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【 第一幕 17 】

「でも、私は一人は嫌よ」 

 何度言われても、今の俺には葛様の言葉が響かない。以前の、里に居た頃の俺なら、鬼頭様と出会ったばかりの頃の俺なら、素直に説得されていたかもしれない。

 本当は此処に来るまで、まだ少し不安だったのだ。葛様と対峙し、彼女の想いに同化してしまったらどうしようかと。土壇場で、鬼頭様や櫻ちゃんを裏切る事になったら、白さんと戦うことになったらどうしようかと。

 だが、不安は杞憂だった。

 俺は人との暮らしに順応し過ぎたのだろうか。

 人を愛し過ぎたのだろうか。

 今の俺の胸にあるのは、葛様への嫌悪と櫻ちゃんへの同情、そして藤堂老人への哀れみだけだ。

「葛様、貴女はっ」

「勝手に攫ったが、聞いて呆れる。あの純朴な青年は、君の妖気に当てられただけだ」

 だが、葛様へ怒りをぶつけようとした俺に代わるように、今までじっと動かず、一言も喋らず回復を図っていた白さんが、突然会話に参加してきた。

「もう忘れたのか? 里を出たのは、君が望んだからだっただろう」

 体力は回復したのだろうか。ほんの少しだが、青白かった頬に赤味が戻っている。

「私は彼に尽くしたわ」

「だから、その見返りに命を奪った? 自分は手を出さずに何も知らない男を陥れた? たいした尽くしだ」

 怒りの為か、白さんの漆黒の瞳に鋭い刃が煌く。

「私が手にかけれる筈ないじゃない。私は彼を愛しているのよ。今までも、これからも。ずっと、ずっと。永遠に」

「彼女だって」

 朗らかに夢見るように愛を語る葛様に、覆い被せる声。

「お祖父様を愛してた。君に唆されなきゃ、親族殺しなんてしなかった」

 一閃の鋭さを持つその声には、葛様の行為を決して許さないという、宣言にも似た威嚇が込められていた。怒りを露わにする、剥き出しの殺意。ほんの少し、覚える違和感。

「あの医者だって、本質は優しい優秀な人間だ。君がいなければ、道を踏み外しはしなかった」

 これは本当に白さんの声だろうか。

「あら、それはどうかしら? あのお医者様、簡単に私の願いを叶えてくれた。あの娘だって、可愛い顔して心の中に底なしの暗闇を飼っているわよ。私はほんの少し、それを開放する手伝いをしただけ。人聞きの悪い事言わないで」

「葛様っ、櫻ちゃんを貶めるのは止めて下さい」

「ほら、参尾までもうあの娘に落とされてる。会って幾日(いくにち)もたってないのに。あれは、大人になったら立派な傾国(けいこく)になる器よ。今のうちに壊してあげた私に感謝すべきじゃない?」

「葛様っ」

「心の暗闇、ね」

 あまりに侮辱した発言を聞いていられなくて、少しでも反論しようとした俺は、言葉の途中で息を飲んだ。

外面如菩薩内心如夜叉(げめんにょぼさつないしんにょやしゃ)の子供がそれを言わないでね。哂えるから」

 俺と白さんの先に立つ葛様。その更に先、葛様の背越しに聞こえてきた静かな声。真冬の冷え冷えとした風の様に肌に突き刺さる硬い声が、俺には一瞬、誰のものだか分からなかった。

「なっ」

 驚いたのは俺だけじゃない。葛様も振り返り、驚きに目を見開いている。無理も無い。一瞬で背後、弱点を取られたという驚愕は、瞬く間に、別の驚愕(きょうがく)に取って代わった。

「白様……」

 そこに居たのは白いあやかし。

 体温を感じさせない白磁の肌、絹糸を思わせる白い髪。すっきりと通った鼻筋に白く長い睫毛。血液など通っていないように見える白さの中で、大きな瞳だけが血のように赤い。

 俺でさえ、何年ぶりに見ただろう。それはあやかしである白さんの姿。

「里長に会って、解毒の妙薬を手に入れてきたの。でも、こんなにギリギリになるとは思わなかった。腕を上げたのね、葛。おかげで黒に身代わりを頼まなきゃならないし、焦ったわよ」

 驚きに身動きひとつ取れない俺達に見かって、白さんは世間話のような愚痴を言った。その声にはもう冷たさは欠片も無く、目の前に居るのが確かに白さんなんだと、俺に伝える。

「解毒って。まさか」

「本当に随分と長い時間を掛けて、櫻の身体を変えていったんだね。私じゃ手の施しようがなかったし、里長でさえも薬を作るのに難儀(なんぎ)してた。でも、何とか間に合ったわ」

 そうか、遅まきながら気が付いた。あの日、里長に態々葛様の件を報告に行ったのは、解毒薬の依頼でもあったのか。時間をかけて、徐々に妖狐の血肉に犯された少女の身体を浄化するのは、確かに妖狐にしか出来ない。しかも今回に限るなら、葛様よりも格の高い妖狐にしか。

