『離婚して7年後、再婚を報告したら元夫が「俺が捨てたゴミを誰が拾うんだ?」と言ってきた。新しい夫が名刺を差し出した瞬間、元夫は凍りついた』
『離婚して7年後、再婚を報告したら元夫が「俺が捨てたゴミを誰が拾うんだ?」と言ってきた。新しい夫が名刺を差し出した瞬間、元夫は凍りついた』
「お前さ、もういらないんだよ」
七年前、夫だった浩二は、リビングのソファへ離婚届を放った。用紙の端が、飲み残された缶ビールの底へ触れて色を変えた。澪は濡れた部分をティッシュで押さえ、先に署名してあった夫の名前を見た。
「家事くらいしかできない女を、七年も食わせてやったんだ。十分だろ」
浩二の背後には、澪が選んだ灰色のカーテンが掛かっていた。床に積まれた洗濯物も、食卓に残された焼き魚の皿も、明日の朝になれば澪が片づけるものとして放置されている。浩二は冷蔵庫から新しい缶を取り出し、指をかけた。
「俺が捨てたゴミを、誰が拾うんだろうな」
澪は言い返せなかった。離婚届へ署名し、自分の衣類と母の形見の裁縫箱だけを古い旅行鞄へ詰めた。玄関で靴を履くとき、冷えた床へついた左膝が細かく震えていた。
七年後、澪は団地の一室で、二人分の味噌汁を作っていた。豆腐を切る包丁の音が止まったとき、食卓に置いたスマートフォンが振動した。画面には、もう消したはずの名前が表示されている。
『再婚するって本当か』
共通の知人から聞いたのだろう。澪は鍋の火を弱め、濡れた指を布巾で拭いた。無視してもよかったが、浩二は以前から、年に一度ほど「まだ一人か」「後悔しているだろう」と短いメッセージを送ってきた。
『来月、入籍します。今後の連絡はご遠慮ください』
それで終わるはずだった。ところが一分もしないうちに着信があり、浩二は挨拶もなく笑った。
「誰が拾ってくれたんだ? 一度くらい見せろよ、その物好き」
澪は鍋の蓋を閉めた。味噌汁の湯気が指先を湿らせ、窓の外では団地の子供が自転車のベルを鳴らしている。隣にいた直樹が、切りかけの葱をまな板へ置いた。
「会わなくていいですよ」
「ううん。これで最後にする。私が言わなければ、あの人はまた連絡してくるから」
土曜日の午後、駅前のカフェは焙煎した豆と焼きたてのワッフルの匂いで満ちていた。澪が窓際の席へ着くと、浩二は腕時計を見せつけるように袖口を直した。七年前より腹回りは太くなっていたが、相手の値段を決めるように見る目つきは変わっていなかった。
「服はまともになったじゃないか。昔は俺が買ってやらないと、ろくな物を着なかったからな」
「自分で選べるようになりました」
「意地を張らなくていい。離婚した直後、弁当屋で働いていたんだって? ずいぶん落ちたものだな」
澪はコーヒーカップの取っ手へ指を通した。離婚後に借りた六畳一間では、隣室の目覚まし時計が毎朝五時に鳴った。弁当屋の厨房で指を切りながら働き、夜は通信講座の教材を開いた。三年かけて福祉住環境コーディネーターの資格を取り、今は高齢者や障害者の住宅改修を支援する相談員になっている。
最初に直樹と会ったのは、古い木造住宅の玄関だった。澪が車椅子用のスロープについて施工業者へ意見を伝えると、現場にいた直樹は図面を折り畳み、靴を脱いで床へ座った。
「計算上の勾配では上れます。でも、雨の日に介助する娘さんの足元まで考えると、こちらへ踊り場を作った方がいいですね」
直樹は澪の意見を途中で遮らなかった。会議で意見が割れたときも、声の大きい者へ合わせず、実際に暮らす人の手と足を見た。澪が体調を崩した日は「夕食は自分で用意できます」と言い、本当に買い物から洗い物まで済ませた。
「それで、再婚相手は何をしている男なんだ」
「住宅関係の仕事です」
「現場作業員か。まあ、お前にはそのくらいが合っているよ」
