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三章


 1


 響は皿を洗っていた。動く手はやる気以前に元気というか生気が篭っておらず、やや猫背気味。その表情はどこかやつれて見える。

 ――響は自身の持てる全力を投入し緩やかな坂を駆け下り、大の字の形をした交差点、下部の人部分のもう一方側の道に入り、同じく緩やかな坂を駆け上った。自宅に着く頃には息は荒れ、アパートの階段を登るだけでも足元がふらついていた。

 言われた通り、部屋の各所に分散させ保管してある通帳や印鑑をはじめとする貴重品をまずまとめる。その後大きめの旅行用鞄に入るだけ着替えを詰め、その上に家に置いてあった、教科書などの今日は持っていっていない学校関係の道具をほぼ無理やり詰めた。

 用意しておいた貴重品はそれとは違う鞄に詰め込む。テレビをはじめとする家電製品の電源を抜き、冷蔵庫に少しだけ残っていた牛乳は飲んで処理し、腐れてしまいそうな物は勿体無いことをしているという良心的・金銭的な呵責(かしゃく)に襲われつつも捨てた。

 家の鍵、自転車の鍵を持って家を出る。たまたま下で水撒きを始めるところだった管理人にしばらく留守にすると伝え、さっき飲み干した牛乳が上がってこないよう祈りつつ再び走り始めた。

 残りの道程で特筆すべきことはなかった。頻繁に信号にひっかかるということもなく、全力で走り続けることが出来た。最近は信号運がいいのか。

 しかし、普通に遅刻。刻限の三十分からおよそ五分遅れたのだった。――それでも、走ったにしては驚異的な速度で往復したわけなのだが。

 その後響は、間に合わなかったわね、ああ間に合わなかったなとほぼ同時に叶子と七瀬から平坦なトーンでお言葉を頂いた。

 ……やはり、みたいな目でそれを言うな!

 そう言おうとしたものの、乱れに乱れた息と跳ね踊る心臓、葉も落ち気温も下がり冬に染まってきたというのに汗を浮かべて倒れる響は何も言えなかった。精神的にも物理的にも。

 回復後、七瀬が作ったという夕食となった。その席で、響は凄まじい量の情報――例のゲームについてであり、響は知らないが叶子と七瀬が先刻話していた内容のことも含めて大量に――を詰め込まれた。

 見た目美しく、香りも食欲をくすぐる七瀬作の和食。その味が全く分からなくなるほど、ひっきりなしに話を聞いていた。


 ――系統の詳細。

 本当にジャンケン図式のような、各系統の優劣。剣は杖に通常より大きな打撃を与えることが可能で、杖は杯に対し大きな効果を得ることが可能になり、杯の妨害系能力は符の防御能力を著しく減衰させることが可能で、符は剣の打撃力を大きく軽減する、というもの。

 これ作った千年くらい前の魔術師達は何考えてたのかしらね、と叶子は嘆息していた。


 ――参加者共通の『敵』と、供物の詳細。

 いくら倒してもいずれは復活する、一から十までのランクに分けられた雑兵である冠数異形、それの上位存在である貴種四者。各系統――剣や杖といった参加者の物と同じ――四者のうち、王と女王と呼ばれる存在のどちらかが供物を持っており、故に供物は四つであるということ。その四者は、参加者のはじめの一人が選定される瞬間であるゲーム開始と同時には召喚されず、そのタイミングもランダムであるということ。

 まあ、参加者が揃い始めることと比例し召喚、出現されるのだが、と今回のゲームのおかしなところと一緒に懇切丁寧に説明してくれた七瀬。

 他にも色々聞いたところで、長話でくたびれた響が、

「なんでそんなに詳しいの……話からしたら、二人とも選ばれてそんなに時間経ってないのに」

 と尋ねると、

「……二回ほど前のこれに先祖が関わってて、それについての知識は色魔の本家にあるのよ」

 と叶子が言い、

「色魔とはあの節操なしか、姉さん。……とにかく、その知識を『お前達も選ばれるかもしれん、血縁というのは思いの外選定に作用するらしい』と言って小さな頃から叩き込まれていたのだ。他にも選定される条件はあるが、それも私達二人はクリアしているからな」

 と七瀬が言った。

 その後今日の罰として台所の洗い物三人分は一週間頼んだわよ、と叶子に言い渡された響は台所に立って――今に至るのだ。

 台所はダイニング形式であり、そこから見える叶子と七瀬は、ソファで何か二人で話し合っている。所々に自分の名前が出てきて、同じ文章と思しき中に「徹底的に(しご)く」や「冠数異形が出てきても、数が小さければ相手をさせて」など、不穏なものが聞こえた。

 これも罰の一環なんだろうなぁ……。

 大きくため息をつくと、それに気付いたのか、叶子が響に声をかける。

「どうしたのー? 頭いっぱいで肉体労働やってると色々忙しくて溜息って感じなのー?」

 ばっちり分かっているらしかった。そして分かっていても、食事の後もやることはあるわよ、と少し楽しそうに言うのはなかなかに酷い性格と思わないだろうか。悪魔め、と響は二度目の溜息をつきながら思う。

 洗い物を終え、自宅から持ってきたシンプルな白いエプロンを外して、リビングに戻る。七瀬がお疲れ、と労いの言葉を同情するような眼差しでかけてくるものの、その人自身がこうすることになった原因に一役かっていることを思うと、逆に腹立たしくなってくる響だった。

 今更ながら、美少女二人と同棲なんてのはいいことばかりじゃないんだなあ……。

 既に雲行きが怪しいのだ、これからはどうなることか――三度目の溜息をついた。

 ところで、と響は自身のスイッチを切り替えるためにもソファに座りながら言う。

「質問なんだけど、いい?」

「……そうね、いいわよ。ついでに質疑応答の時間にしてあげる」

 叶子が答える。響は、ここまでに疑問に思ったことをぶつけてみることにした。

「まず一つ。この話自体ぶっ飛んでるけど、気になったことを。参加者に条件があるって言ってたけど、それって何?」

 その質問には私が、と七瀬が答える。

「なにかしら、潜在的に一般民衆とは違う力を持っていればそれでいい。私はある神社の正統血統なのだが――ある程度の性質透視や、生まれついたもので身体能力の限界向上がある。性質透視も身体能力限界向上も響は見ているはずだが」

