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一章


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『――そうして、みんなとの競争で一番になったその子には、一つのお願いを叶えることができるようになりました、とさ』

 母に、そんな話を聞いたことがあった。

本当のことなの、と響が尋ねると『私もお父さんから聞いたおとぎ話なのよ。響だったら何をお願いする?』と言っていた母の顔は、いつも通り柔らかい微笑を浮かべている。

 当時響は小学校に上がったばかりで、おとぎ話であると言った母の言葉をまるっきり信じ、『ぼくは、おかあさんとおとうさんとずっといっしょにいられますように、っておねがいするっ!』と無邪気に答えた。

 響のその言葉を聞いた両親は顔を見合わせた後、響を慈しむように見て幸せそうな笑みを浮かべ、二人の腕で包み込むように響を優しく抱きしめた。

 がしがしと、僕の頭を撫でる父。父の大きな手で頭を撫でられるのが、響は好きだった。

 いわゆる、『暖かな愛情の中ですくすくと育った』響は、順調に成長していく。


 響が中学校上がり、数ヶ月後。

 二人の結婚記念日に、僕は『たまには二人でゆっくりしてきなよ』、と半強制的に食事に出かけさせた日のこと。

 食事に出て数時間。両親を二人きりで食事に行かせた善意の方ではないもう一つの理由の目的――その行動を終え、遅いなと思っていたところで家の固定電話が鳴った。

 携帯にかければいいのに、と思いつつも受話器を取る。

「はい、もしもし」

 でも、電話の向こうの声は父の優しげな声でもなく、まして母の穏やかな声でもなかった。









「夜分大変失礼致します。阪樫さんのお宅でしょうか。槇屋(まきや)署の者ですが――」


 1


「……寒っ」

 開けっぱなしの窓からは、冷たい風と低角度で射しこむ朝日、鳥の(さえず)り。ベッドから落ちたらしい響の目の前には、フローリングの床があった。

「痛いし……夢落ちか……なんでまた、昔のことなんて」

 ――父さんと母さんが死んだのは、三年も前じゃないか。

 フローリングに(したた)かに打ち付けた額を擦りながら、身を起こす。

 久しぶりに見た夢は、子供の頃によく聞かされたおとぎ話……というより物語のような、母親の話の記憶だった。

 よくある話。何かの褒美に一つだけ望みを叶えるというものだ。

()って……」

 首を回すと、こきこきと乾いた音が鳴った。少し歩いて、洗面所へ向かう。洗面所といっても、トイレと風呂が一体になったユニットバスだが。

 蛇口を捻って水を出す。真冬の冷水は寝惚け状態の響の脳を叩き起こし、痛覚に近いほどの鮮烈な冷感を与える。

 フェイスタオルで顔を拭き、歯磨き粉を少量つけた歯ブラシを(くわ)え、洗面所を出る。リビングの壁掛け時計は、七時半を指していた。

「時間的にトースト……で、洗濯物」

 独り言は響の癖だ。両親が死んで、その保険金や家具などを売り払った金で一人暮らしを始めた頃はそれこそショックで塞ぎこんでいたが――しかし周囲にはあまり悟られないよう『普通』に振る舞っていたつもりである――、しばらくすると立ち直った。しかし、やっぱり家族といたころの感覚が抜けきらず、家に帰ってきたときはついただいま、と言ってしまっていた。結局そのまま、独り言の癖がついてしまったのだ。

 虚しい限りだ。だが、一人暮らしの人はなんとなく分かってくれるに違いない、と響は内心願っている。

 食パンをトースターに突っ込み、寝間着のジャージを脱ぎ、適当に取った白のワンポイントTシャツと黒の薄いセーターを着て、朽葉色で統一され、袖や裾の末端を黒いラインで色付けられた詰襟の制服を着る。ホックまで締めると息苦しいので、第一ボタンまで留める。

 テレビを点けると、画面に映る天気予報士の女性が本日は降水確率ゼロの快晴だということを言っていた。ここ数日雨だったので、太陽が嬉しい。何より洗濯物が堂々と干せる。室内に嫌な臭いが立ち込めるという理由から、響は部屋干しを嫌っている。

 大量の洗濯物を干し終えて部屋に入る。既に食パンが出来上がっていた。

 小さいサイズの冷蔵庫からマーガリンを取り出し、食パンに塗る。洗濯物干しに時間を結構割かれていたせいでちょっと冷えており、マーガリンはなかなか溶けてくれなかった。

 テレビ画面左上の時刻表示を見る。……八時前。そろそろ出ないと間に合わない。

 硝子製の丸い板にアルミ製の銀色に塗装された脚部を持つ、響が持つ数少ない家具の中でもお気に入りのテーブルの上に置いてある家の鍵と自転車の鍵を取り、同じくテーブルの上に置いてあったリモコンを操作してテレビを消す。

 電気を消し、元栓は閉まっているか、窓の鍵は閉めたか、冷蔵庫はちゃんと閉じてるか――と入念にチェックし、部屋の隅に置いてある肩から提げるタイプの茶色の通学用に使っている鞄を取り、響は家を出た。

 階段を駆け下り、一階の駐輪場に向かう。さっと見渡すと雑多に停められている自転車の中から緑色の自転車通学許可シールが後部泥除けに貼られている、響の通学時の相棒である、ガンメタリックカラーの自転車を見つけることが出来た。

 備え付けられている後輪の鍵と、前輪に付けている輪状の鍵を外し、手押しで表通りに出た。

 すると、左側から聞き慣れた声としゃーっ、という自転車の車輪が空気を切って回転する音が聞こえた。

 またか。響は嘆息し、数歩後退した。

「うおーっす! 今日もお互いギリギリだな響!」

 アスファルトと車輪を盛大に摩擦させつつも、その自転車を駆る人物は左から右に勢い良く過ぎていく。やはり通り過ぎるのに従って、声も遠ざかっていった。

 今日も回避成功。いつかこいつがバイクを運転すると抜かした時は全力で止めよう、と響は思った。

 少し離れたところで停止したその人物は、自転車を手で押して響の許まで戻ってくる。

柚奈(ゆな)……危ないって」

 その人影――柚奈に、響は呆れ気味にそう言った。

 鴇祈(ときのき)柚奈。同級生、女。親同士が知り合いだったという理由で昔よく遊んでいた、いわゆる幼馴染。

 猛スピードで自転車漕いでいたためか、制服である白のセーラー服が少し乱れていた。それを手で直しつつ、にひー、と何故か満面の笑みを浮かべている。ショートボブの黒髪を風に(なび)かせて笑みを浮かべる柚奈は快活で、男子の中で結構な支持を得ている。

