表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/10

五章


 1


 事態は深刻だった。

「君科さんッ、しっかりして!!」

 ボロボロだった叶子は、駆け寄る響と七瀬を薄く開いた瞳で見た途端、その場に崩れ落ちる。叶子の血で赤黒く色付いた銀十字の大剣は手から滑り落ち、地面に接触する直前に光となって消滅した。

「……姉さん、意識はあるか」

「……ぁ、七、瀬……?」

 七瀬の問いかけに、叶子はごく小さな声で答えた。それは普段の様子からすると考えられないほどか細い声で、叶子がどれだけの傷を、そしてそれ以上の苦痛をその身に抱えているのかが容易に理解出来る。

「【剣の騎士】と、遭ったのか」

「遭った、わよ。あれは、鎧馬に乗った鎧騎士……スマートな鉄の塊、ってとこね。なん、なのよ……出現告知、出てなかった、のに」

 力無くだが、叶子は文句を言いつつ苦笑する。響はそんな叶子に喋らない方がいいと言ったが、言わなきゃいけないことが多いのよ、と叶子に言われ、有無を言わせないかのように手を弱く――叶子は強く握ったつもりだったのかもしれない――握られると、もう何も言えなくなってしまった。

 あまりにも切実で、真剣で、それを邪魔してはいけないと……そう思ったからだ。

 幸い既に出血はほとんど治まっていたが、表皮を破り肉にも達している傷口は血液が半凝固し赤黒くてらてらと僅かに光を反射しており、傷の深さと凄惨さを一層引き立てていた。

 倒れる瞬間に抱き留めた響も、腕の中に収まって苦しそうに肩で息をする叶子が普段より小さく感じられた。

「それに、まるで黒い海、みたいだった……。あいつの周りに、異形が、たくさん……。勝てるわけ、ないって、思って……逃げて、きたわ……」

 プライドなんて捨てて逃げてきたわよ、とでも言いそうな、自嘲(じちょう)的な笑み。叶子が自分の思っている以上にその体はうまく動かないのか、その笑みすら弱々しく、(あざけ)りの意味合いを強めてしまっている。

 こんな笑顔が見たかったわけじゃないのに――。

「あんたたちは、一旦、向こう側に帰りなさい……ここにも、いつあの異形の群が押し寄せるか、分からない、から」

「あんたたちは、って……」

「私を今、異形から庇って行動しようとしてるなら、怒るわよ……」

 叶子は嘆息して目を閉じ、続ける。

「私が逃げてる時、途中から……私以外に異形を狩る誰かが、いたわ……正直、かなり強いのが、ね」

「君科さん以外……参加者、ってこと?」

「そう、よ。そいつが、私を追う異形をまとめて、引き受けて……全部吹っ飛ばしたから、逃げられたのよ。そいつがいなきゃ、私の状態はもっと悪い、はず」

 そう言って、叶子は自身の右手で血に塗れていた左手を擦り、その甲を見せる。

「……やはり、か」

 それを見て、黙り込んでいた七瀬が重くトーンを落とした声で吐くように呟いた。

 そこにあるはずの紋章(アルカナクレスト)が、消え失せている。

「死んでないだけ、マシよ」

「姉さんの今の状態でそれを言っても、一度死に損ねた末期患者にしか聞こえない」

「あは、そうかもね……でも、二人とも、聞きなさい?」

 悲愴(ひそう)の様相を隠そうともしない七瀬に叶子は微笑みかけ、優しく言う。

 まるで、遺言だった。

「私を置いて、この異層世界から、逃げなさい。二人に協力を求めた参加者として、命令、よ」

 響は言葉を失い、七瀬は悔しそうに唇を噛んでいた。

 叶子の目は、本気だ。

「――私を、未捨てなさい」

 そんな言葉を。

 どうして、そんな悟ったような表情で言えるんだよ……!

 響は、紋章が消え失せたという意味がどういうことなのか理解出来ていなかったが――それでも、私を見捨てろと言う叶子を見て、悔しさと哀しみが混じった感情を心に抱いた。

 今もこうして気丈に微笑んでいても、時々苦しそうに(うめ)いているというのに。

「こういう時、私と同じ願いを持ってる七瀬がいてくれて、よかったって、思う。私が脱落しても、お願いね……」

「脱落なんて、言うな……! きっと、姉さんが言っていた誰かがあの騎士を討伐するから……!」

 七瀬の言葉は、叶子を繋ぎ止めるための願い(もの)でしかない。だからこそ叶子は「簡単な話じゃないわよ、貴種四者を倒すことは」と諦めるように笑う。

「阪樫、あんたも、分かるわね。もし七瀬が【剣の騎士】を倒すなんて言い出しても、逃げなさい。あんたはあんたの願いを、追いかけて。私に協力しろなんて言っておいて、その上、七瀬にも協力してなんて、おこがましいことは、言わないから」

 腕の中で、叶子が咳き込む。それは乾いた咳ではなくごぼごぼと何か液体を含んだような妙なもので、すぐにその証拠として叶子の口端から血が流れた。

 そして叶子は、


「いいわね……二人とも、すぐに逃げなさい――」


 繰り返し釘を刺して、意識を失った。

 目を閉じ浅く呼吸する叶子を、響と七瀬はしばらく無言で見ていたが、七瀬は叶子が逃げてきた方向を見て確認するように言う。

「【剣の騎士】……か」

「七瀬?」

 立ち上がり、銀刀の柄を強く握る七瀬は、

「響は逃げろ。私は、奴を討伐しに行く」

 姉と同じ言葉を、響に言っていた。

「七瀬……!」

「私は昔、姉さんの言うことに反発することが多かった」

 だから、と。

「今更一つくらい命令を無視しても、構わないだろう?」

「……理由が、子供みたいだよ」


 ……だけど僕も――同じ子供なんだろうな。


「訊きたいことがあるんだ」

「なんだ?」

 叶子の願いは、七瀬が【剣の騎士】を倒すと言い出しても、響は逃げろというもの。

「紋章を失った意味と、どうして君科さんが、現実世界に帰れないのかってこと」

 なら、と。響は胸中で屁理屈をこねる――子供のように。

「響は逃げろと言ったはずだ。姉さんも、言っているだろう?」

 響の問いに答えた先を見て、七瀬は拒絶するように前を向いた。

「言ったよ。自分の願いを追いかけろ、とも」

 響の言葉に、七瀬は振り返って呆れるように嘆息する。

「響、君……屁理屈を言おうとしているだろう」

「分かってるなら、僕の質問に答えてくれるよね?」


 ――僕の今の願いは、君科さんを助けることだ。


 2


「つまり、貴種四者がその『対峙権利』っていうのを使うと、対象者はそいつを倒すか自分が倒されるまで、現実世界に戻れないってことか……」

「だからこそ、その技は貴種四者のみに与えられ、一ヶ月に一度という制限まで設けられている。姉さんが言うには、【剣の騎士】は多量の異形を束ねるように侍らせている……厄介な相手が出たものだ」

 叶子が受けたもの。七瀬によればそれは、『対峙権利』という貴種四者にのみ許された特別なものらしかった。

 特定の一人に対し、決着をつけるまでその身を異層世界側に固定するという。参加者の証である紋章は、同時に現実世界と異層世界を繋ぐ扉を開ける鍵でもあるらしく、貴種四者の『対峙権利』はそれを奪うことによって成立する。