「……ああー」

 心当たりはあった。

 二人の参加日数、そしてお互いに参加者であるということを知った日。後者は今日の昼で、響の参加者選定がされたのは今日の夕方であるはず。叶子と七瀬はそれ以降連絡を取っていないので、響が参加者であることを七瀬が知っているはずもない。

 しかし、七瀬は響に参加者であるということを見せ、同時に同じ参加者、協力者として宜しくと言った。その時点で響の性質透視、というものが完了していたのだろう。

「あの高跳びもそうなの?」

 身体能力限界向上。

 もともとそういう力が備わるにふさわしい、非常識な運動能力の基準値があるのだと思う。それについても答えてくれるだろうと踏んで、響は続ける。

「まあ、そうだな。私が生まれた神社の家は家風が常識とはかけ離れているのでな、もともと高い身体能力を引き伸ばした結果だ。異層世界のフィードバック作用も多少はあるが……」

「フィードバック作用?」

 再び知らない単語が現れた。

「……姉さん、簡潔に頼んでいいか? 私はどうも小難しく説明してしまう性格のようでな、あれを私の言葉で説明しては響の頭がパンクしかねん」

「……仕方ないわねぇ」

 叶子はそう言って、えーっと、と言って右手を中空に構える。何かを説明する時、謎のジェスチャーをするのは叶子の癖である、というのを今日一日で知った。

「向こう側は、よく分からないけど身体能力とかの向上がこっち側に比べて早いの。で、そのこっち側とあっち側の差分が出るじゃない?」

 うんうん、と頷く。

「差分っていっても向こう側が上でこっち側が下である場合が多いんだけどね。で、その差分がこっち側の私達にほんの少し影響するのよ。例えば、こっち側では十四秒で走っていた百メートルが、向こう側では十一秒で走れるようになってしまったとする。三秒も縮まったけど、それはあくまで向こう側での話。こっち側に戻ってきたら意味はないんだけど、ほんの少しだけそれに対応して足が早くなるわ。今の例じゃ精々十分の一秒くらいが限界ね」

「……ふーむ、つまり?」

「要するに、向こうで力ステータスが五百上がったら、こっちで一上がるみたいなもんなのよ」

 非常に分かり易かった。

 たまにゲーム関係っぽい用語を持ち出すのはなんでだろう。別にいいけども。

「あと、アバターについて訊くね。アバターって言うと自分の分身みたいな感じのものをイメージするけど、服とかはその……向こう側にアクセス、だっけ……そうしたときの格好になるの?」

 食事前の説明で、こちら側から向こう側に行く場合は意識だけを飛ばすので、アクセスする、と呼ばれるらしいと聞いていた。

 アバターはその意識の受け皿であるらしいのだが、なんとなく響は服のことが気になったのだ。裸とかじゃないだろうなぁ、と思って、間もなく隣と向かいに座る二人の女の子(叶子と七瀬)に目線が行ってしまった響は間違いなく年頃の男子である。

「それについても、推測だけどある程度確実な情報があるわ。これも色魔本家資料引用なんだけど、前回アクセスから現在アクセス回まで、一番長く着ていたものが投影されるらしいわ。外見的な身体構造も同じ。でもって、前回までにアバターで向上した身体能力は保存ね。それは私が保証するわ」

「初回アクセスの時はどうなるの?」

 言葉の途中で浮かんだ、外見的な身体構造が同じ場合前までに上がっていた色々はまたリセットではないのか。という疑問も即座に晴れたが、まだ疑問はある。

 命に関わる、危険なゲームなのだ――分からないことは少ない方がいい。一度に詰め込める知識量は多くないが、それでも頑張るしかない、と響は思った。

「それは、アクセス前一週間で、判断基準は同じ。数時間程度のズレはあってもそれ以上ないらしいから、私達は長期休暇でない限り大体制服でしょうね。……正直言っちゃうと、サボってた一週間も制服で色々行動してたのよ。非参加者らしいけど、ゲームのことを私達と同等かそれ以上に知ってる人が学校内にいるから、結構そこにも行ってたのよ」

「え、学校にいるの? 学年は?」

「先生よ。養護教諭の汀先生。あの人、(すた)れかけだけど――西洋の魔術体系を取り入れた神道を使う、れっきとした極東式魔術師の家系なのよ?」

「……は?」

 ――待て待て、待って下さい、お願いですからちょっと待って下さい。

 響は頭の中身が更に掻き回されるのを感じた。

「ま、魔術師ぃ?」

「そうよ? 一応あの人も参加者になるんじゃないかなぁ、って踏んでたんだけどね。体のどこを見ても紋章らしきものは見当たらなかったし。それにあの人、目に何か備わってるのか、参加者にしか見えないはずの紋章を見たのよね。バレちゃったならってことで紋章も確認させてもらったし、知識を分けてもらうように協力してって言ったけど」

「それは興味深いな……姉さん、今度私にも会わせてくれ」

「一応七瀬の性質透視で、参加者じゃないかも確認してくれる? 隠してるって可能性もあるし」

「ああ、分かった」

「…………」

 ――分からない、ついていけない、どうしよう。

 沈黙したまま、心の中で無駄に川柳を詠む響。突然今まで過ごしていた日常から、魔術師やら神社の家系だから身体能力が云々(うんぬん)といった――まるでファンタジーの世界に飛び込んできた響の頭の中は、混乱したまま。

 ゲームとして割り切った方がいいのだろうか、と響は思う。

「……あ、もう八時ね……さて……っ!」

 時計を見た叶子が急にそう言い、ぱんっと両手で喝を入れるように頬を叩いて、立ち上がる。なんなのだろうと思い視線を向けると、今日何度か目にしていた決意の瞳とぶつかった。

 また何か爆弾発言をしようというのだろうか。

「寝るわよ!」

「は、早い! これが優等生の生活……?」

「何勘違いしてんのよ……異層世界(アークプリズン)に行くだけよ」

「ああ、寝ることでアクセスするんだ、あっち側……」

 異層世界――アークプリズン。

 七瀬曰く、ラテン語で神秘、秘密を意味するarcanum――アルカナ(arcana)はその複数形らしい――という言葉と、英語で牢獄を意味するprisonを組み合わせたものらしい。異層世界自体に固定の名前はないのだが、第五回のゲーム時に参加者の誰かが逃れられないゲームということで、皮肉ってそう呼んだらしい。

