【 第一幕 5 】
「……そしてお姫様と王子様は」
白いレースに包まれた、ふかふかのソファー。温かそうな肩掛けを羽織った櫻ちゃんが俺の隣に座り、寛いだ表情を見せている。
彼女は寝室に入ってからきっかり一時間後に目を覚まし、沢山の本を抱えて応接室の俺の前に現れた。魁さんと白さんが帰ってしまった事を伝えると、少し残念そうな顔を見せたが、一瞬後には気を取り直すように笑みを浮かべた。
そして、俺に本の読み聞かせをねだってきたのだ。勿論、俺に否はない。むしろ夕闇が近いこの時刻、外で遊ぼうと言われなくて良かった。
「二人一緒にずっとずっと幸せに暮らしました」
『眠りの森の美女』 『シンデレラ』 『白雪姫』 『親指姫』
初めて目にする外国の夢物語は、全て幸せな結末を迎えるお話ばかりで、幼い少女に読み聞かせるのには酷く似つかわしい。俺はがらにもなく幸せな気分を味わっていた。
だだし。
「参尾って絢の助手よりも子守りとかの方が似合うんじゃない? あ、でも今も絢の子守りしてるようなものだから、似合いの仕事してる事になるのかな?」
「……」
何が気に入らないのだろう。独り言にしては大きな、しかも俺にしか聞こえない声でずっと喋り続ける白さんの存在がなければだ。
白さんはソファーではなく床に直接座り込み、飴の壜を縦にしたり、横にしたり、転がしたりと一人遊びに熱中している……振りをしている。
「お兄ちゃん、今度はこの絵本を読んで」
「良いよ。綺麗な絵本だね」
新しい本を差し出され、俺は白さんに向いた意識を櫻ちゃんに戻した。
目の前に置かれたのは、何色もの様々な青を幾重にも重ねて描かれた海の絵。深みのある青に、しゃぼん玉のような輝く泡が幾つも浮かんでいた。
そして、真ん中に居るのは、長い金の髪を波の流れに揺らす人魚。
「うん。人魚のお姫様のお話。一番のお気に入りなの」
その絵の人魚のお姫様は、どこか櫻ちゃんに似ている気がした。
「そうなんだ。じゃ読むね」
「よく考えたら、狐って自由に姿を変えられるんだから、参尾が十歳位の男の子になって櫻ちゃんに近づけば良かったんじゃないかな? 気に入られれば玉の輿だよ。絵本の物語みたいにさ」
早速、絵本を開いて朗読を始めようとした俺の耳に、またしても無粋な白さんの声が飛び込んでくる。厄介な事に、白さんの声は耳だけでなく、直接頭にも響いてきて、俺はその声を無視出来ない。
「……」
「お兄ちゃん、ご本つまらない? 人魚さん嫌い?」
不自然に言葉を切り、固まった俺をどう思ったのか。櫻ちゃんが心配そうに覗き込んできた。
「あ、そんな事ないよ。何処からだっけ、えっと」
「と言うか、もうかなり気に入られてるよね。絢と違って計算してない自然体だから余計にタチが悪い気がする」
「……」
櫻ちゃんの表情に不安の色を読み取り、俺は即座に否定して彼女を宥めた。そして今度こそ読み始めようとすると、また絶妙な横槍が入る。
「お兄ちゃん?」
「ごめん。ちょっと、この子が退屈してるみたいだから、散歩させてもいいかな?」
駄目だ。このままだと話が全く進まない。申し訳ないが、白さんには席を外してもらおう。
「ねこちゃんがお散歩するの?」
「この子はするんだよ」
子供相手に適当な事言って。そんな白さんの呟きが聞こえたが、無視する。俺は片手で白さんの首根っこを攫み、もう片手で飴の壜を攫み、苛立ち任せに少し乱暴に部屋を出た。
「ひどーい、私は邪魔者? 参尾ったらつれないわ、碌に喋ってもくれないし」
「暇だからってからかわないで下さい。今の白さんと会話してたら、俺は完全に変質者です」
「だって本気で暇なんだもん。黒は夜まで来ないし、櫻ちゃんは構ってくれないし、奥様が猫嫌いだからこの部屋からは出るなって言われちゃうし。そういえば、櫻ちゃんは外国の物語が好きなんだね。意外と黒と話が合うかもしれないね」
「黒さんと桜ちゃんは趣味が違うと思います。黒さんの好きな話は綺麗じゃないです」
「あら、彼はとても綺麗に終わる話が大好きよ。ハッピーエンドっていう意味のね」
「ハッピーエンド?」
「めでたしめでたしで終わる話」
俺は暫く廊下に佇み、白さんの取り留めのない愚痴を聞く。
「暇なら、姿を変えて館の見回りでも何でもしててください。白さんだって姿を変えるくらいは朝飯前でしょう。猫より小さい何か。鼠とか、蠅とか、蚊とかなら見つかり辛いでしょうし」
「……参尾、実は私の事嫌いでしょう」
「いいえ、とんでもない」
「さっき絢の事色々言ったの怒ってるの? 細かい事を根に持つ雄は雌に嫌われるよ」
「すべてを否定はしませんが。今は兎に角、どこかに消えてて下さいっ」