 一際力の強い貴種四者は、参加者側からすれば驚異。相当な実力の持ち主でなければ一度の遭遇、それもたった一人でそれを討伐することは難しい。故に、参加者は貴種四者に対してダメージを負わせ戦闘区域から一時撤退し現実世界に帰還、後日続いて襲撃するというヒットアンドアウェイ戦法を使うのが定石。

 対して貴種四者は出現した区域からの移動は出来ず、その位置は参加者全員に知れており圧倒的に不利な状況となる。

「なら、『対峙権利』を使わせることでその襲撃、離脱、再襲撃というサイクルを参加者側に使わせないようにするわけなんだね」

 貴種四者はあくまでゲームのボス的な存在だが、対戦者の役割も果たす。強大な力を持つが故に様々なハンディキャップがあるが、それをある程度補う権利も与えられている。その一つが『対峙権利』で、参加者側の『一度アクセスし直せば身体的外傷は回復する』という圧倒的イニシアチブを無効にするものだ。

 ……確かにそうすれば、丁度いい感じのゲームバランスになるな。

「そういうことだ。今の姉さんは、奴が倒されるまでこの異層世界に縫いつけられたままというわけだ」

 走りながら説明する七瀬の腕には、叶子が抱かれている。放置するわけにはいかないなら、近くで護る方がいいということで決定したのだ。

「……響、君は姉さんを頼むぞ。あの騎士は私がやる」

「分かってるよ。……でも、大丈夫なの?」

 叶子の話では、【剣の騎士】は多くの冠数異形を連れている。それを一人で相手するのは難しいはずだ。

「大丈夫だ。私は防御がさっぱりだが、対個人戦も対集団戦もこなせる。――いざとなれば、切り札もある」

「無理だと思ったら、逃げよう。区域を移動すればあっちは追ってこれないんでしょ?」

「ああ。区域の境は幸いにも槇屋市と古磯郡、避難は楽だな。……さて、そろそろその境だ」

 流れる景色に、槇屋市と古磯郡を繋ぐ煤けた緑色の橋が映る。

 ――ここから先が、戦場なんだ。

 響と七瀬は一旦橋の手前で停止し、息を整える。

「……響、準備はいいか」

「大丈夫。ここまで走ったのにまだ息が上がらないのは特訓の賜物だ、って思う」

「異層世界はそういうものだからな。……さて、姉さんを預ける」

 七瀬が叶子を響に渡す。響はその体の首と膝裏に腕を回し――七瀬もそうだったが、いわゆるお姫様抱き状態だ――、しっかりと抱く。

「騎士の近くは危険だが、私がすぐに駆けつけられる方がいい。一対一で迎撃しやすい場所で姉さんのすぐ(そば)にいてくれ」

「分かった」

 〝楔刀〟を手に顕現させ、七瀬は橋の向こうを見据える。

「――行くぞ」

 七瀬の言葉をスタートの合図に、響と七瀬は駆けた。


 §


「逃げたか……まぁよい、新たな獲物の方が楽しめる。奴は逃げぬようであるからな」

 古磯郡中心部、周囲を見渡すに適したビルの屋上。

 錆びた銀の鎧に全身を包んだ馬に跨った、同じく全身に鎧を纏った騎士然とした者――【剣の騎士】が呟く。

 しかしその周囲には、異形の姿がない。初めに自分に向かって来た少女の狩りに一部を投入し、更に現れた参加者の討滅のため全てを投入した。襲撃を受けたがすぐに撤退した少女を除き未だ交戦がない今の騎士は万全であり、ある程度の参加者ならば自分だけで十分。それに異形は補充が利く、という理由からだった。

 ――あの獲物は強い。ならば、我の異形共を倒し我の許へ辿り着いてみせよ。

 騎士は、自分の戦闘能力が高いと自負していた。

 その自負に偽りはなく、騎士は強い。このゲームにおける【騎士】とは、【王】や【女王】を守護、或いは補助する役割である場合が多いが、この【剣の騎士】は違った。

 迎撃を積極的に行い、襲い来る参加者達を逆に屠り、背を向け撤退する者を周囲の冠数異形で狩る。本来目の前の獲物をひたすら狩るだけの獣のような冠数異形に対し、誰が『敵』であるかということを刷り込むことの出来る力を持つ騎士は、それが可能なのだ。

 しかし、向かってくる参加者に対しては自身の力によってのみ対応する。その騎士は元来、戦うことを好む者であった。

 さあ、早く我を殺しに来い、正義を腹に抱く少女よ……!

 騎士は、自らが『対峙権利』を使用した参加者の再来を待ち侘びる。背にある自身の大剣(グレートソード)に匹敵する巨大さを誇り、それらを渾身に振るい打ち鳴らした瞬間背に歓喜の痺れが走る程の力を持つ、銀十字の大剣。

 あの少女との剣戟、否、それ以上のものを。願うのは、殺戮。或いは、蹂躙。

 静寂が騎士を掻き立てる。まるで戦の前に流れる極限の緊張だ、と騎士は身を震わせる。

 ――そこに、新たな気配。右を見ると、そこには先刻の参加者とそっくりな少女が立っている。

「……今回の参加者は積極的で嬉しいぞ」

「そうか、それは良かった」

 抜き身の刀を持ち、鋭く騎士を射抜く眼光は強者のそれ。

 迷いなく自身に切先を向ける少女に対し、騎士は大剣を構える――。


 §


 七瀬は、騎士の姿を見た瞬間に地を蹴っていた。

 騎士の気配を感じた七瀬は響と叶子を付近の民家に隠れさせ、覚悟を以て騎士の前へと躍り出た。

「……今回の参加者は積極的で嬉しいぞ」

 騎士が、鎧越しに響いた声を放つ。重く耳に残る低い声は、歴戦という単語を七瀬の脳裏に抱かせる。

「そうか、それは良かった」

 即座に七瀬は刀を構え騎士へと肉薄し、突きを放った。

 機を失っている姉さんと未熟な響を二人にしておくのは危険だ。時間をかけていられん……すぐに、決める!

「上々……正義の少女に比べれば随分と速い」

 だがやはり簡単にいくはずもなく、騎士は馬を駆り跳躍、七瀬の頭上を越えた。

「だがその得物で、我の剣をどう(しの)ぐ」

 騎士は馬から飛び降り、そのまま手の大剣を振り下ろす。

 既に回避が間に合わない距離に迫る鈍色の刃。ここまで重厚な鉄塊は紙一重で躱したところで足場を破壊され奪われるだけだ。だからこそ、七瀬はこの一振りを細身の銀刀で防がなければならない。

 ぎちっ、と嫌な音を立てて銀刀と大剣が接触する。

 ――そこだ。

「……ぬ」

 結論を言えば、七瀬はその大剣を見事に捌ききった。

 加え、左に軌道をずらした大剣の刀身側面を蹴り、騎士の一撃によって砕かれていない範囲へと着地した。

「私は……姉さんのように弱くはない」

「……それは人間業かと疑いたくなる身のこなしだな。だが、そうでないと面白くない……!」

 鎧の中から、心底愉しそうな声が漏れる。きちきちと金属同士が擦れ合う音を立て大剣を構え直す傍らには、既に騎士の馬が戻っていた。

「踏み潰せ」

 騎士が言うと、馬は勢い良くコンクリートを蹴った。厚い鉄の蹄はそれを砕きつつ七瀬に向かう。

 普通の馬よりも一回りも二回りも大きな騎士の馬。振り上げるだけで二メートル近くまで達するような脚に、駆けるだけで地を砕く蹄。踏み潰されれば命がないのは自明の理だった。

(つど)え」

 更に、騎士は呪文のように呟く。すると大剣の周囲で、ぱきっと薄氷が割れるような音が連続的に鳴った。

 ……何だ?

