二章
1
「……と、いうわけでよろしくね、阪樫。あと喋り方は使い分けてるだけだから気にしないでいいわ」
「僕ね、未だ状況がよく把握出来てないんだけど……。あ、喋り方は了解」
――君科宅、リビング。
響と叶子は、下手したら二桁の人数が一同に食事できるのではないだろうか、というほど大きな檜皮色の木製テーブル――で二人だけで寂しく会話するわけではなく、同じリビング内にあるテレビ近くのL字型のソファに座っていた。
近くにある、二メートル四方の白い木製テーブルの上には、先刻手にしたカードの裏と同じ色をした、文庫本サイズの古めかしい書物が置かれている。タイトルらしきものは書かれておらず、これが一体何なのか、響は分からずにいた。
「さて、これは私の本なんだけど、阪樫はこれが何なのか分からないわよね?」
当たり前だ。唐突にこんなものを出されて、内容を知っている人間がいてたまるもんか。
――とは言えず、響は曖昧な表情を浮かべるだけだった。
それを叶子は予測していたらしく、そうよね、と言って一枚のカードを本の隣に置く。
「そこで、これ。これあんたがさっき手に入れたカードよね?」
「そうだね。……壺と全裸の天使の絵だよね、これ」
裏には金文字で〝ⅩⅣ〟、そして表には絵柄。その絵柄が、この種類のカードにおける十四番目のものであることを示していることくらいは、響にも理解できた。
叶子は響が頷いたのを見て、本のあるページを開く。そこに書かれているものを見て、響はあ、と小さく声を上げる。
その見開いた二つのページには、全部で二十一個の絵柄と、それの名を示す文字が描かれていた。
「……同じ絵だ」
その本の絵柄の下に記された文字は、『節制』。
他のカードの名称を見ていると、響はある結論に至る。
「君科さん」
「ん、何か分からないことあった?」
「いやそもそも分からないことしかないけどさ……これ、タロットカード?」
「正解」
タロットカード。
十五世紀頃、北部イタリアで制作されたのが始まりといわれているものだ。エジプトやユダヤ、インド起源説などが神秘主義者や占術師によって提唱されているものの、信憑性は乏しいということを、響はどこかで見た覚えがあった。
どうしてどうでもいいことばっかり覚えてるんだろう……。
「で、よく見て、阪樫。絵柄によって、文字があるのとないのがあるわよね?」
「ん……、あ、ほんとだ」
よく見てみると、ところどころ絵柄の下に文字がないものがあった。
「そのカードには、まだ資格所有者がいないってことなのよ。資格所有者っていうのは、まあ、文字通り参加資格って思ってもらっていいわ」
「参加って……その、〝神が与えた暇潰し〟とかいう……?」
――あの、神々しい女性が言っていた言葉を反芻し、言葉にする。
それを聞いた叶子は、きょとんとした。
「あれ、阪樫知ってたの? まあいいわ、間違いじゃないから、説明を続けるわね。で、その〝神が与えた暇潰し〟っていうのは、一種のゲームよ。勿論、私も参加者。そこに描かれてる絵柄の人数分だけ参加者がいて、その中で目的を達成したら賞品が与えられるの」
叶子はありがちだけど、と一息置いて、続ける。
「それは、願いの成就。一つだけ、願いを叶えられるの。世の中の物理法則だとか、因果律だとかは関係ない……らしいわ」
叶子の言い方は曖昧ではあったが、そこには真剣な何か以外に宿っているものはなかった。決してふざけている訳ではないと、叶子の眼差しが響に訴える。その真剣さに響は息を飲み、これ以降は絶対に戯言と思わずにきちんと受け止めようと決めた。
そして、願いの成就という言葉で連想された疑問を、響は叶子にぶつける。
「それじゃその、死んだ人を蘇らせるとか、逆に殺人とかも……」
「出来るわ」
暫時の沈黙。
その沈黙を破るように台所でぴー、という電子音――先刻叶子が暖かい茶を煎れようと、電子ポットのスイッチを押していたため、恐らくそれが沸いたのだろう――が鳴り、半ば頭の回転がついていってなかった響はその音ではっとし、疑問を重ねる。
「……ほ、本当に?」
叶子にそう訊くと、彼女は席を立ちポットの湯を用意してあった急須に注ぎ、二つの湯呑みと一緒に丸いお盆に乗せてテーブルに運ぶ。
「阪樫、緑茶は大丈夫?」
「え? あ、うん、好きだけど」
叶子の質問に答えた響の言葉を聞き、叶子は湯呑みに熱い緑茶を注ぐ。
そうしながら、叶子は話した。
「信じられない、って気持ちは分かるわ。……私はこの一週間で情報収集をしてた。その中で、第三回と第四回の勝者が望んだ願いを知ったわ。それが、成就されたということも」
「……その願いって?」
「第三回は『恋人の反魂』、第四回は『参加者全員の殺害』、という記録が残ってたわ。第四回は特にしっかり残ってて、勝者以外が全員一度に死んでいることも分かってるの」
「……」
言葉が出なかった。否、出せなかったのかもしれない。
――そんな、まるで僕が昔母さんに聞かされたおとぎ話のようなことが本当にあるなんて。
それに、本当にどんな願いも叶ってしまうのか、と叶子の話を聞いた響は複雑な感情を胸の内に抱く。期待や欲望もあったが、響の心中はそれらよりも戦慄や動揺といった感情に大部分を支配された。
「――続き、いいかしら?」
立ち上る湯気を無意識に見つめて僅かに握った拳を震わせていた響に、叶子が声をかける。
はっとして、響は頷いた。了解の意と捉えたらしい、叶子は説明を再開した。
「この〝神が与えた暇潰し〟――もうゲームでいいわよね。で、このゲームの勝利条件は二つあるの。一つは、用意された四つの供物をある場所に捧げること。四つの供物も捧げる場所も、毎回ランダム。供物は、手に入れたら力としても使えるわ。質問あるかしら?」
「今のところは……続けてくれるかな」
響が言うと、了解と短く言って叶子は柔らかく微笑む。こんな真剣な話をしている時も可愛い、と思った自分は少し不謹慎だろうか、と響は思いつつ、耳を傾けた。
「もう一つの条件は、自分以外の参加者――プレイヤーを、倒すこと」
自分以外のプレイヤーを、倒す。
つまり、今目の前にいる叶子も例外ではないということだ。
「君科さん……倒すって、具体的にどういう?」
「具体的も何もないわ。ただ、現実と同じ。……生命活動を止めたらいいのよ。出来るだけそうはしたくないけど」
響は質問の意を示すよう、左手を挙げる。はいどうぞ、と言われたが、緊張して声が掠れてしまった。湯呑みを取り、若干熱めだが響にとって程良い温度となった緑茶で喉を潤し、改めて言う。
「首を落としたり、失血多量に追い込んだり、ってこと? ……リアルで嫌だね」
響のその言葉に、叶子が僅かに反応する。これまで以上に真剣な表情で、その薄紫色の瞳は響の両目をまっすぐ射抜き、
「そう、リアルなの。このゲームは現実世界とは違う空間で、自身の代わりとなるアバターで行うわけなんだけど……もし死んでしまったら――」
右手を振り上げる。
叶子の眼前まで上げられた右手は、次の瞬間にはテーブルに叩きつけられていた。
「――本当に、死ぬわ」
ぞっ、と。
響の背筋に、冷たく嫌な感触の何かが走った。さっき響が感じた戦慄と同種だが、それよりも強い、何かが。
――駄目だ。
本能がそう告げる。この話に関われば、間違いなく生命が危険に晒される。否、実際そうであると叶子は言っている。
故に、理解も出来た。賞品が一つ願いを叶えることである理由。自分の命を賭けて望むゲームなら、そのリターンは正当となる。
叶子がこの一週間学校を無断欠席して情報収集に走ったことも頷ける。何より命が掛かっているのだから。そこまでして叶えたい何かがあるのか、と響は思い、同時にそれが何なのかが気になったが、それを今訊くのは憚られた。
「あと、もう一つ」
命あっての物種、こんな話は忘れて日常に戻ろうか――そう考えた時。
「このゲーム、一度参加者に選ばれたらキャンセルは出来ないわ。やめたいのなら、このゲームの勝者になるか、死ぬしかない」
追い打ちをかけるように、叶子から事実が告げられた。
「な、ん」
言葉にならない驚愕が、響の口から漏れる。
キャンセル出来ないだって? なら、どうあっても逃げられないのか……?