今すぐ消えてくれないと、白さんをぶん殴ってしまいそうだ。そう思ってしまったのが多分、顔にも口調にも出たのだろう。白さんは皮肉気に笑うと、不毛な掛け合いに終止符を打つ。
「はーい。じゃ、櫻ちゃんのことはよろしくね」
「言われるまでもありません」
笑う白さんに笑い返せない。
からかわれるのには慣れている。鬼頭様も俺をよくからかう。それでもそのつどそれを真剣に受け止めてしまうのは俺の悪い癖なのか。余裕の無さの表れなのか。自己嫌悪に少し落ち込む。
「櫻ちゃんにあんまり沢山飴食べさせちゃ駄目だよ。参尾なら食べても良いけど」
「は?」
「飴。それに何か薬が混じってるかもしれないから」
「はっっ?」
その上、今までのふざけた態度が嘘のような真面目さで白さんが告げた言葉。それは、ただでさえ余裕の無い俺に追い討ちをかける。
「あの飴変な味がしなかった? 匂いが変だと思ったんだけど」
「微か過ぎたから、気のせいかとも思ったんだけど。変な苦味が舌に残りました。だから鬼頭様には食べさせなかったんですか?」
「櫻ちゃんが食べても気分悪くしたりしないみたいだから、そんなに危険はないと思う。ただ、匂いがちょっと獣臭かったような。動物性の薬なのかな? 本当はじゃれついてる振りで、瓶ごと壊しちゃおうかとも思ったんだけど、中身は兎も角、あの壜はお祖父さんから貰った本物の宝物だし、流石に壊せないよね」
「それが言いたくてワザと俺を怒らせたんですか? 二人だけで話をする為に?」
「参尾は意外なことを聞くと顔に出ちゃうからね。櫻ちゃんに不審に思われちゃう」
「もう不審に思われてますよ」
「あらそう? 兎に角、よろしく。出来たらその飴取り上げといて。それか参尾が全部食べちゃってよ」
白さんの口調は軽い。ならば、そんなに危険はないのかも知れない。でも俺は念の為の質問をした。
「出来たらで良いんですか? そんなに危険はないんですか?」
「んー、そうねぇ。なら、櫻ちゃんを齧っても良い?」
だが、櫻ちゃんを心配する俺に、白さんはあまりにも意外であまりにもとんでもない事を言い出した。
「どういう話の流れですかっ! 良いわけないでしょうっ。あんな小さな子が、白さんに齧られたら軽傷じゃ済みませんっ。毒より危険ですっ」
「参尾、声大きい」
櫻ちゃんに聞こえちゃうよ。そんな事を言われても声は抑えられない。冗談にしても性質が悪い言葉に、俺は全力で本気の否定を返す。
「だよね。じゃあ参尾を齧っても良い?」
「俺、多分死んじゃいますけど」
「んー駄目か。毒に犯された肉を食べれば、毒の種類も分かるんだよ?」
「怖い事言わないで下さい。なら直接飴を直接食べるんじゃ駄目なんですか?」
言葉を重ねる毎に、白さんの話す内容は性質の悪さを増していく。頭を抱え、ここに居ない魁さんに助けを求めるように天を仰げば、ようやく白さんが言葉遊びを止めてくれた。
「やっぱりそれしか無いか」
いつの間に手中にしていたのか、白さんの白い毛並みの手に赤い飴が見える。彼女は躊躇する事無く、それを口の中に放り込んだ。
「初めからそうして下さいよ」
ちゃんと飴用意してるんじゃないですかっ、そう叫ぶ俺にも白さんは涼しい顔だ。
「私、甘い物嫌いなんだもん。嫌いなものは食べたくない。猫は雑食で肉好きなのよ」
ここで好き嫌いを出しますかっ。よく聞けばえらく情けない台詞を堂々と、尻尾をぴんと張ってまで言い切った白さんに脱力する。この人の言動は何処までが本気だかさっぱり分からない。聞けば、全て本気だと言われかねないから聞かないが。
「白さん。ひとつだけ、聞かせてください」
その代わり、さっきから気になっている事を聞くことにした。
「なに?」
「白さんはこの件をどう思っていますか?」
「どうって?」
白さんは俺に視線を向ける事なく少しだけ上向いて、ころころ音を立てながら飴を舐めている。そうしないと小さな猫の口から大きな飴が飛び出てしまいそうなんだろう。
「本当に家族の中に犯人が居ると思っていますか?」
知らない人から見れば、それなりの微笑ましい光景かもしれない。だが、嫌いなものを食べているからだろうか。そんな何気ない態度からも、白さんの機嫌が微妙に下がってきているのが分かってしまう。俺は慎重に質問を続けた。
「そもそも、本当にこれが事件だと思っていますか?」
「さあね」
案の定白さんの答えは素っ気ない。だが、俺もここで引く気はない。
「もしかして、白さんは全てを知っている?」
「全てって何」
「この家で起こった事。それに、もしかしたらこれから起こるかもしれない事です」