 七瀬は、馬の突撃をなんとか躱しつつ騎士を警戒する。性質透視を駆使してみても、周囲の温度が若干ずつ下がっているということしか分からない。

「我は戦いが好きだ」

 騎士は言う。

「運命に逆らう少女――貴様はどうだ?」

 そして、騎士は鈍重そうな見た目とは裏腹に凄まじい速度での走破を見せる。僅か一歩で七瀬との間隙五メートルを詰めると、隙が出来ることを躊躇(ためら)わず大剣を横に半月状に薙いだ。七瀬はそれを、身を沈め回避。冷気が背筋を撫でた。

 速いが、隙が大きい……ならばまずは、足を止める!

 騎士が未だに得物を薙いだ直後に出来る隙だらけの状態であることを一瞥し確認した七瀬は、鎧の継ぎ目――膝を狙ってまっすぐ刺突しようとして、


「落ちろ、『虚雹(Hagalaz-1)』」


「――ッ!!」

 大きく、後退した。

 直後、七瀬がいた部分を中心とした半径一メートル範囲を覆う巨大な氷塊がその直上より落下、衝撃と共にコンクリートを容易く貫いた。

「性質変化を感じ取り、回避したか。アイルランドで取得した我の『虚雹』が初見で回避されたことはあまりないのだが」

 感心するように騎士は言い、得物で澄んだ高音を鳴らした。

 高音? 剣の金属音とは違う……。

「集え、集え」

 再度、ぱきんという音。先刻の音の連続より更に多くそれが連なり、回数は数倍にも達する。やがてすぐ、その音はその場の全てを塗り潰した。

 ――文字通りに。

「は……?」

 なんという速度だ……!

 周囲を埋めるのは、多量の氷塊――騎士の言によれば(ひょう)。それらは騎士の言葉から僅か一秒弱で構築された。大小は爪ほどのものから人の頭三つ分ほどのものにまで及ぶ不定形のそれらは、騎士が一声発すれば一斉に飛び出すだろう。

 警戒を強める七瀬は騎士を睨む。驚いている場合ではない、致命傷を負わないためにはどうしたらいいか、と七瀬は思考を巡らせる。

 辿り着いたのは回避と突破の同時展開。

 ……自分の得物である刀は細く、盾にすることは不可能。遮蔽物のない屋上であれらを全て回避することは非常に困難……ならば前方から来る雹を落とし、他が自分に追いつく前に何か盾になるものに隠れる――七瀬はそれだけのことを、一秒とかからずに脳内で組み立てる。

「注げ、『千雹(Hagalaz-3)』」

 騎士が得物を――半透明の空色をした硬質そうな煌きを湛える、腕と同化した氷の剣を振り下ろし、命じるように言の葉を放つ。

 いつの間に? だが、今はあれから逃れるのが先決……!

 台風のような豪風と共に、雹は七瀬に向かって一斉に飛来した。

「道を、」

 七瀬は同時に低い体勢をとり前方へと飛び出し、右手の銀刀を翻す。

 銀閃は七瀬の眼前に迫る雹の連弾を砕き、弾き、両断する。その間も全速突破を緩めることなくひたすらに進む。その目の前にいた騎士は七瀬が一歩を踏んだ瞬間に屋上から飛び降り、その下に駆け戻った自信の馬に跨った。

 七瀬は更に速力を上げる。屋上の縁に片足をかけた次の瞬間に思い切り跳躍し、三車線道路を一本挟んだ対岸のビルへ。

 ガラスを突き破って内部に転がり込んだ七瀬は駆け回りつつフロアにあるデスクを蹴り上げ、瞬間的なバリケードを築く。気休め程度でしかないが、蹴り上げられた瞬間に下から衝撃を受けた雹が弾き飛ばされ、余裕が生まれた。

 その隙に七瀬はフロアのドアを蹴破り右手に見えた給湯室に駆け込む。横殴りに通過する雹の群が通り過ぎるのを待ち、七瀬は再びフロアに出た。

 同時に七瀬を応用にフロアに飛び込んできた騎士は氷剣の切先を七瀬に向け、

「集え、集え、集え――」

 と、何度も何度も繰り返す。

 その言葉が騎士の口から――正確には鎧内部から響く音だ――出る度に巨大な氷塊や多量の雹が現れたことから、七瀬は刀を構えて次に来ると思われる何かに備えた。

 ――が、何も起こらない。

 不発か……?

 思考内に疑問符を浮かべる。釈然としない表情をしていたのか、騎士は七瀬を見て一つ、嘆息。

「我の『雹』は、呪文を必要とするものではない」

 はっとして、七瀬は問う。その答えの察しは,既についていた。

「ならば、あの『集え』という言葉は」

 別の意味があるのだろう――そう言おうとする七瀬を、騎士の声が遮る。

「我は」

 そして、遠くで何かが叫ぶのを七瀬はその耳で捉えた。

 ……この耳を(つんざ)く叫びは……!

「――戦場で隠れることしか出来ぬ臆病者は好かんのだ」


 間違いなく、異形……!



 §


 響は、全身に幾つもの傷を負っていた。腕の中に叶子を抱き、迫る異形に背を向けて全速力で逃げている。

 最初は、民家の外に異形が数体出現した。初めから分かっていたかのように響の方を見て襲い来る異形を、響は迎撃していた。

 特訓の成果か、響は自分でも驚くくらい異形の攻撃を躱し、反撃を叩き込めた。あらかじめ各冠数異形の核となる部位は叶子と七瀬に知識として叩き込まれていたので、最初の一体であるⅢの異形は倒すことが出来た。

 しかし、その時だ。

 剣を構え直し次に備えていると、響の頭上から三体の異形が姿を現したのだ。

 鋭い嘴を持った、Ⅵの文字を腹に刻んだ鳥のような線の細いフォルムの異形。響の眼前を、得物に狙いをつけるかのように滞空するそれに加え、先刻現れた異形も加え――その数は十に近い。

 この数を一斉に相手するなんて不可能と考えた響は、路地かどこかなら逆に一対一を仕掛けやすくなるかもしれない、と叶子を抱いて民家を出た。叶子は未だ、目を覚まさない。

 民家を出た時、響は目の前に広がる光景を見て舌打ちした。

 それまでに確認出来ていた異形に加え、その倍以上はあろうかという異形の群れ。低い唸り声を上げてじりじりと詰め寄る異形に、響は戦慄した。

 幸いその中に強敵となるらしいⅧ、Ⅸ、Ⅹの冠数異形の姿はなかったが、響一人に対し、異形はその数を増やし続ける。響も叶子のようになってしまうであろうということは目に見えていた。