僅かに絶望を孕んだ表情の響を見て、叶子は目を瞑って微笑みつつ小さく嘆息して席を立ち、響の隣に座ってその手を両手で優しく包んだ。響はびくりと過敏に反応し、左手に持っていた湯呑みを落としてしまう。中身は既になく、床には柔らかいカーペットが敷かれていたため大したことにはならなかった。
「……だから、私はさっき、あんたに協力してって言ったのよ。……私も不安だし、怖いもの」
その表情は普段何度も目にしている優しげなもので、叶子の両手に包まれた右手は暖かい。
「――……っ」
だが同時に、響は顔が熱くなっていくのも感じた。
君科さんが、僕の手を握ってる――そう考えるだけで、こそばゆいが、嬉しくて恥ずかしい気持ちがじわりと心に広がる。
その気持ちを自覚したとき、不思議と、心が少しだけ軽くなったような気がした。同時に、手を握られた瞬間から燻り始めていた羞恥心が一息に大きく燃え上がる。
――怪我していたはずの右手の痛覚も飛んでいたのかと響は思ったが、それは既になかった。皮が完全に繋がっておらず、些か滑らかな掌とは言えない状態だったが、痛みによる警告を脳に送る必要がないレベルまで治癒しているらしい。
「き、き、君科さん、その、手――」
左腕はまっすぐ伸びたまま硬直し、拳も緊張からか力が入ったまま抜けず、きゅっと握られたままでいるのを響は自覚した。更に盛大に吃りつつ、目線が響の人生十五年間これまでになかったほど定まっていない。
響のあまりの挙動の変化に叶子は気を悪くしたのだろうか、半眼になって語気を少し落として言う。
「……何よ、そんなに嫌? 顔真っ赤だし、若干涙目になってるわよ?」
「い、嫌じゃないけど……」
「それとも、ただシャイボーイなだけなのかしら?」
「なっ」
――何がシャイボーイだ!
そう言おうとしたものの、内心で、実際十五歳にもなって手を握られたくらいでここまで動揺してちゃシャイボーイだよなぁと納得してしまい、結局言い返せなかった。
一方、にやけてからかうように言う叶子の頬に赤みが差しているような気もしたが、気のせいだろう――と響は自身の裡で処理する。
「で、阪樫。私は答えを聞いてないんだけど、今訊いても大丈夫かしら?」
「え?」
「え、じゃなくて。協力してくれるのって訊いたじゃない」
「あ、ああ……えっと、ちょっと待ってくれ」
考える。――正直のところ、考えることは殆どないのだが。
〝神が与えた暇潰し〟というゲームの参加者に、響はつい先程選ばれた。そのゲームは自分の命すらも危険に晒されるゲームであってゲームでないようなものだが、勝者となれば願いを一つ叶えることが出来るのだ。
そして、このゲームは一度参加者に選ばれた場合、途中でやめることは出来ない。負けて死ぬか、勝つかという絶対の二択に絞られてしまう。
目の前にいる叶子もまた、参加者だという。その叶子が、協力を申し出ているのだ。
危険なゲームに一人で挑むのは、響自身不安で堪らない。何よりも、女の子をそんなゲームにたった一人で参加させるというのも――男である響としては、出来るだけ避けたいところだ。男女差別をしているわけではないのだが、『女の子は男の子が守らなければならない』という思想を抱いている節がある響は、半ば強迫観念に近い何かを得ていた。
……それに、と――。響は勝者の権限で自身の内の最奥に抱く疑問を晴らす機会であるとも気付く。
そうなるためには、敵は少ない方が良く、味方も多い方が良い。万が一生命の危機に陥った時、一人よりも二人の方が生還する可能性が高く――何より、仲間がいた方がそんな危険なゲームに参加することによる精神的負担も軽減出来る。
様々な思考を巡らせ、結局逃げられないのなら協力してこのゲームを終わらせようという結論に至る。
その空気を感じ取ったのか、叶子が口を開く。
「……さ、どうするの?」
覚悟は決まっていた。否、決めなければならなかったのだ。これから、どんなことが起こっても、決して途中で投げ出さない覚悟を。
――もう、優柔不断でいては駄目なんだ。
「君科さん、君に……協力することにするよ」
響は決意を込めた眼差しで叶子を見る。
「いいのね、阪樫」
「決めたんだよ。今までみたいに目立たず適当に受け流すようなことはしないって」
「あら、目立ってないってことは自覚してるのね」
「目立った活躍もなくて悪かったな!」
からかうように言う叶子に、響は若干膨れっ面で言葉を返す。
しかし叶子は、何か良い思い出に浸るような優しげな眼差しを響に向け微笑み、
「……ほんとに、そうかしらね」
と、響に聞こえない程の小さな声で呟いた。
「? 何か言った?」
「な、何でもないわよ!」
響が尋ねると、頬を僅かに上気させつつ顔を逸らし、立ち上がる。先程響が落としてしまった湯呑みを拾い自分の物とそれをお盆に乗せ、そそくさとその場を後にした。
理由がさっぱり分からない響は釈然としない表情で首を傾げ、テーブルの上に置かれている本を見直そうとして手を伸ばす。
ばちん、と頭の中で何かが弾けたような感覚を覚えたのは、その時だった。
「っ!?」
同時に酷い眩暈が響を襲う。座っていることすらままならなくなり、ソファに倒れ込んだ。
水音が聞こえる。台所で叶子が洗い物をしているからだろう――と考えたが、明らかに音を立てる水量がおかしいことに気付く。激流の如く、というわけではないが、蛇口をいくら全開にしてもこんな音にはならないだろうというレベルの水量だ。
異変はそれだけでは収まらなかった。
眩暈はやがて先刻のような視界暗転へと変貌し、依然として水音は留まるところを知らない。更に、背中に――具体的には両側の肩胛骨の間辺り――、鮮烈な痛覚が走る。赤熱した針のようなもので連続的に刺されているような感覚だ。
――ぁ、ああぁあぁ、っぐうぅう、という痛々しい呻きが響の口から漏れる。
「……阪樫っ!?」
洗い物を終えたのだろうか、叶子が小走りで響に駆け寄る。
「どうしたの、阪樫!」
「……背中、が」
「背中……もしかして……。ごめん阪樫、脱がすわよ!」
ぇええ――――ッ!? と叫ぼうとしたが、悲痛な呻きによってそれは阻まれ適わない。おかげで、っぐうぅっうぇえええぇ!? という感じの余計に妙な呻き声となった。
痛みを一瞬忘れる。脱がす、脱がすというのは一体どういう意味!? いや、そのままの意味でしかないか――と、響の脳内は軽いパニック状態に陥る。
その間に、叶子は響の学生服のボタンを器用に外し、そのまま強引にそれを剥ぎ取り投げ捨てる。叶子はそのまま横向きに倒れ込んでいた響をうつ伏せに寝かし、セーターとシャツを思い切り捲り上げた。
「……やっぱり」
響のそこそこに筋肉のついた背中を見た叶子は神妙そうに呟く。
何がやっぱりなのかさっぱり分からないが、今現在背中に走っている痛みはそこに何か変化をもたらしているのかもしれない、と痛みに悶絶する響でもその程度は推測出来た。
「出たわね、紋章。……にしても、選ばれてこんな短時間でも出るものなのね、これ……」
「あ、紋章?」
だんだんと痛みの引いてきた響は、出てくることに驚かなくなってきた例のゲームの専門用語らしき名を復唱し、疑問の意を示す。
