【 第一幕 10 】
「あの子は人に憧れ、里を出た身」
「だから。もう貴方ともこの里とも、何も関係が無いと?」
長と鬼頭様の言葉が耳を素通りする。
「白さん」
「んー」
「初めからこうするつもりだったんですか」
心を覆う感情は、怒りか悲しみか絶望か。それともその全てなのか。
「何故、俺に何も話してくれなかったんですか。何で長に相談するなんて言ったんです。最初から喧嘩売りにきたんじゃないですか」
俺の口から出る言葉は、白さんを責めるものだった。
この計画を練ったのが白さんではないのを承知の上で、気付かなかった俺が間抜けなのだと承知の上で、それでも今の俺には彼女を責める事しか出来ない。
半ば以上、八つ当たりなのは自覚している。せめて涙は流さないように、俺は瞬きひとつせずに、白さんを睨み付けた。白さんは逃げずに俺の視線を受け止めた。
「坊やがね。参尾は演技で長に対抗出来るような性格してないし、計算しなくても、彼の言動に反発を覚えるだろうから。余計な事は言わなくて良いって」
貴方は優しいからね。その白さんの言葉は、俺を莫迦にしているようにしか聞こえなかった。事実のみを淡々と話す態度が、俺の尖った心に拍車を掛ける。
「俺を騙したんですかっ」
怒鳴るだけでは足らず、俺はぬいぐるみ白さんを両手で握り締めた。ほんの少し力を加えただけで、ぐにゃりと簡単に歪む人形。このまま壊してしまっても構わない。そう思って、俺は握った拳に更に力を込めた。
「参尾くん、それは違う。白は」
「黙って黒。私もここに来るまでは貴方に事を秘密にするのに同意したわ。感情の乱れた参尾に、道案内は頼めないから。動揺した参尾じゃ、里の結界は越えられないから」
繋がっている器の損壊は、中の魂にも多少の影響を与える。それを知る黒さんが俺を制そうとしたのを、白さんが止める。魂の入ったぬいぐるみは歪んだ顔のまま、やはり淡々と言葉を紡ぐ。
「もし、貴方が計算外の動きをするようなら、私が軌道修正するはずだった」
それは、俺の知らない事実。
「俺がまんまと操り人形になっていたら、最後まで俺には何も言わずにいるつもりだったんですか」
「鬼頭の命だ。白の意志じゃない」
「だから黙って、黒」
俺が知る必要は無いと、鬼頭様が判断した真実。
「俺の意思は無視ですか」
「そうよ。だって坊やが望めば、参尾は叶える。あんたらの関係ってそういうものでしょう」
否定して欲しかった問い掛けは、あっさりと肯定される。それについての落胆が思ったより少ないのは、答えが初めから分かっていたから。もしも白さんがこの計画に否定的であれば、彼女は初めからこの場に居はしない。
「葛様を見殺しにするんですか? 俺には長を動かして葛様を救うって言いましたよね。それは方便で、最初から戦うつもりだったんですか?」
どんなに質問を重ねても、結局想いは葛様へと戻っていく。俺は一番初めにしたのと同種の問いを白さんにした。俺が騙されていたのは、些細な事だと笑ってしまえる。白さんの言うように、鬼頭様が望めば、俺は叶える。俺達の関係はまさしく、そういうものだ。
「本気で葛様を殺すつもりなんですか。その事の許可を得に、里に来たんですか?」
理解も覚悟もしていた。でも、これは駄目だ。どんなに望まれても、叶えられる気がしない。だが、感情も露わに詰め寄る俺に返されたのは、白さんの簡潔で非情な一言。
「そうよ」
「そんな事っ」
「参尾くん、今は君が思う以上に危険な状態なんだ。あの坊やは参尾くんが思うほど有能じゃないし、人間の警察は参尾くんが思うほど無能じゃない。彼が考える事は警察も容易に考え付く。このままでは、人間の常識でしか物事を見られない警察は遠からず少女の父親と姉を引っ張る」
東京に警視庁なる機関が設立されたのは明治の七年。それから昭和の今にまで続く確固たる機関となった警察を俺は無能だと思った事は無い。だが、侮ってはいたのだろう。黒さんの言葉に俺は声を出す事も出来ないほど驚いてしまった。
「その後、どうなるんだろうな」
「どうなるって?」
「独りきりになって、拠り所を喪った少女がさ」
探偵なんて仕事をしている鬼頭様の所為で、警察の非道ぶりを見聞きする機会は多かった。強制的に連行された者がどうなるのかなんて、想像したくもなかった。
探偵なんて仕事をしている鬼頭様の所為で、欲に溺れた人間の非道ぶりを見聞きする機会は多かった。護ってくれる盾を失う櫻ちゃんがどうなるかなんて、想像したくもなかった。
この件にあやかしが関わっているなら尚更だ。
「そんなっ」
