『生きたい』
川の音は銃弾の音さえも掻き消すぐらいに騒々しく、流れは急になっていた。空にはどす黒い雲が月を覆い隠し、辺りは一層の暗闇に包まれている。
そんな中で、そろそろ雨が降るのだろうか、などと試験体908は考えながら自分目がけて降り注ぐ大量の砂利を対処していた。
試験体000が一回地面を蹴るたびに降り注ぐ砂利。試験体908は出来るかぎりそれを避けて、避けきれなかったものには銃を使い、一つ一つ排除していった。
しかしそれでも完璧に回避出来た訳ではなく、ガードを通り抜けた砂利は試験体908の身体のあちこちに擦り傷を作っていく。
試験体000はただ突っ立って地面を蹴っているだけだというのに、試験体908はそれを対処するのに精一杯でいつまでたっても攻めに回ることが出来ない。
手も足もでないというのはまさにこのことだった。
(結論。このままではやられるのは時間の問題ですね)
試験体908はポケットからカメラフィルム程度の大きさのグレネードを取り出すと、アクション映画風に口で安全ピンを引き抜き、間髪いれずに試験体000目がけて投げつける。試験体000は放物線を描いて自分の元へ飛んでくるグレネードただ眺めるだけで避けようともしない。
「……んなもんが効く訳ねェだろ」
試験体000の言う通り、通常のグレネードなど『反射』を使えば、いとも簡単に防がれてしまう。しかし飽くまでそれは“通常”のグレネードの場合の話だが――――――――
バァンンッ!! と音をたてて四散するグレネード。しかしその爆発に殺傷性はない。
代わりに白い煙がたちこめ、辺りは一瞬にして真っ白な空間になっていった。
超小型スモークグレネード。
カメラフィルム程度のサイズだというのに、爆発すると半径20メートル以上にも渡って白煙が広がる、研究所で開発された超高性能なグレネード。
だが試験体000はそんな状況も一瞬で把握すると
「なるほどォ……これで俺の視界を悪くすることで砂利の攻撃を封じたって訳かァ」
ニタリ、と笑みを浮かべる。
「ご名答。そんなに石を投げつけたいなら私よろしく川で水切りもしといて下さい」
試験体908は真っ白な煙の中試験体000の姿を探す。この視界の悪い中、試験体908は軍用ゴーグルを装着することで試験体000に大きなアドバンテージを得れると考えていた。
だが――――
「あめぇよ……『消滅』」
試験体000がそう言った瞬間、彼を中心に大きな風が吹き荒れ、周囲の白煙をあっという間に消し去っていった。
「これは……どういうことなのですか と、試験体は今の状況に理解が追いつきません」
キョロキョロと辺りを見渡しながら困惑する試験体908。
「そう簡単に種を明かしちゃつまんねェから言わねえけどよ、要するに俺に小細工は効かねえっつうことだ」
「くっ……」
試験体908は予備のスモークグレネードを取り出すと再び起爆させようとする。
――刹那、安全ピンを抜こうとした左手の甲に電流が流れるかの様な激しい痛みが走った。
「――――ッッ!!!」
それが試験体000の放った小石が自分の手に直撃したものだと気づくには数秒かかる。あまりの痛みにガクンと膝を折る試験体908。左手の指は骨が折れてしまったようで親指以外の指という指が全く動かせない。
「ヒャハッ、人形のくせにそンな顔も出来んだな、お前」
苦痛に顔を歪ませる試験体908を見て満足そうな笑みを浮かべる試験体000はジャリジャリと足音を立てて近付いてきた。先程使おうとした予備のスモークグレネードが試験体000に踏み潰されたらしく、途中アルミ缶を潰したかの様な音も聞こえてくる。
自分もそんな風に頭を踏み潰されるのだろうか。
嫌なイメージだけが頭の中を流れ、試験体908は全身から汗が吹き出し、呼吸が荒くなる。
――――立ち上がらなければ。
グッと脚に力を入れるが、まるで金縛りを受けたかの様に言うことを聞かない。試験体908はただ揺れる瞳で、今まさにこちらに迫ってくる試験体000を見つめることしか出来なかった。
「おいおい、随分とおとなしくなっちまったなァ。本番はまだまだこれからだっつーのに」
ガシッ、と試験体000は試験体908の髪を掴み、無理矢理に顔を上に向けさせる。試験体000の表情はまるで新しい玩具を見つけた子供の様に無邪気で、そこにはただ純粋な狂気と殺意しかなかった。
「最初の実験では四肢をもいでやった……次の実験では首の骨を折ってやった。残りのテメエは……どういたぶってやっかなぁ!!!」
ゴッ!!と、怒号と共に腹を蹴り飛ばされた試験体908はノーバウンドで3メートル以上も吹き飛ばされる。
「がっ……」
先程の手の甲の痛みを軽く凌駕する激しい痛み。ビュービューと不規則な呼吸をする度に口から溢れ出す大量の血。 理性を保てず脳が暴れる。
逃げろ。
生命の危機を察知した本能が試験体908に告げるのはそれだけだった。試験体000は若干冷めてしまった瞳で、俯せになったまま動かない試験体908を見つめる。
「あん? まさかこれでくたばっちまったのか? あっけねーなーおい!!」
試験体908はもはや満身創痍などというレベルではないのだ。
動けなくて当然だ。
勝てなくて当然だ。
逃げ出したいと考えて当然だ。
しかし、それでも試験体908は最後の力を振り絞って立ち上がる。試験体000を見つめるその表情は何かを決心したかの様な強いものだった。
「虚勢。まだまだ……これからです!」
彼女の傷口から流れ出す血が凍りついたかのように固まり始める。『凝固』――つまりは物体の状態を変化させる彼女の異能に寄るものだ。
ここからが彼女の本番、つまり『状態変化』を使う番だ。
