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四章


 1


 僅かに開いた障子の間から、陽光が差し込んだ。その中で、響は静かに身を起こす。

「……朝、か……なんか、きつい」

 昨夜は異層世界で、恐ろしいほど特訓を重ねた。異層世界側での傷や疲れはほんの少しだけ現実世界側に影響するらしく、若干だが体が疲労を感じている。

 肉体的なものは、あまり睡眠をとらなかった時の疲れの抜けきっていない微妙な疲労感程度なのだが、精神的には色々と参ってしまった。

 確かに、回避とか反撃についてとか、基本的なカンとかは取り戻せたけど……。

 目を擦っていると、響の隣で一つの人影がもぞもぞと動いた。

「ん……ぁ?」

 見ると、叶子が薄く目を開けているところだった。手で響の腰あたりをぺたぺたと触っている様子からすると、まだ寝惚(ねぼ)けているのかもしれない、と叶子の突然の行動にどぎまぎしつつ響は思う。

 なんだか無理矢理剥がせないし……目が覚めるまでなんとか我慢するしか……!

「あれ……? さか、がし……?」

 虚ろな目で、叶子が響を見る。そのまま右手がゆっくりと響の顔に添えられ、頬を撫でた。

「ききっ、君科さん……!?」

「あーれ、触れる……」

 す、すべすべだ……じゃなくて! 寝惚けてる! やっぱりこれ以上やられる前に起こさないとこっちがもたない!

「君科さんっ、起きて、朝!」

 響は叶子の肩を掴み前後に揺らすが、それにあわせてあぅあぅ言いつつ柳のように揺れる叶子は、はっきり意識が覚醒する兆候が見られない。

「ふぁ?」

「ぬあ……っ!」

 そしてきょとんとして首を傾げる叶子の破壊力はなかなかのもので、響は思わず唸ってしまう。

 一緒に寝ているはずのもう一人である七瀬に助けを求めようと視線を向けると、そこには綺麗に畳まれた布団しかなかった。

 枕元に置いておいた携帯を見てみると、普段と変わらないくらいの時刻表示が目に飛び込む。叶子の家の位置から学校に向かうとした場合でも、時間に余裕が無いわけでもなかった。七瀬は朝が早いのかもしれない。

 と、のんびり考えている場合ではなかった。

 叶子の寝惚け具合は酷く、ついには響に寄りかかって半分抱きついたような形となる。

「あったかーい……」

「起きて! お願い起きてっ! 幸せな気もするけど、起きてぇ――!」

 混乱からか、思わず本音が漏れる。

「うるさいぃー……」

 寝惚け、加えてその状態で拗ねた子供のように怒る叶子は、間延びした声を上げつつ及ぶ行為を加速させる。

 抱きつくような形から、本当に抱きつかれる。肩に片手、もう片手は首筋に。そのままきゅっと響を寄せ、引き込むように布団へ押さえ込む。

「――ッ!?」

 驚きに目を(みは)る響をよそに叶子は更に響を抱き寄せ、自らの胸元に(いざな)う。

 ――うわっ、うわっ、うわっ、や、柔らかい……っ!

 控えめだが、叶子の胸が顔に押し当てられる。着ているパーカー以外に柔らかさを遮るものはなく、しっかりと形が分かってしまう。

 響は、自分の顔が今どれだけ赤くなっているのか想像がついた。顔全体が熱いどころか、耳や首までが熱を帯びている。

「すー……」

 ね、寝た! また寝た!

 ……だが、この桃源郷にしばらく身をおくのもやぶさかではない……と一瞬思考の中で妙な言葉遣いにもなった響だが、すぐに振り払って叶子を引き剥がしにかかる。

「は、な、し……」

 が。

 僅かに開けた視界に映ったものを見て、響は固まった。

「……て……?」

「なんだ、続きをしないのか」

「…………」

 何かに似ている、何かに似ている気がするぞこの場面……! なんだろう、テレビドラマとかでありそうな感じの場面だ……!