「んーっとねぇ……紋章ってのは、端的に言うとゲームの参加者である証。その人の大アルカナカードの数字と、系統が体のどっかに刻まれるのよ。今背中熱かったでしょ? 刻まれる時の痛みってすごいわよね……」
大アルカナカード。響で言う〝ⅩⅣ〟の『節制』というタロットにおける位置付けである。
だが、新たな疑問が響の中で生まれる。
「系統って?」
「それも、アルカナに関係してるわ。小アルカナには四つ組があるのは知ってる?」
「うろ覚えだけど、一応」
剣とか、聖杯とかあったのは覚えている。
系統とはそのことなのだろうか、と響は体を起こして服装を整えつつ思った。
「ま、簡単に説明するわ。まず〝剣(Sword)〟、〝杖(Wand)〟、〝杯(Chalice)〟、〝符(Pentacles)〟と、四つの系統があるわ。そこのとこ、まぁRPGの属性みたいなものと考えて良いわ」
「イメージでは〝剣〟は攻撃系かなぁ」
「その通り。主たる特性を説明すると、〝剣〟は直接攻撃系統、〝杖〟は魔術攻撃系統……あ、魔術は使える人と使えない人がいるから気をつけてね。で、〝杯〟は補助や阻害などの間接系統、〝符〟は防御系統ね。紋章として浮かび上がるのはその人の主な系統を示してるわ。ちなみに阪樫は〝剣〟で、私も〝剣〟」
そう言って、叶子は左手の甲に刻まれた剣の紋章と〝Ⅷ〟という文字を見せた。
響も叶子も〝剣〟系統が主であるということらしい。つまり、直接攻撃系統×直接攻撃系統。
「フルアタックパーティーだなぁ」
「攻撃は最大の防御ってのを標榜にする?」
「防御は紙クラスですよと言ってるようなものじゃないか……」
「大丈夫。私〝符〟系統も使えるから」
ふふん、と若干控えめな胸を張って言う叶子は、少し楽しそうに見えた。
……そういう問題じゃないんだけどなあ。
――とそこで、壁にかけてあった時計が軽快なメロディを奏でた。見ると、時刻は五時を回ったことを示している。
「んー……さ、さて、本題に入ろっか、時間もないし」
少し考えるように時計を見つめていた叶子が、何故か意を決したかのような表情で響を見て言った。
「え、本題って今までそうじゃなかったの?」
「まあ、そうなんだけど。……さっき、協力してくれるって言ったわよね? そのことなんだけど……ええっとね、その」
……何だろう?
響は、先程の自分のように――とまではいかないものの、視線が泳ぎ、どこか恥ずかしそうにそれを言うのを躊躇っている叶子の様子に内心首を傾げる。
「〝神が与えた暇潰し〟は、ゲーム空間に出入り出来るのは月が出てる時だけなんだけど、アクセスする場所によって出現位置がかなり変わる可能性が高いのよ」
「えーっと、アバター……を使って参加するんだよね、さっきの話からして」
「そう。……で、協力者は出来るだけ一緒に行動しなきゃいけないし、その……」
響にとってさっぱり訳の分からない状況が続く。叶子にとって、これから言うことはここまで恥じらう理由があるというのだろうか。
「えっと、それに月が出てない時でも……作戦会議とかした方が良いのよ。協力者は近くにいた方が緊急時にも対応出来るし」
「……それで、君科さんはどうしたいの?」
さっきまで霧を掴むように分からなかったことが可能性という名の水滴に変わった程度だが、叶子の言わんとしていることを、響は勘付いた。
――まさか、これは……いやでも、漫画じゃあるまいし。
頭の中で、響は想像(妄想)する。恥ずかしがっている女の子、言い訳っぽい説明。更に、恐らく重要な内容は『近くにいた方が良い』……ときている。ならばまさか、と期待の漣が響の心に生じた。
やがて叶子が、口を開く。
「だ、だから……これから私の家で生活しなさい!」
叶子が羞恥で耳まで林檎のように赤く染めて放った言葉は、響の予想とほぼ同じ言葉だったわけで、まさかまさかと思っていた響は本当に合致したことに胸中だけで喜びつつ、
「なっ、なんだって――ッ!?」
と、さも驚愕したかのように叫ぶ。実際響の語調には嬉しさが滲むどころか流れ出していたが、本人は隠しているつもりで気付くはずもなく、対する叶子は羞恥により感覚が鈍くなっているのか、分かっていない。ここに第三者がいたならば、きっと呆れて物も言えなくなるだろう。
目的が非常に物騒なゲームに勝ち残るということであっても、今目の前にいる美人な同級生の協力者から申し出があったのは――同棲。
あまり自覚はなかったものの、憧れていた相手にそんなことを言われてしまえば、ついさっきまで恐ろしく重い話をしていたにも関わらず舞い上がってしまうのも無理はないのかもしれない。
響自身、すこぶる不謹慎だと自覚しつつも湧き上がる嬉しさは止められなかった。戸惑いや緊張も間違いなく生まれているのだが、状況に浮かれて酔っているのか響は気付いていない。後にガチガチに緊張するのは目に見えていた。
「と、とにかく! 今から荷物を取ってきなさい! 印鑑とか通帳とか、大事なものは持ってくるのよ……その、長くなるかもしれないんだし……」
強制的に青春臭い恥ずかしい空気を振り払うべく、顔を逸らし語調を強めて――ただしその言葉は尻窄みになっている――言った叶子の言葉に、
「……わ、分かった!」
やや上擦った声で答えた響はソファから立ち上がり、学生服を着直しながら部屋を後にする。
「まだやることあるから、急いでー! ……やっぱ走れ阪樫!」
靴を履き終えドアを開けたところで、リビングから顔を出した叶子が大きな声で言う。分かったぁー、と同じように大きな声で返した響は、言ったと同時に自転車でよくない? と思った。が、鍵を家に置きっぱなしにしていることに気付き、仕方ない、と嘆息して駆け足で自宅へと駆けていった。
§
叶子はリビングから顔を出したまま、響がたった今出て行った自分の家のドアを見る。
――まさか、あの阪樫が参加者に選ばれるなんて。
小学校の頃から続く妙な縁だとは思っていたが、まさかこんな所にまでそれが及ぶとは、と叶子は半分感心半分呆れで構成された溜息をつく。
嫌というわけでは決してないのだが、どうも気恥ずかしい。協力者とはもともとこうするつもりであったし、部屋もまだ余っているので下宿させている程度の認識でしかない。――〝神が与えた暇潰し〟が行われる空間である『異層世界』に意識を飛ばす(アクセスする)時以外は、だが。
……というか、そこが一番重要な気がするんだけど、し、仕方ないわよね。
恐らく今夜も異層世界にアクセスするだろう。今夜からは協力者もいることなので、異層側での活動時間も若干ながら延ばしたい。
阪樫には先刻のようにいろいろと説明するより実地で慣れてもらおう、と叶子は決める。響には酷かもしれないが、ゆっくりと教えている暇はない。
ついでにその辺に雑魚でも出てきたら一人で戦わせようかな、とついさっき参加者になったばかりの響に対して遠慮なくそうさせようと考える辺り、叶子の方針は厳しめなのかもしれない。
――玄関に行きドアの鍵を閉めてリビングに戻ったところで、叶子はふと、
阪樫がたとえ全力で走ったとしても、移動だけで二十分くらいはかかるし、シャワーでも浴びておこうかしら。……あー、夜アクセスする時のこともあるし浴びよう、そうしよう。
と考えた。
考えて決めたことで今出来ることは即座に行動に移す性格である叶子は、早かった。
