4
沙癒里は戦っていた。
一向に心を開こうとしない無垢な瞳の少女相手に、ひたすら奮闘していた。
「いないいなーい……ばあっ」
「……」
「良い子良い子~」
「……」
どう語りかけてもスルーされる中、沙癒里なりに考えた末に辿り着いた答えはこうだ。
今の子愛は何らかの精神的ショックによって記憶を失っている。
生まれたばかりの赤ん坊のようなものなのだ。
赤ちゃんの扱いならお手の物、と沙癒里は意気込んだ。
その自信も消えつつあるが。
「ほーら、ガラガラだよ~」
「……」
「うぅ、ここまで強敵なんて」
実は、沙癒里がここまでやる気を見せているのにはもう一つ理由がある。
神慈が登校してから気付いたのだが、心なしか子愛が震えているように見えたのだ。
しばらく観察していると、それが気のせいでないことが分かった。
恐らくこの体の震えは、神慈がいなくなった寂しさから来るものだ。
その気持ちはとても分かる、と勝手に共感して沙癒里は決意した。
子愛の記憶を、心を。
必ず取り戻してみせる。
「今のところ、シン君の写真が一番効果あったけど……」
本当に一瞬だったが、少しだけ反応したのを沙癒里は見逃さなかった。
やはり神慈本人にどうにかしてもらうのが一番なのかもしれない。
重要なのは子愛が記憶を取り戻すことであって、沙癒里の意地ではない。
沙癒里は潔く? 諦めて神慈と連絡を取ることにした。
『もしもし?』
コール音が一回鳴りきる前に繫がった。
相変わらずの反応の早さである。
「シン君ごめんね。今授業中だよね?」
『ううん。帰ってるとこだし』
「え!? まだ下校時間じゃないでしょ!? まさかサボっちゃったの!? お母さん、シン君をそんな子に育てた覚えないよ!!」
意外すぎる息子の非行を聞いた沙癒里は、ここぞとばかりに捲し立てた。
『昇華学院はいつ登下校しても良いはずだけど……』
「そういう問題じゃないの! お母さん、悲しいっ」
『ご、ごめん。母さん、学校の成績とか全然気にしないから平気かと思ったんだ。これからはちゃんと』
「すぐに学校に戻りなさい!」
『えぇ!? それはちょっと……困るよ』
「どうして!?」
お母さん悲しい! と再び叫ぼうとした刹那、インターホンが鳴った。
ギロリとカメラを確認するが、そこには誰もいない。
息子が健全に育つかどうかという大切な話をしているときに、まさかのピンポンダッシュ。沙癒里の怒りは頂点に達しようとしていたが、
「ただいま」
玄関の扉を開けて入ってきたのは、愛する一人息子――神慈だった。
「え? え?」
受話器と神慈に視線を往復させ、しどろもどろになる沙癒里。
「いや、だからさ。もうすぐ家に着くところだったんだよ。それで、今更戻れって言われても困るなって」
「……今日だけだからね」
「うん。ところで、母さんは何で俺に電話してきたの?」
当たり前と言えば当たり前の質問を聞いて、沙癒里は当初の目的を思い出した。
「ああっ! 子愛ちゃんっ」
「! 子愛がどうかしたの? 実はそれが気になって帰ってきたんだけど」
「何だか震えてて……こっち!」
駆け足で廊下を進み、二人揃ってリビングに向かう。
しかしそこで見た光景に思わず沙癒里は足を止め、神慈を通すまいと両腕を大きく広げて通せんぼした。
「し、シン君は来ちゃ駄目っ」
「え? 何で」
「良いから、絶対にリビングには入っちゃ駄目! 分かった!?」
「は、はい」
スゴスゴと退散する神慈を確認し、改めて子愛に向き直る。
今の彼女を神慈に見せるわけにはいかない。
これは乙女の沽券に関わる事態だ。
「そっか……ずっと我慢してたんだね。気付けなくて、ごめんね」
昨日の夜、風呂から上がった子愛は、沙癒里のお古のパジャマに着替えていた。
今もそれを着ているのだが、下半身から床下までがびしょ濡れだったのだ。
「お風呂、入ろっか」
そうにっこりと微笑んで、沙癒里は子愛の手を引いてお風呂場へと向かった。
そして一端外に出て床を拭き、神慈の部屋へ。
「シン君、ちょっと頼み事しても良い?」
「良いけど、子愛は」
「倉庫に保管してある紙おむつを取ってきて欲しいの。玄関に置いておいてくれれば良いから」
「紙おむつ……? ああ、母さんの生理用品のこと? 何でまた、そんなものを」
「余計な詮索はしないこと!!」
かつてないほどの大声で叫ぶ沙癒里だった。




