のことだったのか思い出せない。ただただ、昔も同じようなことがあったということだけが記憶に残っていた。
「……あの時って、いつだ?」
いくら思い出そうとしても、まったく思い出せない。それどころか、昔を思い出そうとすればするほどに頭が痛んできた。何も思い出せないまま、俺は思考を止めた。そして、ふと時計に目をやれば、午前七時を回っていたところだった。
「学校……行かねーとな」
学校に行きたい気分ではないけれど休む理由はない。重たい体を引きずるようにのろのろと制服に着替え始めた。
俺の通う学校は自転車でほんの三十分程度で着く距離にある。小高い丘の上にあるその学び舎は古きよき歴史のある場所だった。しかし、つい最近校舎を改築したらしく、校内のいたるところが新設された学校のように綺麗なのである。
「よーす、実殊」
「はよ」
教室へと入れば、見知った友達たちと挨拶を交わす。それは何一つ変わらない本来の日常。昨晩起こったことすべてが夢だったかのように思える。
「はよ、猫屋敷」
自分の席へとついた俺は、目の前にいる友達へと話しかける。そいつは体だけを俺のほうへと向き直した。
「おぉ。どうした? いつもならもう少し早いだろ、お前」
「ちょっと考え事してたら出遅れちゃってさ」
「なんだ、悩み事か? 昼飯次第で相談に乗るぜ?」
「いいよ、別に。俺だっていまだ信じられないようなことなんだから」
「ほう?」
ニヤニヤとした顔が目前に迫ってくる。しかし、俺はため息を一つつくだけで相手にはしなかった。いまだに信じられないこともあるけれど、何より昨晩のことを誰かに言う気にはなれなかったからだ。
猫屋敷の申し出を断り、始まったホームルームに意識を傾ける。しかし、どれほど集中しようとしても、昨晩のことが頭から離れることはなかった。そして、今朝方見た不思議な夢のことも。頭に引っかかるというよりは、心の奥底のどこかに引っかかるのだった。まるで自分は知っているのだと主張するかのように、俺の心はざわめいていた。
「本当に大丈夫なのか、お前?」
「……なにが?」
「朝からずっとボウッとしたままだろ。その様子じゃ、一限もニ限の授業も上の空だったろ」
「へ、嘘! 今何限だ?」
「次で三限目だよ」
「まじかよ……ホームルーム中だとばかり思ってたぜ」
「ったく、今日の晩飯奢ってくれるなら今までの授業ノート、見せてやるぜ?」
「奢れって……俺、買い食いはしないってルールあんだけど?」
「だから、お前の手料理で打ってやるよ。お前の飯、結構うめーし」
拒否権などなさそうな提案に、俺は渋々頷くしかなかった。そんな俺に、猫屋敷はニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべていた。今更ながらに思うが、その顔はまさにどこぞの悪者そのものだ。
「お前、いつか本当にヤのつく職業にでもなるつもりか?」
「はっ、この顔は今更だろ」
当の本人は気にしていないらしい。それどころか、気にする素振りすらしなかった。どれほど皮肉めいたことを言ってやっても、猫屋敷には虚しいほど軽々とかわされてしまう。いつか絶対に見返してやると心に決めながら、俺は晩御飯の献立を考え始めていた。
そうこうしていると、あっという間に時間は過ぎていった。気づけば日は傾き、赤とオレンジが重なり合ったような色合いが空を覆っていた。ホームルームが終わり、個々に帰路へとつく生徒たち。俺もそのうちの一人であり、隣には晩飯も奢るということになってしまった猫屋敷がいる。
「はぁ……今日は散々だよ」
「なんだよ、そう邪険にする必要ねーだろ」
「お前がっていう意味じゃないって」
昨晩のこともあり、意外と精神的にも疲れているらしい。思わず連続してため息が出そうになる。
「本当に大丈夫か?」
「……あぁ、別に大したことじゃ……」
本気で心配しだす猫屋敷に、俺は冗談ぽく笑って誤魔化そうとした。しかし、目に入ってきた光景に一気に血の気が引くのが分かる。
「どうした?」
「……いや……」
なんでもないとは言えなかった。けれど、目を瞬かせても、目をいくら擦っても目の前の光景は何一つ変わらなかった。