 響は叶子の左手を見てそこに紋章が戻っていないことを確認する。

 ――まだ、七瀬は騎士と戦っているんだ。邪魔は出来ない。

 助けを求めようと七瀬の向かった方向に行こうともした響だったが、それとは逆の方向に走り出した。少しずつではあるが叶子の傷も治り始めており、目を覚ませば一人で逃げることも出来そうだった。

 それまで逃げ続けるんだ、と決意し逃走劇を始めてその体に多くの傷を受け、今に至る。

「く、そ! なんだよ、楽しむみたいに追いかけて、たまに攻撃してくるなんて……!」

 自分は弄ばれているのか、と響は悔しさに歯噛みする。

 それでも響の持つ治癒促進能力は非常に強力で、傷を受けても即座に回復が始まる。魔法か何かじゃないかと思うほどの速度で傷口が塞がり、痛みが和らぐ。

 しかし治癒能力にも限界はあるのか、徐々にその速度は落ち、痛みが消えにくくなっていた。

 それと比例するように、ちりちりと何かが響の脳を焼いていた。嫌悪感を伴う、剣山を頭に乗せ続けているような感覚。時折見たことのないはずの地獄のような赤い風景が脳裡を過ぎり、何故かその風景に対し響の脳が拒否反応を示すように痛覚を発する。

 なんなんだよ、訳が分かんない。走馬灯か、これ……ッ!

 肩を異形の爪が掠める。裂くように破られた皮膚から血が吹き、断裂しかけの筋繊維が悲鳴を上げた。

 背中に小さな猪のような異形が衝突する。肋骨が軋み、呼吸が止まり、足が(もつ)れ――その場に倒れる。

 そこに黒き鳥の異形が八体、風を切って滑空。鳥の異形は嘴でまっすぐ響の太腿とふくらはぎ、足の甲を貫いた。

「ぎ――ッッ!!」

 鮮烈な痛みが走り、すぐに熱へと変化する。人間はキャパシティを超える痛みを感じると自動的にそれを脳が遮断してしまうらしいが、それって本当なんだなあと響は思っていた。

 だが、その熱は再び痛覚へと変貌。

「え……、ぁぐ……!」

 なんで――響の脳内は、そんな疑問と痛覚に支配された。

 嘴に穿たれた箇所は多い。そのいずれもが骨を避けるように刺さっており、うち三つは貫通している。そんな痛みならば、脳はすぐに痛みというものを遮断するだろう。

 なのに何故、そう疑問に思う。

「くあ……ッ」

 (うごめ)くように身動(みじろ)ぎする鳥の異形。その度に傷口が抉られ、電流が全身を駆け巡るような錯覚を得る。響は堪らず呻き声を上げた。

 異形は、響を取り囲むように集結する。

 なくならない痛みに耐えつつ、響はその場から逃げようとする。しかし、貫通した嘴がコンクリートにまで到達していて、両足は地面に縫いつけられていた。

 どうしようもないのか……?

 そんな絶望が、逃げている途中から響の心を支配し始めていた。その支配は今や響の感情全てに染み渡っていて、その動きを鈍らせている。

 取り囲む異形で視界が埋め尽くされる。燃える炎のような赤い眼光が全て、恐怖で動きが緩慢になっている響に向けられる。

 ――ああ、殺されたくない。

 口は動いていたが、言葉にならなかった。それでも響は、護るように叶子を強く抱く。

 それを嘲笑うかのように、異形が響との間をゆっくりと詰めていく。

 ――助けて。

 無意識に、胸中で助けを求め祈ってしまう。唐突に異世界のような――ような、というよりそのものだが――ことに巻き込まれてまだ一週間しか経っていないのだから、仕方ないことだろう。

 そんな祈りも虚しく、響の眼前で止まった異形らは鼓膜を破りかねないような大音量で一斉に雄叫びを上げた。

 まるで、捕食を開始するかのように。

 響の目の前に、聳えるように異形が立つ。人形型、Ⅱの異形だ。

 その特徴は、動きが緩慢、攻撃が一直線で回避がし易いが、その威力は高いということ。

 人形の異形は、その腕を振り上げる。巨大化する腕は、響の抱く絶望感と恐怖感を大きく膨らませた。

 人形の赤い瞳が一際強く輝き、響の視界を埋める。


 ほぼ同時に、阪樫響は意識を失った――。\


 3


 §


 遠くに見えた異形。その量は、一段階目と想定している修行を終えたばかりの響にとって、絶望的なまでに多かった。見たところ強い異形の姿はなく、気絶している叶子が目を覚ませばどうにでもなる程度だが、適っていないのだろう。

 七瀬は、自らの全速力――現段階の、だが、騎士との戦いでは未だ全力ではなかった――を発揮し、異形が叫びを上げた方角……詰まるところ、騎士の言う臆病者である響と叶子のいる場所に向かって駆けていた。

 この速度なら、しばらくは追いつけないはずだ……!

 七瀬の全力を以てすれば、さして遠く離れているわけではないそこに辿り着くのは容易。だが、ほんの数秒の時間をかけるだけで危険性は増す。

 だからこそ急いだ七瀬だったが、民家の屋根から俯瞰(ふかん)する限りぎりぎりで間に合わない距離に二人はいた。響は足を地に縫いつけられ、気絶しているようだった。

 全身に傷を負い、太腿のそれは最早致命傷。目を閉じたその表情は苦痛に歪んでいた。あれほどの傷ならば痛覚を遮断していてもおかしくはないだろうが、恐らく響の反則級治癒促進能力が仇となり、痛みを継続させているのだろう、と七瀬は推測する。

 異形が、巨大な鎚のような重い一撃を繰り出そうと腕を振り下ろしている。

 ……畜生。

 あの一撃を受ければ、たとえあの治癒能力を以てしても落命は避けられない。

 間に合わん……!

 そもそも、治癒能力など関係ない。あの腕は、間違いなく響の頭を粉砕するだろう。

 私が、異形の気配にもう少し早く気付いていれば。

 七瀬の視線の先で、巨大化した腕が響に迫る。

 私が、騎士との戦闘にばかり集中して響と姉さんに気をかけていれば――!

 そして腕は叩きつけられ――無慈悲な轟音が響いた。

 振り下ろされた腕を皮切りに、異形は一斉に二人へと飛びかかっていく。鴉が死体に群がるかのようなその光景を、七瀬は見た。

 ――ああ、駄目だった。私は、また私のせいで、目の前で大切な人を失ってしまった。

 それから零コンマ数秒遅れて、七瀬は異形らの近くに着地した。突然の闖入者(ちんにゅうしゃ)に、異形らはその赤の瞳をぎょろりと向けた。

「……退け」

 七瀬は低く、響と叶子を失ってしまった怒りや虚脱感を押し殺した声で言う。異形らは七瀬に()され、攻撃の牙を向けることを躊躇(ちゅうちょ)したように見えた。

 七瀬は刀を正中線に沿って顔の前に構え、目を閉じる。

「――(いち)を継ぐ、葵宮七瀬」

 この言の葉を紡ぐのは、いつ以来だろうか。

「私は、願い()う」

 七瀬は一つ一つ、自らの力にかかっている拘束を解く。

「私を流れる、(みそぎ)の力」

 全身に、充実した力が(みなぎ)るのを感じる。

 七瀬は、最後の――自らを象徴する『賜名(たまいな)』を言葉に、

「うた――」


「ったく、焦んなよ、七瀬」


 ――する刹那。男の声に、遮られた。

 同時に、

「『硲の紅鐵(総て事象を反撥破断)』」

 紅い暴風が、彼に触れようとする総ての異形を吹き飛ばし、その全身を幾つもの欠片に分断した。そのまま異形は、全て蒸発するように姿を消す。

「……君は」

 その声は、最近よく耳にする声だった。優しいといえば優しいが、どこか頼りない、男としては高めの声。今は少しガラの悪い表情だがその顔は幼く、大きな鳶色の瞳は七瀬を捉えている。