 アークプリズン(arcprison)――ああ、本当に牢獄だ。ゲームが終わるまで逃れることは出来ない、たった一つの願いを賭けた命がけのゲーム。

「七瀬、シャワー浴びてきなさい。服は置いてあるあんたのを持ってきといてあげるから。最後は阪樫、あんたね」

 叶子が言う。頷いた七瀬は立ち上がり、机の上に置いていた巻物――七瀬の解説書物らしい。参加者毎に形が違うらしく、響のそれは手帳型だった――を取る。

「先に失礼するぞ、響」

「あ、うん、いってらっしゃい」

 手を軽く振ってリビングを後にする七瀬を見送った後、すぐに叶子が響に、

「さて、あんたには仕事があるわ、こっち来て」

 と言い、リビングを出た。言う通り叶子の先導に従って歩いていくと、和室に着いた。

 広さは二十畳近く、床の間に掛け軸が飾ってある以外には特に何もない、旅館の大部屋のような場所だ。

「……掃除か何かすればいいの? でも、十分綺麗だよね」

「掃除はすませてあるわ。あんたの仕事は、ここに布団を敷くこと。そこの押し入れに入ってるから、三人分……くっつけて、敷いといて」

「分かった……ん?」

 響は叶子の発言に違和感を抱いた。

 部屋は広く、三人分の布団程度どうにでもなる。押し入れも大きく、十人分の布団くらいはゆうに収まってしまうだろう。

 ――三人分、くっつけて……。

「くっつけて!? というか、みんなここで寝るの!?」

 男女混合修学旅行! そんなものありえない、過去にも現代にそんなものはありえないはず!

「……アクセスするとき、確実に同じ場所にいるために、体のどこかしらが繋がってないと駄目なのよ……情報によれば……だから、手繋ぐにはこうするしかないじゃない……」

 叶子がもじもじしていた。俯き加減の顔、ほんのり赤く染まっている耳。両手は胸の前でせわしなく動かされ、落ち着かない様子。これをもじもじしている、という表現がぴったりだと響は思った。同時に、自分はまた顔が真っ赤なのだろうなぁと考えつつ。

「じゃ、じゃあ、敷いとく……」

「よ、よろしくね……シャワー空いたら七瀬に呼びに行かせるから……」

「わ、分かった……」

 そそくさと和室を後にする叶子と、ぎこちない動きで布団を敷き始める響。

 実に初心(うぶ)な二人であった。


 2


 布団を敷き終わったところで七瀬が呼びに来て、家主である叶子に宛てがわれた十分広い部屋に置いてあった鞄から着替えを取り出して、シャワーを浴びる。

 水で火照(ほて)った頭を冷やし、この後のアクセスに備えて冷静な思考を取り戻した。

 入念に体を洗った後、長袖シャツと長ズボンに着替え、リビングに向かった。

 まず目にしたのは、

「な、な……せ……さん……?」

「何だ?」

 ソファに座ってお茶しながら叶子と喋っている、

「その、格好……」

「似合わないか?」

 ――ウサギ柄が全面に散りばめられた、淡い黄色のだぼだぼパジャマ姿の七瀬だった。

「……なんというか、うん、強烈なインパクトだよ」

「悪い意味で、か?」

「いや良いとか悪いじゃなくて、とにかくギャップに驚いた」

「やっぱり、驚かない訳ないわよね……っ」

 むっとした表情の七瀬を見て、叶子が笑いを堪えていた。響は、硬質な態度や口調から想像される七瀬とは真逆のその格好を見て、驚くと同時に意外と子供っぽい趣味で可愛いとこもあるんだな、と思った。

「……まぁ、いいさ。母さんにも似合わないと言われるからな、慣れている」

 家でも趣味を貫き通しているらしかった。一貫してて良いんじゃないかなぁ、と響は感心に似た念を抱く。

「ぷ、くく……!」

 叶子はまだ笑っていた。七瀬は姉を小突いた後、行くぞ、と若干不機嫌そうに寝室――つまり和室に向かっていった。

 ごめんごめん、と軽い感じで謝りつつ妹を小走りで追いかける叶子を、響はリビングの電気を消してから追った。



「さて、覚悟はいいわね……?」

「う、うん……」

 三組の並んだ布団を前に、叶子と響が緊張した面持ちを隠しきれない。

 そんな二人を見て、七瀬は首を傾げる。

「姉さんと響は緊張し過ぎだな、何故だ? 一緒に寝るだけではないか」

『逆に七瀬が緊張してない理由が分からない!』

「息、ぴったりだな。伊達に九年間も同じクラスをやっていたわけではないんだな、実は君達交際していたりしないか?」

『そ、そんなわけないでしょ!?』

「……打ち合わせでもしていたのか……?」

『してないよそんなの! って……、真似するな!』

 はあ、と七瀬は嘆息した。悉く台詞が被る響と七瀬を見て、何故か仲間外れにされている気分だ、と呟き、早々に向かって左端の布団に入る。

「二人とも、早く入れ。アクセスしてしまえば、一緒に寝ている事実などどうでもいいだろう」

「ぐ……っ。七瀬、私はたまにあんたに対して妙なところで感心するわ……」

「光栄至極。さ、布団へ。そうだな、響……君が真ん中に入れ、両手に花、ハーレム状態だ」

 は、ハーレム……だと……?

 響は、自身の背後でベタフラッシュ的な演出がなされているように錯覚した。

 ハーレムなど、己の人生をいくら(かえり)みても、自分から最も遠いものだと思ったからである。

 響は次に焦ったが、さすがにこの提案は叶子が却下してくれるだろう、と少し後ろにいる叶子に目を向けた。

 一緒にこんな提案は潰してしまお――

「……面白そうね、それ」

 ……サディスティックモードに入ってますかねもしかして――!?

「面白そう、じゃなくて! 却下してよ!」

「おや、どちらかの隣には寝るのだから、いいではないか? それとも、私か姉さんのどちらか、隣に寝たくない方がいるのか、響」

「そ、そんなことはないけど……」

 掛け布団から目だけ出して困った風なその言い方は卑怯だと叫びたかった響だった。

「なら、早く来なさいよ、寝てあげるんだから」

 いつの間にか、自身の羞恥心を響への嗜虐心で塗り潰したサディスティック叶子が布団に入って手招きしている。口元が若干にやついているあたり、何をされるか分からなくて怖かった。

\『男だろ、やるときはやれ、阪樫響――』\

 ――え?