「ど、どこから……?」

 響は、障子の隙間から覗く七瀬に問う。

「『なんか、きつい』、から」

「完ッ全に最初からじゃないかぁ――!」

 響、魂のシャウト。

「もー、うるさい、朝からな……に……?」

 叶子、大声により覚醒(意識的な意味で)。

「朝ご飯は出来ているから。いちゃいちゃしてないで、冷めないうちに来ておけよ――頑張れ、響」

 七瀬、そそくさと退散。

 取り残されたのは、抱き合った形で両者を見て呆然としている響と叶子。

 沈黙が(ほど)かれ、堰を切ったように叶子が紅潮し、

「何潜り込んでんのよこの変態――ッ!」

「それは誤解ぎゃあぁあああ――!」

 響を即座に背負い投げした。



「……ごめんね、阪樫」

「いや、本気で起こさなかった僕が悪いんだよ、うん」

煩悩(ぼんのう)(まみ)れた阪樫、欲に勝てなかった姉さん。両成敗だな」

『七瀬が止めてくれても良かったよね!?』

 食卓。

 あの後、響も叶子も互いに急いでそれぞれの部屋に戻り着替えて、落ち着き、一階のリビングにて合流。叶子はどういう状況だったのかを響に訊き、響は七瀬と協力し状況の説明を懇切丁寧に行った。

 結果、素直に叶子は頭を下げ、響もそれを咎めず、初めからずっと見ていたというのに、さも自分が全くの無関係のように言う七瀬に二人で突っ込みを入れた、というところである。

 食卓に並ぶのは、一番の早起きである七瀬が用意した合わせ味噌の油揚げと豆腐の味噌汁、焼き鮭にたくあん、そして白米という素晴らしいまでの『日本の朝食』だった。

「うーん……やっぱり美味しいわね、七瀬の味噌汁……ほんと、敵う気がしないわ」

 音を立てず味噌汁を優雅に(すす)る叶子は、妹の料理を絶賛する。七瀬はそれに「姉さんは得意じゃないからな、料理」と返し、叶子をうっと唸らせた。響はいつ自分もこんな風に頭が上がらなくなるのかと少しだけ怯える。

 食事中の会話は雑談から始まり、昨夜の話となる。

 七瀬がやけに響を褒め、叶子が感心する。照れていた響だったが、その後にもう少し厳しくやろうということが叶子と七瀬の間で決まり、顔を青くした。

 叶子の方は特に大した収穫があったわけではなく、精々冠数異形を十数体ほど乱獲したくらいらしい。曰く、複数体出てくる場合なんて稀であり、それ以外は大抵個体で苦労はしないという。冠数異形の中でもレベルの高い部類であるⅧ(eighth)、Ⅸ(ninth)、Ⅹ(tenth)には多少手こずるらしいが、倒せないことはないらしい。

 次に七瀬の提案により、響の特訓期間は五日と決まった。その間に身体能力の向上と足運びなどの身のこなしを現段階より昇華させ、心擁武装を更に使いこなすための基本ノウハウを体に突っ込むというハードスケジュールが決定。響が口を挟もうとしたが「あんたのためなのよ、死にたくないでしょう?」という叶子の言葉に何も言い返せなくなった。

 ひとしきり話が終わると同時、七瀬が箸を置きごちそうさま、と手を合わせた。

「台所に下げておくが、後片付けは……」

「阪樫、しばらくあんたの役目。一週間経ったらシフト制にするから、今はお願いね」

「分かったよ……なんだか臨海学校で野外調理の後片付けしてる気分だ」

 間もなく響と叶子も食べ終わり、響は食器洗いを始める。少し高校までの距離がある七瀬は先に行くぞ、と家を出た。朝食で使ったらしい調理器具は既に洗い終えていたのには感謝すべきことだ。

 響が食器洗いをしている間、叶子はソファに座ってぼーっとニュースを見ていた。

「何か気になるニュースある?」

「んー……特にない、わねぇ。なんでこうマスコミって芸能関係ばっかり報道したがるのかしら。それもスキャンダル」

 はぁ、とどうでもよさそうに小さく溜息をつく叶子。

「食いつきがいいからじゃない?」

「そうよね……地方の殺人事件や自殺、交通事故とかは地方紙の端っこに乗る程度だし」

「……そう、だね」

 響の母と父が交通事故で死んだ時も、まるで報道がなかった。事故を起こしたのは田舎の山道で、崖からガードレールを突き破って数メートル下に落ちたという。これだけの事故なら地方局で放送があってもいいはずだと当時は思ったが、それはなかった。