「久しぶりだなぁ、三年ぶりか? ま、俺はちょーっと前からお前の顔は拝見してるんだけどな、コイツ越しで」

 男は、コイツ、と言って立てた右手の親指で自分を指す。異質な光景だが、七瀬にはそれが納得出来た。

「……どちらにしても三年ぶりだ。全く、出てくるなら早く出てこい。絶望しかけたぞ」

 七瀬は嘆息しつつ、緊張していた表情が柔らかくなっていくのを感じていた。男の左腕に抱かれている叶子は無傷。そして、

「久しぶりだな――響であって響でない(きみ)宗綾(そうや)

 白かった剣は輝く真紅の剣に。

 ボロボロだったはずの全身は、更に促進された治癒によって目立たなくなっている。

「焦らすのは好きでね。けど、始めから飛ばし過ぎたかね。七瀬がこんな序盤で『賜名』まで使おうとしてたからな、『賜術(たまいわざ)』に加えてちょっとばかり治癒促進しちまった。お前の〝唄鶫(うたつぐみ)〟は、俺みたくコイツの借り物じゃあなくて本物だからな。あの勢いじゃ、俺まで殺されかねねぇよ。ま、とりあえず一旦橋の向こうまで戻ろうぜ」

 響の姿をした男――宗綾は、小さく笑いながら七瀬に言って、駆け出した。



「少し、ヤケになっていたかもしれん。早まったな、悪かった」

 宗綾、気を失ったままの叶子、そして七瀬の三人は、一度立て直すために橋を渡った先の槇屋市に戻ってきていた。ここまで逃げれば、区画の移動が出来ない騎士は追ってこられないだろう。

「ったく、お前も言ってたじゃねえか、自分自身を護る才能があるって。あれ、俺のこと言ってたんだろ? コイツがまだ俺の存在を認識していないのかどうか試すためにも」

「やはりバレていたか。結果、まだお前と共にあの記憶を封印していることが確定したのだが」

 七瀬は、思い出に馳せるように遠い目をして言う。

 懐かしいな、と宗綾は笑った。

 ――自分が生まれるきっかけとなった惨劇の瞬間なんだが、何故こいつはこうなんだ。

「だからこそ、俺があっさり出てきたわけだ。コイツにとって、命が蹂躙される恐怖と視界を埋める火のような赤はスイッチだ。脳はこれ以上精神的負担をかけまいと――これ以上見たくないと、意識を完全に遮断する。で、そこで俺の出番ってわけだ」

「郊外での、崩落事故の記憶だな」

 三年前、槇屋市郊外の山道で落下事故が起こった。

 被害者は、崖から落下した車に乗っていた響を含むその家族ともう一台の車に乗っていた一人の女性。女性は落下時の衝撃で頭蓋骨を骨折し、即死。ここまで見れば、それは単なる落下事故だ。

「ま、コイツの義理の両親はそれで死んだわけじゃねぇけどな。崖下にいた鋭利な刃物を持った何者かによって、体をズッパリ切断されたわけだが――これが報道されなかったわけだ」

 崖下にいたという、響の両親を殺害した何者か。ここまで不自然な事故、否、事件となったのに報道されないというのはどうしたことなのか。七瀬も当時は不思議に思い、どこか現実離れした事件の雰囲気を嗅ぎとって、自身の母親に真実を知らないかと尋ねた。

 返ってきた答えは、

『……その何者かというのが、どこかの魔術師。切断面が綺麗過ぎて、魔術以外に説明がつかなかった。だから私が情報統制をした』

 という、単純なものだった。神話などで語られる魔法や魔術、錬金術というものは現代では秘匿されるべきものとなっている。人は力を持ち過ぎると自らの欲に逆らえなくなり、極端な結果戦争などの争いごとが絶えなくなる。過去にある地で魔術を使った戦が起こり、その常人ならざる業による惨状を目にした当時の人々らは、生き残った魔術師達を悪魔だ、魔女だ、と弾劾した。

 掌を返されるように裏切りを受けた魔術師は、その数を減らした。それからというもの、彼らは潜むように暮らし続けている。

 だからこそ、その魔術が明るみに出るのは避けるべきこと。故の情報統制。

「で、新聞でもテレビでも報道しねぇもんだから、あの時の記憶を封印する前のコイツは大いに荒れた。なんでだ、ってな。それで事故から半年間暴れ続けた結果、傷害事件と呼べるものまで引き起こしちまった。ああ、懐かしいな。コイツ、確か上級生に『調子に乗ってる』とかでシメられてたんだぜ」

 事件のことを母に尋ね、自分でもそれを調べ始めた七瀬は知っていた。響にとって、生命の危機と赤い色が重なることがトラウマを蘇らせるということを。

 だからこそ、その時に響は宗綾を生み出した。

「手酷くやられていたコイツは、額から流れる血で視界が覆われた時、事故のことを思い出した。まだ子供のコイツは二度目の経験に耐えられなかったんだろうな、そこで意識を落とし、俺を生んだ」

 それは響にとって二つ目の人格。

 ――解離性同一性障害という、精神の病。

「響は事故の記憶を宗綾という人格に封印し、自分は事故の時家にいたと改竄(かいざん)した」

「俺はコイツの抑圧された感情を受け持つ。襲われた人間に復讐したいという感情から、俺は上級生共を返り討ちにしたんだよな」

 宗綾は誇らしげに言う。

 ――その暴れる君を止めたのは私だぞ……痛かったんだからな。

「だが、それさえも――隠匿された」

「……ああ、最後の穴を埋めたというところだな」

 あの事故のことをきっかけにした響の行動は、事故がなかった事になっている今に相応しくない。だから、七瀬の母を含む者達は響の周囲――街単位の人間の記憶を改竄した。七瀬は今考えても、無茶苦茶なことだと思った。

 骨の折れる作業だったらしいが、外部からの協力を得て、一部のみの記憶を別のものと取り換えたらしい。その取り替えた記憶というのが、一つの事件だ。

「コイツやコイツをシメていた上級生は、学校に侵入した暴漢に怪我をさせられたということになった。改竄で精々ちょっと荒れていた程度の認識になっていたコイツは、退院すると元の大人しい性格に戻っていた」

 中学生というのは、非常に精神的に不安定な時期だ。少し荒れていても、不思議ではない。だからこそ、誰も不審に思わないのだ。荒れたきっかけは揉み消され誰も知らず、響が――宗綾が起こした傷害事件も同様に揉み消されたのだから。

「そりゃ大人しくもなるぜ。コイツは、事故に関係することや荒れていたという事実を俺に擦りつけたんだからな。ま、そうやって逃げでもしないとコイツは押し潰されてただろうし、俺が生まれた理由はそこなんだから、恨んでるわけじゃねぇけどな」