二階の最奥に位置する自室に戻りクローゼットから部屋着を取り出し、一階の脱衣所に入る。
無造作に服を脱ぎ、それらを全自動洗濯機に放り込む。一糸纏わぬ姿となった叶子は浴室に入り、シャワーのノズルを捻った。慣れた手つきで湯温を微調整し、熱めが好きな叶子にとって最適な熱さになったお湯は、浴室を湯気で包み始めた。
――シャワーを浴びると決断してからここまでの間、なんと約一分以内。
もうもうと立ち込める湯気の中、叶子は先刻のことを思い出す。
自分が説明しているのを真剣に聞いてくれた響。真剣だったが故に、負けが即ち本当の死であることを伝えたときは唖然とし、若干ながら表情には絶望に近い色を湛えていた。半分はそんな響を安心させようと、半分は自分側に引き込みたいという思惑で、叶子はあの時響の手を握った。
こちらが驚愕してしまうほど狼狽えた響に、自分はなんと言ったのだったか、と考え、ほんの一秒もしないうちにそれを思い出した叶子は微苦笑した。
シャイボーイ、ねえ……。
数分前の感触の記憶を探る。
あの時、叶子は妙な違和感を得ていた。
阪樫の右手、何かおかしかったというか、妙に不自然だったような気がするわね。厳密にいえば私も少しどころか結構普通の人間とは違うような気がするけど――それと、似通った何かを感じたというか。
更に、記憶に潜り込む。知っておいた方が良いような気がする、と叶子の勘が告げる。
――その手は、響の見た目ほど華奢でなく、ちゃんと男らしくごつごつと骨ばっていた。
緊張していたからか、少し冷たかった。恥ずかしくなったのか、すぐに暖かくなり始めたのだが……。
……と、そこまで考えて、自分の顔が熱いシャワー以外の要因で熱くなるのを叶子は感じた。実のところあの時も顔が熱くなっていたのだが、表に出さないようわざと半眼で睨んだり、からかったりして誤魔化したつもりだった。
だが、それを回顧するだけで叶子の心臓は鼓動を早める。口の形は未だ微苦笑のままで、加えて目を閉じ自嘲気味に嘆息し、思った。
人にシャイボーイだなんて言えないわね……私だって、十分そうじゃない。――って、何してるんだろ私! は、早く体綺麗にしてから出よう! そうしよう!
自身の左手で自身の右手を、さも何かを思い出すかのようにゆっくりと撫でている自分に気付いた叶子は、脳内で反芻される響の手の感覚を、首を横に数回振って水滴と共に飛ばし、備え付けてある棚に置いてあるシャンプーに手を伸ばそうとして、
「はあゎあぁッ!?」
――余程狼狽していたのか、滑らない仕様にもなっている撥水加工の床で、叶子は思い切りこけて尻餅をついてしまっていた。
§
2
ところでこれは一体どういう事?
一方、荷物を家に取りに帰るため走っていた響の目の前で、彼を巻き込んでの漫画的事象第二弾が発生していた。
響は緩やかな坂道をほぼ全速力で一息に走り下っていた。叶子宅に向かう道と自宅に向かう分かれ道――人という字のような路地の分かれ目の根元に辿り着いた時、それは勃発した。
スピードに乗っていたためか気分もノってしまっていた響は、そのままの勢いで急カーブを突破しようと試みたが、
「――……とーおーり……よし、こっちに決定だな!」
と突如眼前に出現し意気揚々と独り言を発した人影に、凄まじい勢いで衝突した。
響とその人影の身長はほぼ同じ。
結果、見事に額と額をぶつけるという近年稀に見る古典的現象が起こったのだ。
そこに響いたのは聞くも耐えない本気の悲鳴。しかしそれを発したのは、
「ぅ、っぉおぐぅあああああああッ!?」
響だけだった。対して、同じ衝撃を受けたはずの人影はふぉっ、とちょっと驚いた程度の声を上げて軽く尻餅をついただけで、ちっとも痛そうにしていない。
「あっ、頭が、わ、れ、るぅううう……!」
額から拡散した、単に人と人がぶつかっただけとは思えない強力で重厚な衝撃が頭全体を襲い、脳を揺らす。瞬間的に恐ろしく酷い頭痛を患ったも同然だった。
頭を抱えて、響は震えながら苦悶の声を漏らす。
「……大丈夫か、君。急に飛び出して悪かったな」
女としては低めか、男としては高めか――そんなどちらの性であるとも取れる声が、悶絶する響に投げられる。涙目で前を見ると、そこには白く綺麗な手があった。その奥に見えるのは黒いワンポイント入りの白ソックスが穿かれている細い足。
響は差し出された手を取り立ち上がる。そこにあった顔は、
「……どうした? 私の顔に何かついているのか」
黒目がちの大きな瞳は疑問の色に揺れ、整った形の高い鼻の下にある桃色の薄い唇はへの字を形作っている。このあたりでは有名な進学校である私立来ヶ丘学園指定の制服に身を包む女生徒は、一言で表せば美人。
しかしどこかで会ったことがあるような――響はそんな既視感を得る。ついでにどこか、違和感も覚えたのだが、そんな見たら分かるかなり気になる違和感など放っておいた方がいいように気がしたため、尋ねるのはやめておいた。
……こんな寒くなってきた十一月に半袖カッターシャツなのは、きっと寒くないからだ……そうに違いない、加えて夏服がお気に入りなんだ……。
勝手にそう結論付けて、響は会話に戻る。
「あ、いや……その、こっちも全力疾走、前方不注意ですみません」
慌てて頭を下げる響に、女生徒は口の端を上げ柔らかく微笑み声を掛ける。
「幸い大事には至らなかった。こちらにも非がある、頭を上げてくれるか?」
「あ、はい」
「それと――」
響が顔を上げる。そこには苦笑いを浮かべた女生徒の顔。何か気に喰わない事でもあったのかと首を傾げると、
「――君は私と同い年であるはずだ。敬語は出来れば止めて欲しい、阪樫響」
「……え?」
響の心に増えた空き容量、謝罪の念が失せた穴に、先刻抱いたはずの大きな違和感を押し退けて入ってきたのは疑問。
「どうして僕の名前を……?」
疑問を自然と口にする。
対する女生徒はあっけらかんとした様子で答えた。
「姉さんが時々話をしていたからな。それと、呼び出されたのだよ、私は。……迷子になっていたが……」
僕の名前が出てくるようなことがあっただろうか、と響は思ったが、それは置いておくことにしてもう一つの疑問について追求することにした。
「姉さん?」
自分の知り合いの中に妹を持つ人がいただろうか、と響は脳内検索をかける。
柚奈――弟が二人。
優璃――姉が一人。
従姉妹――一人っ子。
今思い出した、昨日はまた学校をサボっていた悪友――兄が一人。
…………検索が終了した模様である。
「なんて交友関係の狭い人間なんだ僕は……!」
「どうかしたか?」
「ああっ、いや何でもない!」
不意に漏れてしまった響の悲しい独り言が聞こえたのか、女生徒がまたも薄く怪訝の色を表情に滲ませていたが、慌てて大仰に手を振り誤魔化す響を前に愉快そうに笑って、そうか、と話題を切り、
「とりあえず自己紹介だな。私は七瀬――葵宮七瀬だ、宜しく。出来るだけ葵宮と呼ばず七瀬と呼んでくれ」
自己紹介と共に、響の前に握手を求めるように右手を出した。
――ふわりと微風が吹き、七瀬の漆のような髪を撫でる。ただ自己紹介しただけなのに、そのどこか凛々しさや威光を彼女の向こうに見たような感覚を得る。
……ん?
