第49話 念願のニート生活、実家からの赤紙召集
岐阜城。織田信長が発した「天下布武」の号令により、城下町はかつてない活気に沸き立っていた。楽市楽座によって商人が行き交い、槌音が響き、新しい時代の胎動が聞こえてくる。
だが、そんな世間の喧騒とは無縁の静寂が、城下の一角にある武家屋敷の中にだけは流れていた。
俺は、稲葉山城攻めの功績で拝領した立派な屋敷の奥座敷で、煎餅布団にくるまり、惰眠を貪っていた。
「……ふわぁ。……極楽だ」
俺は欠伸を噛み殺し、ゴロンと寝返りを打った。
二五〇貫の知行。それに加えて、お館様から貰ったこの屋敷。
南向きで日当たり良好、井戸あり、蔵あり。元はどこかの豪族が住んでいた物件らしく、リフォーム要らずの快適空間だ。
美濃国内の安定のため、しばらく戦はないらしい。藤吉郎からの呼び出しもない。半兵衛も「しばらくはゆっくりなさい」と言ってくれた。
つまり、俺は今、戦国時代に来て初めて、完全なるニート生活を満喫していたのだ。
障子の向こうから、冬の冷たい風の音と共に、呆れ果てた声が聞こえてきた。
「……吉晴殿。いい加減に起きてください。もう昼ですよ」
従兄弟であり、副将の但馬だ。
障子がピシッと開けられ、容赦ない冬の日差しが俺の網膜を焼く。
「眩しいっ! 閉めろ但馬! 俺は今、瞑想してるんだ!」
「いびきをかいて瞑想する者がどこにおりますか。……武士たるもの、早朝から鍛錬に励み、書物を読み、己を高めるべきではありませんか?」
但馬が仁王立ちで説教を垂れる。
真面目な彼にとって、主君が一日中ゴロゴロしながら、天井の木目を数えている姿は耐え難いものなのだろう。だが、俺にだって言い分はある。
「うるさいなあ。……俺は今、英気を養ってるんだよ」
「英気、ですか?」
「そうだ。いいか? 現代……いや、南蛮医学学ではな、人間は休む時こそ全力で休まないと、いざという時に力が出ないと言われているんだ。これは最新の『兵法』だぞ」
「……毎日が休養日ではありませんか。この一ヶ月、吉晴殿が刀を抜いたところを見たことがありません」
但馬が深いため息をつく。
俺は布団を頭まで被り直した。刀なんて抜きたくない。重いし危ないし、手入れが面倒くさい。
そこへ、ドタドタと慌ただしい足音が廊下を近づいてきた。
この足音は、事務担当の勘兵衛だ。また金の話か。
「茂助様! またですか! また無駄遣いをなさいましたな!」
勘兵衛が襖を勢いよく開け放った。その手には、震える手で握りしめられた帳簿と請求書がある。
「今朝、呉服屋から請求書が届きましたぞ! 『最高級綿入りの特注の半纏』に、『南蛮渡来の毛織物』……! さらには『特注の蕎麦殻枕』だと!? こんなもの、戦に何の役にも立ちません!」
「戦のためじゃないよ。生きるためだ」
俺は、高さ調整済みの新しい枕を愛おしそうに撫でた。
「寒いんだよ、この時代の冬は。風邪引いたらどうすんだ。この時代、抗生物質もないんだぞ。肺炎になったら即死だ。医療費と葬式代を考えれば、暖かい布団を買う方がよっぽど安上がりだろ?」
「若は猪を素手で絞め殺すほど健康そのものでしょうが! ……ああ、もう。二五〇貫の収入があるからといって、これでは貯蓄などできませんぞ!」
勘兵衛がカリカリと頭を掻きむしる。
俺は耳を塞いだ。
二五〇貫。現代の貨幣価値に換算すれば、どれくらいの年収かはわからない。三太夫、但馬、勘兵衛と馬一頭を養っても、十分にお釣りが来る。借金だって完済したので、決して低いものではない。
だから俺は、余った金で快適グッズを買い漁っていたのだ。
肌触りのいい寝間着、煙の少ない高級炭、そして座り心地の良い座布団。
戦国の世で生き残るためではない。この屋敷から一歩も出ずに、快適に引きこもり続けるための投資だ。
「……平和だなぁ」
俺は二人の小言をBGMに、再びまどろみへと落ちていこうとした。
このまま一生、ここで暮らしたい。
戦場なんて行きたくない。出世もしたくない。泥水もすすりたくない。
ただ、美味いものを食って、温かい布団で寝て、たまに半兵衛さんと釣り糸を垂れる。そんな老後みたいな生活を送りたい。
だが、俺のささやかな楽園は、一人の来訪者によって無慈悲に打ち砕かれた。
「……ご免!」
玄関の方から、野太く、切羽詰まった声が響いた。
庭で素振りをしていた護衛の三太夫が対応に出る声が聞こえる。
「誰だ! 若は今、精神統一の最中だぞ! 用があるなら手土産だけ置いて帰んな!」
「岩倉の堀尾屋敷より参った! 泰晴様より、茂助様へ急ぎの文にございます! 至急、お渡しせねばなりません!」
岩倉。
親父殿から?
俺は布団からガバッと跳ね起きた。
嫌な予感がする。背筋に冷たいものが走る。
親父からの手紙なんて、ロクなことが書いてあった試しがない。「金を送れ」か「もっと出世しろ」か、そのどちらかだ。あるいは、俺の悪評を聞きつけて説教しに来るのか。
しかし、至急ってのが気になる。
「……通せ」
俺は寝間着の上に羽織を引っ掛け、使者の待つ縁側へと出た。
使者は、冬だと言うのに、汗だくになりながら一通の書状を差し出した。ここまで走ってきたのだろうか。
「父上からか。……何事だ? 誰か死んだのか?」
俺は恐る恐る封を切った。
中には、親父の厳格な筆跡で、短く、しかし力強い文字が記されていた。
『至急、岩倉へ戻れ。話がある』
たった一行。
理由は書いていない。
「……話って、なんだ?」
俺は首を傾げた。
金の無心か? いや、毎月仕送りはしているし、借金も返したはずだ。
近況報告か? そんな筆まめな親父じゃない。
まさか、俺の「ニート生活」がバレて、根性を叩き直すために呼び出されたのか?
「……但馬。どう思う?」
「分かりませぬが……泰晴様がこれほど急ぎで呼び出されるとは、ただ事ではありません。一族に関わる重大事、あるいは内密な命が下ったか……」
但馬が神妙な顔をする。
重大事。
その響きに、俺の胃がキリリと痛んだ。
せっかく手に入れた安息の日々。それを脅かす何かが、岩倉で待ち受けている気がする。
「……行きたくねぇなぁ」
俺は本音を漏らした。
この布団から出たくない。火鉢の前から動きたくない。岩倉まで半日かけて移動するなんて、考えただけで足が痛くなる。
だが、無視すればどうなるか分からない。あの親父は、本気で岐阜まで乗り込んでくるかもしれない。そうなれば、俺のニート生活は物理的に破壊される。
「……仕方ない。行くか」
俺は重い腰を上げた。
勘兵衛が、素早く旅支度を始める。
三太夫が、嬉々として槍を磨き始める。
「若! 久しぶりの遠出ですね! 道中で山賊でも出ませんかねぇ!」
「……ただの里帰りだ。はしゃぐな」
俺は深い深い溜息をつき、愛馬「軽トラ」の待つ厩へと向かった。
岐阜から岩倉へ。
片道半日の道のりだが、俺の足取りは、処刑台に向かう罪人のように重かった。