 どこかから、空耳が聞こえた気がした。これは神かなにかのお告げ――というか後押しのお言葉か何かなのかな、と響は思う。少し不審な気もするが、言っていることは間違いないので、励ましのようなその言葉に背中を押されるように、緊張しきったガチガチな動きで布団に入った。

「さて、響」

「目を(つむ)りなさい」

「――っ!」

 布団に入った瞬間、両の手がそれぞれ叶子と七瀬の手と触れ合い、握られた。

 すべすべした、柔らかい感触が響の脳を揺らし、瞬く間に心臓が通常の倍近い速度で鼓動を刻む。

 汗ばんでしまわないだろうか。

 響がそう思うと同時に、右手を包んでいた手がぴくりと震えた。

 叶子だ。

「……な、何よ?」

 響をどぎまぎさせてからかおう、という企みのもと即実行された手を握る行為。しかしいざそうしてみると、叶子も恥ずかしさが蘇ったのだろう、頬に薄く朱が差していた。

「こっち見ないで、さっさと寝なさいっ」

 ふいっ、という感じで響から目を逸らし、叶子は誤魔化すように目を瞑る。

 それが可愛く見えてしまって、響は(まぶた)を閉じつつ内心の緊張が少しずつだが溶けていくのを感じ――やがて、眠りに落ちた。

 ――接続(access)、という文字が暗闇に浮かんで消えた。


 3


 ふわり、と。

 濃度の高い海水に浮くような、そんな感覚。

 話に聞く死海に浮くとこんな気分なのかもしれない――視界を埋め尽くす虚無の中で響はそう思った。

 やがて、一筋の光が闇に差す。

 光の筋は数を増やし、闇を晴らす。

 一際強い光と共に、響はようやくか、といった風に口端を吊り上げ微笑する自分の姿が見えたような気がした。


 ――目覚めて見た景色は、曇天とは違いそれ一色のみの灰色の空と、数点以外、普段と何の変わりもない籐清高校だった。

「……ここが、異層世界……?」

「そうよ。現実の世界が投影されている世界。ただ――」

 初めて目にする異層世界の風景、その違和感。

 眉を僅かに(ひそ)めて周囲を展望する制服姿の響の両側、このゲームでは先輩となる――一般常識とかけ離れた価値観の世界でも先輩でもあるだろうが――二人のうち右に立つ、実に美しい藍銀(あいぎん)の髪を乾いた風にたなびかせ、遥か彼方をその薄紫(はくし)の瞳で見やる響と同じ籐清高校の女子用制服を着た叶子が、ゆっくりと言葉を吐き出した。

「――何もかもの色素が薄く、生命の息吹は感じられず、存在する風や灰色の陽光には温かみというものが欠落している。まさに、異界といった雰囲気だろう? 現実の世界からここに来て、本能的に嫌悪に近い念を抱くのは当然のことだ」

 響の左で、来ヶ丘高校の制服に違いないが、やはり夏服の七瀬の凛とした声が紡がれる。

 常に持ち歩いていたからこそアバターとして精製されたであろう純白のリボンで、艶のある黒髪を下ろした形で一つ纏めにする――そう、学校での叶子と寸分(すんぶん)(たが)わぬ髪型だ。七瀬にも、叶子と同じように髪型を変えることを、気分を切り替えるスイッチの一つとしているのだろう。

 こうして見ると、叶子と七瀬は似ている、と響は思った。

「……静かだね。なんだか不気味だ」

 無意識に、両の手に込める力を少し強めた。

 手は床に就く時点と同様に繋がれたままであったが、握る力が強まったところで、先刻まであれほど心乱していた響と叶子も緊張の面持ちを崩さない。

 全員の心にあるのは、この世界では命の保証がないという一念。

 叶子や七瀬は一週間ほど前からほぼ毎晩この状況に身を置いているが、響は初めてだ。

「……ここに一人で来るということにならなくて、良かった」

 今感じている、種火で焼かれるようにちりちりと襲う不安や焦燥。一人では耐えきれない、というほど響は弱くないが、それでも隣に誰かが――味方がいてくれる、という思いは心強かった。

 考えに耽っていると、ぱっと響との繋がりを弾くように解いた叶子が、その手で響の背を叩いた。

「い……いつまで握ってるつもりだったのよ。ほら、空気に飲まれるのはそのへんで終わらせなさい!」

 叶子の顔は、赤い。

 今更かもしれないけど……君科さん、すごく照れ屋さんなんじゃないかな。

 しかし、そう考えつつも頬が熱くなるのを抑えられない響も十分照れ屋だった。

「……姉さん、照れてないで響に心擁武装(オリジンアーム)の説明を」

「わ、分かってるわよ……阪樫、あんたの解説書物(マニュアル)出して」

「え? えっと――」

 急に言われ、持っていただろうか、と慌ててポケットを探ろうとするが、言葉の直後に叶子が響の胸を指さし、

「胸ポケット!」

 と言った。その語気は何故か――照れ隠しなのかもしれない――荒く、びっくりしてしまった。

 胸ポケットから手帳型の解説書物を出し、取り落としそうになるものの叶子に渡す。

 叶子はページを捲り、あるページでその手を止め、響に差し出してきた。

「何が見える?」

「えーっと……」

 差し出された解説書物、示されたページに描かれてあったのは三つ。

「リップクリームと、USBフラッシュメモリと……あとこれ、紙粘土に見えるんだけど……」

 全く以て統一性のないラインナップだった。それぞれの横に名前らしき字も書いてあるが、紙粘土のような白い固形物質の横には、何も書かれていない。

「三つか……あんたにはそう見えるわけね?」

「うん、そうだけど、これは?」

「あんたの心、つまるところ魂に刻まれたあんたの力と呼ぶべきもの――心擁武装、その顕現(けんげん)媒体(ばいたい)よ。〝神が与えた暇潰し(このゲーム)〟は、お遊戯と書いてゲームと読むんじゃなくて奪い合いと書くようなものだから……戦う力が必要なのよ」

「心擁武装……顕現媒体……?」

 なんのことだろう。

 こう思ったのは今日で何度目だろうなとも考えていると、後ろ髪を結い終え、前髪を白いモノリスのような長方形の髪留めで分けた状態で固定し終えた七瀬が、数時間前と同じように胸ポケットのボールペンを抜いた。