響は自身の中で抱いていた既視感が大きく膨れ変質していくのを感じた。が、それはいずれ分かるだろうと根拠のない直感で響は別の問題に移行する。
迷子とか言っていたような気がしたな、と七瀬の言葉を思い出した響は、お節介ながらも目的地に案内してあげたいなと思った。
「よろしく、葵宮さん。で、どこに案内すればいいの?」
すると、七瀬は何か腑に落ちない、といった顔をした。
「……それ、だけか? 何か他に気になることはないのか……?」
――おかしいな、と。七瀬は口元に指を当てて呟く。
お人好しな部分が多分な響にとって、迷子になっていると思われる人に声をかけないのは、どうも出来ないことだった。ただその自身の性格がいけなかったのだろうか、それとも何か言わなければならないことがあったのかと不安になる。
「いや、ないけど……その、何か僕気に障ること言ったかな……」
「……いや、ないのなら良い。……訊くが、君科邸まで案内願えるか?」
七瀬は気にするな、と言うかのように強引に話を元に戻す。
「君科邸って。まああの大きさなら言い方が正鵠を射ているような気がするけど……あれ。……えーっと……?」
姉に呼び出された。迷子になった。目的地は君科邸。
姉との待ち合わせ場所が君科邸なのか、はたまた――、と響は推測。
思案顔をしている響を見た七瀬はその内心を見透かしたのか、
「ああ、君科叶子は私の姉だ」
先刻感じた既視感の正体はこれなのだと真実が明かされて、ああ姉妹だったのか! と驚こうとした零コンマ一秒後、
「畑違いの」
「はたッ……!?」
この数分で響に凛とした人だというイメージを植え付けた筈の七瀬の口から、そのイメージをブレイクするような俗語が飛び出した。
おかげで、響も姉妹という点でなく俗語の方に驚きの声を上げてしまう。
――畑違い。簡潔に意味を説明するのなら母親が違うということ。
割とヘビーウエイトな話を出会って数分で聞かされた響は驚愕したまま硬直した。
「そこまで驚くことか? おかしなのは、ただ私と姉さんの父である男が節操なしだったという一点だろう?」
「その一点が凄まじく重い! ……そういえば、二人のお父さんって今海外に……」
父親は海外出張中だという話を、家に入って「誰もいないの?」と訊いた響に対して答えただけの叶子の話を思い出す。
まさか、海を渡った向こうでも――。
「あの節操なしのことだ、海外で子をなしていても不思議はないな、はは」
響が気を使って敢えて口に出さなかったことを、七瀬は笑って言ってしまう。
響は七瀬とは違う意味で笑うしかない。力無い笑いだった。
「……と、それは置いておこう。すぐに来いと呼び出されてそろそろ五時間は経つ……いつものこととはいえいい加減到着せねば、姉さんに折檻されてしまう」
七瀬が左手のうら若き女の子が着けるとは想像に難い、銀光する質素な金属製の腕時計を見て言う。
「あ、うん分かっ……五時間!?」
なんだろう、最近驚くことばかり起こってるような気がする。
響は、自らの脅威の驚愕イベント遭遇率にも驚く。自分が驚きやすいだけなのか、と懸念するほどに。
「だから、君がいてくれて助かったよ、響」
「いえいえ、どういたしまして」
今名前で呼ばれなかった、と思ったがそれを空耳なのだろうと片付け、踵を返し今まで全力で走ってきた道を歩くが、
「言っておくことがある」
……と言う七瀬はその場から動いていない。何故だろうと振り向くと、カッターシャツの胸ポケットから一本の黒色ボールペンを抜いた七瀬が、右手の甲に見覚えのある剣の紋章と共に刻まれた〝Ⅹ〟という文字を響に見せ、ボールペンの頭を親指でノック、そして何かを呟く。
瞬間、白い光で包まれたボールペンは瞬く間に形状を変化させ、ぱっと解き放たれた白光が顕にしたのは、
「――私も参加者だ。加えて宜しく、響」
鮮やかな橙色をした夕日の光を背にしても尚淡く輝く、満月を思わせる美しい銀色の刀身を持つ一振りの刀。
名前を呼ばれたのも気のせいではなかった。
§
「――そのあと七瀬を教官役において、組み手でもさせるのもいいわね。あの子意外と鬼畜だから阪樫もひいひい言いそうだけど、そっちの方が成長は早いわよね。スパルタスパルタ」
叶子は『地肌に優しい絹のような柔らかさ!』がキャッチフレーズのスポンジで体を洗いつつ、響にとって実に過酷なことを口走っていた。
彼女の頭の中では、既に響が泣き言を上げているところまで鮮明に投影されていた。それほどまでに、自身で考えついた先輩としての阪樫響育成法は恐ろしいものであるらしい。
実は、家に一人でいることの多い叶子も独り言癖を持っていたりする。
「……無理だよう君科さん、もっと優しくしてようー……とか言ったりして。ふふ、なんかイイような気がする……」
叶子のサディスティックな一面が、シャワーで体を流している間に漏れた独り言に滲み出ていた。口端に上る笑みは若干いやらしいもので、ニヤァあたりの擬音がピッタリ合致しそうである。
そこへ、来客を知らせるぴんぽん、という呼び出し音が鳴った。しかしそれは一度ではなく何らかの規則性を持たせられ数回鳴らされる。
「……二回、一秒開けて一回、二秒開けて三回、一秒開けて一回……これは、七瀬ね。思った通り迷いに迷って、五時間もかけてうちに到着。超がつくほどの方向音痴は相変わらずね」
叶子が、自分の腹違いの妹である七瀬も〝神が与えた暇潰し(Divine's Kill time-Struggle)〟の参加者という事実を知ったのはこの日の昼であった。
情報の纏めが一段落し、ソファに座って一息ついていた時に携帯電話が鳴り、取れば向こうから聞こえてくるのは自らの妹の声。妹から電話がかかってくるのは稀なことであったため何の用か、と率直に尋ねると、
『昔、現在海外出張中の節操なしに聞かされた話は本当だったのだな。右手の甲に紋章が現れた時は何かと思ったぞ』
オブラートに包まれているのかいないのか分からない返答があった。知っている人間にしてみれば一発で分かってしまうし、知らない人間には何の話かさっぱりというあたり、包まれているのかもしれない。
その直後、叶子は率直に「協力しなさい」と言っていた。つい数十分前、響を前にしていた時は例外だが、叶子は本来回りくどいことがあまり好きではないからだ。
それに対する七瀬の返答はイエス。躊躇も思案も何もなし、叶子の言葉にすぐ了解の言葉を返し、訊いた側の叶子も驚いた。
願いが一つ叶うということが本当のことだということは知っていてもおかしくはない――叶子は、自分がたった一週間程度の情報収集を行っただけで明らかになったのだから、と考えていた――はずなんだけど、と叶子は怪訝に思ったが、妹の考えていることが理解し難いことが今までにも幾度かあったため、本人にいつか訊けばいいかと疑問を捨てた。
その後、叶子は七瀬が道に迷ってなかなかここまで辿り着けないことを計算に入れた上ですぐに来いと呼び出す。迎えに行っても良かったが、迷いに迷わせてこの辺りの地理を朧気ながら頭に叩き込むのもいいだろうと考えた叶子は、妹にも厳しい人である。
「あー、あのやたらとスペックの高い妹は塀くらい乗り越えてきそうね……実家で何してるのかは知らないけど、恐ろしいわね」
