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「お前が私の前に現れなければ、私は思いとどまれたんだ」
「お前が殺しさえしなければ、今頃妻とやり直せていた」
「お前が話しかけてこなければ今こんな苦しみを味わうことなんてなかったのに」
「お前のせいで、俺は童貞のままだ」
「お前のせいで」
「お前のせいだ」
「お前の......」
青空、そしてサンサンと降り注ぐ太陽の光、耳を澄ませるとセミの鳴く声に負けないくらい、賑やかな人々の声が聞こえてくる。
私たちが住むこの小さな街では、数日前に七夕まつりが行われた。商店街に笹の天井ができ、願い事が書かれた色とりどりの短冊が、風にそよりと揺られ、とても綺麗なものだった。
今年は、PTAと市役所の協力の元、有志の出店が設置され、有志の出店と商店街の販売勢との売り上げ争いが、七夕まつりを更に賑わせた。
そして、あっという間に七夕まつりが終わり、名残惜しさを感じることもなく、一週間後には、花火大会祭りが開催される。
小さな街では、次の花火祭りのために多くの人が各々の準備のため走り回っていた。商店街のおじさんおばさん、花火師、市の職員、そして子ども会のお母様方など。お昼が過ぎた頃には、近くの小学校から先生に連れられて、低学年の生徒達が折り紙で作った輪飾りを飾りにやってくる。
まだ準備期間であり、祭りは始まっていないのに、街に充満する活気から、まるで七夕まつり当日のような気持ちにさせられる。
毎年開催される「夏の三大イベント」の七夕まつり、花火祭り、灯籠祭りの中で、やはり、この花火祭りが一番盛大なのだと改めて認識した。
だが、この時期だからこそ見られる活気の中に、不釣合いな声が聞こえてくる。
活気とは真逆の悲しみやツラさや怒りの声、そう、怨嗟の声が主に前方から聞こえてくる。
私は、青木なでしこ。
いじめを受けて高校中退、社会から排除された負け犬、所謂ニートである。
数日前、両親から精神と物理の暴力を受けた私は、生きることに疲れ、自殺するため家を飛び出した。向かったのは自殺名所で有名な橋。そこで私は、とある男によって命を奪われた。
命を絶った私は、死後もなお、幽霊としてこの街を彷徨う。
幽霊となった私の行動は、単純にふたつ。
ひとつ、毎日命を絶った時間になると、死んだ時の痛みを味わうこと。
ふたつ、私の命を奪った男の後をついていくこと。
ふたつめは、死後は義務というものから解放されるため、やることがない。なので、これは私の暇潰しといってもいいかもしれない。
このふたつが、死後一日目から欠かさず繰り返される行動だ。
さて、私が後を追いかける、あの男からは未だ怨嗟の大合唱が響き渡ってくる。
まるでコンサートホールで演奏を聴いているかのように。というのも、男の周りには大勢の幽霊達がいるからだ。
しかし、男は霊感がゼロのようで、その怨嗟コンサートも屁の河童と、飄々と街を歩いていく。
こんなにも暑い夏だというのに真っ黒なコート姿でフードを被り、両手をポケットに突っ込ませながら。
私は死してなお、この男の顔を見たことがない。男がフードを外すことがないからだ。
男は謎だらけである。男の家族もわからない、職業もわからない、何のために行動しているのかもわからない。
ただひとつ、私がわかることは、あの男が人が寝静まった頃、死にたいと願う人の前に影のように現れ、その人の命を刈り取るのである。
......そうだ、この小さな街に最近出来た都市伝説「首絞めさん」を御存知だろうか。
生きるのに絶望し死にたいと願いつつも、死ぬことが出来ない臆病者の前に現れる、死神のような存在だ。
首絞めさんは、臆病者に問いかける。
「あなたの大切な物と交換で、あなたが望む死を与えましょう」
首絞めさんと死の約束を取り交わした後、臆病者は首絞めさんに命を奪われる。名前の通り、首を締められて。
「それじゃあ、ただの人殺し、殺人犯じゃないか?」って?