 帰ってきたら、あのことを訊くつもりだったのに――。

「阪樫、あとは乾燥機に入れておけばだいじょう――阪樫?」

「……え?」

 無意識に暗い表情をしていたのか、叶子は響を少し心配そうに見ていた。

「いや、大したことじゃないよ」

「そう……? なら、いいけど。そうだ、訊こうと思ってたんだけど……阪樫、あんたの願いってあるの? 協力してとは言ったけど、一応訊いておきたくて」

「……僕の願いは大層なものじゃないよ。ただ、真実を知りたいってだけ」

 ――僕は、知りたいんだ。

 中学に入った頃のある日、自宅で見つけた戸籍の写し。そこにあった、

 ――『養子』、という表記――。

 一度目に見つけた時はすぐに元の場所に戻したが、響は両親の結婚記念日に二人を出掛けさせたあの日――二人を失ってしまうあの日――にもう一度隅から隅までそれを読み、自分が養子であるということを知った。

 それを、響は帰ってきた両親に訊くつもりでいた。何故今まで隠していたのか、本当の親は誰なのか、或いは誰だったのか。

 責めるつもりは毛頭なかった。二人の偽りのない愛情を一身に受けて育った響は、本当に両親が好きだった。しかし、年頃の響は知りたかったのだ。自分が本当は誰の子なのか、どうして両親が自分を引き取ったのか。

 願いが一つだけ叶う、という叶子の言葉を聞いたとき、浮かんだ願いはそれくらいだった。死んだ両親を生き返らせる――それも考えたが、今更生き返ってあの人達はどうなるというのか。社会的立場などない、赤子同然の状態で生き返ったとしても。