それは普段と同じ風景のはずだ。しかし、普段と同じ風景の中に見知らぬ気持ちの悪い存在が宙に浮き、自分たちの周りを飛び回っている。あるものは一つの目玉の蛇、深い毛に覆われた体から伸びる細い手足をしているもの、目がいくつもある人形。あまりにも気持ち悪さに、胃酸の苦酸っぱさが喉まで上ってくる。口元を手で押さえつけて吐き気を必死に堪えた。
「おい、実殊?」
手を伸ばしてくる猫屋敷。大丈夫だと言おうと顔を上げると、一つの目玉の蛇が猫屋敷へと向かってくるのが見えた。その光景に猫屋敷が見えていないことも忘れ、俺は彼の腕を引っ張った。
「危ない!!」
「うわっ!」
いきなり腕を引っ張られ、猫屋敷の体が俺の方へと倒れ込んでくる。しかし、彼の体を支えるまで気が回らず、襲ってくる一つ目の蛇へと手を突き出した。
「!?」
猫屋敷を庇ったはずの手だったが、一つ目の蛇に向かって光が出たかと思うとそこには何もいなくなっていた。襲ってきたはずの一つ目の蛇の姿はどこにもいない。
「どうしたんだよ、お前?」
「いや……別に……」
驚いて自分の手を見つめてみるが、何も変わったところはない。しかし、突き出した掌がほのかに熱く感じる。
「これって……」
「自分の手に何かあんのか?」
「うわっ!!」
猫屋敷のことをすっかり忘れていた俺は、いきなり現れた彼の頭にビックリした。驚いた俺に、猫屋敷は訝しげな顔を向けてくる。先ほど勝手に突き飛ばしたこともあり、何て説明すればいいのやら。返答に困った俺は明後日の方向に視線を泳がしてみる。しかし、それが間違いだった。
「え……?」
それまで一風変わってないと思っていた風景が、まるで異世界にでも飛んでしまったかのような不思議なものに見えてしまった。建物などはいたって普通だ。けれど、宙に浮かんでいるそれらはまるで妖怪とでも言える不可思議な存在だった。そもそも、空中に浮いて動いている時点でおかしいだろう。
「なんだよ、これ……」
混乱するなという方が無理な話だろう。
今まで何も見えなかった存在。すべてが空想上の存在だと思っていた。けれど、今まさに目の前を動き回る人ならざる存在。俺は近くに友人がいることさえ忘れて、目の前の光景に唖然としていた。
「……」
そんな俺を、猫屋敷はどんな表情を向けていたのだろうか。
けれど、彼を気にかける余裕などなかった。一つ目の蛇が姿を消してからそれほど経たないうちに、次から次へと変な者が俺に向かって飛んできたのだ。
「え、ちょ、嘘だろ!!」
逃げ道などない。周囲は変な生物が取り囲み、四方八方から俺へと向かってくるのだった。
(逃げれない!)
そう悟った俺は、両腕で顔面を守るように身構えて両目を瞑った。
「あ~ぁ、ちと早くねーの、お前ら」
「え?」
いきなり聞こえてきた声にと何かを切り裂く音が聞こえ、俺は瞑った目を恐る恐る開けてみた。すると、昨夜出会ったばかりの猫耳男が俺の目の前に立っていたのだった。それはまるで、俺を守るように立っている。猫耳男の登場に驚く俺だが、彼の手へと目が付いた。彼の手には何かの液体がべったりとついていて、先ほどの切り裂く音の正体が分かった。
「また、助けてくれた……のか?」
つまりそうな喉に無理をさせて声を出させる。その声に反応して、猫耳男は不敵な笑みを浮かべて俺に向き直った。彼が何かを言おうと口を開く前に、俺は猫屋敷のことを思い出して彼の名を叫んだ。しかし、叫んだあとで気づく。
「……さっきお前が隣に来る余裕なんてなかった……けど、お前は俺を助けてくれて……」
ゆっくりと、まるで穴埋めしきの問題を解いていくような感覚で先程までの記憶をたどっていた。そうしてたどり着いた解答に、俺は目を見開いてまばたきを数回繰り返す。
「猫屋敷、なのか?」
「あ~ぁ、もうちっと隠しとくつもりだったのになぁー」
俺の疑問には答えずに、目の前の男は友人にそっくりな口調でそう言った。口調も声音も、何一つ友人である彼と同じだ。もっと声に耳を傾けていれば気づけたはずの事柄に、俺は開いた口が塞がらなかった。
「そんな……」
「そうがっかりすんなよ。どんな姿であろうと友達だって言ってくれたの、お前だろ」