 宗綾は微笑んだ。七瀬から見ても優しさに溢れたその笑みは、柔らかい。

 宗綾は恨んでいないどころか、響を見守ってさえいる。七瀬は宗綾の慈愛に近いものを湛えた瞳を見て、そう思った。

「俺は、コイツに強くなってもらいたいんだよ。俺に頼らなくてもいいようにな」

「……お人好しだ、君は」

 響が宗綾に頼らず、現実を受け止めることが出来るまで強くなってもらいたいということ。

 それは、宗綾の存在が必要なくなるということだ。

 恐らくそうなれば、

「そうなりゃ、俺は……消えるだろうな」

 七瀬は、どう言葉をかけていいか一瞬分からなくなる。

「でも正直、俺はそれでいいと思うぜ。だから――」

 だが、宗綾は笑っていた。

「俺に――響に、協力してやってくれ」

「……分かった」

 宗綾に同情するわけじゃない、ただ、私も響が放っておけないだけだ。

 さんきゅー、と屈託なく笑った宗綾は、そのまま七瀬に言った。


「で、協力をしてもらえることになったところでまず一つ。七瀬はここで君科を見ててくれ。で、目を覚ましたら俺が騎士を倒すまでずっとそこにいて、『対峙権利』が消滅したらすぐに帰っててくれ。今は暴れたくて仕方ねぇし、目的もあるからな……気絶した君科が近くにいると足手まといというのは、分かってることだろ?」


 ――ちょっとこの暴走列車との協力契約切っていいか、とつい声に出しそうになってしまった。

「何を言っている! 君一人では無茶だ!」

「七瀬も一人だっただろうが」

「ぐ……わ、私にはまだ切り札が」

「俺にもある」

 この男、引き下がらんな、主人格とは大違いだ……!

「な、なら、どうしてお前を置いていく必要がある!」

「先に帰れるってことはそりゃ、倒したからだ。負傷状態の君科は、回復を待つよりさっさと帰した方がいいだろ。それに、そろそろ時間がやばいからな、帰れなくなるのはよろしくない。だから、もし紋章が戻って俺がしばらく戻ってこなくても、君科の意識があったらすぐ帰れ。必ず俺もコイツと一緒に帰る」

 宗綾の言っていることは、間違っていない。もし宗綾が騎士を倒したならば、そこからすぐに帰ることが出来る。叶子の紋章が戻って、意識も戻った時、それが帰還に一番いいタイミングだ。

 だが、それなら宗綾でなくてもいい。七瀬が行って切り札を惜しみなく使い、全力で騎士を倒せばいい。

「それだけで君を行かせるわけには――」

「七瀬、今は黙って俺の言うことを聞いてくれ」

 しかし、その言葉を宗綾は遮る。

「俺の目的は、騎士を倒すことだけじゃねぇ。コイツの体に、自分が持ってる力の片鱗でも覚えさせたいんだよ。このゲームの途中で死んでもらっても困るだろうが」

 七瀬は言葉に(きゅう)した。

 確かに、体に自身の力を知覚させてそれ以降のパワーアップやその力を使う時の一つの道標にすることは非常に有効なことだ。

 かく言う七瀬こそ、その『体に慣れてもらう』という方法を使って力を習得しているという過去があるため、強くは言えなくなってしまう。

 私のは多少強引だったが……いや、この男がやるのも変わらんか……。

「大丈夫、俺は負けると思ったら一目散に逃げるチキン野郎だからな」

「今の言葉がなかったらしばらく任せようと思っていたんだが」

 チキン野郎が前線に出るな。

「あああ、違うって! 危なくなったら逃げるから! それと、君科が目を覚まして、七瀬が戦える状態だって判断したら来ていいからよ! な、いいだろそれで?」

 余程七瀬についてきて欲しくないのか、宗綾は必死になって説得する。

 これ以上渋っても同じことになるだろうと考えた七瀬は、諦めるように嘆息した。

「分かったよ、任せる。だが、死ぬな」

 ――響が死んだら、姉さんが悲しむ。七瀬は宗綾の傍ら、彼の制服の上着を下に敷いて寝かせてある自分の姉を見ながら、そんな言葉を胸中で付け足した。

「死にはしねぇよ、安心しろ」

 踵を返し、宗綾は再び騎士のいる古磯郡の方角を向く。

「……コイツも、今死ぬのは本望じゃねぇだろ。それに、本当の両親のこと以前に自分の過去を塗り替えたまま死ぬなんて、俺が許さん。知らない方が幸せだったって言葉はな――負け犬の遠吠えなんだよ」

「……そう言いながらも、君は響のことを一番に考えているのだろう? なにより、そんな理由はどうでもいいから死んで欲しくないと思っているはずだ。自分も死ぬからという理由ではなく、純粋にそう思っている、違うか」

 七瀬が声をかけたその背中は、何も答えない。

 だがその背中は、どこか照れ臭そうに僅かに揺れていた。

「――君科を、頼むぜ」

 そう言い残し、宗綾は駆けていった。

「……あの男なら大丈夫だろうな、響はきっと帰ってくる。心配はいらないだろう」

 七瀬は叶子に語りかけるように言い、

「いつまで隠れているつもりだ、異形共」

 自らの心擁武装である銀の刀――〝楔刀〟を構え、

「かかって来い――私が(はら)ってやる」

 周囲に姿を現した数十体の異形に向かって、不敵に笑って言った。


 §


 巻き込まない、という保証はなかった。だからこそ、一人で赴いた。

「そもそも、俺はあいつらと慣れ合うつもりはねぇ……この体もこれからの未来も、お前のものなんだからな」

 もう一人の自分――というよりも宿主と言ったところだろう――である響に話しかけるように一人呟く。

 それにしても、と宗綾は思う。

 コイツは本物の強者になる。自分の血筋、その力をしっかりと受け継ぎながらもその共存を果たしている。この特訓期間での成長を見る限り、俺を超えていくのにも大して時間はかからねぇ。

 宗綾は、自分のこと――つまり響のことを、三年前七瀬と出会った時にある程度聞いていた。

 響が七瀬と同じような家系の血を継いでいること。宗綾は上級生相手に暴れた時、自然と自分の力について理解し僅かながらもそれを使役していたので予想はついていたが、七瀬が言うほどのものとは思わなかった。

『歴史は千年近い、といったところだ。基本的に西洋の魔術師とは変わらんが、まぁその辺りは割愛だ。幾つかの家系があるのだが、君――響に宿るのは〝逆鶚(さかさみさご)〟と呼ばれる力と、もう一つだ。正確にはまだ分からんが……どちらも強力なものだ、使役は避けて欲しい』

 七瀬は、私もその同族で〝唄鶫〟というのだがな、と付け足すように言った。

 力を使わないことに異論はない宗綾は、七瀬の言葉に従うことにした。なにより、気絶した上級生相手にさえ力を使って報復をしていた宗綾を力尽くで止めたのは他ならぬ七瀬だ。また使って彼女の琴線に触れるのは避けたかったのだ。

 治癒し始めていたとはいえ怪我の酷かった体では入院せざるをえなかった。退院するまでの数週間、響は宗綾を表に出したまま眠り続けていた。その間はきちんと記憶を共有している宗綾が響の振りをして、見舞いに来た陸哉や柚奈に対応していた。