 それは、二人を困らせるだけだ。僕が二人を養うとしても、同じだ。

 底が見えない優しさを持つ二人は、仕事に就けず息子である響に負担をかけ続ける自分達を許さないだろう。なにより響は、二人の困った顔など見たくはなかった。

 それくらいなら、僕は一人でも、強く生きる。

「真実を知りたい……か。まあ、妥当(だとう)ではあるわね」

 食器を乾燥機に入れ、エプロンを外してリビングに戻る。ソファの、叶子から見て斜め前の位置に座り、言葉を続ける。

「でも本当に、知らなくても生きていけることだし……僕は、君科さんに協力する。……ところで、今がタイミングっぽいから僕も訊くよ。君科さんの願いって――何?」

 叶子の願い。協力者を得てでも叶えようとするのだから、相当に真剣なものなのだろう、と響は思っていた。

 詳しく詮索しようとは思わない。もし教えてくれなくても、その真剣さが()み取れればそれでいいとも思っている。

 叶子は、口を開く。

「私は、勝たなきゃいけないのよ……絶対に、負けられないの」

「……絶対に、なんだ」

「倫理的観点からしても、私は世の中から『悪』と取られるようなことをしようとしてない……協力を仰ぐのに、それだけしか明かさないのじゃ……駄目かしら」

 何度も見た、あの瞳。

 人をまっすぐ射抜く、(きら)めく決意の薄紫。

 (たた)える光は、嘘など含んでいるようには見えない。

 この瞳だった。響が叶子に惹かれる理由の一つが。学校でも時折見せていた、この瞳が。

 不思議と、心から信用していいと思えた。

「……いや、大丈夫だよ。今はそれでいいと思う。ゆっくり聞かせてくれると嬉しいかな」

 響が言うと、叶子は目を細めて笑う。

「ありがとう、阪樫」

 その笑みは美しく、響は言葉を失った。この笑みをもっと見たいと、そう思えたくらいに。

 心臓の鼓動を抑えられない響の傍らに叶子が寄る。人ひとり分の隙間しかないくらいになって、叶子は右手を出した。

「改めて……よろしく、阪樫」

 その手を取って、響は思う。

 頑張ろうと、ただそれだけを、強く。

「よろしく、君科さん」

 互いに改めて協力を強めたところで、叶子が立ち上がる。

「さて、じゃあ学校行くわよ。酷い風邪引いて休んでたけど、親が出張中で連絡出来なかったってことにして先生にも言わなきゃ」

「そういうことになるんだ……」

「いいじゃない。馬鹿正直に話すわけにもいかないでしょ」

 叶子は藍銀の髪を白の細いリボンで結わえる。それを何気なしに眺めていた響は、小さな違和感を得た。

「……あれ? 君科さん、そんなリボンつけてたっけ」

「ん、よく気付くわね。普通つけないけど、なんとなくね」

「でも、似合ってると思うな」

 藍銀に映える純白。滑らかに光を反射するそのリボンは、驚くほど叶子に似合っている。

 似合っていると思った響が、それをそのまま口に出してしまうほどに。

「あ、ありがと」

 僅かに頬を染めて、目を逸らしながら叶子は言う。響はその仕草にどきりとしてしまった。

「阪樫っ、行くわよ」

 食卓の余った椅子に置いてあった白の手提(てさ)げ鞄を取り、叶子がリビングを出る。

「あ、ちょっと待ってよ!」

 響も鞄を肩に提げ、叶子の背を追いかけた。


 2


 ざわつく周囲。

「…………」

 その視線の半分は、自転車を漕ぐ響に向けられていた。視線を浴びることになれていない響は、どうも落ち着かない。

 分かるんだけど、あんまり見ないで欲しいなぁ……恥ずかしい。

 この高校付近に至るまでも、確かに多くの人から注目を浴びていた。確かにあれがそういう状況なら見ちゃうだろうけど、と響は内心納得するが、それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。

「…………はぁ」

 思わず、溜息をつく。

 それを見て、この注目の原因となっているそれが言う。

「私を荷台に乗せて登校することが、そんなに嫌なんですか、阪樫君……?」

「物悲しそうに言わないでくれる……?」

 ――君科叶子、外向きバージョン。

 家を出た瞬間に、叶子は響が今まで見てきた、お淑やかで敬語な優等生に変貌したのだ。

「じゃあ恥ずかしいんですか?」

「そりゃ……君科さんの人気からしたら注目されるのは当たり前だし、僕はそういうの慣れてないし」

「ふふ、地味ですもんね?」

「う」

 地味、というフレーズだけは周囲に聞こえないように響に近付いてからかうように言う叶子。ついでに脇腹を軽くつついてくるなんて間違いなく悪戯っ子だ、と響は思う。

 衆目の視線に耐えつつ校門をくぐり、昇降口前で叶子を降ろす。時刻が早いからだろう、自転車がまだまばらにしかとまってない自転車置き場に愛機をとめ、昇降口に向かう。先に行っていればいいものを何故か待っていた叶子と合流し、階段を登る。すれ違う生徒、追い抜いた生徒、談笑する生徒――ほぼ全てに視線を浴びながら。

 四階に辿り着き、教室の扉を開く。扉を開いたとき一瞬だけクラス内の視線が集まるが、なんだ阪樫か、といった風に元の状態に戻る。

 が。

「おはようございます、皆さん」

 響に同伴するように教室に入って挨拶をする叶子に、クラス中の生徒がぐりんと、首が千切れんばかりの勢いで二人に向けた。

 唖然、或いは盛大な疑問からか――沈黙が降臨していた。

 そ、そこまで驚かれることなの……?

 一週間の無断欠席を明けて叶子が登校したことは確かに驚くことだろうが、それは喜ばしいことであって唖然とすることではないはずだ。ならば、原因は一つ。

 クラスでも地味で関心をひくことのなかった阪樫響が、校内どころか最近は校外の生徒からも告白を受けたりするという噂の美少女、君科叶子と連れ立って登校したということだ。