「え?」
猫屋敷の言葉に、俺は唖然とした表情を向けた。彼との付合いは、古くても中学生時代からだ。けれど、その記憶のどこにも彼の言葉のようなことを言った覚えがなかった。
「記憶にないのは当然だぜ」
「なんで?」
不思議そうにしている俺を見かねたのか、猫屋敷はそう言った。その言葉を問い返す俺に、彼はふと悲しそうな顔をする。しかし、それは一瞬にして消えてしまい、追求する暇を与えてはくれなかった。
「さーて、長話はこのくらいにして……突破するぞ、実殊!」
「……そう、だな」
話題を逸らされ、何も言えなくなった俺は猫屋敷の言葉に賛同する。彼の言うことも最もだった。まずはこの変な存在から抜け出して一息ついてから、色々と聞き出してやろうと心に決めた。
「にしても、突破するってどうするんだよ?」
「俺だけでも十分だが……ま、久しぶりの目覚めだ。お前の力、使ってみろよ」
「はぁ? 力ってなんだよ?」
「まだ無自覚なのか……まぁ、いい。どうせ覚醒はしてるんだ。嫌でも分かるさ」
何一つ猫屋敷の言うことが理解できない。けれど、本当に手を貸してくれる気はないらしく、むき出しだった殺気が何事もなかったかのようにその気配を消した。まるで威嚇から解放されたかのように、今まで襲ってこようとしなかった妖怪の類らしき存在が俺へと向かってくる。
「嘘だろ、猫屋敷!!」
「大丈夫だよ。お前の力はもう目覚めてる」
襲いかかってくる奴らを尻目に、猫屋敷はお気楽そうに言ってくる。俺は涙目で訴えてみるが、本当に助けてくれる気はないらしい。目前と迫ってくる怪物に、俺は気が遠くなるのを感じた。
『……させない……!』
「え?」
まさに噛みつかれそうになった瞬間、俺の頭の中で声が響くのと俺の体が光るのはほぼ同時だった。いきなり体が光ったことにも驚いたが、その光に触れた怪物が一瞬でその姿を消したことにも驚いた。消えたというよりは消されたといったほうが正しいほど、その姿は塵となって宙を舞った。
「な、なんだよこれ!!」
「完全に目覚めたんだよ、お前の力がな!」
「は? 俺の力って……だから何なんだよいったい!!」
パニックになるなと言うほうが無理な話である。それでも、猫屋敷の言葉にも普通に突っ込めることから意外と冷静な部分が残っているのだと分かった。それでも、体から発せられる光は消える素振りを見せない。
「ちょっ、マジで何なんだよ! なんで光ってんの、俺!!」
「ぎゃあぎゃあ騒ぐなって。溜まりに溜まった力だからな。そう簡単には収まらねーぜ、それ」
「はぁ? じゃあ、俺このまま光ったままなのかよ? こんな光りまくってる奴、人間じゃねーだろ!」
「そう心配すんなって。光ってんの見えるのは同じ力ある者か、俺たちみたいな異形の者だ」
「だからってこんな光り続けてるのなんて嫌だ! どうすりゃ止まるんだよ?」
「だから大丈夫だって。それは力が目覚めた証拠だ。時期に収まる」
「はあ?」
猫屋敷の言葉は何の説得力も感じられなかった。ただ一つ分かったのは、体中を包む光りが妙に暖かく感じられること。さらに妖怪を見たときに感じたような悪寒はしない。むしろ、心地良いとすら感じる。
「……我を守りし者、汝に名を与えよう。汝、名をイヌガミ。我が力を糧とし、汝の姿この世に留まりける。汝は我が下僕……」
唐突に口をつついて出てきた言葉を止めることなどできなかった。それでも、まるで昔から知っていたようにスラスラと口は動き、訳の分からない言葉を並べていた。己の口が、体が、意識が、まるで別人のようだった。
「いでよ、イヌガミ!!」
そうして手を前方に突き出し、名前を呼んだ。俺の声に反応するように、獣の遠吠えがどこからともなく聞こえてくる。俺の体を包んでいた光はいつしか消え失せ、その代わりに白い犬が目の前にいた。
『やっとよんでくれた!』
「お前……」
