「森の記憶が息をする場所」
地図から消された森の奥深くには、「慰め(SOLACE)」と呼ばれる場所があるという古い言い伝えがあった。
都会の喧騒と、終わりのない競争に疲れ果てていた写真家のレイは、祖母が遺した古い手記を頼りに、その森へと足を踏み入れた。手記には、「心が砕け散りそうになった時、苔と光が交わる場所を探しなさい」とだけ記されていた。
何時間歩いただろうか。湿った土と雨の匂いが濃くなり、鳥の声すら途絶えた静寂の中、レイはその場所に辿り着いた。
そこには、何百年、いや何千年もの時間をかけてびっしりと苔に覆われた、巨大な岩座があった。岩肌はまるで呼吸をしているかのように、深く、柔らかな緑色を湛えている。
レイは荷物を下ろし、冷たい岩に背中を預けて座り込んだ。今まで張り詰めていた糸が切れ、ため息とともに、抱えていた不安や後悔が溢れ出した。
「もう、疲れたよ」
誰もいない森に向かって呟いた、その時だった。
風が止まった。
そして、頭上の木々の隙間から差し込んでいた木漏れ日が、奇妙な動きを見せた。光の粒がまるで意思を持っているかのように、レイの目の前、苔むした岩の上空一点に集まり始めたのだ。
それは、音もなく現れた、黄金色の光の球体だった。
熱さはなく、ただ圧倒的に柔らかい光。それは、レイが子供の頃に感じた、陽だまりの温かさや、誰かに抱きしめられた時の安心感そのものだった。
光の球体はゆっくりと回転しながら、レイの心臓の鼓動と共鳴するように明滅した。その光を見つめているうちに、レイの心の中にあった焦燥感や、棘のような痛みが、ゆっくりと溶けていくのを感じた。言葉はなかった。ただ、森そのものが、長い時間をかけて蓄積してきた「穏やかな記憶」を、彼に分け与えてくれているようだった。
どれくらいの時間が経ったのか。気がつくと、光の球体は霧散し、いつもの静かな森に戻っていた。
しかし、レイの目に見える世界は変わっていた。苔の緑はより深く鮮やかに、木漏れ日はより優しく感じられた。岩に触れると、ひんやりとした湿り気が、乾いた心に染み渡った。
「ありがとう」
レイは誰に言うともなく呟き、カメラを構えた。シャッターを切る。ファインダー越しに見るその場所は、ただの風景ではなく、彼自身の再生の記録となった。
彼は知ったのだ。「慰め」とは、誰かから与えられる言葉ではなく、自分自身の内側にある静けさを、森の光が照らし出してくれる瞬間のことなのだと。




