助けたかったから
自分の頬を軽くツネってみた。
痛い。
どうやら夢ではなくまさしく現実のようだ。現在進行形で血まみれの少女が川に流されているという、この残虐で目を背けたくなるような光景は。
黒羽は足が自然と後ずさるのを感じた。
見なかったことにして全速力でこの場から逃げ出したい。
もしあんなものに関わったら自分もあの様になるかもしれない。
そんな様々な思考が黒羽の頭の中で入り乱れる中、その少女の顔がちらりと見えた。
その顔はまだ年端もいかない少女の顔。黒羽はそれを見てハッとする。
(この子って……まさか……!)
そう、昼ごろに校門からこちらを覗いてたあの時の少女だったのだ。何故あの時の少女がこんな状況になっているのか黒羽には理解出来なかった。
もし、理解出来たとして今黒羽に出来ることはたった2つ。
1つは尻尾を巻いて逃げ出すこと。
もう1つは少女がまだ生きている可能性に駆け、助け出すこと。
――――もともと、黒羽はそこまで正義感が強い人間ではない。
長いものにはすぐ巻かれるし、もし助けを求めている人間がいたとしても無視が基本だ。
そんなものは警察や消防団に任せておけばいい、自分がしゃしゃりでる必要はない。
しかし、今この状況で少女を助け出せるのは警察や消防団ではなく――――黒羽しかいなかった。
黒羽はまた何歩か後ずさる。
それは逃げ出す為ではなく――――――――――
「くそっ……! 待ってろ……!!」
助走をつけて川に飛び込む為、少女を助ける為だった。
足元の土を蹴散らし、黒羽は川に向かって思いっ切り駆け出す。
ドボン!! と、その勢いのまま黒羽は水を弾き飛ばしながら川に飛び込んだ。
全身を冷たい水が包んでいく。
川の中はすぐ先の景色さえ視認出来ない程に薄茶色に濁っていた。
(ちっ、どこだ……?)
助走をつけて飛び込んだとはいえ、黒羽と少女の距離はまだ数メートルも開きがある。
黒羽は手当たり次第に水を掻き分けながら進んでいった。雨のせいで増水した川の水は川下と連れ出すかのようにグイグイと押し流していくが、黒羽は必死に抵抗して、その少女との距離を縮める。
そして――――――――――
(いた……!)
黒羽はようやくその少女の手を掴んだ。
川の水よりも冷たい少女の手を。
なんとか少女を掴みながら陸に上がると、黒羽はおもむろに携帯を取り出す。
川の水に浸かっても問題なく起動できるあたりは防水仕様のを選んでよかったと心底思う。
(ええと……こういう時は警察……いや、まずは救急車か……)
119の電話番号を一つ一つ入力していく黒羽。
だが、何を思い立ったのか急に入力を止めて、代わりに病院の場所を調べ始めた。
(――――駄目だ、救急車なんてちんたら待ってられない。早くこの子を病院に連れてかないと……)
地図に映し出された病院は、救急車を呼ぶよりもここから走って行ったほうが早く着きそうだった。
「おぶっていきゃなんとかなるな……」
隣りで横たわる少女を背中に担ぐと、全身すぶ濡れのまま黒羽は走り出す。自分自身でさえ服が水を吸って重くなっているというのに、更に同じ様な人間を担いで走るというのは正直無茶であった。
普通の学生なら数十メートル走った所で力尽きてしまうだろう。たが黒羽はペースを崩さず、未だに走り続けていた。
雨が降っているせいか外出している者はほとんどいなく、歩道を黒羽だけが駆け抜けていく。相変わらず少女のからだは冷たかったが、心臓の鼓動は小さく、だが確実に、黒羽の背中に伝わってきた。
(まだ生きてるんだな……)
助けられるかもしれない、その程度の希望でも黒羽が走り続けるには充分だった。
走り続けることおよそ10分。
黒羽はついに病院に到着した。
「どこだ……入り口は?」
息を切らしながら入り口を探す。
が、
どうやらここは病院の裏口の方らしく、辺りには職員の車ばかりが駐車されていた。