「ほう……どうやらテメエは上位個体のようなだなぁ。オモしれえ……! さっさとかかってきな!」
バンバンバン!! と打ち出される大量のジャリ。
それを試験体908は避けもしなければアサルトライフルで撃ち落とそうともしない。ただ棒立ちのまま、来るのを待っている。
「はっ――!!」
飛来してきた小石は彼女に触れた瞬間、霧となって消えていく。それは固体から気体への転換――『昇華』。
「ハ、ハハハハハハ!! すげえじゃねえか! なんでそんだけのもんを持っていて出し惜しみしてたんだよぉ!!」
「私は……自分の力を争いに使いたくなかったんです。だから今までの実験でも銃のみで戦って来ました」
「キレイ事ほざくなよ、人形。俺たちは“その”ために生み出されてきたんだ。使わないなんてのはその現実を逃避してるに過ぎねえんだよ」
「自己満足というのはわかっています……それでも私は……」
「そういうのウゼエ……人形は人形らしく持ち主に弄ばれときゃいいんだ。『燃焼』更に『放電』!」
空気中に光が出現したかと思うと、雷と炎が現れ彼女の元に突っ込んでくる。彼女に対処できるのは『固体』『気体』『液体』のみ。そのどれにも属さない物質を彼女は対処できない。
「くっ!」
避けようと思った頃にはすでに遅い。光の速度で迫る雷を回避できるわけもなく、直撃した。
「――っ、うがああああああああああああ!!」
放電により足止めを食らい、そこに炎の塊が襲いかかる。身を焦がす高温の炎に身を焼かれた試験体908はあまりの激痛に絶叫。
「ハハハ……いい声だ。気もちぃィーー!!」
なんとか見をよじって身体の炎を消した頃にはすでに全身の殴打と重度の火傷で、異能を使う余裕などもうない。立ち上がるのでさえやっとのことだ。
ここで終わりか、そう悟った少女は最後に一言だけ。
「どうにだって……すればいいじゃないですか」
「はっ、それだけボロボロになってよくそんな事が言えたもンだ。それはつまりお好みの方法でブチ殺して下さいって言ってるのと同じなンだぞ?」
「……死なんて……怖くは……ありません」
ポツン、ポツンと雨が降り始めてきた。
「それは……わたしに……感情がないから……ではなく」
次第に強くなってきた雨が試験体908の顔を濡らすが、それとは別に彼女の頬を温かい液体が伝う。
「わたしに……『何かあったら心配してくれる人』がいるからです」
試験体908は今までの表情からは想像出来ない程、にっこりと笑いながら言った。それは作りものではなく、まさしく試験体908の本音からくるものだった。
そんな試験体908とは正反対に試験体000は狂気に歪んだ表情を徐々に曇らせていく。
「テメエ……人形の分際で、そんな表情すンじゃねェ……」
人形が微笑んだだけでどうして試験体000はここまで動揺しているのかわからなかった。ただ、人形でも感情はある、人間らしい表情が作れることを認めてしまうと、今まで人形として殺してきたクローンも人間だったことを認めることになってしまう。
(違う……あいつらはただのタンパク質の塊だった、コイツだって……!!)
川は雨の影響で増水し、流れが更に急になっていった。
試験体000は数メートル先の試験体908に向かって吐き捨てる様に呟く。
「オーケェ、オーケェ……ご希望通り今すぐ楽にしてやるよ」
「……、」
試験体908は微笑んだまま何も口にしない。
試験体000は眉間にしわを寄せながら歯軋りをすると、思いっ切り試験体908の所へ駆けていく。
砂利なんてチャッちなものは使わない。殺るのならせめて自分の手で――――
その時だった。
試験体000の視界に映った試験体908の顔。
それは確かに笑っていたのだが、同時に――――涙を流していた。
「――――――――――ッッ!!」
試験体000は気がつくと試験体908を殴り飛ばしていた。殴り飛ばされた試験体908の身体は緩やかな放物線を描き川へと落ちる。
本当は腕を手刀のようにして試験体908のからだを貫くつもりだったのに、何故か手には試験体908の首にかけられた爆弾だけが見事に繰り抜かれてる。
これで彼女が逃げ出そうが爆弾は作動しない。しかしなぜ自分はこんなことを……?
もしかしたら、自分が無意識の内に彼女を活かしたいと思ってしまったのではないか。――本当は殺したくなかったのではないか。
試験体000は彼女が沈んだ場所をただまじまじと見つめる。
「ちっ、なんなんだよ……」
そう苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ試験体000は河原を後にする。これが今までの中で最も彼が揺さぶられた戦いであったかのように。
水の音が聴覚を支配する。川の中はひたすらの闇だった。
光が入ってこない水の世界は徐々に体温を奪い、試験体908をどこかに運ぶかの様に轟々と流れ続ける。
ただ流され続ける試験体908は、朦朧とする意識の中で一つの答えを見つけた。
――――私は、ようやくもやもやした感情が何なのかわかったような気がします。
――――それは、『生きたい』という極単純な感情でした。
――――だけど、今さら気づいた所でもう遅いですね。
――――もし私がもう少し早く『生きたい』という感情に気づいていたら何か変わっていたんでしょうか?
――――上手く頭が周りません……そんなことより、何故かとても眠いです。
――――その疑問は……起きてから考えることにしましょう。
試験体908は川の中でゆっくりと目を潰る。その表情はどこか満足気で、もはや何の悔いも残していないと言わんばかりだった。