 一人、また一人と我に帰り、叶子におはようと返す。その間も、何故コイツと、という猜疑(さいぎ)の目が響に向いていた。

「人気者ですね、阪樫君」

 響の前、自分の席に座って叶子は微笑んで言う。表情の作り方が堂に入っているのは、ずっと自分を偽ってきたからなのかもしれない。最早芸術の域だ、と響は嘆息。

 響は鞄を下ろし、椅子に横向きに座る。慣れぬ出来事が連なったせいか、疲れたように肩を落とした。

 そんな響に、近付く影。

「よ、今日は遅刻しなかったんだな、えらいえらい」

 鴇祈柚奈――響の幼馴染である、ショートカットの女生徒だ。柚奈はわしゃわしゃと響の頭を撫で回し、快活に笑う。

 が、その手が唐突に止まり、じとっとした視線が叶子に向けられる。向けられた叶子は首を傾げていた。

「にしても……容姿端麗、文武両道な美少女な君科と一緒に登校とは、なにがあったんだぁ?」

「いや、特にないよ……多分」

 ……例のゲームのことなんて話せない。頭がおかしくなったのかと笑われるだけだろうし、そもそも信じない。

 はっきりしない物言いの響を、むっとして怪しむ目で見る柚奈。

 そこに、優等生の叶子が爆弾を投下した。

「大丈夫ですよ、鴇祈さん。鴇祈さんの阪樫君を取ったりしませんから」

 くすくす笑う仮面を被った叶子――さながらいたずら妖精というところである――の言葉に、柚奈の顔が爆発するように赤く染まった。

「ちちっちっ、ちげえよ!? あたしにとって阪樫はただの幼馴染、気心の知れた友達!」

「顔が赤いですよ? ねぇ、阪樫君?」

「えっ!? うそっ!?」

 指摘を受け(意地悪を言われ)た柚奈はぺたぺたと顔を触る。一方話を振られた響はわけが分かっていない。

「どうして僕に振るの!?」

 全く理由が分からないんだけど!

「うー……! 君科ぁ、意外に意地悪だったんだな……!」

 若干涙目になって顔を真っ赤にする柚奈が、恨めしそうに叶子を睨んだ。ふふ、と心底楽しそうに笑う叶子はその視線を受け流し、その流された柚奈は恨みの向けどころを響に設定する。

 勿論睨まれた響はあたふたするわけで、

「な、なんで僕なの?」

「響のせいだーッ!」

「理不尽っ!?」

 端から見れば、柚奈と叶子を含む三人で談笑する響は今まさにモテ男街道まっしぐら状態。

 柚奈と響は元より仲の良い二人という共通認識があったので大したことはないが、そこに叶子という大人気女生徒が参入することによって完全に別物となる。

 今まで警戒すらしていなかったおとなしい草食動物が、意外と鋭い牙を持っていることに気付いたかの如く、クラス中が響への認識を改めていた。

 そんな時、それは現れた。

「よう、勇者A――」

 それは、唐突に顔を、

「――いつの間に、君科をたぶらかしたんだ?」

 響の机の下から出した。

「…………こいつ、蹴っていいのかな」

 机から少し離して座っている形の響は、現れた男子生徒を半眼で見下ろす。

「リク、覚悟はいいよなァ……?」

 響の横で立っていた柚奈は、自分はスカートだというのに下から見上げる男子生徒に制裁の鉄槌を下そうと、その辺で蹴りの練習を始めた。

「駄目ですよ、阪樫君、鴇祈さん。暴力は駄目です。巴山(くれやま)君も、ちゃんと登場して下さい」

 暴力が駄目というのはどの口がほざいた、どの口が!

「悪い悪い、奇抜が座右の銘でね」

「だからといって脈絡なく机の下から出てくるな! 隠れてたのか!?」

 内心だけのそれと言葉、突っ込みに忙しい響だった。

 制服の埃を払いながら机の下から出てくる男子生徒は、巴山陸哉(りくや)という名である。柚奈と同じく、響の幼馴染にあたる友人――悪友である。

 響が陸哉に巻き込まれて首を突っ込んだ厄介事の数は両の手では足りないほどであり、その中でも『着衣水泳、イン三和(みわ)池』という陸哉ネーミングアンドプロデュースの、地元に存在する直径十数メートルの小さな池に洋服を着たまま入るというものは、響もさすがに死を覚悟した。

「まぁまぁ、落ち着けって……」

「そもそもリクの高校一年生男子平均的体型で机の下に潜り込むという行為が信じられなくて落ち着けない……」

 まずそうしようと思わないし、体が軟らかくないと出来ないし。

「とりあえず、あたしは許したわけじゃないから、後で覚悟しとけよ?」

「駄目ですよ、鴇祈さん? ……言っちゃいますよ?」

「言うって……まさか、君科!? 頼む、それだけはやめろ、内緒にしてくれよっ!」

「ふふ、大丈夫です、言いませんから……多分」

 叶子は相変わらず、柚奈からかって遊んでいた。あの仮面の下で「いいおもちゃ見っけ」あたりを考えているであろうことを想像し、響は気の毒だなと思うしかなかった。

「柚奈、いずれ気付かれるって。多分隠しきれてると思ってんのお前と響だけだぜ?」

「え、なにが?」

「ほら、気付いてない」

「鈍感ですね」

 陸哉と叶子は目を合わせ、響と叶子を交互に見てにやっと笑った。響は無駄に息の合った二人の行為に気持ち悪さすら感じるほどそれが気になってしまうが、心当たりがなかった。