「一度目にしているだろうが、私の顕現媒体は『ボールペン』だ。……〝楔刀(くさびのつるぎ)〟、使役」

 七瀬がボールペンをノックする。光がボールペンを包み――切先から三分の一程度が両刃になっている鋒双刃造(きっさきもろはづく)りの銀刀が姿を(あらわ)す。

「ちなみに現実の世界でも、全く同じように顕現させることが可能だ。だが、参加者か、それ以外の熟練した異能の力の持ち主くらいしか知覚出来ず、一般人に見えるのはただのボールペンのままの姿だ」

「だからあの時、ボールペンが刀になるなんていうとんでもない現象が……」

「だろうな。この心擁武装だが、魂に刻まれた力とさっき姉さんが言っていたな。その通りで、自身にとっては物理現象を超越したレベルで使いこなせる代物となっている。その例は、姉さんが顕著だぞ。見せてやってくれ、姉さん」

「言われなくても、武装してすぐ探索に出かけるつもりだったわよ」

 そう言った叶子は、懐から水色の半透明眼鏡ケースを取り出し、頭上に放り投げた。

 呟く。

「……おいで、〝魔狩りの十字(シルヴァセイバー・クルス)〟」

 放り投げた眼鏡ケースが七瀬のボールペンと同じように光に包まれ、形を変え――銀色で十字架の装飾が刀身や柄など所々になされた、闇色の刀身を持つ巨大な両刃の大剣となって、叶子の横に轟音と共に突き立った。

 大剣は校庭の固い土を抉り、隆起させる。刀身の半分が埋まっても尚、叶子の背丈の半分はゆうにある、巨大で鈍重な黒の大剣。

 こんな大きな剣、華奢な君科さんが扱えるのだろうか――そう思っていると、目の前で信じられない光景が連続で展開された。


 まず――ぞわり、と。


 ざらついた大きな舌で背筋を舐め上げられるような、そんな寒気が全身に走った。

 反射的に振り返ると、そこには人間ほどの大きさもある、額に〝Ⅱ〟と赤い文字が刻まれていて、ガラス玉のような虚ろな瞳は粘度のある熟れたミニトマトが投げつけられた後のようにどろりとし、それ以外は黒く、瞳と同じように溶けているかのよう。

 まるで影のような、異形の球体関節人形がいた。

 いつの間に、と息を飲む。冷や汗が一筋、本能的な危険より額を伝う。

 しかし、響は更に瞠目(どうもく)することとなる。

 澄ました表情の七瀬の背に、異形の腕が奇妙にうねりつつ巨大化し迫る。

 その腕は太く。手は大きく。

 その中にあっさり上半身が埋まってしまうほどの大きさのそれからは、人の頭など握り潰すなど容易であることが直感的に理解出来た。

 しかし、僅かに首を後ろに向けその異形を視界に入れた七瀬は、

「冠数異形……Ⅱ(second)か、準備運動には丁度いい」

 体を反転させ、右手に握っていた楔刀を走らせた――奔らせた。

 刹那、と表現するのが相応しい。

「え――」

 響には、その刀が一度ではなく二度も三度も、否、それ以上……異形の腕を銀の軌跡が通過したように見えた。異形の腕が、つい数瞬前の勢いなどなかったように停止する。

 僕の目では、まるで追いきれない……?

 時が止まったかのような錯覚。

 しかし若干のタイムラグを経て、異形の腕が――数個の塊に分断。体液のような黒い泥が、切断面から僅かに漏れる。

 びちゃりびちゃりと音を立て、粘り気のある肉片が灰色の土に落ち……思い出したように泥が綺麗な切り口から溢れて、地に痕を刻んだ。

 異形の口と思われる穴から、聞くに耐えない怨嗟(えんさ)咆哮(ほうこう)が放たれる。その叫びはまさに人外のもので、腹に響く重低音であった。

「姉さん、『(かく)』は任せるぞ」

 ばらけた腕の欠片、その総数から(かんが)みるに二桁に近い回数もの斬撃を行ったであろうことが見て取れた。……それを響が正確に認識したのは数分後のことであったが。

 しかしそれだけのことをしたにも(かか)わらず、銀色の刀身はその輝きを妨げるものの付着を許してはいなかった。

「分かってるわよ」

 ざり、という砂と靴底の擦過(さつか)音。それとほぼ同時に、大剣を右手に携えた叶子が異形の前に躍り出た。

 違和感。

 ――そうだ、どうしてあんな重そうなものを軽々と右手で扱える?

 これが七瀬の言っていた、物理現象を超越したレベルで使いこなせる、ということだろう。空中で大剣に変化した眼鏡ケースの高さは、精々二メートル。その程度の落差であれほど刀身が土に埋まるとするなら、それは相当の重量だ。

 そんなもの、あんなに簡単に扱えるわけがない。だからこそ、その結論に至る。

「昨日のわんころに比べれば……」

 叶子は膝を大きく曲げて体を沈ませ、大剣の柄尻に左手を添える。左足を軸として前に突き出し、大剣は自身の後ろに。

 忘れていた瞬きを一度。文字通り一瞬、視界が閉ざされる。

 目を開けると――大剣の銀十字が(ひらめ)き、刀身が地から空へと舞おうとしていた。

「Ⅱ程度の異形なんて、雑魚もいいとこなのよッ!」

 ――叶子は、手にした黒銀の大剣で異形を断った。ぶあっ、と風が(うな)りを上げる。

 だが、断末魔は上がらなかった。

 異形の人形、その股下から脳天にかけての一閃。それは七瀬のような鮮やかな『斬』ではないが、大質量による圧倒的な『断』だ。

 黒の液体を噴きながら、真中より二つに断たれた異形が崩れ落ちる。その胴体の中心、丁度心臓のあたり――人の形をしていたからか――に、今まさに幾つもの欠片に割られようとする、紅玉髄(カーネリアン)のような、(いびつ)な形をした半透色の球体があったのを、響は見た。

