【 第一幕 16 】
「なっ」
両手と両足、体中を細く強靭な糸で戒められて、今にも倒れ込みそうに膝を地に突けて、それでも瞳だけは前を見つめ続ける。煌びやかな照明を浴びた白さんの顔は、常に無い程に色をなくしていた。
「馬鹿な子。何で来るのよ」
見た事もない白さんの醜態。真白な顔。こんな事で、名は体を表すを地でいかなくても良いものを。
「あらっ」
白さんの前に立つ長身の影。今まで白さんだけに向けられていた視線が俺に向く。
「お久しぶりね、参尾」
濡れた紅い唇から零れ落ちるのは、酷く耳に馴染む声と熱い吐息。伏せられた長い睫毛に彩られるのは切れ長の瞳。その濡れた漆黒に見つめられ、歓喜しない男はいないだろう。
「会えて嬉しいわ」
俺の手に指を絡めて、その柔らかい頬に誘導する。
黒い弔いの正装を身に付け艶やかに笑う麗人。その姿は見間違える事など無い、懐かしい幼馴染みその人。
「参尾?」
だが、葛様が身に纏う空気は、想像以上に変質してしまっている。目を瞑れば、目の前に居るのが葛様だとは思えないほどに。
葛様は里長の血筋だけあって、力は同年代の子供達の中で飛び抜けていた。だがその実、長や白さんが先行きを心配するほどに、おっとりとした気質の持ち主でもあった。あの時期、白さんが暫く里に留まっていた理由は、葛様の穏やかすぎる性格が不安だったからだと、俺は後から聞いていた。
だが、今の葛様からは禍々しさしか感じない。
「全く、餓鬼が」
「どうしたの、参尾?」
苦々しげに俺を見る白さんと、親しげに微笑む葛様。
二人の傍で、俺は瞬きさえも出来ず固まっていた。
「仕方ないの。だって、意地悪するから」
やがて、俺の動揺を感じ取ったのか、葛様が子供の言い訳の様な言葉をぽそりと呟く。「私は悪くないもん」子供の頃によく聞いた、そんな言葉さえ聞こえてきそうな口調だった。
「昔から、白様は意地悪だった。いっつも、お父様の味方をして、私の邪魔ばっかりして」
葛様の言葉に無言で首を振る。
違う。
昔から白さんは子供には優しかった。叱られる時は、いつでもちゃんとした理由があった。
あの頃、腕白で甘えたがりの俺達を、白さんが叱らない日は無かった。
あの頃、陽気で朗らかだった白さんが、俺達を笑わせない日は無かった。
ずっとこの日々が続けばよいと、本気で願っていた。
俺達三人の記憶は、想い出は、楽しいものばかりだった筈だ。そんな事も忘れてしまったのだろうか、葛様は。
「葛様、どうして」
動かない、言葉も発しない白さんに代わり俺は口を開く。だが、出せた声はいつも凛としている白さんのものとは違い、酷く震えていた。
「良かった、やっと名前を呼んでくれて。忘れられたかと思った」
そんな俺に、葛様は語りかける。言葉の通り本当に嬉しそうに。愛しい幼馴染みに向ける、満面の笑みを崩さずに。
「本当に貴女が犯人だったんですね。何故、殺したんですか。何故、櫻ちゃんの身体を欲しがったんですか。何故……」
「参尾?」
「どうしてですかっ」
「決まってるじゃない。そうしたかったからよ」
俺は葛様の笑みに応える事無く、おそらくは彼女にとって、面白くないであろう質問を繰り返す。それに気を悪くする風でもなく、葛様は俺に笑みを向け続けた。
「貴女はそんなにも、彼を憎んでいたんですか。人に為りたかったんですか」
「何を言っているの? 憎む? 人に為りたい? そんな莫迦な事、考えた事もないわ」
問い掛けはもう泣き声だった。だが、そんな俺の真剣さを哂うように、葛様は小首を傾げる。
「はっ?」
肩透かしをくらい、思わず言葉に詰まった俺に葛様は続けた。
「殺したのは必要だったから。身体を欲しがったのは、やっぱりそれが必要だったからよ」
「必要?」
「ええ。彼が生きるために」
何が必要だったというのだ。訳が分からなくなった俺に、葛様は仕方のない子ね、と言う様に答える。
「……まさか」
葛様の言葉を聞いて、今まで誰考えもしなったであろう憶測が頭に浮かぶ。否、もしかしたら鬼頭様と白さんは、頭の片隅位で考えていたのかもしれない。だから、事件の解決を急いだのかもしれない。でも、幾らなんでも、そんな事。
「まさか」
そんな事を、葛様がするとは思いたくない。
「だって、必要だったの。彼が、私と生きる為に」
「そんな……」
だが、葛様はそんな俺の希望を一瞬で打ち砕いた。
「魂の入れ替えは、血の繋がりがあるほうが楽なの。参尾も知ってるでしょ。此処で彼と一番血が濃いのはあの子だった」
何でも無い事の様に。否、違う。自分の行動がどれ程、素晴らしいものだったのかを誇る様に。葛様は高揚に頬を染めて、夢見る瞳で語り出す。
「そんなのって」
俺達は間違っていた。葛様は自分の依り代として、櫻ちゃんの身体を狙っていたわけではなかった。
葛様が櫻ちゃんの身体を欲しがった本当の理由は。
葛様が望んでいたのは。
「どうして。そんな事、きっと彼は望んでなかった」
人である藤堂老人の身体はもう限界だった。彼が、あやかしである葛様と共にいる為には、今の身体を捨てる必要があった。
「そんな事、彼に耐えられる訳が無い」
だが、人は魂だけでは生きられない。彼が生き延びる為には器が必要だった。生きた器が。
「どうして、そんなひどい事」
葛様は藤堂老人の魂を、櫻ちゃんの身体に容れるつもりだったのだ。
そして、永久の生を与えるつもりだった。
そんな事、出来るわけが無いのに。
「だって、私を独りにしようとするから。あの人ずるいじゃない」
「ずるい?」
思いがけない言葉で返され、少し怯む。
「ええ。勝手に私を攫っておいて、勝手に私を独りにしようとするなんてずるい。どんなにお願いしても彼は動いてくれなかった。だから、私が動いたのよ。私にはそうする権利がある、そうでしょう」
葛様の言葉は彼女の中では正論なのだろう。確かに人とあやかしが共存しようと思ったら、葛様のとった方法が、選ぶべきひとつの道である事に間違いは無い。その方法を使い、人と共に生きているあやかし達がいる事も知っている。
だが。
「いいえ、駄目です。葛様」
「参尾?」
俺はこの部屋に入ってから初めて明確な想いを胸に、葛様に向かって一歩を踏み出していた。
「俺は、今の貴女を許せない」




