第9話 冬の山、猪突猛進vs思考停止
戦国の世に舞い降りて、初めての冬がやってきた。
「……寒い。無理だ。死ぬ」
俺は、足軽長屋の隅で震えていた。
隙間風がビュービューと吹き込み、板の間の冷たさが骨の髄まで染みてくる。
ヒー〇テックもダウンジャケットもない。あるのは薄い着物と、筵だけだ。
どう考えても現代より寒い気がする。この隙間風だけが原因じゃねぇ。俺は陰謀論だと思ってたけど、やっぱ現代は地球温暖化で暖かくなってたのか。
「おーい、茂助様ー。薪が尽きやしたー」
部下の弥七が、鼻水を垂らしながら報告に来た。
絶望だ。
木下組の予算は底をついている。組頭の藤吉郎が、なけなしの給金を信長様への付け届けや、情報収集のための交際費に使ってしまうからだ。
おかげで俺たち現場の人間は、凍死寸前だ。
ガラッ!
戸が乱暴に開け放たれ、冷気と共にあの男が入ってきた。
「おい! いつまで丸まってやがる、この雪だるまども!」
木下藤吉郎。俺たちのブラック上司だ。彼も寒さで鼻を赤くしているが、その目はギラギラしている。
「てめえら、腹減ったろ? 肉、食いてえよな?」
「肉……ですか?」
「そうだ! 山へ行くぞ! 狩りだ!」
藤吉郎が叫んだ。
「城下の肉屋で買う金はねえ! だが、裏山に行けば『山鯨』が走り回ってらあ! 獲ってくりゃあ、食い放題、皮は売って金になる! 一石二鳥だ!」
山鯨。最初は何のことかわからなかったが猪のことだ。
貴重なタンパク源であり、脂の乗った猪肉は最高のご馳走だったようだけど、お偉いさんたちは食べないらしい。
なんか無駄な殺生は仏教的によろしくないらしい。
常時殺し合いしてるくせに何言ってんだコイツラ。
阿呆かと馬鹿かと。
飢えた足軽たちの目が、肉食獣のように輝いた。
「行きます! 俺、猪鍋食いたいです!」
「毛皮で掻巻を作りてえ!」
盛り上がる部下たち。
だが、俺は首を横に振った。
「嫌です。寒いです。ダウンとニットとマフラーがないなら動きません」
「だうん?にっと?マフラー なんだそりゃ。……いいから来い茂助! てめえのその図体は、獲物を運ぶのに丁度いいんだよ!」
結局、俺は無理やり引っ張り出された。
俺の戦国ライフは、いつだって強制労働だ。
***
清洲城の北西、雪の積もる山林。
俺たち木下組は、獲物を求めて雪の中を行軍していた。
俺の格好は、異様だった。
着物を五枚重ね着し、その上から藁で作った蓑を被り、さらに足元には藁を詰め込み、首にはボロ布をグルグル巻きにしている。
防御力重視というか、ただの「防寒お化け」だ。
丸すぎて、腕が上がらない。転んだら起き上がれない自信がある。
「……茂助様、その格好、動きにくくないんですか?」
「うるさい弥七。これは『重ね着』という高度な防寒術だ。空気の層を作ることで、体温を逃がさない」
「はあ……ミノムシにしか見えませんが」
部下たちは呆れているが、寒さで震えるよりマシだ。
俺は雪道を、ペンギンのようにヨチヨチと歩いた。
「静かにしろ! いるぞ!」
先頭の藤吉郎が手を挙げた。
全員が足を止める。
前方の藪が、ガサガサと揺れている。
黒い影。
鼻息の荒い音。
「ブフッ……ブフゥッ……」
現れたのは、巨大な猪だった。
でかい。
軽自動車くらいのサイズがあるんじゃないか?
鋭い牙が、冬の低い太陽を反射して光っている。あれは「山鯨」なんて可愛いもんじゃない。「山のダンプカー」だ。
「ひっ……」
俺は後ずさりした。
無理だ。あんなのと戦ったら死ぬ。
だが、血気盛んな部下たちは違った。
「肉だァァァ!!」
「囲め! 晩飯にするぞ!」
空腹という名の狂戦士と化した二十人が、槍を構えて殺到した。
猪が驚いて嘶く。
そして、包囲網の一番薄いところ――つまり、着膨れして動きの鈍い俺の方向へ、猛然と突っ込んできた。
「ブモオオオオオッ!!」
「うわああああ! こっち来んな!」
俺は悲鳴を上げた。
逃げなきゃ。横に避けるんだ。
脳の指令は完璧だった。だが、体は着膨れしたダルマ状態。
俺が右足を踏み出した瞬間、雪の下の凍った地面に足を取られた。
ツルッ。
「あ」
世界が回転した。
俺は盛大に仰向けにひっくり返った。
ドスン!