綺麗に体についた石鹸の泡を流し終え、急いで行かないとドアを蹴り破られかねない、とありえそうで怖い自分の懸念に僅かに焦燥しつつ脱衣所でバスタオルを取りながら呟くと、
『姉さん、開けてくれるかー!』
ドンドンドン、と乱暴にドアを叩く音が響く。何故こう妹はせっかちなのかと嘆息する叶子だった。
鍵だけでも開けておこうとバスタオルを体に巻き、脱衣所を出る。
――阪樫はさすがにまだ帰ってこないだろうから、このままでいいわよね――。
まさかそうはなるまいと思いつつ、これは嫌な予感がするとも考えながらそのまま長い廊下を小走りで抜け、解錠した――。
§
ほんの少し、時は遡る。
走って下って来る場合の倍以上の時間をかけて道中駄弁りながら、とのんびりしつつも叶子の家に辿り着いた響と七瀬。響はその話の中で叶子と七瀬の、本来なら昼ドラ顔負けのドロドロ具合になるとしか思えない関係について話を聞いていた。腹違いであるということは、自分たちはおろか両者の母親も知っていたことであるということや、それでもあまり実生活に影響がないということだとかである。
他にも色々と返事に困る事情を聞かされた響は、胸の奥にそっとしまっておくことにした。七瀬は気にすることはないと言ってくれたが、響自身それを言われて本気で気にしないような人間ではない。というか、内容が内容だったため触れないよう努力することを固く心に決めた。
門の前、インターホンを何やら暗号チックに押していた七瀬が見上げて言う。
「いつ見ても門と中身が合わない家だな、姉さんの家は」
響としても同感だった。三年くらい前に古い洋館を大幅に改築したという話もさっき聞いたが、元の洋館でよかったと思う。
――と。七瀬が鉄柵の一部を右手で掴む。掴んだままその場で数回跳んでいるので一体何をしようとしているのか、と思った響だったが、まさか……と一つの考えに至る。
インターホンを押しても返答がない。門が開く気配もない。七瀬のその場跳びは、どこか体を温めているような、そんな感じの軽い跳び。しきりに高さを測るかのように門の頂点を見る動作。
「せーのっ……」
極めつけにこの一言。無理だ、常人には無理だと響は自分に言い聞かせていたが、ここまで要素が揃ってしまうと『まさか』が可能性のあるものに――否、ほぼ確定事項として成立してしまった。
跳ぼうとしている、これは間違いなく跳び越えようとしている……!
「ちょっと、あお……じゃなかった、七瀬ストッ――」
響が声を抑えて叫びつつ七瀬の左腕を取ろうとしたが、瞬間、七瀬はためるように大きく膝を曲げてしまい、その手は虚しく空を掴み、
「せ……っ!」
と強く吐き出すように言った七瀬は、いっそ高跳びの選手になったらどうかと思うほどの跳躍を見せた。
体を横に倒した状態で鉄柵の頂点に達し、空中で見事に一回転。蝶のように舞う七瀬はそのまま体勢を戻して、膝を曲げ衝撃を殺すように美しく着地。
ふう、と一息ついた七瀬は振り向いて、
「どうだ響」
してやったり顔を響に向けた。
「その高跳びは凄いと言うしかないけど超非常識だよ!」
「そうか? 自分の別宅みたいなものだ、このくらい構わんだろう」
「自分の家か他人の家とかいう話でもあるけど、塀を乗り越える行為についてだよ!」
「男が細かいことを気にするな。……さて、確かこの辺に……これか」
こんこん、と音が聞こえる。力いっぱい突っ込みを入れる響の言葉を柳のように受け流し、七瀬は門の近くの煉瓦で出来た壁を軽く叩いているらしかった。何か手応えがあったのか、聞こえてくる足音とノック音は止まる。
何が起こるのか、と響が足音の止まった辺りと思われる場所を煉瓦の壁越しに見ていると。
がごごごご、と重いものが硬いものの上を引き摺られているような音が、目の前の壁、その下部から聞こえてきた。
響は何が起こったのかと思って見てみると、その視線の先に人ひとりが通れそうな四角い穴。
「響、ここから入ってこい」
出現したなんとも隠し通路チックな――恐らくそのものであるが――穴から、七瀬が顔を出して言う。言ってすぐ駆けて行く足音が聞こえたので、玄関まで走っているのだろうと推測する。
……早く謝って、急いで家に向かわないと。
七瀬を案内して大幅に時間をくってしまったので、響は叶子に一言謝っておこうと思っていた。出来るだけ迅速であった方がいいため、響は急いで穴をくぐり七瀬を追いかける。
「姉さん、開けてくれるかー!」
七瀬はドアを最早ノックとは言えないほど強く叩いて、大きな声で呼びかけていた。高級そうな気のドアが僅かに震えている。このまま叩き続けるとドアが破れるか蝶番が吹き飛ぶかカギが使い物にならなくなりそうだ、と響は思った。
その矢先、がちゃりと音がしてカギが開き、七瀬が開けたドアの向こう勢いのいい叶子の声が投げられて――
「七瀬っ、あんたせっかちなのよ、門が開くのくらい待ってなさ…………」
――止まった。
こうした経緯により、現在が構成されている。
自身の妹に向けて、その行動を咎める言葉をぶつけようとしていた叶子の口が、可愛らしく『い』の形で止まっているのを響はまず見た。前にいる七瀬の肩の上に叶子の顔が見えたのだ。それ以外はまだ見えなかった。
「失礼するぞ」
なんて、飄々と言いながら七瀬は靴を脱ぎ驚くような超速度で靴を揃えて家の中に入っていく。
勿論、それまで七瀬の体によって一部しか見えていなかった響の視界は全開放される。
――即ち、薄桃色をしたバスタオルしか纏っていない姿で、目の前にいる響を見て硬直している叶子と、それをがっちり見てしまい同じく硬直する響という状況の完成である。
「あ――さかっ、が……しっ、あん、た……っ、なんで……」
叶子は乾燥した枯葉が急速に燃え上がるような勢いで赤面し、羞恥によってか体を震わせている。
「…………!?」
対する響は言葉すら出ておらず、やはり急激に赤面していた。
――シャワーでも浴びていたのかまだ乾ききっていない、煌めきを湛える美しい深海のような藍がかった銀色の髪はいつか見た時のように下ろされており、枝毛のないそれのところどころからは水がゆっくりと滴り落ちている。
――廊下の白い照明の許においてもなお映える白い肌は、僅かに上気し薄紅色。
――控えめではあるが、反射的に叶子が両手で押さえたことにより僅かに歪んでいる胸。
網膜に焼き付いた、半分無意識ながらも憧れていた叶子の生まれてそのままに近い姿が、響の脳内まで真っ白にした。
「よく熟れたトマトが二つだな」
これはリビングに繋がるドアの陰からニヤついて二人を見ている七瀬が放った台詞である。
響はにやけた顔の七瀬を見て、桃色な急展開にオーバーヒートした脳を起こして考えた。
――前に立っていたのは七瀬で、このバスタオルを巻いただけの君科さんも見えていた。
それなら、ドアを閉めるなり僕を吹き飛ばすなりしてこの状況を回避できたはず……。
そんな考えを巡らせている時に、七瀬は決定打となる行動を起こした。
「……ぅ、くふ……っ!」
にやけていた顔が崩れ、吹き出したのだ。七瀬はそのまま隠れるようにリビングに姿を消す。
……かっ、確信犯か、此奴め……!