本当は理解できなかった。櫻ちゃんの家族を疑う白さん達が。だって血の繋がりとか、親愛の情とか、人間はそういうものを大切にするんじゃないのか? それに、この家はこんなにも居心地が良いのに。
「さあね。質問多すぎよ、参尾。考えるの疲れちゃう」
白さんは面倒くさそうに溜息を吐くと、結局、俺の問いには否定も肯定も返さなかった。
「そうですか。分かりました」
白さんは何でもない事なら、隠しはしない。
ならばやはり、知っている事も考えている事もあるのだろう。俺にはまだ言えない事が。そう思ったが、もう俺は、質問を繰り返しはしなかった。こうなったらどうせ、何も聞き出せはしない。
「あんまり長い間、櫻ちゃんを一人にはできないな。参尾はもう戻って。私はこの屋敷の人間の噂話を盗み聞きしてくる。時間的にそのまま黒と合流するから、今夜は部屋には戻らない」
やがて、飴を食べ終わった白さんが何かを考え込みながら、一気に喋りだした。
「それと櫻ちゃんには、絶っっ対に、必ず、これ以上、飴食べさせないでね。約束して。念の為に参尾も食べないで」
あまり沢山食べさせないでが、絶対に食べさせないでに変わった。しかも俺も。飴にはやはり、危険な何かが仕込まれていたのだろうか。
「後、今日は櫻ちゃんと一緒に寝る事。拒否はされないと思うけど、誰かに止められても、一緒に寝て。でも参尾は眠っちゃ駄目。一晩中起きて私が消えてから部屋に入った人間、入ろうとした人間をちゃんと覚えていて。あ、参尾が櫻ちゃんと寝るのを止めた人間も覚えててね」
次々と俺に指示を与えていく白さんに、問い返したい事は山ほどあった。だが俺は、指示の全てを噛み砕き、一番知りたい事だけを聞いた。
「何故、覚えていなければならないんですか?」
「決まってるわ。今、櫻ちゃんの寝室に忍び込むような奴、櫻ちゃんを護るのを邪魔しようとする奴は、全員犯人候補だからよ」
「なら鍵を掛けて、誰も入れないほうが良いんじゃないですか」
さらりと語られたのは本日聞いた中でも、最重要かつ意外すぎる言葉。咄嗟に何を言ったら良いか分からなくなった俺が返したのは、酷く直接的な質問だった。
「それは駄目。誰かが害されようとしている時、尚且つ加害者を特定出来てない時は、少し加害者に自由に動いてもらった方が良い。誰かに餌になってもらってでもね。ただしその場合、守りは完璧にしないと。絢や魁、そして白が居ない今なら、相手も油断するかも知れないし、尻尾を出すかもしれない。唯一傍にいる貴方は、まあ見た目は頼りないし」
「それって、櫻ちゃんを囮にするって事ですか。そんなの流石の鬼頭様でも怒りますよ。ましてや魁さんなら尚更」
「怒るなら、責任もって私が怒られるわ。不安なら護りを置いていっても良いけど、今はまだこの件にあやかしが関わってると知られたくないんだよな」
「白さん?」
「確かな事は言えないけど、コレ、こっちの領分かもしれないのよ」
独り言のように小さく呟く白さんには、何か考えがあるようだった。だが俺には何がなんだか、さっぱり分からない。それはもう俺が質問できる次元を超えていた。
彼女の考えが分からない。
彼女が何に気付いたのか分からない。
「分かりました」
でも、だからこそ俺は彼女に従う事に決めた。
白さんは鋭い。
鬼頭様贔屓の俺から見ても、普段の白さんの行動は、鬼頭様よりも余程探偵らしい。何も知らない俺は、今の白さんの行動を邪魔してはいけないのだろう。何も出来ない事を自覚するのは悔しいが、今はまだ俺が何もしない事が、廻りまわって鬼頭様の為にもなる気がした。
「もう行って下さい。櫻ちゃんは俺が責任もって護ります」
俺は黙って白さんの言葉に頷いた。
「櫻ちゃんをお願いね」
静かな口調で、断固とした声で。それだけを告げて白さんは館内の見回りに去っていく。
もしも、此処に居るのが俺でなく、鬼頭様だったら白さんは別の行動を取っただろうか。俺はやはり役立たずなのだろうか。
「お願いね、か」
だが、俺は白さんから与えられた衝撃に動揺する心を押さえつけ、細心かつ簡潔に与えられた指示を思い出す。
思い悩むのは後にしよう。今はただ出来る事をするしかない。
「取り合えず、櫻ちゃんの傍に」
まずは部屋に戻ろう。
「それにしても」
緊張の中、俺は少しだけ笑う。
白さんが見回りの為に選んだ偽りの身体は、よりにもよってゴキブリだった。それはやっぱり俺に対する嫌味だったんだろうか。
「細かい事を根に持つ雌は嫌われますよ、白さん」
せめてもの意趣返しにと、面と向かっては言えない言葉を小さく呟いて、俺は櫻ちゃんの待つ部屋の扉を開けた。