 時折七瀬がやってきて『響本人が知らずとも君が知っていれば抑制になる』と言い様々な知識を宗綾に叩き込んだ。ベッドの上で延々話を聞くのは退屈だ、という記憶が残っている。

 ……ま、おかげで、精神下での架空空間をおこして心擁武装や『賜術』の慣らしが出来たから、今こうして使えるってわけなんだけどな……。

 そう考えれば無駄ではなかったのかもしれない。少しだけ七瀬に感謝してもいいと宗綾は思う。

 ――やがて、槇屋市と古磯郡を繋ぐ緑色の橋が視界に入る。

「さて、酷使してさっさと終わらせつつ、強烈な印象を体に叩き込むか」

 手に顕現させるのは、〝雲徹ノ劔〟。持ち主を反映する心擁武装は、響の時の白いそれではなく紅く輝いていた。

 響の剣は白く、薄く発光する純粋な心を映し出した。

 一方、その辛い過去を一身に背負い、なおそれでも強く自分を保ち響に対する優しさも持つ強さを映し出したのが、宗綾の紅く強い輝きを放つ剣だ。

 人格変えるだけで対応しやがるってのもよく分からねぇ武器だな、これも。

 自身の剣を眺め、ふっと息を吹きかける。燃えるような紅が揺れる。

「行くか」

 そう呟いて再び駆け出した。



 古磯郡の中でも、オフィスビルなどが並ぶ都会に近い場所。

 ここに近付くごとに宗綾が思ったのは、寒いということだった。

 今前方五十メートル程度先にいやがるあの鎧野郎がその元凶だな……と上着を脱いだことを若干後悔し始めた宗綾が、ベージュ色の袖なしセーターの裾を掴んで嘆息した。

「待っていたぞ、臆病者の影」

 騎士が――全身の鎧を氷の結晶のように変化させた騎士が言う。横に侍る馬も同様だった。

「影ぇ? 何だ、お前知ってやがったのかよ」

「我は異形(しもべ)を通して聞いていた」

「盗み聞きとは、いい趣味じゃねぇな、騎士様?」

 七瀬と二人で話していたときに、周囲に感じていた異形の気配は間違いではなかったらしい。

「我は戦いが楽しめればいい……こうして対峙してみて分かる。影、貴様は始めから我を殺す気でいるな」

 騎士は確信をもって訊いている。それが宗綾には分かった。

「一撃で決めてやるよ。……それに、お前も同じだろうが」

 騎士も、始めから全力で宗綾を殺しにかかるということを肯定するように、氷剣の切先を宗綾に向ける。

「……『千雹(Hagalaz-3)』」

 そのまま、騎士は自らの術を開放した。大小様々の雹が出現し、宗綾に襲いかかる。

「お話はこれ以上要らねぇってかよ……単純でいいねぇッ!!」

 雹の嵐をかいくぐり、手の剣で落とし、遮る。

 だが、嵐は勢いを衰えさせることなく降り注ぐ。

「ナメるなよ、騎士――『硲の紅鐵(総て事象を反撥破断)』」

 言の葉を紡ぎ、自身に眠る力を呼び起こす。すると、宗綾の全身が薄く紅色の燐光を放つ。

 『賜術』発動のために行う儀式、その最低限が『言の葉紡ぎ』と呼ばれる、術名を口にすること。そのことは七瀬から聞いていた。それが一番現実的で使い易い形であると。

 向かってくる雹を、宗綾は何もせずにその体に受ける。しかし、

「自分に向かう攻撃を全て反射し、反射したものに斬撃に近い一撃を数回浴びせる……時間制限とか精神力の消耗度合いが少々キツいが、優秀過ぎる『賜術』だとは思わねぇか?」

 ――その全てが跳ね返り、赤熱するようにその色を変えた後、粉々に砕ける。

 騎士はそういうことか、と呟き苛つくように氷剣を凍りついた地面に軽く打ち付けた。

「……〝極東の(イースト・クリムゾン)〟……!」

「なんだって? 今凄く若者をわくわくさせる感じの言葉が聞こえたような気が……もっかい言ってみてくれよ?」

 騎士の言葉に、宗綾は聞き覚えがなかった。その意味を確認することも含め、復唱を求める。

「〝極東の紅〟だ……東洋の魔術家系、源流の一つだったか」

「へぇ、そんな呼ばれ方してんのか、なんかイイなぁ――」

 口元に微笑を浮かべつつ、宗綾は渾身の力を込めて地を蹴った。

 あの鎧からして、騎士は鈍重……それを補うために馬がいる。なら、俺が騎士を馬に乗せるような暇も与えずに一撃を加えればいいだろ?

 宗綾は、五十メートルの距離を一息に詰める。その速度に瞠目する騎士は、宗綾の賜術が反撃であることからあまり自分から攻めこまないと踏んでいたのだろう。騎乗して回避することは無理とふんだ騎士は、氷剣を構えてガードの体勢をとる。

 がぎ、と音を立てて紅の剣と氷剣がぶつかる。

「ぐ……!?」

 予想外の重さにたじろいだのか、騎士は一部が僅かに欠けた氷剣で紅の剣を弾いた。

「重い――正義を腹に抱く少女の大剣と同等か……!」

「見た目に騙されないこった。心擁武装ってのはそういうもんだろ?」

 再び、宗綾は騎士に肉薄する。額を鎧ごと貫くように、素早い刺突を繰り出した。

 騎士はそれを構えた氷剣で受け流し、そのまま袈裟懸けに振り下ろす。

「危ねぇ危ねぇ……!」

「まだだ、影よ」

 後ろに跳んで回避した宗綾を、騎士は馬を使い追撃をかける。馬は蹄で凍りついたアスファルトを蹴り、飛びかかるようにして宗綾に襲いかかった。

「畜生は黙ってろ!」

 猛り(いなな)く騎士の馬の腹を目掛け、宗綾は左に回避しつつ横一線に払う。紅の剣の重く収束された斬撃は馬の鎧を容易く砕き、腹を裂いた。

 倒れた馬の四本の足の膝にそれぞれ突きを入れ、しばらく行動不能にする。

「見事に我が愛馬を駆逐してくれたな――」

 その間、何故か手を出していなかった騎士が呟く。騎士の背後には、巨大な氷柱(つらら)が五本浮いている。先端全てが宗綾を狙うように向けられ、今にも飛び出さんとしていた。

「お得意のルーン(Hagalaz)の一つかァ?」

「知っておるのならば話は早い――『尖雹(Hagalaz-4)』」

 騎士の言葉と共に、背後に侍っていた氷柱が一つ一つ発射された。始めの一つを剣で上に弾き、二つ目を横っ飛びに避ける。

 その時、前方から迫る三つの氷柱に加え、背後にも冷気を感じた。

「『尖雹』の利点」

 宗綾は咄嗟に上に大きく跳び、三つ目の氷柱と背後から斜めに降ってきた氷柱を躱す。一つ目のものと思われる背後からの氷柱と三つ目の氷柱は衝突し、砕け散った。

 これは……、

「頑丈、そして操作が可能ということだ。硬い分、氷柱同士で衝突すれば砕けるのが欠点だが」

「はー、そりゃなかなかなこった……!」

 空中の宗綾目掛け、四つ目と五つ目の氷柱が飛来する。四つ目は一旦宗綾よりも高く上がり振り下ろすように、五つ目は下から抉るように。

 四つ目が余計に回り道をしたことで、一つ一つでの攻撃から、ほぼ同時の二方向からの攻撃へと転化した氷柱は、一気に防ぎにくくなる。空中で回避行動が取れない宗綾はそれらを弾くか撃ち落とす他ないからだ。

