第57話:箕作城、地獄の照明係と兄の気遣い
佐和山城に着いたのが昨日の夕暮れ。疲労困憊で到着した俺たちを待っていたのは、休息でも飯でもなく、信長様の軍議だった。
陣幕の中。
地図を前に、信長様が口を開いた。
「六角の支城は多い。だが、一つずつ潰している暇はない」
短く、しかし全員を黙らせる声だった。
「我々が奉じているのは義昭公だ。公を京に入れるまでが、この戦の本当の目的。支城を丁寧に落としていけば、それだけで数か月かかる。その間に三好が動くかもしれん。畿内の情勢が変われば、どこが寝返るか分からん」
信長様の指が、地図の上をすっと動いた。
「六角の城網は、各地の国人衆が守っている。つまり、中心さえ潰せば末端は自然に崩れる。だから末端を削るより、頭を叩く方が早い」
指が止まった場所。そこには「箕作城」と書かれていた。
「観音寺城への入り口はここだ。箕作を速攻で落とす。それだけでいい」
俺はぼんやりと聞いていた。難しいことはよく分からないが、要するに「さっさとやれ」ということだろう。
その緊迫した空気の中だった。
「お館様! 箕作攻めの先陣、この藤吉郎めにお命じください!」
藤吉郎が、床に額を叩きつけるように土下座した。
陣幕の中が静まり返る。誰も口を開かない。
やがて、上座の気配がわずかに動いた。
「……猿」
「はっ!」
「先陣を欲するか」
「はっ。命を賭して、城門に取りつきまする」
わずかな間。息を呑む音すら消える。
「……であるか」
それだけだった。品定めも、激励もない。
だが藤吉郎は顔を上げた瞬間、目を爛々と光らせた。
俺は、その横顔をぽかんと見ていた。喜んでいる。本気で、嬉しそうにしている。
……こいつと俺は、同じ人間というカテゴリに属しているのだろうか。
陣幕を出た直後、藤吉郎が俺の肩を叩いた。
「茂助! 聞いたか! 先陣だぞ、先陣! 手柄の山を積めるぞ!」
「……藤吉郎様」
「なんだ」
「怖くないんですか」
俺は真顔で聞いた。藤吉郎は一瞬きょとんとして、それからニヤリと笑った。
「怖いに決まってんだろ。……だから、やるんだよ」
その言葉の意味が、俺にはさっぱり分からなかった。
分からないまま、俺は引きずられるように部隊の作戦会議の席に座らされた。
***
「夜襲を行う」
藤吉郎が地図を指でトントンと叩いた。
「正面から攻めれば、地の利は全て敵にある。昼間の攻城戦では、城壁の上から矢を射かけられ、手も足も出ん。……だが、夜ならば話は別だ」
「夜は敵の弓が使いにくくなる。城の守兵も少なく、眠気もある。士気は一気に下がる。短期決戦の好機です」
半兵衛が静かに補足する。
「我らが担当するのは北口だ」と藤吉郎が続けた。「東口は丹羽長秀殿の隊が受け持つ。両面から締め上げる」
俺はその説明を聞きながら、どんどん顔が青くなっていった。
夜。暗い。山道。
絶対に嫌だ。それに……。
俺は、少し離れた場所に座っている弟の氏光に目をやった。
「兄上! 先陣とは誉れ! この氏光、必ずや敵の将星を討ち取ってみせますぞ!」
氏光は、ひどく作り物めいた大きな声で笑い、槍を強く握りしめていた。
空元気だ。今日、初めて人を斬った弟の手は、まだ微かに震えている。暗闇は、人の心の奥底にある恐怖を呼び覚ます。真っ暗な山道で、またあの死体の幻影を見てパニックになったらどうなる? 俺には弟の表情が見えない。
「……あの」
俺は恐る恐る手を挙げた。
「暗いのって、なんとかなりませんか」
場が静まり返った。
「……は?」
「夜の山道って、足元も見えないじゃないですか。俺、暗いのが本当に苦手で……できれば明るくしてほしいんですけど」
藤吉郎が頭を抱えた。
「夜襲の意味が分かってるか!? 暗いから奇襲になるんだろうが!」
「でも、転んで死ぬかもしれないし……それに、暗いと部下の顔も見えないから不安なんです!」
「それが嫌なら根性で転ぶな!」
「いやそういう問題じゃなくて……松明とか、駄目ですか。全員に配って」
俺は半泣きで言った。
「松明ぅ? そんなもん持ったら敵に丸見えだろうが! お前らが狙い撃ちにされるぞ!!」
「じゃあもう、全員に持たせちゃえば……ええと、どうせ見えるなら、いっそ全部……」
俺がしどろもどろに言い訳を並べていると、それまで黙って聞いていた半兵衛が、すっと目を細めた。
「……少々よろしいですか」
半兵衛が静かに立ち上がった。
「全員に松明を持たせて山を登らせれば、夜の暗闇の中で松明の数がそのまま兵の数に見える。我らは二千五百でも、敵には数万の大軍に映る。……開戦前から敵の戦意を折る、虚報による心理戦です」
藤吉郎の目が見開かれた。
