第50話 増える知行と家族、減りゆく自由
鉛色の空から、白いものがチラチラと舞い始めていた。初雪だ。
俺は、実家である岩倉の堀尾屋敷の門をくぐりながら、寒さと緊張で震えていた。
「……帰りてぇ」
来たばかりなのに、もう帰りたい。
岐阜の屋敷の、あのふかふかの枕が恋しい。
父・泰晴からの「至急戻れ」という手紙。その文面からは、文字通り殺気すら漂っていた。俺のニート生活がバレたのか、それとも何か粗相をしたのか。
どちらにせよ、ロクな話ではないことは確実だ。
「若! シャキッとしてくだせえ!」
背後で、護衛の三太夫が鼻息を荒くしている。彼らにしてみれば、主が出世したのだから鼻高々なのだ。
俺はため息をつきながら、玄関へと進んだ。
「……たのもー。吉晴だ。戻ったぞ」
俺が声を上げると、ドタドタと慌ただしい足音がして、一人の若者が飛び出してきた。
「兄上ッ!!」
弟の氏光だ。
以前会った時よりもさらに背が伸び、体つきも一回り大きくなっている。日焼けした精悍な顔立ちに、純粋すぎる輝きを宿した瞳。
まごうことなき、正統派の若武者だ。俺のような中身の腐った偽物とは出来が違う。
「兄上! お待ちしておりましたぞ!」
「……元気そうだな、氏光」
「はい! 兄上のご活躍、風の噂に聞いております! 美濃攻略の殊勲者……! 一族の誇りです!」
氏光が目をキラキラさせて俺の手を握る。
痛い。握力が強い。
この純粋な敬意が、俺の罪悪感をチクチクと刺激する。俺はただ、逃げ回って、サボって、運良く生き残っただけなんだよ。
「父上が奥でお待ちです。……さあ、早く!」
氏光に手を引かれ、俺は奥座敷へと連行された。
そこには、父・泰晴が座っていた。
厳格な父の背後には、床の間に飾られた先祖代々の鎧兜。そして、剃刀のように鋭い眼光。
俺は反射的にその場に平伏した。
「……戻りました」
「うむ」
泰晴の低い声が響く。
横には母上も控えていたが、彼女は俯いたまま、俺と目を合わせようとしなかった。まだ、俺という存在を、まだ受け入れきれていないのだ。
「面を上げよ、吉晴」
泰晴が言った。
俺は恐る恐る顔を上げた。怒られるのか? 「金を使わずに貯めろ」とか言われるのか?
「呼び戻したのは他でもない。……お前に、二つほど申し渡すことがある」
申し渡す。
相談ではない。決定事項の通達だ。俺の胃がキリリと痛んだ。
「一つ目だ。……氏光」
泰晴が顎でしゃくると、隣に控えていた氏光が、バッと前に進み出て平伏した。
「はっ!」
「本日より、氏光をお前の『配下』とする。……岐阜へ連れて行け」
……は?
俺は目を白黒させた。
配下? 連れて行け?
「ち、ちょっと待ってください父上! 氏光はまだ若いです! それに、家の跡取りはどうするんですか!?」
俺は慌てて反論した。
氏光は十六歳。元服は済んでいるが、実戦経験はない。そんな未熟な若者を、あんな修羅場に連れて行くなんて危険すぎる。
それに、俺は信長様の家臣みたいなものだから、岩倉の堀尾家を継ぐのは氏光になるんじゃないのか?
俺は岐阜に屋敷があるし、彼がいなくなったら、この家はどうなるんだ。
「家督のことは案ずるな。わしはまだ死なん」
泰晴は鼻で笑った。
「それに、お前が知行を得た今、堀尾家の主軸はお前だ。……氏光を岩倉で燻らせておくわけにはいかん」
泰晴の目が、真剣味を帯びた。
「これからの織田家は、実力主義だ。戦場で槍を振るい、手柄を立てねば生き残れん。……氏光にも、早いうちに『本物の戦』を経験させる必要がある」
「ですが……!」
それはそうかもしれないが、弟を戦場に連れて行く責任の重さは別問題だ。もし俺のミスで氏光が死んだら、母上になんて詫びればいいんだ。
「兄上! お願いします!」
氏光が、床に額を擦り付けて叫んだ。
「僕は、兄上の背中を追いたいのです! 兄上の下で戦い、堀尾の武名を天下に轟かせたいのです! ……どうか、この通り!」
氏光が顔を上げる。その目には、一点の曇りもない決意が宿っていた。
ああ、ダメだ。
この目は、止めても聞かない奴の目だ。前田犬千代と同じ、一種の狂気を孕んだ武士の目だ。
ここで断れば、彼は勝手に出奔して、もっと危険な戦場に飛び込んでしまうかもしれない。それよりは、俺の目の届く範囲に置いて、全力で守る方が安全か。
「……分かったよ」
俺は溜息交じりに承諾した。
「ただし、俺の命令は絶対だぞ。……『前に出ろ』と言うまでは、決して前に出るな。いいな?」
「はいッ!! ありがとうございます兄上!!」
氏光が弾けるような笑顔を見せる。
俺は天を仰いだ。
荷物が増えた。しかも、絶対に壊してはいけない、とびきり高価で壊れやすい荷物だ。
俺の「スローライフ」は、弟の教育係という激務によって、さらに遠のいてしまった。
「……よろしい」
泰晴が満足げに頷いた。
だが、話はこれで終わりではなかった。
「では、二つ目だ」
泰晴の声色が、一段低くなった。
空気が変わる。
「津田家との縁談の件だ」
ギクリとした。
そうだ。あの話があった。
織田家の親族、津田盛月殿の娘。薙刀の達人で、気性が激しいと噂の美女、桔梗殿。
「……はあ。その節は承知いたしましたが」
「うむ。……先方より、日取りの連絡があった」
泰晴は、懐から一通の、やけに豪華な和紙を取り出した。
梅の香りがする。
「輿入れは、十日後だ」
「……は?」
俺の思考が停止した。
十日後?