 だが。

「もーちょっと頑張りやがれよ、騎士!」

 宗綾は、僅かにずれて先に到達した下の氷柱の先端を蹴り、軌道をずらしつつ空中で再び跳躍。結果二つの氷柱は空を切り、衝突し合わないよう調節されたはずの氷柱が、軌道をずらされたことにより衝突し破砕し合った。

「んで、ラスト!」

 着地する目前、横殴りに飛来する二つ目の氷柱を少し後ろに跳び回避、紅の剣を縦に一閃し、砕いた。

「甘いんだよ、お前は! 並みの相手ならそれで十分だろうがな、俺には効かねぇんだよ、そんな子供騙しはッ!」

 叫んだ宗綾は、氷柱をあっという間に全て捌かれ唖然とする騎士へと全速で駆ける。舌打ちのような音を鎧から発し、騎士は膝を曲げ跳躍した。これならば、全速の宗綾はその下を駆け抜けることになってしまうだろう。

 だが、宗綾はそれを待っていたかのように右足でブレーキをかけ、そのままアスファルトを蹴って反転、騎士を追うように跳ぶ。

「剣で防がないならこうするのがいいよなぁ、その鎧からすると横っ飛びより意表つくし後ろ取れるしさぁ! けど、両膝を曲げたのは失敗だぜ、騎士!」

「化物並み動体視力の影が……ッ!」

 先刻から攻撃をいなされ続けている騎士は苛立ち、力任せに氷剣を振る。

 それを甘い甘いと言うような表情で、宗綾が紅の剣の面で受け流す。空中で無防備となった騎士の首を、宗綾は睨んだ。

「『硲の紅鐵(総て事象を反撥破断)』……終われよ、戦闘狂――!」

 自身に触れたものに反撃を加える賜術の名を呟き、鎧の継ぎ目を左拳で一突きした。

 突いた部分から鎧の頭と胴体の間に広がるように亀裂が走り、やがて大量のガラスが割れるようなけたたましい音と共に、騎士の首が飛んだ。

 宗綾は騎士の胴体を蹴って離れた場所に着地、騎士の胴体は吹き飛びオフィスビルの壁に激突、ぐったりとして動かなくなる。同時に、遠くに倒れている騎士の馬がどろりと溶けて蒸発するのが宗綾の視界の隅に映った。

 同時に、着地した宗綾の膝が力を失って落ちる。

 あー、攻撃に転用して大成功をおさめたはいいが、ちっと使いすぎたな……。

 本来、賜術というのは切り札であり、そう何度も使えるような代物ではないということは、三年前に七瀬に聞いていた。精神力を大幅に食う賜術は、一度の戦闘行動で三度が限界らしい。その例に漏れないんだな、とごちて、騎士に止めを差さすべく宗綾は足に喝を入れ立ち上がった。

 ここに向かう途中、有用な情報はないかと走りながら解説書物に目を通していると、貴種四者を含む全ての異形はそのどこかに埋まっている核と呼ばれる赤い石を壊せば撃破したことになるということを知った。

 んじゃ、まずは頭を拝見すっかな……。

 そう考えて、氷の鎧に思いきり叩きつけたせいか皮膚が裂けところどころから血を流している拳を一瞥し、道路の真ん中に騎士の頭へと向かう。

 辿り着き、騎士の頭を見て宗綾は愕然とした。

 そこに核がないということは想定の範囲内だったが、

「……中身がない、だと……?」

 思わずそう口にした瞬間、宗綾は腰から腹にかけて何か冷たい塊が差し込まれた感覚を得た。

「が、は……?」

 ――宗綾の体、腰から腹を斜めに突っ切るように、全身にヒビが入った騎士の右腕(氷剣)が貫いていた。

 気付かなかった、油断していた。

 氷の剣はすぐに引き抜かれる。ヒビに沿うようにして広がる鮮血の網目は、脇腹から吹き出す血を浴び、やがて崩れる。

「……我は首無し騎士(デュラハン)と呼ばれていた」

「はん、最初から……本体は、そっちかよ」

 してやられた、と苦笑する宗綾の口から、ごぼりと血液の塊が吐き出される。今度こそ足に喝を入れても立ち上がれないほど、宗綾の全身から力が抜けていた。

 宗綾が倒れるのと同時、背後の騎士も前のめりに倒れるのが朧気になりつつある目が捉えた。アスファルトにぶつかり、鎧が大きく欠ける。露呈した腹の奥は闇で、その奥には弱々しく赤い光を放つ核が見えた。

 あっちかよ、核も……。

「ああもあっさりと、全てを捌かれ、挙句の果て怒りに身を任せ甘んじて必殺の一撃を受けてしまっては騎士の名折れ。一矢報いるのが最後の勤めというものだ。しかし、短いながら愉しかったぞ、影――」

 満足したような声が鎧の残骸から聞こえ、見えていた核が輝きを失って砕け散る。

 決着の瞬間だった。

「いらねぇとこで、騎士になんじゃねぇよ……」

 腹に開いた空洞に左手を当て、既に失くなった騎士に対して文句をぶつける。

 だがそうしたところで、流れ出る血は止まらない。

「あー……――」

 体が冷えていくのを感じ、何かを呟こうとしても、声が出ない。

 ――響。死んじまうっぽいぜ、俺達……。

 死ぬな、と言った七瀬の顔が浮かぶ。

 悪い、約束は守れそうにねぇ――。

 はは、と力無く笑い、宗綾はその目を閉じた。\





「……響ちゃん……?」

 絶望に近い声が、ぽつりと漏れた。






 §


『……響ちゃん……?』

 暗闇の中、クラスメイトの声が聞こえた気がした。

 その名前は、雨垂優璃。容姿も声も、仕草でさえも女に限りなく近い男だと響は覚えている。

 どうして、こんなところに?

『…………間に、合わなかっ、た? ……いや、まだ……ぎりぎりだ、良かった……!』

 胸に手を置かれる感覚。

 暗闇に、暖かい雫が数滴落ちる。間に合わなかったというのは、何にだろう? 想像がつかない。

『それなら、僕は……ごめんね、響ちゃん』

 ふと、人に抱かれたような温もりを感じた。何故だか同時に、腹がすうすうした。

 暗闇に響く優璃の嗚咽しているような声が、もう一度謝る。

『ごめんね……もう、一緒に、いられないん、だ』

 どういうこと……?

 その言葉に嫌な予感を抑えられずに、響は口を動かしているつもりで訊く。暗闇の中で口が動いているのかどうかさえ分からないし、何よりも動かすことが酷く難しかった。もしかしたら動いていないのかもしれない、と響は思う。

『僕を、響ちゃんにあげるんだ』

 優璃を、僕に……?

『そう。だから――』


 ――ごめんね、響ちゃん。響ちゃんに貰った命は、返すよ。


 そんな悲しい声を最後に、響の意識は落ちた。










 解説書物、参加者アルカナを表示するページ。

〝刑死者〟のカードが、裏返った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