いいえ、首絞めさんは命を奪うが、犯罪扱いにはならない。
だって、首絞めさんは約束を取り交わすだけで、自らの力を持って、臆病者の命を奪っていないのだから。きっと、第三者がその光景を見ても首絞めさんが殺したとは思わない。
〈だって、首絞めさんには、首を絞めるための手がないのだから〉
私は、青木なでしこ。幽霊である。
現在、暇潰しのために後をつけている目の前の男に命を奪われた。
あの七夕の夜に出会った時と同じ、真っ黒なコートに顔を隠す程に深くフードを被った、この男に。
私の腕と交換で命を奪われたのだ。
男の名前はわからない。ただこの男が都市伝説で語られる「首絞めさん」本人であることは、実際に出会った私が、自信を持って言えることだ。
男が......首絞めさんが、左へ90度曲がり裏路地へ入っていく。怨嗟を吐き続ける、私と同じように命を奪われた幽霊たちを引き連れて。
私は引き離されないように慌てて彼らの後をついていく。
その時、ポケットから少しだけ、首絞めさんにはないはずの腕が見えた。その腕には見覚えがあった。
首絞めさんのではない、でも首絞めさんの腕に。
首絞めさんが路地裏へ入っていく。それを見失わないよう、かつ付かず離れずの絶妙な距離で私はついていった。
細くて狭い路地裏は、奥へと進んで行くごとに、僅かずつではあるが、道が広がっているように感じる。
道が広がるその分、私の目には、生前の私が行ったこともなければ見たこともない、異様な光景が目に入ってきた。よく「社会には裏がある」なんて言葉があるけど、本当に裏があるとは思わなかった。
路地裏は、簡潔に言うと、ゴミ溜めのようなところだった。
生ゴミが散乱し、ヨダレを垂らした犬が覚束ない足を使い、歩行していた。アスファルトの道は吐瀉物や血の跡で変色し、その上にボロボロの服を着た人間が焦点の合わない目で空を眺め寝っ転がっている。
くるりと視点を変えると同じように道端で転がっている人間を躊躇もなく蹴り続ける少し身なりの良い人間がいた。端の方では、薄汚れた布を広げそこに怪しげな物、きっと商品なのだろう、商品を陳列し、誰か立ち止まるものはいないかと目を光らせる人間もいる。
(まるで日本ではないみたいだ。)
幽霊の私にも生理現象というものはあったようで、とても気分が悪くなった。
ふと、首絞めさんの後を付けていたのだと自分の目的を思い出し、前方へ目を向けると、ちょうど股の緩そうな女が首絞めさんへ抱きつこうとしているのを、サッと回避しているところであった。手慣れているようだ。
首絞めさんは、更に奥へと進んで行く。
私は、青木なでしこ。
気分の悪さを、首絞めさんの背中を見つめることで紛らわしながら、路地裏を歩き続ける幽霊である。
首絞めさんには、首絞めさんをぐるりと囲み怨嗟を吐き続ける熱狂的ファンたちがいる。つまり、私と同じように命を奪われた幽霊たちだ。
私は、首絞めさんの周りで飽きもせず怨嗟を吐き続ける先輩幽霊さんたちのようにはなりたくないと、少し距離をあけて、ついていくことを心掛けている。その間隔をとるのが上手いと、何の得にもならないが、そう自負している。
唐突に首絞めさんの足が止まった。私も距離を維持するために進行を中断する。どうやら行き止まりのようだ。コンクリートとそこらへんに落ちていた砂利を混ぜて固められたような歪な壁が、静かにそこにそびえ立っていた。
静かなのは壁だけでなく、この場所自体が静かであった。先程までは、あんなにもゴロゴロ転がっていた人間も、ここではひとりもいないどころか気配すらない。
一言で表すならば、「何もない」というのがピッタリだ。
意外と長かった異色な路地裏も最奥は地味な終わりだったなと、少し落胆してしまった。
こんな何もない場所に一体首絞めさんは、何をしに来たのだろう。
そんな疑問を思い浮かべながら、首絞めさんをボーッと眺めていると、壁の前で突っ立っていた首絞めさんが奇妙な行動を取り始めた。
「もしもし、カメよカメさんよ。おりましたら扉を開けてください。」
ひとひとり分の距離をあけて、壁の前に立っていた首絞めさんが、童謡のような歌詞を呟き始めたのだ。ぶつぶつと同じ部分を繰り返し呟く首絞めさんに、もしかして首絞めさんって、ただの痛い人だったのかと失礼ながらも思わずにはいられない。
「ください。もしもし、カメよカメs......
「何度も言わなくても聞こえてらぁ!!少しは待つってことできねぇのかよっ!!」
首絞めさんが、たぶん八回目のフレーズを口にした時だった。
青年が声を荒げながら、壁から姿を現したのである。
はい、ここが重要だ。何もないただの壁から、目つきの悪い青年がパッと現れたのである。
私、青木なでしこは、幽霊になってから、変わったこと、出来るようになったことがある。
食事を摂る必要がないこと。息切れを起こすことなく自動車よりも早く走れるようになったこと。そして、障害物をすり抜けられることだ。
私はひとつの仮説を立ててみた。
もしかしたら、壁から突如現れたこの青年は、私と同じ幽霊なのではないかと。何故、首絞めさんの目に青年が映っているのかという疑問は気にしないことにして、私は彼等の会話を聴きつつ、青年をじっと観察することにした。
「合言葉は、二回だって決めたよな?言ったよな?今お前、何回言った?普通なら開けねえぞ?あ?」
「......悪い、聞こえなかったかと思って」
「俺は、耄碌ババアか!?」
「......」
「なんで黙るんだよ。......っ、もういい、話は聞いてるから、さっさと入れ」
首絞めさんの首を傾げたままの沈黙に耐えきれなくなったのか、青年が疲れたような表情で、首絞めさんに自身の背後へ行くように、顎をしゃくった。
それを見た首絞めさんは、軽く会釈し、スッと青年の後ろにある壁へと入っていく。
首絞めさん、天然な部分があるのかもしれない。という感想を抱きつつ、私は、青年が幽霊ではなく普通の人間であることがわかった。青年は壁をすり抜けたわけではなかったのだ。壁には、ひとがひとりギリギリ入れるくらいの狭い扉が取り付けてあった。近くまで行って見なければ、扉があることも分からないし、扉があいているかも分からないくらい、壁に同化した扉であった。
青年は首絞めさんが入っていった後に続いて、入り口をくぐり、扉を静かに閉めた。
私も彼等の後をついていくため、閉められた扉をすり抜ける。
その最中、扉の向こうは和室なのかな?という、至極どうでもいい疑問が浮き上がった。
扉は引き戸だった。