 ちょっとがさつな所さえなければなー、と、響はなんとなく思った。

「いつものことだろ? 慣れろよー?」

「朝会う度に轢かれかける日常に慣れてしまうって、なんかやだよ」

 響は高校に入ってから自転車通学を始めたが、入学してから半年ちょっとのうちの半分近くの日の朝に、こんな場面に遭遇する。

 僕が何をしたっていうんだろう。何の因果でこんなに危険な朝を迎えなきゃいけないんだ……。

 そんな響の独白は、彼の心の中だけで空しく消えた。

「刺激があっていいだろ? あたし、結構いい幼馴染だと思うんだよ。退屈な毎日に潤いを与えてるし。退屈しないだろ?」

「いい幼馴染って何が基準なのさ。ってか、そんな危なっかしい刺激は正直ごめんだね!」

 心の声である。毎朝轢かれ殺されたくはない。

「それに美少女だし」

「自分で言うかそれ!? ……っもう、先に行くよ!」

 さらっと自分のことを美少女とか抜かしやがったチャリ暴走族にそう言い、ペダルを漕いで走り出す。後ろから「待てよ響ー!」とかいう叫びが聞こえたが、響は故意に無視した。

 また何かの被害に遭う前にはやく学校に――

「てめえ待ちやがれこの野郎」

 逃走失敗。後から勢い良く激突された。サドルの尖った方がちょっと尻の穴に食い込んだ。痛い。

 これ以上逃げても無駄だ、と数秒で観念した響はスピードを落とす。それでも柚奈の方を見ないで前進していると、案の定、柚奈が声を上げた。

「ぷー。なあ響、期限直せよー……」

 横目で見てみると、柚奈がわざとらしく頬を膨らませているのが見えた。

「この間もこの間も……というかさ、ずっとやめろやめろって言ってるよね?」

「……今度こそしない!」

「誓約書、書く?」

「書く!」

 響の質問に即答していく柚奈。反省しているのかどうかは怪しかったが、響はあえて追及しないことにした。

 しかし代わりにとばかりに、爆弾を投下した。

「じゃあこの間提示した罰を遂行するっていうんなら許す。遂行は今日中にね」

 響が発した『罰』という言葉を聞いた柚奈の眉毛がぴくりと動いた。

 ――この間提示した罰とは。

 とある日、雑談をしているうち、柚奈に好きな人がいるということが判明した。これは使えると邪悪な判断を下した響が『今度猛スピードで僕を轢きかけるような真似をしたら、その好きな人に告白する』という罰を科すことにする旨を柚奈に言った。

 その罰は、翌日科せられることになった。でもってあの日は本当に轢かれた。捻挫(ねんざ)で済んだから良かったものだった。

 その罰を遂行するのかという響の問いに対して柚奈は、

「死ねッ!」

「うだぁー!?」

 ――自転車に乗ったまま、響の自転車の横っ腹にキックというとんでもない返事を寄越した。

 自転車は大きく傾き、それどころか若干空中に浮いた。運転していた響はというと、当然自転車から放り出されている。事故に遭ったわけでもないのに通学途中に自転車から放り出され宙を舞う男子高校生という変な図が、完成していた。

 咄嗟に受け身を取る響だったが、中学生の時体育の授業中に習った程度のにわか受け身をフル活用した結果、応用が出来なかった響は右手をアスファルトに思い切り叩きつけた。十分すぎる痛みが響の右手全体に広がるが勢いは殺し切れず、右手をアスファルトに押しつけたまま、数センチずるずると無様に滑った。

「っくうぅううおおおおお……っ!」

「…………」

 響が左手で右手首を握り締めながら(なんとなく間接圧迫止血法)のたうち回って悶絶していると、自転車から降りた柚奈が目の前に立った。逆光で表情は見えない。

「あ、あの罰のことを口にするお前が悪い!」

 上擦った声でどこかやけくそっぽく柚奈は言った。

「元は柚奈が悪――」

「正論なんて響の手と一緒にひしゃげちまえ!」

「ぬぎゃああああ!?」

 響があまりにも理不尽な意見に反論を試みようとすると、その言葉を遮り、緑のラインが入った白いスニーカーを履いた右足――ちなみに柚奈の利き足はがっちり右である――で思い切り響の右手を踏んだ。

 スニーカーの底には細かい砂粒が付着している。じゃりじゃりとした靴の底が響の掌を遠慮なしに踏み(にじ)る。

 まさに蹂躙(じゅうりん)

 効果音をつけるとするなら、ぞりぞりぞりというおぞましい音が妥当(だとう)だろう。

 要するに、かなり痛い。

「いっ、あっ、痛いっ、やめっ、いっぎゃああああ!」

 左手で抵抗を試みるも無駄だった。

 柚奈はきっちりと、左足で響の左手を踏んで押さえていた。柚奈に掌を踏み躙られたあまりの痛みに左手が右手首から離れ、体を挟んで反対側のアスファルトに叩きつけてしまったその瞬間に反応した柚奈は、左足でその手首を拘束するように踏んだのだ。

 さっきの変な図に続き、仰向けの大の字でもがき苦しむ男子高校生と、その両手を仁王立ち状態で踏み躙る女子高校生という妙ちくりんな図も完成してしまっていた。関わりたくはないのだろう、周囲にいる人達も遠巻きに眺めるだけで止めに入ったりはしなかった。