「さらに言えば、東口の丹羽殿の隊も同様にすれば、観音寺城からもこの火は見えます。六角の当主は、山の向こうで無数の松明が動くのを見ることになります」
「本城への威圧にも……!」
「ええ。血を流さずに城が折れる可能性があるということです」
藤吉郎が唸り声を上げた。
「……面白い! 長秀殿にも同じようにしてもらおう!」
場が一気に動き出した。
俺はそのやり取りを見ながら、ぽかんとしていた。
俺はただ、弟が心配だっただけなのだが。
***
深夜。俺は松明を手に、隊列の中ほどで山道を登っていた。
暗い。足元しか見えない。
俺のすぐ後ろを歩く氏光は、松明の灯りのおかげで顔色が見えた。やはり少し青白いが、それでも光があることで、彼は必死に前を向いて歩けているようだった。
前の兵の背中だけを頼りに歩いていたのだが、道が細くなったところで隊列が乱れ、俺は三太夫や氏光たちと共に、なんとなく脇道へ押し出された。
「こっちじゃねぇですか、若」と三太夫。
「いや、あっちでは」と勘兵衛。
松明を掲げて、それらしい道を選びながら歩いた。歩いた。歩いた。
ふと気づくと、周囲の喧騒が遠ざかっていた。
前を見ると、真っ暗な山道が続いている。
後ろを振り返ると、松明の灯りの海が、山の斜面に沿ってどこまでも続いている。
「……あれ」
「茂助様」と勘兵衛が静かに言った。「我々、先頭に出てしまったようです」
俺はしばらく前と後ろを交互に見た。引き返すには、二千五百人の流れを逆走しなければならない。
「……行くか」
こうして俺たちは、迷子になった結果、二千五百人の先頭で山道を登ることになった。
松明の火が、山肌を照らす。木々の影が揺れ、自分の影がゆらゆら踊る。
怖い。怖い。とにかく怖い。
「……若、俺たちが先頭ですぜぇ」
三太夫が、ニヤニヤ顔で囁いた。
「迷子になったからな」
俺が三太夫を気持ち悪がっていたところ、但馬が横にやってきた。
「……火の虫みたいでしょうな、上から見たら。私たちが先頭の虫」
「お前、冗談が言えるんだな。……黙ってのぼれ」
「はい」
俺は歯を食いしばって、ただひたすら足を動かした。
頂上が近づいてきた。城壁が見える。そこから、怯えた声が漏れ聞こえてくる。
「か……囲まれたぞ!」
「北と東から火が! 大軍だ! 織田本隊が自ら攻め寄せてきたのか!?」
「お頭、援軍の見込みはありますか!?」
「……観音寺は動かん。六角の本隊は来ない……」
城の上の声が、震えていた。
俺はその声を聞いて、ようやく少しだけ息をついた。怖いのは向こうも同じらしい。それだけは、なんとなく分かった。
***
夜が明けた。
箕作城の城門が開いた。守将・箕作城代の旗が、城壁から降ろされた。
城は、落ちた。
籠城もなく、全面戦もなく、城兵の血もほとんど流れないまま、降伏したのだ。
「やった! 箕作城、陥落だ!」
藤吉郎が、ガッツポーズで叫んだ。
「夜明け一番とは! これほどの速攻、信長様もお喜びだろう!」
兵たちも歓声を上げ、疲れ果てながらも喜びに沸いている。
氏光も「戦わずして勝つ……これが兄上の兵法」と、誰の血も流さずに済んだことに心底安堵した顔をしていた。
俺は、城門の前で膝に手をついたまま、息を整えていた。
全力で登り、一晩中松明を持ち続けた腕が、もう上がらない。
「茂助殿」
半兵衛が、静かに俺の隣に立った。
「見事でした。……松明の用兵、これほど鮮やかな形で実践されるとは思いませんでした」
「……いやいや、全部、半兵衛殿の策じゃないですか」
「わかっていたのでしょう? それに城兵が見たのは、暗闇に浮かぶ無数の火。精神的に追い詰め、血を流さずに降伏させる。見事な心理戦でした」
「いや本当に、暗いのが嫌だっただけで……」
「ふふ」
半兵衛が、小さく笑った。
「……城兵が逃げなくてよかった。その場合は追いかけないといけないんでね」
「はは」
半兵衛がまた笑った。何がそんなに面白いのか、俺には分からなかった。
陽が昇り始め、琵琶湖の方から朝の風が吹いてくる。
箕作城の石垣に、俺は背中を預けた。
遠くで、藤吉郎が信長様への使者と何か話していた。その顔は、疲れているのに、どこか満ち足りている。
俺にはやっぱり、あの男のことがよく分からない。
もう一度振り返ると、藤吉郎はもういない。本当に忙しい奴だ。
「……藤吉郎様、もう信長様のところへ行ったんですか」
「先ほど駆けていかれましたよ」
「じゃあ俺は……もう休んでいいですか」
「……ええ。よく働かれました」
目を閉じると、すぐに意識が落ちそうになった。
一日で城を落とした。
俺が望んだのは、ただ氏光が怯えないように、明るい状態で歩きたかっただけなのに。
まったく、意味が分からなかった。
意味は分からなかったけど、本当にそれで良かったとしみじみと思う。




