【 第一幕 7 】
「まだ着かないのー。変わりばえしない風景もう飽きたー」
鬼頭邸のある街から市電を乗り継ぐ事三回。最後の市電を終着駅で降りれば、残されたの交通手段は徒歩しかない。街を出たのは朝一番の電車だったのだが、時刻はもう夕暮れをとっくに過ぎている。周囲は夜の気配を漂わせている。
「まだまだだよ。知ってるくせに」
「知ってるけど、思い違いって事もあるじゃない」
「白の記憶に間違いはない。完璧だ。それは保障する」
ワザとらしい子供口調で、ぶつぶつと不満を口にしているのは白さん。律儀に一言一言返事を返しているのは黒さん。
「褒められても嬉しくなーい」
墨を薄く塗りつけたような薄闇の中、俺達は深い森を黙々と歩き続けていた。俺と鬼頭様は言葉を発しない。
「もう疲れたー」
口を開けば文句ばかり。そんな白さんを流石に鬱陶しく感じたのか、鬼頭様が突っ込んだ。
「白お前、全然歩いてないだろ。何でまだ猫のままなんだ」
「えー、歩きたくないからー」
白さんは電車には人の姿で乗ったくせに、降りた途端に猫の姿に戻ってしまった。そしてそのまま、ずっと黒さんの腕の中にいる。
「あのなぁ。黒も笑ってないで何とか言え」
獣道すらない木々が生い茂る森。湿り気の強い土が行く手を阻む。
見渡す限り俺達以外の人影はない。当然だ。こんな時間に、こんな場所を歩いている物好きが、そういるとは思えない。
人は本能的に闇を恐れる。未知の世界を恐れる。
夜目が利き、この森の終着地を知っている俺達だからこそ、歩き続ける事ができるのだろう。
「私は、こうして白を抱いていれるだけで嬉しいからね。全然、苦ではないよ。むしろ道程が遠ければ遠いほど望ましい」
白さんを軽く抱き締めて黒さんが囁く。
強く抱いたら、大きな声を出してしまったら白さんがしゃぼん玉のようにはじけて消えてしまうとでも言いたげな様子で。優しく、優しく。
「相変わらずですね。黒さん」
黒さんは鬼頭様の知り合いのあやかしだ。初めて会った時は白髪の老人の姿をしていた。今は年若い青年の姿で、すらりとした長身を黒い洋装に包んでいる。
俺達みたいに自由に姿を変えられるあやかしに、見た目はあまり重要ではないが、あまりの変化に驚いて理由を聞いてみたことがあった。何故、姿を変えたのかと。彼は悪びれる事無く即答した。「白に似合いの姿をとったのだ」と。
本音か冗談かは分からない。しかし、黒さんは白さんをとても大切にしている。見聞きするこちらが気恥ずかしくなるような、優しい態度も言葉も溢れるほどに与えている。
「白さん、黒さんも。これから何しに何処に行くか分かってますか。逢い引きじゃないんですから、少しは気を引き締めて下さい」
「参尾、莫迦でしょ。何しに何処に行くのか? そんなの分かってるに決まってるでしょ。私は今から、暗くて寒くて寂しくて、おまけに辛気臭い場所に行くのよ」
あまりにも緊張感のない白さん達に忠告すれば、返ってくるのは白さんの辛辣で散々な言葉の数々。だが、誰もそれを否定しない。何故ならばそれは誇張でも何でもなく、事実だから。
そして俺は、誰よりもそれを知っている。
俺達が向かう先にあるのは、人里離れた山の奥深くにある妖狐の里。
俺の故郷。
「そこで、大勢の陰険でいけ好かない狐達に会う。で、その中でも特に私を嫌って見下してる八尾狐に、盛大に頭を下げて、お願い事をするのよ。人間の為に協力してくださいってね。事と次第によっては、代わりにあいつ等のお願いを聞かなきゃいけないかもしれない。正直言って、気鬱でしょうがないの。今からでも、帰れるものなら帰りたいの」
語りながら感情を抑えきれなくなったのか、ただ単に感情を抑えるのを止めたのか、白さんはすべらかな全身の毛を逆立て、ひげをピンと張り、長い尾をぶわりと膨らませる。あからさまな不機嫌の表現に俺と鬼頭様は苦笑いをするしかない。
こうなった白さんを宥められるのは、ここにはいない魁さんか、未だ、白さんを抱いたままの黒さんだけだ。
「白」