 早く降参してこの地獄から解放されたい。周りから突き刺さる奇異の目線も痛い。響はそう願った。

 そこにタイミングよく、救いの言葉。

「ば、罰にはもう触れるなよ……?」

 立ち位置を変更したことにより見えるようになった柚奈の顔は何故か真っ赤だった。

「わ、分かったから早く退いて!」

 これ以上やられると数日間シャーペンが握れなくなりそう。

「……ゆ、許す」

 上から目線かよ。と突っ込みたくなったが、響は止めた。ここでそんなことを言えばどうなるか、どうなってしまうか分からない。柚奈は足を退け、響から少し離れた。

 立ち上がって、そのまま右手を見る。

「……うっわあ……」

 つい呻いてしまった。

 皮が剥けている範囲が半端ではなかった。にわか受け身で負った時点の傷はどうだったのかよく見てないが、とりあえず今のこれは酷い。

 掌の四分の一くらいの皮が剥けて、赤黒いものと鮮やかなものが混じった血と砂利。皮の剥けた部分からは、当然の如く肉がこんにちはしていた。

 熱いに近い痛みを感じる。

「ああ、朝からいいもん見たんだから、チャラだろっ!」

 響の凄惨な状況の右手を見た柚奈は、若干引きつつそう言った。

「いいもん……?」

「女子高生の、スカートの中」

 ……頬を赤らめるな。

 そもそも柚奈のスカートの中は、

「スパッツだろうが!」

「儲けもんだろ!」

「見飽きてるよ!」

「あたしはそんな安い女じゃない!」

「よくハイキックを僕に繰り出すだろ!」

「うっ、うるさいっ! 先に行くからなっ!」

 昔からよくやるマシンガン問答の末、柚奈は歩道の端に停めていた自身のオレンジ色の自転車に跨り、走り去る。

「学校行って、消毒してから教室いこ……朝のホームルームは諦めるしかないか」

 そう呟いて、倒れていた自転車を左手で何とか起こす。そのまま跨り、怪我をしている右手は手首をグリップの上に乗せた。

 はあ、ともう一度嘆息し、響は坂の上の学校に向かって自転車を漕いだ。


 2


 それから自転車を走らせること十分。片手だけで何とか自転車を運転しつつ、定刻までに公立籐清高校の校門を抜けた。

 遅刻寸前の時刻なので、駐輪場の空いている場所を見つけるのに一苦労したがなんとか場所をこじ開けて自転車を停め、鍵をかけた。

 そのまま教室ではなく保健室に向かい、響は三十路手前らしい美人養護教諭に掌の治療を受けていた。

 ちなみにその養護教諭の第一声は「うわぁ……」だった。朝から掌の皮の四分の一が剥けた状態の手を見れば、たとえ養護教諭であっても引いてしまうだろう。

「ほぉおおー……!」

 ちなみにこの無理に捻り出したような情けない声は響のものである。

 消毒液とはいつの時代も()みるものである。

「塩化ベンゼトニウムを主成分とし、組織修復剤と抗ヒスタミン剤を配合した消毒液って沁みるわよね」

「くぅうー……す、素直にマキロンって言ったらどうですか。その容器がなかったら、普通何の事だかさっぱりですからね」

「なんとなく癪だったのよ」

「相変わらず変な人だ……」

 この変なところに拘る美人養護教諭の名前は、(なぎさ)(ゆかり)という。籐清高校で養護教諭といえば分からない人がいないほどの有名人だ。

 艶のある黒髪は短く切り揃えられており、アンダーリムの赤いメタルフレームの眼鏡の奥には、黒目がちのちょっと垂れ気味な目が妖しく光る。睫毛(まつげ)もマスカラをしているというわけではないらしいのだが、程好く長い。薄く紅がかった口唇から(つむ)がれる声は高く清く、美しい。

 更に、紫は出るとこは出て引っ込むとこは引っ込んでいる抜群のプロポーションまで持っている。常に白衣を纏った紫は、美人養護教諭という言葉が本当に似合う。女医という言葉ならさらに似合うことは請け合いだ。

 ここからはごく一部の人のみ知ることだが、紫の思考は説明し辛い微妙なライン上をうろついている。言いかえれば、ちょっとズレている。

 響がこのことを知ったのは数か月前のことで、偶然に偶然が重なった結果だった。それから、響は紫よりとある口止めをされている。

「はい、終わり」

 紫は治療のあらゆる工程を迅速に済ませ、最後に掌全体を覆うガーゼを固定し終えると、軽く叩いた。

「何かが終わってそれを軽く叩くという行為は分からないでもないんですがこれは立派な傷なんですから叩くのはご遠慮いただきたいれす先生!」

 畳みかけるように長台詞による突っ込みをしてみた響だったが、息苦しくて尻すぼみになった上最後には噛んでしまう。

 それを聞いて、紫は小さく笑った。

「ま、そろそろ教室に行きなさいな。一限目の準備もあるでしょう?」

 灰色の回転椅子の背もたれに体を預けて脚を組むという、紫がやると何故か妙に色っぽく見えるポーズで言う。

 壁掛けのアナログ時計は九時の十分前を指している。ちなみに一限目は九時からなので、そろそろ教室に行って授業の準備をしなければならないということを紫は知っていた。

「じゃあ、ありがとうございました。失礼します」

 軽く会釈をし、保健室を出る。

 紫は既に、難しそうな英語のタイトルの分厚い本を読み始めていた。



 階段を上り、四階へ。

 四階、地味に階段上るのがきつい……なんて独白を、この高校に入った生徒誰もが一度くらいはするだろう。この高校に限ったことではないだろうが。

 響が末席を置いている一年C組の窓から教室の中を見る。担任の姿は既に無く、もう朝のホームルームは終わったらしく、教室内には喧騒が満ちていた。

 次の休み時間にでも先生に一言だけ言いに行っておくかな、と考えつつ、幾度となく塗り直されたであろう、白いペンキで塗装された木製のドアに手をかけ、右に引く。

「遅いよ響ちゃーん!」

「ずばぁあー!?」

 響の視界は、嬉々とした声を上げる頭で覆われた。

 その頭は勢い良く響の鳩尾に突っ込む。結果、響の口からは奇妙な声が出た。

 身構えることが出来るはずもなかった響は後ろに吹っ飛ばされ、尻から廊下にダイブし、そのまま倒れ込む。

 ついでにその頭……というか誰か――覆い被さるように倒れ込んでいるので、響には頭しか見えていない――に組み敷かれ、マウントポジションを取られる。その間数秒、響とその誰かは廊下にいる生徒の注目を一度に集めた。響は羞恥から頬を僅かに赤く染める。

「休みかと思ったよ! 今週、君科(きみしな)さんはやっぱり来てないし、今度は響ちゃんかと思って心配したんだよ!」

 響の上に乗っていた誰かが身を起こす。覗き込むその顔は、酷く愛らしいものだった。

 大きな目、細く形の整った眉毛、笑みを浮かべているその頬にはくっきりとえくぼが浮かんでいる。童顔好みの男子が依然、『どストライクぅううう!』と半分発狂して言いながらときめいていたのを、響は覚えている。

 確かに、コレは可愛い。そこのところは響も納得はしていた――が。

「とりあえず僕の腰の上から退けホモ野郎!」

「ぼくはホモじゃない! 両刀使いなだけだよ!」

「そんな、僕にとっては大して変わらない上に恐ろしいカミングアウトはいいからさっさと離れろ!」

「やーだもーん」

「その年齢でもんとか言うな!」

 赤褐色のセミロングの髪を靡かせている、響と同じ朽葉色の詰襟の制服を着たその生徒の名前は、雨垂優璃(あまだれゆうり)。女子顔負けの可愛さを誇る――れっきとした『男子生徒』である。