 響はふと、一つだけ何かが足りないと思った。

 いつも通り賑やかな柚奈と、いつも通りどこかおかしい発現をたまにする陸哉、振り回される響。新たに加わった叶子は柚奈をからかっていて、クラスの生徒はやっぱり何故だろうと疑問の色をした目を向けている……というのは、いつも通りとは言えないが。

 そして、柚奈や陸哉と話をしていると「響ちゃんは僕のだよー!」と言って飛び込んでくる優璃が――いなかった。

 休みなのかなぁ。

 そう思って周囲を見渡すと、優璃はすぐに見つかった。

 自分の席について、赤褐色の髪を揺らしてこちらを眺めている。その表情は微笑みで、何か大切なものを見るような眼差し。

 響はそれを、まるで父さんと母さんみたいだ、と思った。

「――そうだ、阪樫君」

「え、なに?」

 鞄の中から一枚のプリントを取り出した叶子が、響に尋ねる。そのプリントは昨日担任に渡された文理選択のそれで、響は鞄に入れっぱなしにしていたことを思い出した。

「文系と理系、どっちにするんですか?」

「うーん、そうだなぁ……文系かな?」

 なにか将来に明確な目標を持っているわけではない響は、得意教科が国語で苦手教科が数学という理由だけでさっと決めた。もし何かしたいことが決まって、それに必要なものがあるならば自分の努力で埋めよう、と思っていた響の決断は早い。

 その響の言葉を聞いて叶子は、

「じゃあ、私も文系にしておきましょうかね」

 と、プリントの文系という欄にチェックを入れてささっと名前を書いた。

 君科さんも文系なんだ、と思いつつ、響は自分のプリントに記入を終える。あとは、やってきた担任にこれを渡せば万事解決ということだ。

「……なぁリク、君科は今じゃあ、と言ったか……?」

「絶対聞き間違えねぇ、じゃあって言った」

 しかし叶子の言葉の中にあったフレーズを、柚奈と陸哉は聞き逃さなかった。

「あっ……いやその、他意はないんですよ? ただ意見を聞いてみたってだけで……」

「…………ほんとかぁ?」

 あ、柚奈がジト目になってる……。

「これは面白いことになりそうな気がするな……」

 陸哉は楽しみにしないで!

「ほらいいじゃない、君科さんがどっちにいこうが二人には関係ないでしょ」

「あるんだよっ!」

 響が言うと、何故か真剣な柚奈が語気を強める。なんのことかさっぱり分からない響は再び内心で首を傾げるしかなかった。

 やがて予鈴が鳴り、担任が教室に入ってくる。響と叶子はプリントを渡しに行き、叶子はそのまま欠席の理由と今はだいぶ良くなったということを伝えていた。

 叶子が説明を終え戻って来る。一方は渋々、もう一方はニヤつきながら席に戻った二人の発現で気付いた、じゃあに意図があるのか気になった響は、叶子に訊いた。

 すると叶子は小さな声で「クラスが一緒の方が便利でしょ?」と言った。確かにあのゲームのことを学校で隠れて相談し合うということがあるかもしれない、と思った。

 ……でも、便利でしょ、とか言って七瀬を転校させてきたりしそうで怖いな……。

 そんななさそうでもありありそうなことを懸念していると、クラスの委員長が担任の合図によって朝礼開始の号令をかけた。


 3


 ――その夜。昨日と同じように食事をすませて早々に布団に入った。やっぱりこの手を繋ぐことには簡単に慣れそうにないなと思いつつ、目を閉じる。

 数分以内に意識が闇に落ち、再度異層世界で覚醒。今回の出現位置は学校から少し離れた路地。

「さて今日も頑張ってね、阪樫」

 そう言ったきり探索に出かけた叶子が戻って来るまでの間、学校が広くやりやすいということでそこに着いた響は七瀬によるスパルタ特訓を受ける。

 傷を受けるペースが上がり、響が持つ治癒能力によりすぐに治ってしまうはずのそれが、絶えなくなる。刀による切傷、倒れ込んだ時の擦傷、柄頭の殴りや蹴りなどによる打撲。

 容赦のない七瀬は響が満身創痍に見えたとしても僅かもその手を緩めたりはしなかった。そのおかげで、響は叶子や七瀬が予想していたよりずっと早く、爆発的に成長を遂げることになった。