「そんな事させない。させないっ」

 白さんと、すっかり変化を解き鴉のように黒いコートに身を包んだ黒さんを見比べて、怒りに身を震わせた葛様が言う。

「やっぱり白様は意地悪だ」

 白さんの言葉だけで、半ば以上自分の作戦の失敗を悟ったのだろう。たとえ、此処で黒さんや俺を倒しても、解毒薬があれば葛様の望みは潰える。

「私の邪魔ばっかりする」

 怯えた声。

「分かるくせにっ」

 必死で取りすがる声。

「独りで生きるのが、凄く、すっごく嫌な事だって、知ってるくせに」

 自分を守ろうとする声。

「嫌い。白様なんて大嫌い」

 俺には葛様の怒りよりも、哀しみが見えるようだった。

「嫌いで結構」

 だが、同じ感情を見ている白さんは、もう既に、全てを切り捨てる覚悟をしていた。

「箱入り狐が野良猫と喧嘩して勝てると思ってるの。この馬鹿娘」

 ぽそりと呟かれた声は、またしても冷たかった。

「絶対に邪魔なんてさせないんだから」

 その叫びが合図だったかのように、葛様の気配が変わる。

「葛様?」

 彼女の呼吸に合わせ、生臭い息が肌を撫でる。一瞬で部屋の中が、異臭で満たされたように感じた。

 気持ち悪い。

「何で……」

 隠そうとしても隠し切れない、それは腐臭だった。

「邪魔させないはこっちの台詞よ」

 葛様の変化も想定内だったのか、思わず顔を背けたくなるような腐臭にも、白さんは眉ひとつ動かさない。ただじっと、真正面から葛様と対峙している。

 葛様と白さん。お互いの間にあるのは殺気交じりの緊迫感。

 俺は、今は隠されている体毛が総毛立つのを感じた。気を抜くと、喉の奥を饐えた液体がせり上がる。目を閉じてしまいたいのに、葛様と白さんから目が離せない。

「全く。こんな事になる前に何で……」

 白さんの瞳が不意に和らぐ。何かを懐かしむような、愛おしむかのような眼差しで葛様を見つめている。だが、俺が疑問に思う間もなく、そんな表情は一瞬で消えた。

「私の縄張りでオイタをしたんだから、お仕置きは覚悟の上よね。葛」

「知らないっ。嫌いっ! 大嫌いっ! 死んじゃえっ」

「それも、こっちの台詞」

 半狂乱の葛様とあくまでも冷静な白さん。何度かの言葉の応酬を繰り返す中、いつの間にか、白さんの右手には一振りの日本刀が握られていた。いつかの灯りのように白さんが出したのだろうか。

 だが、俺は違和感に気付いた。

「ん?」

 白さんの手には余る程の見事な直刀。だが、ソレからは神聖さも禍々しさも感じない。俺は隣に立つ黒さんにこっそりと問い掛けた。まさか、そんな事は無いだろうと思いながら。

「黒さん。あれ、もしかして、正真正銘ただの刀だったりします?」

「ああそうだ。あれは人の世で生まれた刀だ」

「馬鹿なっ。そんなんじゃ、葛様に傷ひとつ付けられませんよ」

 まさかと思った問いを肯定され、焦りに息を飲む。 黒さんの言うように神器でも魔器でもない、真っ当な日本刀だとするのなら、アレは何のことは無い、ただの鉄の塊でしかない。白さんが何の策もないまま葛様と戦うとは思えないが、格下と侮れば、手酷いしっぺ返しを喰らうかもしれない。

 そういえば、すっかり忘れていたが、葛様相手には黒さんだって手を焼いていたんだ。

「大丈夫。人の世で生まれはしたが、人の手で鍛えられたわけじゃないんだ。あれは」

 だが、俺の不安を黒さんは笑い飛ばした。揶揄ではなくて本当に、大声を上げて笑うから、葛様も白さんも、一瞬にらみ合いを止めて、怪訝そうな視線を向けたくらいだ。

「あれは、白が鍛えた日本刀だ。無銘だが、この場合は最上級品だろ」

「げっ」

 白さんが長い人生、暇と好奇心に任せて色々な事に手を染めていたのは知っていたが、刀鍛冶まで齧っているとは思わなかった。そして、あの刀が白さん作なら、確かに、あやかしにとってはこれ以上無い恐ろしい凶器になる。正直、俺なら触りたくも無い。

「僅かの間でも妹と呼んでいた彼女が、弟と呼んでいた君が泣くたびに、忘れられない記憶が引き攣れる様に痛むから。だから。ずっと逃げたかったのは本当は白だったんだ。だから、俺は彼女が、このまま戻ってこなくても良いと思ってた。その時は俺が幕を下ろそうと思ってた」

「記憶が痛む?」

「ああ。ここに来たって事は、君は祈祷魁から根付を見せてもらったんだろ? あの傷は簡単に言えば心に憑いた傷なんだ。でも、白は戻ってきた。だからもう、覚悟は決まってるさ」

「白さん」

 黒さんの言葉の半分も理解できていない俺の目の前で、白さんが白刃の根元を握る。ぎゅうと音が出そうな程に、渾身の力を込め握り締めれば、当然のように拳からは大量の鮮血が滴り落ちた。

「白さんっ」

 ぽたぽたと途切れる事無く、切先から鮮やかな色を帯びた雫が滴る。見ているだけの俺でも、想像した痛みに身が縮んでしまう光景。それでも白さんは力を抜かない。寧ろ、ますます拳に力を込める。

「そろそろ良いかな」

 どれ程そうしていただろう。落ちる赤が血溜まりとなり、白さんの足元を染め出した頃、彼女は拳を開く事無く、刀を一気に引き抜いた。

「白さんっ」

 白刃で指が切断されてもおかしくない。それ位の勢い。刀は白さんの血で紅く濡れ染まった。

「七代祟る猫又の呪い。妖狐のあんたには一代しか効かないけど、充分だわ」

 ぽそりとした呟きの後、全身に猫又の血を浴びた刀を白さんは片手で掲げる。

「独り残るのが嫌なら、共に消えろ」

 言葉と同時に、白さんは葛様に向けて右手を水平に振るった。


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