浩二は砂糖の袋を二つ破り、コーヒーへ入れた。白い粒がテーブルへこぼれたが、指で払っただけで床へ落とした。そのとき、店の扉についた鈴が鳴った。
「お待たせしました」
紺色のジャケットを着た直樹が、澪の隣へ座った。浩二は革靴から腕時計、上着の生地へ順に視線を動かし、鼻で笑った。直樹が澪の前へ、小さな紙袋を置く。
「駅前で栗まんじゅうを売っていました。帰ってから食べましょう」
「また二個だけ?」
「六個買うと、あなたは夕飯の前に三個食べますから」
「二個でも一個半は私のものよ」
澪が紙袋を椅子の脇へ置くと、浩二の口元が歪んだ。二人の会話に入れなかったことが気に入らないらしい。コーヒーカップを乱暴に受け皿へ戻し、直樹へ顎を向けた。
「あんたも変わってるな。俺が捨てたゴミを、わざわざ拾って結婚するんだから」
直樹はすぐには答えなかった。内ポケットから名刺入れを取り出し、一枚を両手で差し出した。浩二は片手で受け取り、印字された会社名を見た瞬間、背筋を伸ばした。
「東央ライフ住宅……代表取締役、榊直樹」
浩二の勤務する住宅設備会社は、東央ライフ住宅が計画する高齢者向け集合住宅への参入を目指していた。来週には最終選考があり、浩二自身が営業責任者として出席することになっている。彼は名刺と直樹の顔を交互に見た。
「さ、榊社長とは知らず、失礼を……。今のは昔からの冗談でして」
「私への失礼なら、謝罪は不要です」
直樹は名刺を持つ浩二の指先を見た。声は低くも大きくもなかった。店員が隣の席へ運んだシナモントーストの甘い香りが、三人の間へ流れてきた。
「ただ、家庭で弱い立場だった妻をゴミと呼ぶ方に、高齢者や障害者の暮らしを支える設備を任せられるかは、改めて検討します。御社が提出した手すりの強度不足と、浴室床材への苦情も含めて」
「待ってください。あれは下請けの施工ミスで、私には――」
「責任者が、立場の弱い者へ責任を押しつける。その点も、本日の記録へ加えます」
浩二の額に汗が浮かんだ。名刺をテーブルへ置こうとして受け皿へぶつけ、残っていたコーヒーが縁からこぼれる。澪は鞄からハンカチを出しかけたが、手を止めた。
「澪、君からも説明してくれ。俺たちは七年も夫婦だっただろう」
「そうですね。七年も一緒に暮らしました」
「だったら、このくらいの冗談で仕事を壊すのはおかしいと思うだろ?」
浩二は、七年前と同じ顔で澪を見ていた。食卓の皿も、床の洗濯物も、離婚後の自分の機嫌まで、最後には澪が片づけると信じている顔だった。澪は両手を膝へ置き、足の裏で床の固さを確かめた。
「あなたが捨てたのは、ゴミではありません。七年前、あなたを家族だと思っていた私です」
「だから、悪かったと言っているだろ」
「今の私は、あなたが捨てられる場所にはもういません。それに、私は直樹さんに拾われたのでもありません」
澪が隣を見ると、直樹は小さくうなずいた。
「私が、一緒に歩いてくださいとお願いしました」
直樹はそう言い、テーブルの名刺を名刺入れへ戻した。契約の選考は会社へ持ち帰り、品質記録と今日の発言を正式に審査するとだけ告げた。浩二が何度呼び止めても、二人は振り返らなかった。
帰宅すると、味噌汁の残りを温め、商店街で買ったコロッケを皿へ載せた。直樹が持ってきた栗まんじゅうは、宣言どおり澪が一個半食べた。窓際には、来月から玄関へ掛ける二人分の姓を記した表札が立てかけてある。
「本当に、私でいいの?」
澪が尋ねると、直樹は味噌汁の豆腐を箸ですくった。
「あなたは、ずっと価値のある人です」
「少し違うかな」
澪は表札を手に取り、指で木目をなぞった。七年前には言えなかった言葉が、今は温かい味噌汁の匂いの中へ自然に落ちた。
「私が、自分を選び直したの」
あの日、捨てられたのは澪ではない。浩二の見る目だった。