 前述した童顔好みの男子は、それから同性愛の道に堕ちたという。現在行方不明。

「ぼくはこんなにも響ちゃんのことが好きなのに……どうして?」

 悲しそうな表情をする優璃。可愛いが、男。

「僕は男に靡かない」

「男と男の恋愛に壁なんてないの!」

「普通そこは男と女の友情に壁なんてないという感じのアレだよね!?」

「もしあったとしても、粉砕するから!」

「粉砕しなくていい! 大人しく両刀使いから一般に戻れ!」

 やたらと可愛い声で言いやがるものだから、どうも男と会話している気にならない。しかし優璃は男。例のブツも中学の修学旅行の時に確認出来ているので、間違いない。

 しかし、優璃の私服姿を見た時は驚いた。学校で会う時のように制服でいてくれれば分かるが、私服は男ものじゃなかった。

 優璃曰く姉のものを借りているそうなのだが、それがまた似合っており、容姿、声、服装全てが女のそれになってしまうと、優璃は誰が見ても女にしか見えなくなってしまうくらい可愛かった。

 もう一つ余計なエピソードがある。

 優璃は中学二年生の時に転校してきたが、その時は女子用の制服を着ていた。響を含めたクラスの生徒全員が、優璃を女だと勘違いしたというものだ。

 くどいようだが、それでも男。そのことを念頭に置いておかないと、たまに間違えるから注意が必要なのだ。

「ほら早く退けっ」

 腰の上という際どいスポットに乗り続けている優璃を、響は左手で軽く突き飛ばす。

 身長も体重も同年代女子の平均程度しかない優璃はあっさりと押し退けられ、尻もちをついた。

「ひゃぁん」

「変な声上げるな!」

 無駄に可愛い声が上がった。優璃は男、優璃は男……ついに響はそれを呟きだすほどになっていた。短時間に、優璃を女だと錯覚しそうになる行動が多過ぎた。

 この切り取られた時間でこれ以上会話を続けると色々と拙いと感じ、教室に入る。

 『地味である』……そう自負さえしている響に、挨拶はしても遅刻の理由と尋ねてくるクラスメイトはいなかった。故に、窓際一番後ろの自分の席にすぐに着く。

 鞄を降ろしたところで、後ろから声が聞こえた。

「きょ、響……」

「……あ」

 柚奈だった。

 先刻響を蹴り倒し、手を踏み躙り、逃げるように猛スピードで去っていった鴇祈柚奈ご本人の登場である。

 その柚奈は、どこか気まずそうに視線を泳がせている。

 次に、勢いよく頭を下げた。

「ごめんやりすぐぁあっ!」

 ついでに響の椅子の背もたれに額を思いっきりぶつけていた。素晴らしいドジっ子である。

 ――柚奈と知り合って十三年。今朝のような柚奈のやけくそじみた暴力行動は度々あった。だがこういった、その場では謝らないものの少ししたらこうやって正直に謝るところが、響は好きだった。

 ちょっと可愛いドジな行動も相まって、許してしまいそうになる。

「謝ってくれればいいけどね。でも、ちょっと今回はやり過ぎたね。とりあえず、顔を上げて」

 そう言うと、柚奈はゆっくり顔を上げた。ぶつけた額が少し赤い。

「だ、だから……ごめん」

 額を手で押さえながら、上目遣いで柚奈は言う。うわ、これ可愛い――響はそんな率直な感想を言いかけたが、寸でのところで塞き止めた。恥ずかしいからだ。

「うーん……えっと、柚奈は罰の話を出されたから嫌だったの?」

「……まあ」

 響が訊くと、柚奈は小さな声でそう答えた。響から視線を外し、頬を染めている。そこまで告白が恥ずかしくて嫌だったんだろうと響は推測した。悪いことをしようとしていたのかもしれない、と胸中で反省する。

「じゃあ罰はなしにしといてあげるから、今度ジュースでも(おご)ってよ」

「え……本当?」

 柚奈は少し微妙な顔をした。

 それが欲しいわけじゃないと言っているが内心欲しがっているのに、親から「じゃあいらないね」と言われた時の子供みたいな表情だ。柚奈にとっていい発言をしたはず、と響は思っていたので不思議に思った。

「不服?」

「い、いや、それでいい、まだそれがいい」

「……? まあ、よろしくね」

「おっ、おう。それじゃ、授業そろそろ始まるし、じゃな!」

 柚奈はそう言うと、逃げるようにそそくさとど真ん中一番前、通称『SS席』である自分の席に戻っていった。

 それとほぼ同時に本鈴が鳴り、教室のドアが開いた。

「おーら、席つけガキどもー」

 顔を出したのは、若干言葉遣いのよろしくない現代社会担当の荒峰(あらみね)という教師である。彼の登場と同時に、教室の至る所に散開していた生徒達は一斉に席に着き、黙った。

 目鼻立ちの整ったそこそこ高いレベルのルックスの持ち主だが、皺がよりによりまくったワイシャツやぼさぼさの長髪、更に硬そうな不精髭(ぶしょうひげ)に加えて気だるそうな態度の荒峰は、一旦授業態度が悪いと看做(みな)すと、その生徒の成績を大幅に落とすというスタンスの先生である。

 だから、一応進学校であるこの高校の生徒は成績保持のために、荒峰の授業の時はいつもに増して真面目になる。成績が大事らしい。

 ――だるそうに、荒峰が教科書を読む。たまにある板書を、生徒達は逃さずノートに写す。私語は無く、不気味なくらい静かな授業風景。

 ……息苦しいなぁ……。

 汚い字が羅列されてある黒板をぼーっと見ながら、右手でシャーペンを回そうとする。

 右手を怪我していたのを忘れていたので割と思い切り回そうとしてしまい、掌に突っ張ったような鋭い痛みが走った。シャーペンは、響の手を離れて前の席あたりの床に落ちる。

「痛っ」

 つい、小さいが声が出てしまう。荒峰は響に鋭い眼差しで一瞥(いちべつ)をくれたが、お咎めはないらしくそのまま授業を再開した。

 右足を伸ばしてシャーペンを捉え、こちら側に向けて爪先(つまさき)で軽く蹴る。

 ふと、空いている前の席が気になった。

 ――君科叶子(かなこ)

 大きめの薄紫色の目は快闊さと可愛らしさを同時に内包している。その整った顔立ちは『可愛い』や『美しい』ではなく、どれかといえば『格好良い』という部類に近い。時折見せる頼れる眼差しがその原因だろう。

 叶子の口調は、常時敬語。そのことは格好良い見た目と健康そうな藍がかった銀髪を襟足で一つに結わえて下ろした姿からは想像し難いが、そこがまたいいと人気も高い。ギャップ萌え、というやつらしかった。萌えっていうのは可愛いみたいな意味らしいのだが、響はよく分からなかった。

 叶子の藍がかった銀髪と、薄紫の瞳。それらは明らかに日本人のそれとは異なるどころか、人間として特異なのではないかと誰もが思う。だが、そのミステリアスな部分も相まって彼女の魅力というものが増しているのだろう。現に、響は『君科叶子は魔女の末裔(まつえい)である』という生徒や教師間で囁かれる噂話を耳にしたことも多々あるくらいだ。