今すぐそのいたずらっ子に制裁を加えたかった二人称のおかしい響だが、ついバスタオル一枚の叶子に再び目を向けてしまい、何も言えなくなってしまう。
「……落ち着くの、落ち着くのよ……」
その叶子はバスタオル一枚の状態で落ち着こうとしている。悲鳴を上げられるか殴られでもした方がマシなのかもしれない、と硬直したまま響は思う。
この状況に陥り三十秒。
元々こんな状態での三十秒は長いのだが、響にはその三十秒が異様に長く感じられた。
「……よし阪樫、こっちおいで」
叶子が、妙に落ち着いた声で響に声を掛ける。逆にそれが怖い響は盛大にびっくりして、一歩が踏み出せずにいた。叶子の顔を見るのが怖いのか、視線は下に向いたままだ。
「……さ、か、が、し、きょ、う、く、ん?」
「はぁいぃいッ!?」
――一文字一文字区切る上にフルネーム、更にくん付けの三段コンボはやめて凄く怖い!
その美しい声で放たれた言葉に、人間ここまで驚けるのか、と自分で思うほど大きな声を上げて直立する響。
何故か無意識に、両足を揃えて挙手敬礼のポーズをとってしまっていた。
「もう一度言うわ……こっち来い」
声が低くなった上に命令形に変わっていた。
何かが吹っ切れたのか、輝くような、しかし底冷えする笑顔を浮かべた叶子は、胸元を押さえる手を離し両手で手招きしている。一瞬、背後に憤怒の形相を浮かべた不動明王が現れたような錯覚を得るほどだった。
その異様な光景に、響の制服の下に溢れる嫌な汗の量がどっと増えた。
……ああ、もういっそ、この場で全裸になって土下座した方がいいのかなぁ……。
先のバスタオル一枚の叶子目撃から、色々な意味で身震いするほどの美しい声色で放たれた三段コンボ、声のトーンがいくらか落ちたドスのきいた命令形――畳み掛けるように到来したそれらによって響の思考は大変なパニックに陥り、通報すればお縄頂戴となるようなことまで考え始めていた。
ともあれ、響は言われた通り叶子の許へと歩く。そうしなければ例のゲームに本格参加する前に命を落としてしまいそうな気がしたのだ。
ぎこちなく歩いて、響は叶子の前に。嫌な汗は顔面まで侵攻し、だらだらと額から流れる。
頭を下げている響は叶子の顔が見えていないが、とりあえず一線を越えた怒りの表情――恐らく底冷えする笑顔は継続中なのだろうと確信出来た。伝わってくる威圧感がそれを物語っている。
「どうしてあげようかしら? 見たところ荷物持ってるわけじゃないし、この様子だと七瀬を案内して一旦戻ってきたというところよね?」
黙って頷く。
分かっているのに疑問形というのはここまで恐ろしいものなの……?
「それじゃあ……こんな姿を見られても、夜のことを思えばそれへの抵抗を薄めるものだって考えたら怒りも和らぐわよねー、って考えた寛大な私は一つの目標をクリアすれば今回は蹴りだけで我慢してあげるわ」
蹴りだけで我慢するってことは、目標をクリア出来なかったら何が待っているのだろう……と未来の悪夢を想像しかけたが、響はやめた。
余計な想像して無駄に戦くのも、想像の斜め上をいくことをされたりしてしまうのも、結局目標をクリアしてしまえばそれらは無駄な想像になる。
今は、これから与えられるであろう目標をクリアすることだけに全力を注ごうと響は決めた。
「さてその目標だけど……時は金なり、七瀬を案内してる時間があれば……そろそろ戻ってきててもおかしくはないわよね? だから、今から三十分以内に荷物まとめて戻ってきなさい」
「さ、三十分で!? そんな無茶な――」
自転車でここと家を往復するだけだとしても三十分かかりそうなのに!?
あまりに無茶な課題に響が顔を上げて制限時間の延長を畏れながら進言しようとしたが、
「……何か文句があるのかしら?」
がしっ、と――剣の紋章が刻まれてある叶子の左手が、響の顎を力強く掴んだ。顎骨版アイアンクローである。昨日、柚奈が行った靴底での蹂躙もかくや、といった威力のアイアンクローのおかげで顎骨が固定され、まともに喋れない。その上、叫びたいほどの痛覚が響を襲う。
しかし痛みを訴えようものなら、やはり浮かんでいる極上の笑顔のまま顎が粉砕されかねない。
回避できたのに、敢えてこの状況を作り出した七瀬にも責任の一端はあるが――見てしまった自分が悪いんだ、と響は強く反省する。眼福だと少しでも思ってしまった感情は取り消せないが、目標という名の与えられた猶予にだけでも感謝しなければならない。だがあの悪戯半袖には後で何かしらの形で報復をしようと響は決める。気が済まない。
そして――蹴りだけで我慢してないという、してはならない突っ込みは必死に飲み込んで封印した。
文句はない、という意を込めて響は首を横に振る。
「門が開いてからカウントを開始するわ。……駄目だったときは覚悟しなさい……?」
響は、一層トーンの落ちた声色で放たれた叶子の言葉に息を飲む。内心様々な感情が荒れ狂っているはずだが、何故あの笑顔を維持し続けることが出来るのか不思議でならない。
「それじゃ……」
叶子がそう言って、一息ゆっくりと吐く。精神集中しているようにも見えた。
左足を前に、目を閉じ、重心は左足に。
――蹴りだけで我慢してあげる――そんな言葉が響の脳内に蘇る。
これは、と思い響が咄嗟に体を反転させると、
「――行ってこぉいッ!」
叶子が目を見開き、風を切る音を伴い繰り出された右足での鋭い蹴りが、響の腰付近を強打した。
予期していたとはいえ、叶子が放った蹴りの威力は並の男では比肩しえないほどのものであり、それを受けた響はくおぉう、という呻きを漏らしつつドアの外に放り出されて――正しくは三メートルほど飛ばされてしまう。
「おっ、遅れるんじゃないわよ、今度こそ全速力を以て往復しなさいッ!」
言って、ドアを強く閉める叶子。
その動作と同時に叩きつけるようにして放った声は、抑え隠していた羞恥が滲み出てしまったのか、やや上擦っていた。
「いたたた……」
腰を摩りながら立ち上がる。振り返ってみると、少し後ろに白いサンダルが落ちていた。叶子が玄関に一時降りるときに履いていたのだろう。
「さて頑張らないと、というか死に物狂いじゃないと三十分なんて無理だよなぁ……」
どうしようもないことだけど――とぼやいて、屈伸や伸脚といった軽い準備体操を行う。
間もなく、閉じていた門がゆっくりと開き始めた。
スタートの合図。やることは、三十分以内に貴重品、着替えを持ってここまで戻ってくること。
「……よし、絶対間に合わせる!」
がしゃん、と門が開ききった音と共に、響は駆けた。
§
息が荒い。顔は熟した林檎色に、肌までうっすらと紅潮していた。
叶子の脳内や、血液に乗って渦巻いているのは怒りと……大部分を占める羞恥。こんな格好でドアを開けてしまった自分に対する羞恥と、同世代の男――つまり響のことである――に見られたということに対する羞恥だ。
「は、あ……っ、ふ」
糸が切れた人形のように、床の縁にへたり込む。土間に投げ出すように伸ばした足の先、蹴りを繰り出した方の右足から、サンダルが消えていた。阪樫と一緒に外なのかしらね、と考えて、叶子の頬に差す赤みが僅かに増す。
「……意外に初心なんだな、姉さん。というか、可愛いな」
「う、うるさいわね! 顔を半分だけ出してにやけるのやめなさいよっ!」
叶子の声には覇気が篭っているが、立ち上がれていない。情けない、と自戒しつつも熱を帯びた全身はいうことを聞かなかった。
「同年代の男に素肌を晒したのは初めてか?」
「…………っ」
七瀬の言葉に叶子は返そうとしたが、直線的に言われたことによる内心の焦り故か言葉にならなかった。
この妹、人をからかうのが上手いわね……!
