【 第一幕 18 】
「駄目です」
白さんの刀は寸分違わず葛様を貫く、筈だった。突然現れた大きな障害物さえ無ければ。
「駄目です!!」
葛様と白さんの間に割って入った人影が、再び同じ言葉を叫ぶ。
「刀を引いて下さい、白様。葛を切っては駄目です」
名を呼ばれた白さんが、葛様が驚きに目を見開く。この部屋にある全ての視線が人影に集中した。
「彼女を傷付けるのは止めて下さい」
からりと鳴ったのは下駄の音か。和服を着た見慣れない青年が白さんの前に立っている。両手を限界まで広げたその姿は、葛様を護ると言葉以上に雄弁に語っていた。
「あっぶな」
流石の白さんでも、その人ごと葛様を切るわけにはいかず、酷く間抜けな一声と共に彼女は全力で呪を込めたであろう刀を半ば強引に引いていた。
一戦触発の空気が瞬時に消え去る。
「何で」
奇妙に静まり返った空間は一瞬の沈黙の後、困惑のざわめきを呼んでいた。
「何で此処にコイツが居るんだ」
「知らないわ」
「あんたが知らない訳無いだろ」
当然だろう。白さんと葛様、二人の真剣勝負に水を指したのは、それ位にとても意外な人物。それは俺にとってだけでなく、黒さんや白さん、結果的に守られた葛様にとってもそうだった。その場にいるあやかし達は皆、一様に困惑の中にいた。
「私が呼んだんじゃないもん。私はちゃんと宝石に彼を閉じ込めてた。彼を開放したのはそっちじゃないの?」
「知るかっ。確かに開放したのはこっちだが、こんなの計算外だ。彼にはちゃんと、然るべき処で待っててもらう手筈になってた」
いつもの。よく言えば冷静な、悪く言えば何事にも興味の無い(白さんの事除き)黒さんとは別人の様に、彼は次々と言葉を重ねていく。それが、鬼頭様の計画の暴露に繋がっている事すら、今の黒さんは気付いていない。白さんが聞いたら盛大に眉を顰めて(しかめて)怒鳴りつけそうな事を、黒さんはあっさりと喋っていた。
「嘘よっ。なら何でこんな事になってるのっ」
「ここで俺が嘘を言う利点は?」
「知らないわよ、そんなのっ」
普段なら、黒さんの態度は葛様の反応を見る為の誘導尋問とも取れる。だが、想定外の出来事に焦る黒さんの声に演技の匂いは無い。そして、そんな混乱の中、きっと一番冷静なのは俺だと思った。何故なら俺には葛様の声に含まれる感情が聞き取れたから。葛様は真実を語っている。彼の存在は葛様の策略では無い。勿論、鬼頭様の計画ではない。
ならば何故、彼は此処に居る? 彼を此処に送り込んだのは誰だ?
「コイツはあんたの切り札じゃないのか。あんたが危なくなれば、コイツが此処に引き寄せられるとか」
「私にそんな力は無いっ。それに、私の企みなら白様が気付かない筈無い」
「性悪狐の言い分なんて信用できるかっ」
葛様と黒さんは言葉を交わす毎にイライラを募らせている。彼らしくなく喧嘩腰の黒さんに、顔に似合わず短気で沸点の低い葛様。相性は最悪で、今の二人はもう、互いに意味を持たない罵詈雑言を言い合っているに過ぎない。そして俺はというと彼が突然現れた理由、彼が存在する理由をただ考えている。何故? 口には出せない疑問が、言えないだけにもやもやと、胸に蟠っているのを感じる。
はあっ。溜息と共に白い息が吐き出されたが、もやもやは消えない。前言撤回だ。やはり俺も冷静ではない。三者三様。俺達は、突然降りかかった混乱から抜け出せずにいる。
「……うるさい」
そんな時だった。一瞬で俺達を制したのは白さんの声。
尤も、制したといってもそれは、常の白さんの凛とした鋭いものではなかった。威圧感の欠片も無い、吐息のような、掠れた声。それでも、皆の注意を引くには充分で。俺はようやく、自分達の置かれている状況を思い出した。実の無い言い争いなどしている場合ではない。俺は何をおいても、白さんの無事を確認しなければならなかったのに。
「……焦った」
やがて白さんは、刀を胸に抱き締めたまま、大きく息を吐いて再び呟く。
「切っちゃうかと思った」