 そんな外見に加え、頭脳明晰で運動神経抜群、人当たりもよく生徒先生分け隔てなく好かれる優等生――いわゆるマドンナ的ポジションについている女子生徒のことだ。

 そんな絵に描いたような優等生である叶子が、一週間もの長い期間を無断欠席している。

 響と叶子は小学一年生の頃からずっと同じクラスであるわけだが、そんなことは一度もなかった。

 その頃から同じクラスだったといっても深い交流があったわけではない。ただ、腐れ縁みたいだが手の届かない存在だと響は思っている。昔から頭もよくて美人だったから人気者だったし、地味な響がおいそれと声をかけられるような存在じゃなかったのだ。

 ――同時に、秘かに憧れもしているが、響本人は胸の(うち)(くすぶ)るその感情に気付いていない。

 あーあ、なんであの頃声かけなかったんだろ。声をかけるのでも、今じゃもっと難しい気がするよ。

 そんなことを考えながら、響はぼーっと授業を受けた。


 3


「きゃっほーい!」

「くらうものかっ!」

「な、なんでー!?」

 ごんっ、と鈍い音を立てて、優璃が響の机に突っ込んだ。

 ――その日の授業の終わりを告げるチャイムが鳴ってから、二十秒以内の話である。

 自称バイの過激なボディーコンタクトは避けたい。

「な、なんで避けるかな……」

「気分だよ」

 今朝の柚奈みたいに額を押さえながら上目遣いで見てきたが、男の眼差しは響には効かなかった。というより目を瞑って強制遮断した。

 むう、と言ったと思うと、優璃は唐突にあーっ、と何かに気づいたような声を上げた。

「今日はどっか行こうって話だよ!」

「きゃっほーい、からそこに繋がるんだ……」

 僕の周りは、なんでこんな変な人ばっかりいるんだろう。

「どこに行くつもりなんだよ。優璃、目星はついてるの?」

 僕がそう訊くと、優璃は待ってましたと言わんばかりにリストアップしていく。

「人通りの少ない路地裏とか、人の目につかない仄暗い雑木林の中とか、誰の邪魔も入らない公園のトイレとか、あと――」

「それ関係は全部却下!」

 明らかに怪しいスポットばかりだった。条件に人目につかないとか、邪魔が入らないとかが含まれていると響の脳が知覚した瞬間、貞操の危機を感じて警鐘を鳴らしに鳴らした。

 初めてがオトコノコなんて嫌だ、舌噛み切って自害したくなる――と、響は心の底から咆哮した。たださすがにこれを口に出すと目の前の優璃(バイ)が発狂しかねないので、やめておくことにした。

「他は? あ、出来るだけ人が多いところで」

「うーん……正直、響ちゃんとぶらぶらできたらいいんだよね! 最近、響ちゃんってばバイトで忙しかったみたいだし」

 輝く笑顔で身を乗り出して言う優璃の声は弾んでいる。優璃に犬のような尻尾があったとするならば、千切れんばかりの勢いで振っていることだろう。響は若干後退りながら、そう思った。

「まあ、両親の遺産がたんまりあるっていったって、限りはあるわけだし……いざって時のために持っておきたいんだよね」

「えらいよね、響ちゃん。それでこそ、僕が大好きな響ちゃんだよ」

「ありがとさん」

 たまには突っ込まないで、軽く流すことにした。あの大好きは、きっと友達としての大好きだ。そうに違いない。響は自身にそう言い聞かせる。

「それじゃ響ちゃん、早くしてね!」

 そう言って、優璃は笑顔で自分の席に戻っていった。

 ……二人でぶらぶらするのもいいけど、最近柚奈とも遊んでないし、誘ってみようか。

 ふと思い、響はSS席に目をやる。が、そこに柚奈の姿も、柚奈の白いエナメルバッグもなかった。あたりを見渡してもいないし、近くの席の生徒に訊いてみても「帰ったんじゃない?」と返ってくるだけ。どうやら既に帰宅してしまったらしい。

 ちょっと残念、と思いつつ、鞄にゆっくりと教科書をつめていると、

「きょーうちゃーん! はーやーくーぅ!」

 と、もう教室を出ている優璃が急かした。

 どこの彼氏を待ってる彼女だよ、と思い小さく嘆息しつつ、鞄を肩に提げて教室を出た。


 4


 それから二人で街をぶらついたものの、取り立てていいことも悪いことも起こらなかった。

 ゲームセンターに行き、優璃に相変わらずの格闘ゲームマニアっぷりを見せつけられ、UFOキャッチャーでは二人揃ってえらくお店に貢献した。勿論、金銭的な意味でだ。貢献の結果に、即物的褒賞がついてこなかったのが悔やまれた。

 要するに、金を多大にかけたにも拘らず、一度も賞品がキャッチャーの受取口に落下することはなかったということだ。

 ひとしきりゲームをプレイし、その後は何となく店で靴を見たり、屋台のたこ焼きを買って食べたりもした。

 移動手段は響の自転車で、響が漕ぎ優璃が後ろに乗る、いわゆる二人乗り。優璃は電車通学なので、帰りは駅まで送って行って、二人はそこで別れた。

 そして今、響の自宅から歩いて数分の近所のスーパーで夕飯の買い物――遅くまで遊んで面倒くさくなったので、適当に惣菜を買った――を終え、自転車に跨ったところである。

 暗いな、と思って携帯電話のフリップを開いて時刻表示を見る。ディスプレイの右上に小さく表示されている時刻は、既に午後十時を過ぎていることを示していた。ついでにポケットに入れていた財布の中身の減り具合も見てしまい、響は肩を落とした。四人もいた英世さんは全て失踪し、今や数枚の硬貨を残すのみだった。

 自転車をゆっくり漕いで……というのは、スーパーから家に帰るまでの道が、角度が微妙にある上り坂だという地理的条件により難しいので、左手で自転車を押して進む。

 ――人通りは、少ないどころか最早ないに等しい。

 ぽつぽつと等間隔に設置された街灯の一つが、明滅している。どこか不気味で、何かが起こりそうな気がした。

 ……と、そこで、早速。


「せぇやぁあああッ!」


 という、気合いの入った猛々しい叫びが響の鼓膜を震わせ、様々な工程を経て脳に信号を届けた。

 周囲には誰もいない。さすがは町外れの片田舎。

「こういう閑静(かんせい)な住宅街って好きだなぁ……」

 あまりに唐突な展開に、現実逃避を始めた響はそう呟いて、はっと気付き思考を正常に戻した。

 その、誰もいないのに……どこから声が?