黒さんは、乱れた毛並みをわしゃわしゃと整え、ひげを指先で遊ばせ、頬と顎を大きな掌でさわさわと撫で付けた。白さんはその全てを、心地良さそうに受け止めている。
「分かってる。そんな事は出来ない。櫻ちゃんの為だもんね。頑張るわよ。でも、せめて今は」
流石に喉を鳴らしたりはしないが、瞳を閉じて全身から力を抜いている白さんの気配は、一瞬前の激情が嘘のように穏やかだ。
「今は、好きな人の腕の中でぬくぬくしていたい」
「お願い事をしにいくのは鬼頭様じゃないか」
夢見心地で愛を呟く。その辺の普通の少女のような白さんの態度がなんだか面白くなくて、つい余計な事を言ってしまったのは、本当に出来心だった。口に出して直ぐに失言に気付いたが、後悔しても出してしまった言葉はもう消せない。
「参尾、莫迦言うな」
案の定、直ぐに鬼頭様からの呆れ交じりの叱咤を受ける。言葉にはしないが、黒さんも同じように思っているのが、その表情から分かる。
「八尾の阿呆が、人である僕の願いを聞くはずがない。格下だと思われてるお前も同じだ。これは白にしかできない事。分かっているはずだろ」
軽く溜息を吐きながら、そう言い切った鬼頭様。基本的に自信家の鬼頭様にとって、出来ない事を自覚するのは屈辱だろう。彼にそんな事を言わせてしまった申し訳なさに、俺は頭を上げる事が出来なかった。
普通の猫が年経てあやかしに化わる猫又とは違い、俺達妖狐は誕生の瞬間からあやかしとして生を受ける。だからだろうか、妖狐にとって持って生まれた異能の強さが、そのままその者の価値になる。俺の里では、強さが正義であり法でもある。力のあるものは里で神として崇められ、力のないものは里での役割を見つけられずに、外へ飛び出す。確かに何の異能もない鬼頭様は里では無力だ。そして、里を出るしか生きる道のなかった俺もまた、無力だ。
「分かっています」
白さんは「私を嫌って見下してる八尾狐」といっていたが、それは半分本当で半分嘘。今の里長の八尾狐は確かに白さんを嫌っているが、見下してはいない。確かに猫又は、所詮ただの猫が変化したものだし、元はそう凄いあやかしではない。だが、その分、年月を経れば経るだけ力も増すという性質がある。
白さんは、何年生きているのか分からないくらい長生きだし、実際強い。何しろ八尾狐が彼女を嫌う理由も、力比べで負けたから。なんて噂があるくらいだ。
力が全ての妖狐の中で、白さんの言葉はきっと受け入れられる。彼女が頭を下げるつもりでいてくれるなら尚の事。
「行くぞ」
鬼頭様は腕を組み、暫く何も言わずに俺を見下ろしていたが、やがて一言だけそう言うと歩き出した。何も言えず、動けない俺を置いて。
「私に何か出来る事はあるかい。お姫様」
「んー、そうね。帰りも、この姿の私を抱いて帰って」
白さんと黒さんは、俺の言葉も鬼頭様の言葉も聞かない振りでとうに先を歩いている。馬鹿馬鹿しいほどに甘い言葉は、お互いと気まずげな俺と鬼頭様をも思い遣っての事。俺にこんな対応ができる日が来るのだろうか。
「仰せのままに」
「ありがと」
黒さんの応えに満足そうに頷いて、白さんが突然歌い出した。一見、機嫌良さ気に見える態度だが、これも白さん曰く、気鬱を吹き飛ばす為の気合のひとつなのだろう。日本語ではないその歌の内容は俺には理解できなかったが、静かに耳を傾けていた鬼頭様だけでなく、黒さんまでが珍しく盛大に眉を顰めていたから、あまり褒められた歌詞ではないのかもしれない。
「…………」
楽しそうに歌う小さな白猫。その口から紡がれるのは、随分と勢いのある景気の良い歌。
俺は音楽を知らない子供だった。
歌はおろか鼻歌も口笛も指笛も草笛も、音を楽しむという感覚自体を何も知らなかった。そんな俺に音楽を教えてくれたのは、音楽を聞くのが好きな鬼頭様であり、歌を唄うのが好きな白さんでもある。
今の俺は音楽が好きだ。
だが、いつもならけっして嫌いではない白さんの唄う姿が、今日の俺には突撃喇叭を吹きながら、戦場へと向かう兵士に見えた。
それが少し悲しかった。