来月とか、来年の春とかじゃなくて?
「と、十日後ですか!? 急すぎませんか!?」
「急ではない。話が出てから半年も経っておる。……先方も、お前が美濃攻略を終えて落ち着くのを待っておられたのだ」
泰晴は淡々と言った。
「それに、津田家はお館様に近い。お館様からも『早う身を固めさせよ』との仰せがあったらしいぞ」
「信長様が……?」
終わった。
あの魔王が絡んでいるなら、拒否権どころか延期権すらない。
俺は顔面蒼白になった。
心の準備も、部屋の片付けもできていない。
何より、あの鬼嫁を受け入れる覚悟ができていない。
(……あの人、怖いんだよなぁ)
脳裏に蘇る、鋭い眼光と薙刀の風切り音。
『誰じゃ!』と一喝された時の恐怖。
確かに美人だが、俺のようなヘタレが御しきれる相手ではない。毎日が命がけの夫婦生活になる未来しか見えない。
「……あちらは、乗り気なのですか?」
「大層乗り気だそうだ。『あの剛力無双の男ならば、我が夫として不足なし』と仰っておられるとか」
誤解だ。
ただの火事場の馬鹿力だ。
俺は頭を抱えた。
向こうは俺を豪傑だと思っている。結婚初夜に「手合わせ願う!」とか言われたらどうすればいいんだ。寝技に持ち込む前に絞め落とされるぞ。
「……おめでとうございます、兄上!」
氏光が無邪気に祝福してくる。
「津田家の姫君といえば、評判の美貌。……兄上の武勇に惹かれたのですね! まさに英雄色を好む、お似合いの夫婦です!」
「……お前、後で体育館裏に呼び出すからな」
俺は氏光を睨みつけたが、弟はニコニコしている。悪気がないのが一番タチが悪い。
「吉晴」
泰晴が、俺を真っ直ぐに見た。
「これは、単なる婚姻ではない。……堀尾家が、織田家中で確固たる地位を築くための礎だ。……津田家との縁を結ぶことで、我らは『外様』から『親族衆に連なる者』へと格上げされる」
父上の言葉は重かった。
個人の好き嫌いではない。家の存続がかかっているのだ。
俺がここで「怖いから嫌だ」と言えば、堀尾家は見捨てられ、氏光や家臣たちも路頭に迷うことになる。
「……分かっています」
俺は腹を括った。
逃げられないなら、受け入れるしかない。
それが、この時代で生きるということだ。
「謹んで、お受けいたします。……岐阜の屋敷にて、お迎えする準備を整えます」
俺が頭を下げると、泰晴はようやく表情を緩めた。
そして、横に控えていた母上を見た。
「……いと。何か言うことはないか」
母上が、ゆっくりと顔を上げた。
その目は赤くなっていたが、以前のような拒絶の色は薄れていた。
「……吉晴殿」
「はい」
「……あの方は、強い方です。ですが、女です。……どうか、武人としてではなく、妻として……大切にしてあげてください」
それは、母としての言葉だった。
死んだ息子の代わりを演じる俺への、せめてもの願い。
俺は、胸が詰まる思いがした。
「……はい。約束します」
俺は誓った。
愛せるかどうかは分からない。殺されるかもしれない。
だけど、この母上を安心させるためにも、そして俺自身の平穏な老後のためにも、あの「鬼嫁」と上手くやっていく努力はしよう。
***
翌朝。
岩倉の空は晴れ渡っていた。雪は止んでいる。
俺は、愛馬の「軽トラ」に跨り、岐阜への帰路についた。
行きとは違い、帰り道は賑やかだった。
「兄上! あれが岐阜城ですか!?」
「まだ見えねえよ。山ふたつ向こうだ」
「早く着かないでしょうか! 僕の槍捌き、早くお見せしたいです!」
新しく配下に加わった弟・氏光が、子犬のように跳ね回っている。
その後ろには、但馬が「氏光殿、落ち着いてくだされ」と苦労人の顔でついていく。
三太夫と勘兵衛は、「これで人手が増える」と安堵の表情だ。
俺は、手綱を握りながら溜息をついた。
荷物が増えた。
守るべき弟。
そして、十日後にやってくる嫁。
俺の背中には、五百石の米俵よりも重い責任がのしかかっている。
(……スローライフ、遠のいたなぁ)
俺は遠い目をした。
岐阜に帰れば、まずは屋敷の大掃除だ。それから祝言の準備、氏光の部屋割り、近所への挨拶……。
考えるだけでめまいがする。
だが、不思議と悪い気分ではなかった。
一人でカップ麺を啜っていた現代の孤独な夜に比べれば、この騒がしくて面倒くさい家族との道中も、悪くはないのかもしれない。
「……おい、氏光」
「はい!」
「岐阜に着いたら、まずは掃除だぞ。俺の部屋……聖域には絶対に入るなよ」
「はい! 任せてください! 床板が削れるまで磨きます!」
元気すぎる弟の声が、冬の空に吸い込まれていく。
十日後には、最強の嫁、桔梗が襲来する。
俺は、懐の胃薬をかじりながら、覚悟を決めて馬を進めた。