「とぉりゃぁあああッ!」


 疑問を浮かべた時に、再びその声は聞こえた。

 改めて聞こえたその声は、高いが、どこか猛々(たけだけ)しさを覚える。しかし、澄んでいて奇麗な声だと響は思った。

 どこかで聞いたことのある誰かの声に似ている気もした。だが気のせいだろう。『彼女』の家はもうちょっと坂を上ったところにある。響は混乱の中、脳を全力で稼働させて、浮かんだ仮説を打ち消した。

 それに、響には彼女が『せぇやぁあああッ!』や『とぉりゃぁあああッ!』という声を上げると思えなかった。物腰柔らかで、(しと)やかな微笑を浮かべている彼女が。

 様々な事柄を脳内で逡巡(しゅんじゅん)させていると、更に響を混乱の底に落とすような音が耳に飛び込んできた。

 何か重い物を振り回したり叩きつけたりするような、物騒な音。

 それに合わせてさっきから聞こえている女の声も聞こえる。

 耳、おかしくなったのかな? あちゃー、それは困る。人生始まって、まだ十六年しか経ってない。それなのに、何で幻聴作用のあるおクスリに手を出しちゃった後みたいになってるんだろ。……やだなあ。

 ――とこんな風に響の思考が混乱のどん底でのたうち回っている間に、例の声と音は響に近付いていた。

 怪奇現象がすぐそこで起きている。そんな状況なら逃げればいいだろう、と響のどこかにいる冷静な『響』が言う。そんな錯覚を、響は感じた。

 だが、響は今、唖然(あぜん)として立っていることしかできないでいた。何故か――そんなもの、分かっていればまず硬直などしない。恐らく、響がそこまで混乱しているからだろう。

 既に限界値を振り切った混乱具合などお構いなしに、更に事態は加速する。

「っ、あ!」

 小さな、悲鳴。

 それが耳に入ってきたと思えば、それから少し遅れて。

 響の真横、茶色の塗装がされた金属製の街灯の位置で、がん、と『何かが』そこにぶつかった音がする。

 それは、人間が何かにぶつかった音にも聞こえた。

「な……っ?」

 驚き思わず声を漏らしつつ、響は恐る恐る音がした街灯の下部を見る。

 そこには、人型の何かが――そう、例えるなら、テレビ番組でたまに見かける、砂嵐ノイズのシルエットのようなものが映っていた。

「っつー……やったわね、わんころ!」

 そして声はより鮮明になり、響の中で、さっきまであったうちの一つの推測が、最初に打ち消したはずの推測が、大きく膨らんだ。

 この声は、まさかって、さっきも思ったけど……いや、でも……!

 更に思考の沼に(はま)り、もがき苦しむように逡巡。

 が、しかし。

 止めと言わんばかりに、響の視界に恐ろしく奇妙な光景が映った。


「終わ、りぃッ!」


 映ったのは。

 はっきりと、しかしどこか遠くにあるように見えた……が、それは間違いなく。

 制服を着て髪を下ろした状態の――長めの定規を振り回す叶子の姿だった。



「は、あ……なっ、何、今の」

 ドアを閉めて、息をつく。

 響はあれからすぐに自転車を放り、大きく遠回りして自宅であるアパートに逃げるように帰ってきた。無論、全速力だ。

 それにしても、さっきのは一体何だったんだ……?

 人が――叶子が、テレビの砂嵐ノイズのように映ったり、そんな叶子が定規を振り回したりしている光景など、きっと幻だと信じたい。

 そこに長くいると、その幻を現実のものとして受け入れかねないことが起こってしまう気がした。例えば、髪を下ろしたあの叶子が響に話しかけてくる、というものだ。

『よお、阪樫。何してんだ、こんなとこで?』

 …………いや、待て、まだ混乱してるな。

叶子は柚奈のような粗暴な言葉遣いはしないはずで、定規を振り回すような気の触れた人でもないはずだ。普段の様子とかけ離れた叶子を目撃し、その様子から若干だが柚奈を連想し、勝手に繋ぎ合わせてしまった妄想に過ぎない、と。

 作り上げてしまった妄想を、響は自身の内で否定を続ける。

 物腰柔らかで、綺麗で、勉強もスポーツも出来て、優等生をそのまま形にしたようなそんな人なんだ……と、思う、けど。

 自分の中の叶子のイメージが揺らぎつつあることに嘆息する。

 今まで長く見てきて定着したイメージでも、何かインパクトのある出来事が起こるだけでこうも簡単に揺らぐものなんだなぁ、と考えつつ、響は随分と遅くなった夕食――といってもお茶漬けプラス一品程度の軽食だが――の準備を始めた。

 準備をしようとして、ついさっき、スーパーで買い物をして総菜を買ったことを思い出す。

 ――やっちゃった。お金が無駄に……。

 放ってきた自転車の前籠に入れっぱなしだった。


 5


 翌日、朝。

 目を覚まし携帯電話の時刻表示を見ると、午前六時となっていた。朝食を作って、ゆっくり食べる時間の余裕がありそうだ。

 顔を洗い、取り込んでおいた洗濯物を畳んで箪笥(たんす)に入れ、制服に着替えて、台所に立つ。冷蔵庫に卵とウインナーがあったため、適当にスクランブルエッグとただウインナーをフライパンで焼いただけという恐ろしく手抜きな朝食を作った。自分で食べるんだからいいでしょ、と自分に言い訳をしつつ。

 ふと、響は自然に右手でフライパンを扱っていることに気付く。

 昨日柚奈にそこそこ酷い怪我を負わされたはずの右手だが、不思議と痛みがあまりない。夜、シャワーを浴びた後乾燥させた方がいいか、とそのまま床についた。

 そして今。皮が酷いことになっていた右の掌は、(ほとん)ど治癒していた。

 ――昔からそうだ。

 響は、物心ついた頃から怪我や病気の完治が周囲と比べて異常に早かった。周囲から騒がれることはたまにあったが、響自身は便利な体質だなぁ、と特に気にすることはなかった。そもそもここまで酷い怪我をしたのは初めてなのだ。

「ここまで早かったのかぁ……ま、別にいいか、困ることじゃないし」

 いいこといいこと、と特に気にせず時計を見る。久しぶりに時間が余りに余っていたので、テレビを点けて朝のニュース番組を見ることにした。

 芸能スキャンダルなど、正直一般人にとっては囃し立てる程度しかやることのないニュースを見ること数十分。そろそろ出るかな、と思いテレビを消し、鞄を持って家を出た。

 いつもの通り階段を下りている途中にふととある事実を思い出し、本物の冷や汗をかきながら呟いた。

「自転車……ないじゃん……!」

 昨夜、その辺の道端に放置したまま、逃げ帰った。

 自動帰還機能なんていう忠犬みたいな性能がこの時代の自転車ごときに搭載されているわけもない。響は、朝から全力ダッシュ登校を強いられるということに気付くと、即座に無言で走り出す。汗だくになるとしても、そんなこと知ったことではない。二日連続遅刻なんて、今まで遅刻というものをあまりしたことのなかった響にとって、耐え難い何かがある。

 表通りに出る。乗せていってもらおうと思ったが、こんな時に限って柚奈はいなかった。普段は待ち伏せでもしているのかというほどばっちりなタイミングで出現するのに。

 この役立たず――!