 吹き出した黒い液体が叶子に振りかかる直前、じゅう、と高熱の鉄板に水を垂らした時のような音と共に、液体や肉片を含む異形の全てが蒸発した。

「…………っ」

 一連の光景の中、響はその場から動けずにいた。額を伝った冷や汗も、既に乾いている。

「……阪樫」

「…………」

 再び大剣をその場に突き刺し、叶子は響を呼ぶ。だが、響は未だに異形のあった場所から目を離せないでいた。

「阪樫、聞いてる? というか、聞きなさい」

 返事をせず自分を見る気配すら一向にない響に、叶子は近付いてその顔を両手で挟んで掴み、自分の方を向かせた。

「……へ? ぅあっ、痛たたたた!?」

「ぼーっと、し、す、ぎ!」

「ぼ、ぼーっとせずにいられないよ!」

 今日は、異常な日だった。

 突然巻き込まれたゲーム。ファンタジーな用語や世界。そんなおかしな話は聞き慣れてきた……多少は。

 しかし、話に少し耐性がついたところで、実際にそんなものを見てしまって、響は痛いほど実感した。

 本当に違う。僕がいた世界の一環とは思えないほど、日常からかけ離れているんだ。

「気持ちは分かるけど、慣れてもらうしかないわ。このゲーム、回ごとに違うけど……大体一年くらいはかかるのよ。参加者が四分の三以上決まって、貴種四者が出現を開始したあたりから数えて、だけど」

「一年……」

 長いな、と思った。

 こんなことがある一年は……間違いなく、僕の人生の中で一、二を争うほど濃密なものになるんだろうなぁ。

「……ということで、あんたにはやっぱり生き残ってもらうためにも強くなってもらうわよ。私は今から隣接エリアに行ってくるけど、その間、七瀬にあんたの特訓は任せるわ」

「まあ、そうだよね、特訓だよね」

 今の響は戦力にならないどころか、足手まといにしかならない状態だ。それを戦力になる段階まで持っていくのは当然のことである。

「頑張んなさい。私も、いつまであんたを護れるか分からないんだから」

「はは……いつか、僕が護れるようにならなきゃなぁ」

「期待してるわよ?」

 ふふ、と叶子は笑う。

 期待に応えられるかどうか分からないけど、こういう風に言われれば意地でも応えたくなるな、頑張ろう……本当に。

「あ、そうだ阪樫。あんた顕現媒体今持ってる? ある程度身近なものから選ばれるんだけど」

「えっと……――ん、リップクリームはあったけど、USBと紙粘土はないや」

 唇が乾燥して切れやすい響は、リップクリームをいつも持ち歩いていた。だからこそ、こちら側に着たときにアバターの一部として精製された。

 そう思うと、USBフラッシュメモリはまだしも紙粘土を常に持ち歩いている人間などいるのだろうか、と響は思った。何かの職人か。

「持ち歩きやすくていいわね」

 ふぅん、という言葉から始まった台詞と共に、叶子は響の手元を覗き込む。そこにあるのは、紛れもなくリップクリーム。薬局で売っている薬用のそれで、深い青色で円筒形。

「それじゃ、次の段階よ。解説書物のさっきのページに心擁武装の名前が見える……と思うわ。最初から名前が見えてるわけじゃないのもたまにあるらしいけど、あっても一つでしょ」

 言われた通り、心擁武装の映像と名前が書かれているページを開く。今持っている顕現媒体、リップクリームの横に書いてある文字を見る。

「その名前を呼んであげれば、武装出来るわ。やってみて」

 心擁武装――その名前。

 響に何か力があって、それに準ずる、魂に刻まれた力。

 参加条件の一般民衆とは違う力と聞いたとき、響が自身にそんな力があるのかと自らに問い、一つだけ思い当たったのは異常に早い治癒速度、それだけだった。

 こちらで怪我をする分は向こう側に関係はあまりないらしいのだが――疲労感として蓄積するとか、痛覚が錯覚を起こす程度らしい――、この治癒能力もこちらで有効なら、役に立つんだろうな、と響は考えた。

 まあ、いいか。ひとまず、心擁武装だ。

 響は紡ぐ。

「……〝雲徹ノ(くもどおしのつるぎ)〟」

 ――ぶわっ、と突風が駆け抜けた。

 その風は、異層世界に吹く無機質で寂しい乾いた風ではなく、どこか陽だまりのような温かみのある、しかし時折尖(とが)った冷たさも感じる、生きているような風。

 風が包むその剣は、両刃。光沢のほとんどない白色で、全体的に幅広の刀身は厚みがあり、叶子の大剣ほどではないが盾としても利用出来そうだった。

 それは護る力と壊す力、両方を持たせられた力の表現であるのかもしれない。

「……へえ、綺麗じゃない。少なくとも、日陰で陰謀を脳内で巡らせてるような昔の魔女みたいなのじゃないのね、あんたの本質は」

「血統で雛形は決定されるが、雛形から武装が構築されるまでの過程では本人の性質、というものが多少は影響する。……そういえば、そもそも心擁武装はこのゲーム特有のものではなく、このゲームがただ心擁武装を利用するものであるから、元々心擁武装を構築出来なかった人間を助ける仕組みになっている、という説明はまだだったが……正直どうでもいいか」

「えーっと……どういうこと?」

「心擁武装は、実のところ現実世界に普通に存在するものだ。このゲームに参加している期間は、心擁武装を現実世界で使役することは出来ないがな。少し前に説明した通り、私の心擁武装はボールペンが顕現媒体で、一般民衆にはボールペンにしか見えず、役割もまた同じだ。こちらとしては刀を持っているつもりで振るっても、普通の人間にとってはボールペンを振るっているようにしか見えない。刀身で普通の人間を袈裟斬りにしたとしても、何ら影響もない」

 なるほど、と思う。少々説明が長く面倒臭いが、よく意味を咀嚼(そしゃく)してみると理解が出来た。

 昨日、響が夜に定規を振り回しているようにしか見えない叶子を目撃したのも、しかし今日の七瀬の武装を目撃したときはちゃんと刀に見えたのも、そういうことらしい。

 ……あれ、でも……。

「君科さん、さっきは眼鏡ケースが媒体だったけど……定規とかないの?」

「……え?」

 響が訊くと、叶子はぽかんとした。

 なにかおかしいことを訊いたのかな、と響は自分の質問を思い返したが、おかしいと思えるところは全く見当たらない。

 昨日夜道でノイズのような叶子を目撃したのは、そういう仕様になっているのか、と響は自分で納得していた。聞けば、この異層世界は現実世界に対応して構築されているらしい。