仕方なく正面口に行こうとした時。
「おや、こっちから来るとは変わったお客さんだね」
勤務時間を終えて、今まさに車で帰ろうとしている医者が声を掛けてきた。
その医者はまるでたぬきの様な顔をしていて、こんな状況じゃなかったら思いっ切り笑っている所だ。
「急患なんだ……かなりの重症で、早くしないと……」
「どれどれ……見せてごらん」
たぬき顔の医者は黒羽の背負っている少女を見ると、しばらく沈黙した。
「どうなんだ……? 助かるのか」
「……かなり厳しいね、それにこの子は……」
言いかけて、たぬき顔の医者は口をつぐむ。
「じゃあ、諦めろっていうことかよ……」
「そうは言ってない。ただ、見てもわかる通り頭に大きなダメージを負っているね、これだと仮に助かったとしても脳に障害が残るかもしれない」
医者の言う通り、少女の頭からは大量の血が流れでていた。
「この子が助かるならなんでもいい、だから……助けてやってくれよ」
「うん、君は何か早とちりをしているね? 僕がいつ助けないなんて言った? まだ生きている患者を見捨てはしないよ、伊達に名医と呼ばれてないからね」
医者のその表情は自分に任せろと言わんばかりに頼もしかった。
そうして黒羽から少女を預けられたたぬき顔の医者は、緊急手術という名目で何人かの助手を手配して手術室に入っていった。
黒羽はそれをただ見送ることしか出来なかった。
◇ ◇ ◇
何時間たっただろうか。時計を見ると時刻は11時半。
手術が開始されてもう3時間以上が経過していた。
備え付けのイスに座りながら黒羽は手術前に医者の言ったことを思い出す。
『本当に厳しい状況だ。生きるか死ぬかは五分と五分。科学の発展した現代でこんなことを言うのも何だけど、神頼みだね』
ギュウッと、黒羽は両腕の拳を握り締めた。
死んで欲しくない。
それが今、黒羽の唯一の願い。
黒羽は俯きながら座っていると、隣りの方から何やら足音が聞こえてくる。
カツカツカツ、というヒールで廊下を歩いているかの様な音。黒羽は頭をあげて辺りを見渡すと、一人の若いナースが立っていた。
そのナースは口元を少し歪め、微笑みながら言う。
「こんばんは」
口元とは対称的にその目は黒羽に同情するかの様な憐れみの目だった。
こんばんは、と挨拶を返す黒羽。
そのやりとりを終え、間を空けずにナースは口を開く。
「大変だったわね、彼女が事故に遭うだなんて」
おそらく、周りからの噂を耳にしたのだろうが、根本的な間違いがまず一つ。
「彼女……じゃないですよ」
「あら、じゃあ……お友達?」
「いえ、赤の他人です」
ナースは自分の問いにあっさりと答える黒羽に対して困惑してるようだった。
「じゃあ、なんで君は見ず知らずの子を助ける為にそこまでしたの?」
ナースは全身すぶ濡れの黒羽の姿をまじまじと眺めながら尋ねる。
「それは……」
――何故自分は見ず知らずの少女を助けるのにわざわざ川にもぐり込んだのか。
――その場で救急車でも呼べばいいものを、何故自分はわざわざ走ってまでここに来たのか。
――何故自分は少女の安否を今も心配しながら待ち続けているのか。
それは理屈ではなく感情から来るもの。
「――……“助けたかったから”じゃ、駄目ですかね?」
ポツリと呟く黒羽の声は小さかったが、どこか真に迫るものがあった。
その言葉を聞いて、ナースは驚いた様な表情をしながら言う。
「へえ……君みたいな子がまだいたんだね」
そんな中、ガラリと手術室のドアが開く。中からは数人の医者が出てきて、その中にあのたぬき顔の医者もいた。
黒羽は慌てて立ち上がると、丁度出てきたたぬき顔の医者に食いつく様に尋ねる。
「で、どうだったんですか? 彼女は……」
「そう慌てないでくれ、今からちゃんと教えてあげるから」
たぬき顔の医者はそう言うと、ゆっくりと口を開いた。
「死んだよ」