 我ながらすごく理不尽な文句言ってるな、と走りながら思いつつ、響は学校に向かって走り続けた。



 ――結果発表。

 普通に五分遅刻。

 以上。

「阪樫が二日連続で遅刻するなんて、珍しいな」

 担任が、出席簿の響の欄、今日の部分に遅刻を表すバツ印を書きながら言った。

「すみ、ま、せん……」

 息絶え絶え、額には浮かぶ汗に、乱れた髪。急いでいたと容易に判断できる状態で、響は教卓に腕を乗せて寄り掛かり息を整える。――相当きつい。こんな時に限って、信号に一回も引っかからないなんて一体何なのか。昨夜から何かが狂い始めている、と響はぜいぜい言いつつ考えた。

 信号で引っかかったら、なんとなく休憩していい気分になると思った。が、何故か駄目だった。神様というものがこの世に在るのなら、信号に(ことごと)く引っかからなかったのも多分そいつの仕業だろう。

 記入を終えた担任が出席簿を閉じる。もういいだろうと思って自分の席に行こうとすると、先生がついでに、という風に響に声をかけた。

「……そうだな。おい、阪樫。放課後職員室の俺のところに来い。場所は分かるな」

「え? あ、はい分かりました」

 やっぱり遅刻は拙かった、と後悔しつつ、席に着く。視界の隅でにやついている柚奈はほっといて、授業の準備をすることにした。



 放課後。言われていた通り職員室に行くと、

「阪樫、文理選択のプリント……まだ提出してないだろう」

 すっかり忘れていた重要事項についてばっさり切り込まれた。

 プリント自体は今週の月曜日に配布されていたが、明日書こう明日書こうと数日延ばし延ばしにしていたところ、この失態である。

 締め切りは明日だったような気もする。でもって、プリントをどこにやったか覚えていない。担任に言われ鞄の中を探してみるものの、プリントは見つからなかった。

「ないのか」

「……すいません」

「余りがあって良かったな。……うちのクラス、出してないの二人だけだ」

「……二人?」

 なんとなく、嫌な予感がした。その予感は多分当たるとも思った。

「お前と、君科だ」

「……つまり、明日が締め切りなので、僕に君科さんの家に届けて、暫定的なものでいいから書いてもらってこい、と?」

「ご明察」

 嫌な予感、予想通り、的中。いらない的中である。

 普段なら叶子の家に行くということは別に嫌でも何でもないし、どちらかといえばちょっと喜ばしいことだろうが、あんなことがあった後だと、妙に行き辛い。

「頼めるな? 阪樫も明日、忘れるなよ」

「……分かりました」

 担任の目つきは有無を言わせない光を湛えていた。仕方なく承諾し、職員室を後にする。自転車で叶子の家まで坂を上るのが面倒だなと考えてちょっと落ち込み、すぐに自転車がないことを思い出し、自分馬鹿だなと自己嫌悪してもう一回落ち込んだ。


 6


 学校から自宅に向かうほぼ一直線である普段の通学路、その途中にある大通りの六つ角を自宅に向かう道から少し逸れる形の道に入る。二つの道の位置関係は、漢字の『人』のような感じだ。

 その道に入って少し歩くと、閑静な住宅街に入る。閑静、という点では自宅周辺も同じことなのだが、道が一本違うだけでその景観は大きく変わっていた。

 響の自宅周辺には、主に商店やアパートなどが並んでいる。ごくごく一般的な一軒家が多く、放課後を満喫する小学生はそこらの公園で駆け回っているし、道端では主婦達が輪になって世間話を繰り広げている、平凡なベッドタウンだ。

 対して、この通りは違った。一見、同じ坂道に沿ったベッドタウンに見えるのだが、違う。塀だ、と思って辿るとそれだけで結構な長さになるような豪邸がそのベッドタウンを構成する。一軒一軒が豪邸と呼べる代物で、一本向こうの道の公園がすっぽり入ってしまいそうな面積を誇ることはざらだった。

 歩いていると、その家への来客らしい中年の女性に対してだろう、カメラつきのインターホンから『なんですので、お上がりください。お紅茶を御馳走しますよ。草津、紅茶の準備を――』と、お金持ち感丸出しな内容の女性の声が聞こえた。別世界だ。草津というのは恐らく、執事とかメイドとか、そのあたりなのだろう。

 響もこの通りに入るのは久しぶりのことだが、一本道が違うだけでここまで変わるものなのか、と今更ながら驚愕していた。そして、この通りの一つに軒を連ねている叶子の家の凄さを再確認する。

「……ん、っと、ここか」

 緩やかな上り坂を歩き始めて十分程度が経った頃。自分の記憶の中にある叶子の家――前ここに来たのはいつだったか覚えてないけど、来た覚えはある――と合致する豪邸が目に入ったので表札を見てみると、案の定当たりだった。

 幅三メートル、高さ四メートルと少しという何とも大きく厳かな、黒い塗装のなされた西洋風の鉄柵が出迎える。しかしその先には洋館とかいうわけでなく、普通の一軒家(大きさは別次元)と庭(右に同じ)があるというのが叶子の家らしい。門と中身のイメージの違いに少し肩を落としたような記憶がないでもない。

 君科、と漢字とローマ字表記のされた今風の表札。その隣に、例の如くカメラ付きインターホン。

 それを押そうと人差し指を突き出して、ふと考える。

 ――君科さん、家にいるのかな。

 ただ単純に在宅を意味してるかどうか、疑問かもしれない。けど、昨日響は見ているのだ。

 この十年見てきたその人と大きくかけ離れた印象を抱かせた――そっくりさんかと思ったが、あれは髪を下ろしただけで本人だろう――叶子を。

 何しろ、最近は通り魔がどうとかと騒がれており夜道は非常に危険だというのに、響はその中で、叶子が定規を両手で持って振り回し猛々しい声を上げている、という非常識なものを目にしている。

 気でも狂って、家出をしてしまっているのかもしれない。

 …………。

 それならなおさら、早くインターホンを押したほうがいいじゃないかという結論にすぐ至り、インターホンの前で止めていた手を前に出して、ボタンを押す。

 ぴんぽーん。という一般的な音が鳴ったと同時、もう一つの考えが脳裏を(よぎ)った。

 ――もし昨日見た光景が本物だとするなら、叶子は何かに襲われていたはず。……下手すると、ここにいる自分も危ないのではないか。

 その考えは脳裏を過るだけで、響に異様なほどの不安を刷り込んだ。危険人物は迫っていないか、周囲を見渡して警戒してしまう。……これでは自分が不審人物になってしまうではないか。昨日見たことはきっと幻だ……昨日、そう決めたはず。

 という風に自分の不審さを理解した時。

『はい』

 これまでの響の考えを吹き飛ばすかのように、これまで何度も聞いたことのある澄んだ声が、インターホンから聞こえた。

「えーっと、阪樫です。君科さん、提出期限が明日のプリントがあったから、持ってきたんだけど……」

『…………ぁ、……いやいや……さすがに……』

 ……あれ? 何この微妙な間。あと何かぼそぼそと聞こえたけど気のせい?