 ならば、表と裏のような両方の世界の同じ場所で行動を起こしていると、たまに異層世界側が現実世界側から見えてしまうことがあるのではないか、と。

 それを響が話すと、叶子はなるほど、と両手を合わせる。

「参加者選定の兆候は一応あったわけね」

「……兆候? その、現実世界側から異層世界側が朧気に見えちゃうことが、そうなの?」

 だとしたら、もう少し早く見えて欲しかった、と響は思う。

 それについて考える時間がもう少しあれば、ここまで混乱することは――……いや、関係ないかぁ。

「ま、いいわ。私は近くを探索してくるから、あんたは七瀬に特訓してもらっときなさい。あと、定規は心擁武装の一つよ」

 叶子はそう言うと、突き刺してあった大剣――〝魔狩りの十字(シルヴァセイバー・クルス)〟を肩に(かつ)いで、校門から出て行った。

 今更ながら、心擁武装って本当に凄い仕組みだな、と響は叶子を見ながら思う。明らかに数十キロはありそうな鉄塊のような大剣を軽々と持ち運べるのだから。

「……さて、響。姉さんに見惚(みと)れるのはいいが、私も見てもらわないと寂しいな」

 ぼーっと考えていると、背後から響の首に腕を回してきた七瀬が耳元に息を吹きかけつつ()ねた口調で(ささや)いた。

 驚き、動揺し、手に持っていた〝雲徹ノ(くもどおしのつるぎ)〟を落としてしまう。ごどん、とその大きさにしてはやたらと重量感溢れる音と共に小さく土煙を上げる。

「ふぅぁあああ!?」

 思わず妙な声を出してしまった響の反応が気に入ったのか、七瀬はふっふ、とリズムを変えつつ連続で響の耳に吐息を浴びせる。鼻で「んふふ」と機嫌良さそうに言う七瀬は、腕の力を弱めない。

 照れ屋の姉とは違い、妹は驚くほど易々とボディーコンタクトを行う。

 本当にこの二人は姉妹なの……!?

「な、七瀬っ……!」

「なぁに?」

 猫撫で声。

「演技じみた『なぁに』とか、いいから……やめ……っ!」

「……ふぅー」

 再びゆっくりと、長い息。

「あ、ぁ……っ」

 耳やその周囲が弱点である響は、嬌声にも聞こえる甘い声を漏らしてしまう。満足したのか、七瀬は楽しそうにくすくす笑いながら響を開放した。

「見た目だけではなく、声まで女の子みたいになるのだな、響」

「か、からかう――っ!?」

 ――からかうな、と言うつもりだった響の目が見開かれ、咄嗟(とっさ)に身をかがめる。

 その訳は、響の顔があったあたり、その目の前で寸止めされた銀の刃。

「反応は悪くない」

「……凄い切り替えだね」

 七瀬の左手に白みを帯びた燐光と共に顕現した(さや)に納められ、しゃりん、と刃が鳴る。

 ――どうして納刀?

「反応は元々悪くはないが……一応、磨いてもらうぞ。相手の攻撃に対応することが先決と私は判断するからな」

 そう言った七瀬は腰を僅かに落とし、左足を前にして〝楔刀(くさびのつるぎ)〟の柄に右手を添える。

「居合はあまり得意分野とは言えないが……ついでだ、私も響の特訓と共に鍛えるとしよう――」

 同時に、音もなく七瀬が右足を踏み込み響に肉薄し、抜刀。

「っ!?」

 なんとか反応した響は、後退(あとずさ)って刃を(かわ)す。胸のあたりを狙って振るわれた刃は、制服にごく薄い切れ目を刻んだ。

 自身の右から来る斬撃だと分かっていたからこそ響は反応出来たが、その速度は()く駆ける烈風そのもの。

 居合は得意でないと言っていたが、それは虚言(うそ)だったのかと思うほどに、速かった。

 上半身を折り畳み、さっき抱きつかれた時に動揺して落としてしまった〝雲徹ノ劔〟を拾う。次の七瀬の居合は、自分が避けることを前提に深めに薙がれると判断した響は、幅広の剣で防御することも頭に入れた。

「しッ――」

 しかし、居合をするために体勢を整えるかと思っていた七瀬が、返す刀で袈裟斬りを仕掛けてきた。

 その方向からの攻撃を考えなかった響は、一瞬遅れて体を捻って回避を試みたが間に合わず、左腕に刀傷を負ってしまう。

「くぁ……」

「油断は禁物だ、響。誰も居合だけを練習するとは言っていないぞ?」

 刀を再び鞘に納めた七瀬は、ふむ、と言って響に近付く。

「響、君は何か武道をやっていたのではないか?」

「え? なんで?」

「反応が素人のそれではない。少しかんだ程度かもしれないが、それでも十分素人よりはいいから不思議に思ってな」

「まあ、小学生の時に少しね」

 子供にまっすぐ育って欲しいと願ったのか、三年前に事故で逝った響の両親は武道を習わせた。

 三年の頃からは剣道を、体が大きくなってきた六年の頃からは弓道を。しかし、そのいずれも、響の両親が他界した直後に辞めた。

 金銭的なこともあったが、やはりやっている余裕がなかったというのが大きい。当時、表面上は平気な風に装っていたつもりでいた響だが、内心は悲しみに暮れていたのだ。

 短くとも、仮でも、武道を(たしな)む者であるのに情けないとは思ったものだが、子供だった――今もそうかもしれない、いやそうだろう――響にとっては、その両親の死というものがとても重いものだったのだ。

 師範は『君には辞めて欲しくはないが、仕方ないな。事情も事情だ……また来たくなったら来なさい』と言ってくれた。その言葉が、じんわりと心に広がってつい涙を零してしまったのを響は覚えている。

「才能はあると思うぞ、私は」

「あ、ありがとう」

 急に褒められるとどうも照れるなぁ。

 照れ笑いを浮かべていると、七瀬が鞘から刀を抜き、鞘を光の泡沫に帰した。

「あれ? 居合の練習も兼ねるんじゃ」

 響が言うと、七瀬は小さく微笑み、

「――気分が変わった。響、君には早く成長してもらう。早く君と本気の手合わせをしたい……さて、課題を出すぞ」

 校庭の砂利と皮靴の底で擦過の微音を立てることなく踏み込み、響の目の前まで低い体勢のまま飛び込んできた。

 足運びが滑らか過ぎる……!