腰が引けた尻餅姿で、足だけでなく全身を投げ出し荒い息を吐く。そんな滑稽な姿が、今度ばかりは演技ではない、白さんの本気の衰弱を表していた。
「白っ」
慌てて駆け寄る黒さんの声は、今までで一番、真剣味を秘めていた。彼の目にはもう、今まで言い争っていた葛様も映っていない。そういえば、誰かと対峙中の白さんに黒さんが近付くのは、これが初めてかもしれない。少なくとも、俺は見たことが無い。だが、それだけ今の白さんは危ういのだ。
「全く。馬鹿なのか、お前は」
目を大きく見開いて、悪態を吐きながら白さんをぐいと自分の方に引き寄せる。その声にも態度にも明らかな苛立ちと憔悴とが含まれている。今までとはまた違う黒さんの動揺。
「大丈夫か」
「うん、まあ」
いつもならさり気なく身軽に、黒さんから逃げる筈の白さんも、今だけは彼のなすがままだ。否、逃げたいが、逃げられない。それが正解かもしれない。
「ちょっとしんどい……かな」
当然だろう。本気の呪いを込めた術を強引に止めたのだ。今の白さんの身体に掛かっている負担は、呪いを操れない俺にだって、相当なものだと分かる。破られた呪いは術者に返る。しかも、数倍の威力を持って。もし、そうなら、白さんは。
「まだ近づくなよ、参尾」
名を呼ばれた俺は、咄嗟に近寄ろうとしていた身を止めた。脊髄反射のような素早さで葛様にも目を配る。そして、葛様が俺と同じ様に立ち尽くしているのを確認する。
「見せてみろ」
じろじろと検分するように白さんの全身に視線を這わせ、ついでのように、掌で肩や背や頭を撫でる。心配しているのは同様だったが、いつにない黒さんの態度に気圧されて、俺は何も出来なかった。
俺達を取り巻く空気がどんどん冷えていく。
「どうして、こんな」
白さんを見つめる葛様の表情は、呆然といった感じだった。白さんの醜態が、そして青年の存在が信じられないという様に、石の様に硬直したまま目の前の光景を見つめていた。
反対に青年は冷静だった。そういえば葛様と黒さんが言い争っている時も、彼は何も言わなかったし、何も行動しなかった。
彼はきっと、初めからこうなる事が分かっていたのだろう。自分が盾になれば白さんは刀を引くと、葛様を助けられると、理解して行動したのだろう。彼は苦しむ白さんと焦る黒さんに値踏みするような視線を向けた後、葛様だけに情の篭もった視線を向けた。にこやかな、穏やかな笑みを口元に湛えて。
「……」
青年の態度に、物申したい気持ちはあったが、ここで騒ぎを起こすのは不味い。それに青年の表情は兎も角、彼が動かずに居てくれる事は俺にとって幸運だった。彼がこれ以上、今の黒さんを刺激するのは不味いと、俺はとてもよく理解していた。白さん絡みで黒さんが怒ったら、これまでに無い惨事になるのは明白だ。
本当は葛様や青年を連れ、部屋から出た方が良いのかもしれない。二人をとっとと鬼頭様に引き渡し、鬼頭様や魁さんと共にこの場に戻って来た方が良いのかもしれない。が、知らぬ間に白さんが二重三重の結界を張っていたこの部屋から、俺の意志で出るのは不可能だった。
「逆流はしてないな」
「ん、まあね。もうちょっとだけ休ませて」
二人のやりとりに安堵の息を吐く。どうやら最悪の事態だけは回避できたらしい。俺は心底ほっと胸をなでおろした。
「本当に馬鹿」
だが、安堵は長く続かなかった。突然。葛様の怒声が飛んだからだ。
「今更こんな事して」
葛様の言葉は、彼女達の戦いを邪魔した青年に向けられていた。
「こんな事して、どうなるか分かってるの」
怒りを表しながら、葛様の双眸は揺れていた。彼の存在、行動の意味、全てが謎で不安なのだろう。
「……貴方は傷は?」
そして俺も暫しの躊躇の後、ひとつの不安を口にする。邪魔をした彼は無傷だろうかと。俺の言葉に、葛様は青年ではなく白さんを見つめる。自分が倒されそうになった時よりも余程不安気な表情。その顔は蒼白だった。
葛様の不安は理解できる。何故なら、その人が白さんの刀でほんの少しでも傷ついたら、とんでもない事が起こるから。鈍い俺でも流石に青年の正体には気付いていたから。