『今門を開けますね。門からまっすぐ行けば玄関に着くので、玄関前あたりで待ってて下さい』

 インターホンの向こうから次の言葉が届けられたと思うと、目の前の鉄柵が奥に向かってゆっくりと開き始めた。その間に、響は渡すべき文理選択のプリントを鞄から出した。

 それきりインターホンからは何も聞こえてくる様子はないようだったので、指示通りまっすぐ進むことにした。広い庭に敷かれた石畳を歩いて玄関に向かい、門からの距離が玄関までの距離よりも長くなったあたりで、

 ――視界の端にあったそれが、目につく。

「まさか……」

 これは。

 確かに今、響は『これ』を持っていない。

 そうではないはず、と目を瞑って軽く頭を振り再度それを視認する。

 ……全体はガンメタリックカラー。後輪の泥除けに緑色のシールがついている。そこに書かれている数桁の数字の羅列を見るに、これは間違いなく、


 見慣れた自分の自転車だった。


 ――なんで昨日乗り捨てたはずの自転車がここに?

 響はその理由を示すのに適切な仮説を生み出すことが容易であることを知っている。

 この自転車をどうするか――それは、発見者に委ねられる問題だ。その場で警察に連絡するなり、持ち主を知っていれば直接届けるなりすればよい。

 後者の理由は、もしその発見者が叶子だった場合適切だ。前に一度だけ響の家に来たことがある叶子は響の家の場所程度、覚えているだろう。その記憶に従って、自転車を届けにくれば良い。

 では、何故あの時間以降に、響が自転車を乗り捨てたあの場所に叶子がいたのか?

 その理由は――、


『あ  たは、阪   の者  、ね?』


 ――その理由に到達する直前……突如、視界が暗転した。

「……っ!?」

 それは響の思考に割り込むかのように。

 女性の声のような何かが、途切れ途切れに聞こえ――否、脳に直接響くと錯覚する。


『確認しま 、貴方は、阪が 家の者で 、ね?』


 その声はだんだんとはっきりし始め、響の脳のどこかを支配し始める。

 まるでその声を『聞かなければならない、絶対の一』と脳全体で認識しているかのようだった。全身が、自分のものでないと錯覚する。何もかも、動かない。はっきりしているのは――唯一、意識と思考だけ。

 だが、その声が言ったことは間違いではない。

 ――そう、だ。

 その声の主は、響の意思を汲み取ったのだろう、荘厳で神聖な、全てを慈しみ包括してしまうかのような声で、言葉を紡ぎ続ける。


『貴方は、〝神が与えた暇潰し(Divine’s Kill time-Struggle)〟の、参加者の、一人に……選ばれ、ました……』


 視界が暗転して響がまず思ったことは、何の事だか分からないということだった。そこに更に、意味の分からない単語が滔々(とうとう)と羅列されていく。

 しかしようやくはっきりと聞こえ始めたその声は、どこか弱々しくも聞こえた。

 異変を感じ取ったその時、視界に光が、やがて体の自由も戻り始める。どうやら、響は尻もちをついた状態であるらしかった。


『希望は、貴方に、託され、ま――――――』


 目の前にいたのは――淡い金色の光を優しく放ち長い髪を(なび)かせている、どうしようもなく神々しいという言葉がぴったりの、神話の挿絵に出てくるような、白い服を纏った女性だった。

 響は何の事か尋ねようとしたものの、その女性は微笑を響に投げかて、溶け込むようにして――宙にかき消えてしまった。

「……誰だったんだ……?」

 独り、広い庭の真ん中で茫然(ぼうぜん)自失(じしつ)と呟く。独り言の声量を少し超しているかもしれないが、当の響はそんなことに気が回っていない。


\『面白そうな話じゃねぇか――無駄に壮大でな』

 ――呟いた、その声は。

 ――裡にある何かは。

 ――誰にも気付かれず、泡沫と消えた。\


 目の前に、数瞬前の女性が分散したものである金色の残滓が凝集し、一枚のカードを創り出した。それを目にした響は、吸い込まれるようにしてそれを手にする。

「これは……?」

 片面には全裸の天使と二つの壺、もう片面は全体が焦げ茶色で、真ん中に〝ⅩⅣ〟という表記が金色でされてある。両面には、文字と同じ金色で縁取りがされている。

 それを眺めていると、前方から足音が聞こえた。

「あ、君科さん」

 駆けてくるのは、君科叶子。

 ……忘れていた。ここは、君科さんの家の庭じゃないか。

 響は持っていたプリントを落としていることに気付き、拾って少しだけついた砂を払い落してから、叶子に渡す。

「はい、これ。文理選択のプリント。明日が期限だから今日渡しに行って、明日もこれそうでなければとりあえず書いてもらってお前が持って来い――だってさ。人遣いが荒いよね」

「あ、どうもありがとうございます。……ところで、その右手のものを見せてもらえます?」

 右手の……? と疑問に思い、響は自分が持っているものを見てみると、そこにあったのはさっき拾った(?)カードだった。

 叶子は、そのカードをこっちにくれ、と言っているらしかった。若干響側に身を乗り出しているあたり、本気でこれを見せてもらいたがっているように見える。

「え? あ、ああ、はい。これ、何かあるの?」

「見れば分かりますよ」

 そう言ってカードを半ばふんだくるような形で響の手から奪った叶子は、真剣な表情でカードを観察している。

 すぐに叶子ははっとして、驚愕で大きな藤色の瞳を更に大きく開いた。

 何か重要な空気が漂い始めたような気がしたが故に、声を少し小さくし真剣に尋ねる。

「何か分かった……?」

 すると叶子は、澄んだ瞳でまっすぐに響を見据え、言い放った。


「……阪樫響、あんた――私に協力しなさい」


「……へ?」

 普段とはうって変わって、高圧的にも感じられるその口調に、響は素っ頓狂な声を上げてしばらく茫然としてしまった。


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