「私の連撃を避けろ。ただし、三分の一はその剣で弾け。反撃も許す。安心しろ、手加減はする」

 そして――銀光一閃。

「ッ!」

 喉元を狙った、左から右への横薙ぎ。

 それを後退で躱し、先刻やられた返す刀を警戒し白の剣を自身の首の左側に構える。予想通りとはいかなかったが、七瀬は手首を回して刀を反転させ、そのまま斜めに斬り下ろし響の左脇腹を狙った。

 斜めに斬り下ろすその刹那をはっきり目で捉えていた響は、左肩と腕を後ろに引き、首元に構えていた剣を振り下ろす。

 がぎっ、と――金属同士がぶつかった音が響き、その瞬間七瀬が表情を苦悶(くもん)に歪め、大きく後退した。

「っ、響、君のその剣……〝雲徹ノ劔〟は、姉さんの〝魔狩りの十字〟と変わらないほどに重いな……!」

「そ、そうなの?」

 大した重さは感じない。響が感じている重量は精々木刀二本分、という程度だった。少し重いが、振り回せないほどの重さではない。

「こちらの感覚としては、な。見た目ほどヤワではない。君を象徴しているかのようだな、心擁武装の名は伊達じゃないか。……さ、まだ始まったばかりだ、いくぞ」

 体勢を立て直し、七瀬が再度突撃した。下腹の急所を迷いなく狙って繰り出された刺突を響は剣で払い、払った方向とは逆方向に転身する。

「ちょ、ちょっとタンマ、こんなのどれだけ続けさせるつもりなの!?」

「私がいいというまでだ、少々の傷は覚悟してもらう」

 払われた刀を両手で掴み即座に戻し、右足で地を蹴り肉薄、切り上げ。後退した響を追うように刃が上を向いている状態でそのまま刺突し、響に体を捻って躱されれば手首の動きだけで刃の方向を変え直角に横に一文字を描き、制服の一部を斬る。

 手加減をするとは言ったが、響は微塵もそう思えず、息を飲んだ。

「本当にいい反応だ、響……!」

 しゃっ、という鋭い風切り音が文字通り目の前で起こる。首を逸らして避けなければ、もしかしたら眼球を抉られていたかもしれなかった。

「こ、殺す気!? 今、君科さんの大剣がないのに、一瞬銀色の十字が見えた気がっ、するんだけどうわぁ! ほぼ同時に縦と横に刀を走らせでも……ッ!? し、したのかなぁ!?」

 響が話す暇もなく、次々と銀色の刃が踊る。

 駄目だ、手加減していてこんな早さなんて、特訓してもそうそう追いつける気がしない……!

「殺す気一歩手前のつもりでやらねば、急激な成長は望めんだろう?」

「だろう? じゃなくて……うお――っ!」

 きぃいん、と刃同士の衝突音が美しく鳴る。

 その殺意のようなモノの篭った刃を避けることが難しい、と本能的に判断した響は、咄嗟に剣を頭上に構える。

 一層鋭利で速く、風どころか空間さえ切断してしまいそうな縦一閃の一撃は、明らかに響を両断せんとするものだった。

 響の剣と拮抗し、触れているのが銀刃の真ん中に近い部分であることを見れば、それは間違いのないことだと分かる。

「本気で殺す気……?」

 きちきち、と触れ合った響の剣と七瀬の刀が音を立てる。重量がある分響の方が有利と言える競り合いだが、七瀬は本気で押し切りに掛かっているのか、力のバランスはほぼ均等となっていた。

「響は簡単には死なんよ……絶対にな。本能的に自身を護る。最初の一刀は寸止めのつもりでやったが、それでも反応が予想していたよりもずっと速かったから、ある予想を立てた」

「よ、予想……?」

「響の才能だ。君の才能は天賦のものかもしれない、と思ったのだ。君が参加者に選ばれた理由、その一端は先程私が負わせたはずの刀傷がもう消えていることが一つ、そして、今ほとんど確証を得た……自分自身を護ることだ」

「え……?」

 そんな抽象的なことが才能なのか、そう響が思った時、

「――まあ今はそんなこと気にせず、修行に励め」

 七瀬の鋭いミドルキックが響の鳩尾(みぞおち)に埋まった。

「ひゅッ……ハ……ぁく」

 瞬間は声にならず、肺から急激に吐き出された空気と喉が口笛に似た音を奏でる。

 呼吸が止まり、視界がぐらつく。響は、それが自分の足に力が入らなくなって倒れようとしているからなのだと、白濁した思考回路で理解する。

 やがて、じくじくと鈍い痛みが広がる。同時に吐き気も催したが、それは言葉にならない嫌悪となって体中を駆けるばかりで、胃の中の物を吐き出すには至らなかった。

 倒れる。

 頬に砂礫(されき)が擦りつくのを感じつつ、いっそこんな吐き気に襲われるくらいなら全部吐き出してすっきりしてしまいたいと願った。

「綺麗に入ったな……油断していたな?」

「っ、だっ、て……」

「誰も武装だけで斬りつけるとは言っていない。体術にも警戒しておけ」

 す、スパルタ教官……!

 響は上体を僅かに起こし、数回咳き込んだ。口内に溜まった唾液を纏めて吐き出し、呼吸を整える。

「意識を失わないだけ、いいとしよう。異層世界から戻る場合、本人の意思で解説書物の帰還装置を使わねばならんからな、意識を失っていては帰れなくなる。現実世界で月が見えなくなればそのまま次の夜まで取り残されるから、意識だけは保っておけ」

「くぅ……わ、分かったよ」

 よろけつつもなんとか立ち上がった響は、白剣を拾う。七瀬はそれを見ると、感心するように、ほう、と小さく唸る。

「いい姿勢だ、こちらとしても鍛えがいがあるというものだ」

「どうせ、しばらく倒れてたら蹴り起こしでもするつもりだったんでしょ……?」

「……私がそんな姉さんみたいなことをすると思っているのか? そんな――」

 頭に来たのか、七瀬が少しだけ眉を顰めた。

 ……ちょっと生意気を言い過ぎ、


「そんな、甘いことを」


 …………え?


 その後数時間、響は何度も意識を失いかけた。その都度何故か、二の腕や(ふと)(もも)に深めの刀傷――異層世界での治癒速度が普段以上で、時間はかかるがその全て治ったとはいえ、その分だけ響の心には恐怖が刻まれた――が増えていったという。



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