「とにかく服を着たらどうだ、姉さん。まあ、姉さんがまた見られたい、という嗜好の持ち主であるならこれ以上言わないが」
「な……!? っ、もう七瀬の思惑通りにはならないわよ」
醜態を晒すのは耐えきれないのだろう、体に喝を入れた叶子は左足を軽く蹴るように振ってサンダルを脱ぎ捨てた。脱衣所に早足で向かい、すぐにドアを閉めて服を着る。
「……七瀬、あんた今日は阪樫相手に組み手やって貰うわよ。あっち側(異層世界)じゃこっち側に比べて成長速度が異常なくらい早いんだから、厳しくしちゃっていいわ。正直なところ、倒しても復活してくる〝冠数異形(Figure)〟じゃなくて、各系統の〝貴種四者(Four Cards)〟を見つけておきたいのよ。私一人じゃ隣のエリアまでが限界だけど、三人いれば捜索範囲も広がるでしょ……あと、七瀬」
「何だ? ……しかし早いな、もう着替えたのか、この喋りの間に」
脱衣所から出た叶子は、上は空色のフード付きパーカー、下は白のラインが縦に二本走っている黒いジャージというまさに部屋着、という状態で出てくる。
叶子はリビングのソファに腰を下ろし、中央のテーブルの下に置いてあった鏡を取り出す。それを見ながら自身の髪を丁寧に拭きつつ、
「――電話では、私と同じ一週間前に参加者になったって言ってたけど、戦力として数えていいのよね?」
「愚問を。たとえ姉さんと戦うことになろうとも、私は負けるつもりはない」
見定めるような、しかし確信を持っている風に叶子が背を向けたまま投げた質問に対し、七瀬は同じものを返すように口の端を僅かに持ち上げて挑戦的とも取れる口調で投げ返す。
「頼もしい限りね。……あ、そこの引き出しから櫛取ってくれない、赤いやつ」
「赤い……これか、ほら。……私からも質問がある。この頃、異層世界の私達が起点とする槇野市――まあD地域C区画だな。この近くで他の参加者を見てないか? 今回、各参加者に与えられる『解説書物』に記された情報によれば、日本全国を七つに区分したAからG地域のうち、このD地域に全ての供物が出現するらしいのだが……」
「参加者はもう三分の二近くは揃ってる、だからいい加減誰か見かけてもおかしくはない、ってこと?」
叶子の言葉に七瀬は頷き、それで、と続ける。
「D地域に供物が集中するのと同時に、参加者もほとんどがD地域に縁のある人間から選ばれるはずだ。多少条件があるとはいえ、二十人程度ならどうにでもなるだろう。それに未だに各〝貴種四者〟のうち一つでさえも出現していない」
「人だけじゃなくて各四者まで、ね。普通はないけど、〝貴種四者〟の【王(King)】【女王(Queen)】【騎士(Knight)】【小姓(Page)】中、王と女王がいっぺんに出てくるだとか、そんなことがあるのかしらね、今回」
「恐ろしいことを言うな、姉さんの懸念は懸念に終わらないから不吉だ」
「失礼ね」
机の上に置いてある『解説書物』のページを捲りつつ、叶子は眉を顰める。
そのページは先程叶子が響に見せたところだった。絵柄と文字のある、参加者が決定すれば自動的に反応し更新される、参加者名簿のようなものだ。
絵柄は最初からあり、それの下に絵柄のアルカナ名――響の〝ⅩⅣ〟ならば節制、叶子の〝
Ⅷ〟なら正義、七瀬の〝Ⅹ〟なら運命、という風に――が現れた場合参加者の決定を表し、絵柄が裏返り文字が消えると参加者の脱落を表す、というものだった。無くて困ることはあるが、あっても困らないものである。
同様に、他のページの一つに〝貴種四者〟に関わるものもある。それらに該当する何かが――生物でない可能性もある――出現した場合に参加者のそれと同様の反応が出る。討伐された場合も同様だが、元々文字のあった部分には討伐した参加者のアルカナ名が表記される。つまり――
「でも、四者が現れてくれて、それを倒せば他の参加者に対する牽制にもなるのよね。四者は他の無限湧きの雑兵共と違って無茶苦茶強いから、それだけの実力がある、と知らせているようなものだし」
――だからこそ、早く見つけないと駄目なのよ、このゲームをスムーズに勝ち抜くには。
叶子は、固い決意を持ってこの命を賭したゲームに臨んでいる。裡に秘めるものは大きく、深く、昏い。
「……無限湧き、という単語が自然に出てくるあたり、姉さんがライトながらもゲーマーであることが滲み出ているような気がするな」
「七瀬あんたちょっと黙ってなさい」
「学校のマドンナとも言うべきミステリアスな魅力を併せ持つ美少女、優等生の鑑……そんな勉強が趣味です、他はただ出来るだけで趣味という訳ではありませんー、とかいう人間が、実はゲーマーだとは知られたくないのか?」
ふふ、とリビングの一角、半物置状態になっている一つの部屋に繋がるドアを見て小さく笑う七瀬。
「イメージ、ってものがあるでしょう? 七瀬の言うようながちがち優等生が私のイメージなら、私はそれを崩したくないもの。面倒だし、それに受け入れてもらえなさそうだから嫌なのよ。そんなはずないって、勝手に思い込ん出る人多いみたいだし……」
叶子は棘を含んだ言い方をするものの、そのトーンは低い。最後に盛大な溜息をつく。
……完璧な優等生って衣は学校生活では役に立つのよ。特に幼稚ないじめの対象になりにくいし、先生も味方につけられるし……でも、
「だが、本当の自分を見てもらえていないようで寂しい、か?」
「――――っ」
七瀬が、叶子の心の独白を代弁するように言う。
更に、
「まぁだが案外、響……阪樫なら受け容れて貰えるかもしれないぞ。姉さんのその口調、阪樫はその理由にすぐに納得し適応したのだろう? 今度、〝神が与えた暇潰し(ゲーム)〟の息抜きとして一緒にどうか、と誘ってみたらどうだろう、と愚妹が要らぬアドバイスをしてみる」
……一緒にどうか、か……。
何気ない七瀬の提案に、叶子は考え、それもいいかもしれないと思う。
「……姉さん?」
七瀬は、叶子がそんなこと、と一蹴してくると思って質問を投げたのだろう。うんうんと頷く叶子を見て不思議がる。叶子が微笑みを浮かべたときには、七瀬は心中でぽかんとした。
その数十分後。
叶子が与えた目標は三十分だったが。
件の響は、普通に遅刻した。