 次の日も、その次の日も、昼間はいつも通り学校で過ごし、夜は異層世界にアクセスする。幸い雨は一度も降らず、月もその姿で煌々(こうこう)と大地を照らしていた。

 これまでの毎日が、学校と週の始めと休日の夜にあるアルバイトの繰り返しという平和だが味気のないものだったことに対し、この異質な日常は響にとって刺激的で、ほんの僅かだがそれに楽しみさえ覚え始めていた。


 しかし、事態が急転したのは響の特訓が終了した時だった。



 ――特訓最終日。七瀬の特訓の中で異層世界での身体能力も磨いた響は大幅な成長を遂げていた。

 心擁武装である〝雲徹ノ劔〟の扱いに慣れると、その重量が木の枝レベルまで大幅減った気がし、更に七瀬が言うには感じるそれ自体の重量や切れ味が増した。

 七瀬との組み手により腕力、脚力、動体視力、判断力も上がったと響は自覚している。初日よりも間違いなく上達した、と胸を張って言えるほどに。

 しかし、それでもまだだと言う。強くなったとはいえ過信しちゃ駄目なんだな、と響は更なる向上を誓った。

「響は素材が良品だったから、強くなるのも早めだったな」

「でも、まだ素人に毛が生えた程度なんでしょ?」

「言ってしまえばそうだが……向こう側で鍛錬するよりも何倍も早い。今度はもう一つの心擁武装についてもやってみるとしようか」

 もう一つの心擁武装――媒体はUSBフラッシュメモリで、その真の姿は弓だった。一度だけそれを使ってみようとしたが、なかなか扱いが難しかった。

 矢は念じれば光体として手に収まっているのだが、発射したところで狙いをつけるのが難しい。それを見た七瀬は「今は剣の方に集中しよう」と言ったので、一時放置ということになっている。

「まあ、明日から三人で探索だ。一人でやるよりも行動範囲は広がるだろうから――」

 七瀬が言葉を続けようとした時だ。

 響の胸ポケットと七瀬の腰提げポーチがぼうと薄く発光した。

 すぐにポーチから巻物型解説書物を取り出した七瀬はようやくか、と呟く。

「どうしたの?」

 どこがどう変わったのか分からない響は、七瀬に尋ねる。

「貴種四者の出現だ。これは……【剣の騎士(Knight of Sword)】、か。しかし……これは」

「なにか(まず)いことが……?」

 響が見た七瀬の横顔は、少し焦っているように見えた。

「いや……ただ、表記の出現時間から一日もズレている。つまり、出現から既に一日が経っている、というだけだが、ただ――」

「ただ?」

 ……それにしても、さっきから質問しかしてない気がする……。

「――位置が近い。ここは槇屋市の端に近い場所だが、その市の境界を(また)いだ先の古磯(こいそ)郡が出現位置だ」

 槇屋市は広く、ビルの立ち並ぶ準都会のような場所もあればのどかな場所もある。その境界周辺のうちの一つがこの町だが、間に川を挟んだところに位置するのが古磯郡だ。

 徒歩でいける範囲にあるということは、

「姉さんが遭遇していなければいいが……とてもではないが、貴種四者のうち特別力の強くない【小姓】以外に一人で立ち向かうことは無謀だ。それこそ、相当な実力の持ち主でなければ」

「なら、危険なんじゃ……」

 もし叶子が【剣の騎士】と遭遇してしまった場合、その勝率は零に等しい、ということだった。電波が入るわけのない異層世界で携帯電話は使えるわけがなく、連絡方法は皆無。

 そして、今日叶子が探索に向かったのはその古磯郡周辺であることを思い出し、響はぞっとした。もし、万が一――と。

 だからこそ、響の決断と提案は早かった。

「……七瀬、探しに行こう」

「先に言われてしまったな。……だが響、油断するなよ」

 同意を示すように頷いた七瀬は、〝楔刀〟を握り締める。意志を確認し合った二人は満路郡の方向を見やり、響は油断をするなという七瀬の言葉をもう一度自分に言い聞かせるように、

「分かって――」

 る、と言おうとしたが、その視線が一点に集中され、びくりと震える。どうした、と七瀬が響の視線を追い、同じように固まり――蒼褪(あおざ)めた。

 その視線の先にあったもの――否、いた者。

 それは、

「――君科、さん……!」

 大剣を引き摺り、蹌踉(そうろう)とした足取りでこちらに向かっている、全身を錆びたような赤色に染めた――襤褸布(ぼろぬの)のような叶子だった。


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