八〇キロの体重に、大量の着物の重さが加わり、俺は雪の上に巨大な障害物として横たわった。
そこに、全速力の猪が突っ込んできた。
猪からすれば、逃げ道に突然巨大な壁が出現したようなものだろう。
止まれない。
猪の前足が、俺の腹に躓いた。
ドガッ!
「ぐえっ!?」
俺の上に、百キロ近い肉塊が乗り上げてきた。
重い! 臭い! 獣臭い!
牙が目の前にある。噛まれる!
「や、やめろぉぉぉ!」
俺はパニックになり、猪の首に腕を回して、必死にしがみついた。
突き飛ばそうとしたのではない。
相撲の時と同じだ。密着して、牙を顔に近づけさせないための、決死の抱擁だ。
「ブギーッ! ブギーッ!」
猪が暴れる。
だが、俺も必死だ。火事場の馬鹿力で、太い首を締め上げる。
さらに、俺の体に乗っかった猪は、俺の厚着のせいで足場が安定せず、もがけばもがくほど、俺の腕の中に沈んでいく。
そして、俺の体重と、猪の突進エネルギーと、雪の斜面という悪条件が重なり。
俺たちは団子状態になって、斜面を転がり落ちた。
「うわあああああああ!」
ゴロゴロゴロゴロ……。
天と地が逆転し、雪まみれになりながら、俺は猪を離さなかった。
ドスン!!
最後に、太い木の幹に激突して止まった。
衝撃。
俺の背中が木に当たり、その反動で、俺の腕の中にいる猪の首に、強烈なGがかかった。
ボキッ。
猪の悲鳴が止まったり、俺の腕の中で、暴れていた肉塊が、急にぐったりと重くなる。
「……へ?」
俺は薄目を開けた。
目の前に、猪の顔がある。舌を出して、白目を剥いている。
死んでいる。
どうやら、転落の勢いと激突の衝撃で、首の骨が折れたらしい。
「も、茂助様ーっ!!」
崖の上から、弥七たちが滑り降りてきた。
「大丈夫ですか! ……って、うわあああ!」
彼らは絶句した。
そこにある光景は、こうだ。
巨大な猪を、仰向けの茂助が「締め技」で極め、そのまま木に叩きつけて絶命させている。
「す、すげえ……」
「突進してくる猪を、自ら寝転んで受け止め、その勢いを利用して首をへし折ったのか!?」
「なんて捨て身の荒技だ……『甲冑組討術』の応用か!?」
違います。
ただの雪道でのスリップ事故と、交通事故です。
俺は震える手で猪を押し退け、雪の上に這い出した。
全身が痛い。だが、厚着のおかげで怪我はない。
「……と、獲ったぞ」
俺は虚勢を張って呟いた。
そうしないと、足の震えがバレそうだったからだ。
ウオオオオオ!
雪山に歓声がこだました。
「さすが鬼の茂助!」
「猪殺しの茂助様だ!」
「今夜は猪鍋だー!」
藤吉郎が駆け寄ってきて、俺の頬をペチペチ叩いた。
「やりやがったな茂助! こいつは極上の獲物だ! 皮も高く売れるぞ!」
「……藤吉郎様、俺、もう帰っていいですか? 腰が抜けて立てません」
「ああ? 大物を仕留めて力が抜けたか。いいぞ、運んでやる!」
俺は部下たちに担がれて下山した。
後ろには、丸太に括り付けられた巨大な猪。
俺の伝説(誤解)に、また新たな1ページが加わってしまった。
「素手で猪を殺した男」。
そんな噂が広まったら、人間相手の喧嘩なんて生ぬるいと思われるじゃないか。ハードルが上がりすぎだ。
***
その夜。
足軽長屋は、湯気と熱気に包まれていた。
大鍋の中で、猪の肉と味噌がグツグツと煮えている。
藤吉郎がどこからか調達してきた酒も振る舞われた。
「美味い! 生き返る!」
「この脂身がたまらねえ!」
弥七たちが涙を流して食っている。
俺も椀を受け取った。
熱々の猪肉。
ハフハフと言いながら口に入れる。
……美味い。
臭みはあるが、その野性味が味噌と合わさって、冷え切った体に活力を注ぎ込んでくる。
現代のスーパーの肉とは違う、命の味がした。
「茂助様、どうぞ」
一番脂の乗った部位を、弥七がよそってくれた。
俺はそれを見つめた。
俺のドジと、こいつらの飢え。それが噛み合って、この温かい夜が生まれた。
「……まあ、悪くはないか」
俺は苦笑いして、汁を啜った。
外では雪が降っている。
厳しい冬はまだ続く。だが、とりあえず今夜だけは、凍えずに眠れそうだ。
こうして、戦国の冬は過ぎていった。
俺たちが腹一杯の猪鍋を食って寝ている間にも、歴史の歯車は回り続けている。
南の空。
今川義元が、春の上洛に向けて、着々と準備を進めていることを、俺たちはまだ知らない。
そして、春になれば、俺たちを待ち受けるのは「猪」よりも遥かに恐ろしい「戦争」という名の化け物だということも。
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