聞きたい事も言いたい事もまだまだ有るが、言葉が喉から出てこない。無理に出そうとした声は直ぐに嗚咽に変わり、息を吸う事も吐く事も出来ない。
「俺は……」
やがて、全身から力が抜け、俺は跪いた。力のこもらなくなった拳から、ぽとりとぬいぐるみが落ちる。白さんは文句も言わず、俺の足元に転がった。
「坊やからはもうひとつ言われてる。葛お嬢様と争うことになったら、参尾には暇を出すって。望むなら、この件の記憶を丸ごと消すって」
「嫌です」
即答した俺を見て、白さんと黒さんは同時に溜息を吐いた。白さんは困ったように尻尾を左右に振って、黒さんは表情を変えずに頭を掻く。二人は少しだけ顔を見合わせ、やがて、仕方ないというように白さんが口を開いた。
「なら、目の前で見る? 全てを。言っとくけど、一回コトが回り始めたら邪魔はさせないわよ」
何もせずにただ見続ける。全てを。そんな事、俺に出来るわけがない。
それに、第一。
「ちょっと待って下さい。俺はまだ、葛様が何をしたのかも聞いてないんです。鬼頭様と白さんがそこまでやらなければならないような事を、葛様はしたんですか。葛様が老人を殺したんですか?」
そう叫んだ俺に、二人はまた同時に溜息を吐く。そして、今度は顔を見合わせる事無く、白さんが動き出した。
「白さん?」
よじよじよじ。
落ちた白さんが、立ち尽くす俺の身体を這い登る。今の俺にとってはどうでもよい事を言いながら。いつもの機敏さが嘘のように不器用に動く白さん。それをを見かねたのか、黒さんがぬいぐるみの首をつかみ、ひょいと俺に投げつけた。空を舞ったぬいぐるみは、くるりと一回転すると、ぽすんと俺の肩に乗る。
「気絶しないでね」
頭上から降る声に、どういう意味ですか? そう聞く暇もなかった。
「気持ち悪かったら、吐いても良いよ」
「えっ」
白さんに頭を一撫でされる。
不意に言い争っていた長と鬼頭様の声が遠くなる。それと同時に自分の感覚に狂いが生じたのが分かった。視覚、聴覚、触覚、全てに襲う歪み。
目が回る。耳鳴りがする。深い水中に投げ込まれかのような、高い空中から放り出されたような、足が地に付いていない心許無さ。
頭が割れるように痛い。
気持ち悪い。
座り込んでいて良かった。そうでないと、俺は無様に倒れこんでしまったかもしれない。感じたのは、それくらい激しい歪みだった。
「聞こえてる?」
「あ」
このままでは意識を手放してしまう。そう思ったとき、言葉と共に白さんの手の感触を感じた。それを切っ掛けに、徐々に正常な感覚が戻り始める。
「大丈夫? 悪いね、この先は坊やにも聞かせたくないから、空間を切り取らせてもらった」
「これは、白さんの結界?」
「飴」
「は?」
ぎゅうと頭を抱き締めて、顎を髪に押し付けて、不揃いな耳を揺らして、白さんが喋る。俺の質問を無視して。
「櫻ちゃんの飴。参尾は美味しくなかったって言ったでしょ」
里の中では、いくら白さんの結界が強力でも長くは持たない。無駄話をする時間は無いとばかりに、白さんは話し続けた。
「はい」
喋り、動くぬいぐるみ。夢物語の道化の様な笑えるほど間抜けな姿で、しかし、白さんが語るのは痛いほどに真剣な現実な話。
「私には美味しかった」
「白さんが食べた飴には混ぜ物が無かったんでしょう」
ここから先は、俺にとって楽しい話にはならない。聞きたくない、そう突っぱねるなら今しかない。白さんだって、黒さんだってそれを咎めはしないだろう。だが、俺は白さんの言葉を遮らない。
「私の嫌いなもの、覚えてる?」
「ええ。嫌いなものは甘い物ですよね」
律儀に返事を返す自分を莫迦だなと感じながら、俺は櫻ちゃんと過ごした夜を思い出していた。にこにこと笑い掛ける可愛い少女の事を想った。
「あたり。ただの飴が美味しく感じる訳ないのよ」
「だって。白さんの好きなものは……」
答えようとして、躊躇した俺の後を引き継いだのは黒さんだ。
「白は雑食で肉好き。ただ長命なだけではなく、恨みから生まれた猫又だから、生き物の負の感情を糧に出来る」
「ちょっと待ってください。じゃあ」
「うん。あの飴に混じっていたのは妖狐の血肉。それをあの、肉体的にも精神的にも成長途中の幼い女の子が、今までいったい何個食べちゃったんだろうね」
「なっ」
目を見開き、息を呑む。
いつもなら、あやかし絡みの事件が起こっても、のらりくらりと鬼頭様をかわし、表立っての協力はしない白さん。その彼女が自主的にここまで関わっていることの意味を、俺は今更ながら理解した。
「葛様」
貴方は、なんて事をしてしまったんだ。