目の前に現れたのは何とも小さな犬だった。姿形から言えば子犬だろう。目がクリッとしていて可愛らしい姿ではあったが、巨大な鈴がその両肩に一つずつ括りつけられていた。赤白のしめ縄のような縄が子犬の両肩を覆い、動くたびに不思議な音色を奏でている。しかし、そんな姿よりも俺は違うことで驚いていた。それは、その子犬の姿形が、今朝の夢に出てきた巨大な犬そのものだったからだ。もちろん、体型は多いに違うし、夢の中の凛々しさは何一つ見当たらない。しかし、その子犬を見た瞬間、俺は懐かしさを感じていた。まるで久しく会っていない友達と出会ったような、そんな感覚だった。
「お前が、イヌガミ……なのか?」
『そだよ、ご主人さま! ぼくね、ずっと待ってたんだよ。ずっと、よんでくれるのを待ってたんだ!』
「待ってたって……ていうか、お前どっから出てきたんだよ? それに、なんで俺のこと“ご主人様”って……」
疑問だらけで、もはや何に驚いていいのか分からなかった。それでも、悠長に話している暇はなかった。今俺たちは薄気味悪い妖怪たちに取り囲まれ、今か今かと襲われそうな状況だ。聞きたいことは山ほどあるが、それを最優先にしている場合ではない。
「と、とりあえずイヌガミ! お前、こいつらを追っ払えるか?」
『はつのおしごとだね! まかせてよ! ぼくはイヌガミ。ぼくはご主人さまをまもるためにうまれたそんざい!』
俺に指示をもらって嬉しいのか、イヌガミは大地を深く踏みしめた。そして、先程まで愛らしい顔立ちは目の前の敵に意識を集中させたとたん、獰猛な獣の顔へと変貌する。口もとをギリリと鳴らし、大きく遠吠えを向けた。その音はまるで衝撃波にでもなったかのように、周囲を取り囲んでいた妖怪は一瞬にしてその姿を消した。
「嘘……やっつけた、のか?」
『ねね、どうだった、ご主人さま! ぼく、はじめてのおしごとだったからとってもがんばったんだよ!』
褒めて褒めてと言わんばかりに大きな図体を俺に押し付けてるイヌガミを必死こいてやり過ごす。巨体を俺の頭上に押し付けるイヌガミだが、不思議と重さは感じなかった。それを不思議に思っていると、猫屋敷が声をかけてきた。
「重さなんてなくて当たり前だよ。そいつはお前の力そのものなんだからな」
「力……って、結局俺の力って何なんだよ? さっきも覚醒がどうのこうのとか、前の時もあの卵は俺の力だとかなんとか……全く意味分かんねーよ」
『その時の卵が、そいつだよ』
「は? だってコイツ、どう見たって犬だろ?」
『外見だけで判断すんなって。あの卵はお前の押し込められていた霊力が溢れ出した結果生まれたものだ。普通圧縮された霊力は宝具って呼ばれる武器に仕込んでその力を使うが、時折コイツのような生物めいた形をして生まれることがある。これは一種の式神のようなもので、お前が力を注いでやる限りその存在は消えない。その存在の力は圧縮された霊力の量と質で変わってくる』
「な、何言ってんのかさっぱり分からねぇ……てか、なんでお前はそんなことに詳しいんだよ?」
『なに、ちょっとした訳ありだ。俺のことは気にすんな。それより、コイツの名前はイヌガミでいいのか? ずいぶんと安直な名だが……』
「まぁ、コイツを見た瞬間に頭に浮かんだんだ。確かにイヌガミなんて何のひねりもない名前だけど」
肩を竦ませてそう言えば、猫屋敷は俺とイヌガミを交互に見たあと何かしら納得したような顔を見せた。けれど、それを突っ込む前に、イヌガミが口を開く。
『頭に浮かんだのなら、それはお前の閃ってやつだ。その閃ってのは結構重要らしいし、直感的にその名が浮かんだのならそれでいい。けど、実殊。気をつけておけ。名はその存在を縛るものだ。安易な名は自分の身を危うくする』
「え、それどういう……って、猫屋敷?」
猫屋敷の真意が見えず、俺は再度問いかけようとした。けれど、猫屋敷はすでにどこか行こうとしていたのか、人間の姿に戻ろうとはしなかった。
「どこに行くんだよ?」
『ん? 今日はもう帰るよ。色々あったし、お前も新しい力を使って疲れたろ。今度、なんか作ってくれよ』
そう言うと、猫屋敷は引き止める前に姿を消してしまった。まるで闇に溶け込むように見えなくなった彼を、ようやく人間ではない別の存在なんだと理解した。普通の人間には消えて見えなくなる、なんてことはできない。猫屋敷がいなくなり、俺は巨体を押し付けてくるイヌガミを連れて帰路へとついた。