第46話 裏切りの案内人、瓢箪と涙の味
美濃の夜は、吸い込まれそうなほど暗かった。
俺は、稲葉山城の裏手、そびえ立つ断崖絶壁の中腹で、己の運命と重力を呪っていた。
「……ぐ、ぅぅ……!」
爪が剥がれそうだ。
数日前、遭難した時は死に物狂いという火事場の馬鹿力だけで登りきった。だが今回は違う。
重い具足を身に着け、腰には刀。そして背後には、完全武装した精鋭たちが、無言の圧力で俺の尻を押し上げている。
(なんで……なんで俺、またここ登ってんだよぉ……)
俺は泣きたかった。
三日前、俺はこの崖の上で、親切な斎藤軍の兵士たちに助けられた。水を恵んでもらい、栗を分けてもらい、ブラックな職場環境への愚痴を語り合った。
彼らはいい奴らだった。
それなのに。
俺は今、彼らの寝首をかくためのガイドとして、殺気立った集団を引き連れて戻ってきているのだ。これ以上の裏切り行為があるだろうか。
「……茂助。足が止まっているぞ」
すぐ下から、押し殺したような低い声がした。
木下藤吉郎だ。彼は俺の帯を掴み、グイグイと押してくる。
「急げ。夜明けまでに『水の手』を奪わねば、作戦は失敗だ」
「分かってますよ……! でも、ここ足場が悪いんですって……!」
俺は小声で反論しつつ、岩の出っ張りに足をかけた。ズルッ。苔で滑る。
ヒィッ!と声が出そうになるのを噛み殺す。落ちたら死ぬ。物理的にも、社会的にも。
さらに後ろには、竹中半兵衛がいるはずだ。あの天才軍師は、涼しい顔で「貴殿ならできます」とか言っていたが、実際に登っている最中のプレッシャーは半端じゃない。
俺たちは、ムカデのように連なって、闇の中の岩壁を這い上がっていった。
***
一時間後。あるいはもっと長く感じただろうか。
俺の手が、ついに崖の上の縁を掴んだ。
(……着いた)
俺は這うようにして体を持ち上げ、草むらに転がり込んだ。
心臓が破裂しそうだ。肺がゼーゼーと音を立てている。だが、休んでいる暇はない。
目の前には、見覚えのある粗末な小屋と、古びた井戸があった。
そして、微かな焚き火の明かり。
「……おい、火が消えそうだぞ」
「薪を足せ。……ああ、冷えるな」
聞こえてきた。
あの声だ。三日前、俺に「苦労するな」と言ってくれた、リーダー格の兵士の声だ。
彼らはまだ、そこにいた。
何も知らず、誰も来るはずがないと信じ切って、のんびりと夜番をしている。
俺の隣に、藤吉郎が音もなく這い上がってきた。続いて、抜刀した精鋭たちが次々と姿を現す。
藤吉郎の目が、獣のように光った。獲物を見つけた目だ。
「……数は三人。やるぞ」
藤吉郎が合図を送ろうとした。
俺は、とっさに藤吉郎の腕を掴んだ。
「待ってください!」
小声で叫ぶ。藤吉郎がギロリと俺を睨む。
「なんだ。情が移ったか?」
「違います! ……あそこで騒ぎになったら、敵に気づかれるかもしれません! 奇襲になりません!」
「……む」
「俺に行かせてください。……俺なら、彼らを油断させられます。その隙に、音もなく制圧しましょう」
これは俺なりの、精一杯の「悪あがき」だった。
このままだと彼らは死ぬ。
だが、俺が近づいて話をすれば? 降伏を勧める時間があるかもしれない。「逃げろ」と合図できるかもしれない。
甘い考えだとは分かっている。だが、水とあの栗の味を忘れることができないんだ。
「……よかろう。失敗したら……わかってるな」
藤吉郎が渋々承諾した。
俺は深呼吸をして、草むらから立ち上がった。泥だらけの着物。ボロボロの姿。三日前と同じ遭難者の格好だ。その上から藁を被り、刀や具足を隠した。
俺は、震える足で焚き火の方へ歩み寄った。
「……あ、あのぉ……」
俺が声をかけると、焚き火を囲んでいた三人が、ビクリとして振り返った。
槍を構えようとするが、俺の顔を見て動きが止まる。
「……あん? お前、この前の?」
「遭難してた奴か!?」
覚えていてくれた。リーダー格の男が、呆れたように笑って槍を下げた。
「なんだよ、また迷ったのか? どんだけ方向音痴なんだ、お前は」
「懲りねえ奴だなあ。ここには近寄るなって言ったろ?」
彼らは警戒していない。
当然だ。こんな断崖絶壁を、まさか敵軍の先導役として登ってくるとは夢にも思わないだろう。
彼らの優しさが、俺の胸をえぐる。
俺は、背中に隠した手で、後ろの藤吉郎たちに「待て」の合図を送った。
「……すいません。また来ちゃいました」
「馬鹿だなあ。ほら、こっち来て温まれよ」
男が手招きをする。
俺は一歩近づいた。距離はあと数メートル。
ここで言うんだ。「逃げてください」と。「後ろに織田軍がいます」と。
「あの、実は……」
俺が口を開きかけた、その時だった。
焚き火の爆ぜる音と共に、俺の腰のあたりで「カチャリ」と音がした。
隠していた刀の鍔が、具足に当たった音だ。
「……ん?」
リーダー格の男の視線が、俺の腰元、隠しきれなかった刀と具足に吸い寄せられた。
空気が凍りついた。
男の目から、親愛の情が消え、戦慄と理解の色が浮かび上がる。
「……お前、それは……」
「鎧……? 刀か……?」
バレた。
ただの遭難者じゃない。武装した兵士だと。
男が、弾かれたように槍を構え直した。
「てめえ! 織田の間者かッ!!」
男の叫び声が響いた。
もう、説得の余地はない。
俺は反射的に叫んだ。
「逃げてくれぇぇぇ!!」
それは、警告だった。戦う気はない。ただ逃げてほしい一心での絶叫だった。
だが、その叫びは、後ろに控えていた藤吉郎たちには攻撃の合図として聞こえた。
「かかれぇぇぇッ!!」
藤吉郎の号令と共に、闇の中から数十人の織田兵が飛び出した。
怒涛の殺気。
焚き火を囲んでいた三人は、恐怖に目を見開き、パニックに陥った。
「うわあああ! 敵だ! 敵襲ゥ!!」
「裏切りやがったな! この恩知らずがァ!!」
リーダーの男が、憎悪に満ちた目で俺を睨み、槍を突き出してきた。
当然だ。優しくしてやった相手に、手引きされて殺されるのだ。
切っ先が迫る。
だが、それよりも早く、背後の闇から藤吉郎の部下たちが弓を引き絞る音がした。
射殺される。
「……ダメだッ!」
俺は咄嗟に動いた。
斬らせない。射させない。俺が先に確保してしまえば、殺されずに済むかもしれない。
俺は槍を突き出してきたリーダー格の男に、正面から飛びかかった。
「動くなァァァ!」
俺は彼を押し倒し、覆いかぶさった。
タックル。俺の肉体で彼を隠し、味方の矢や凶刃から守ろうとしたのだ。
ドスッ!!
鈍い音がした。
俺の背中に、味方の放った矢が突き刺さった。
だが、具足のおかげで、皮膚までは届かない。いや、少し刺さったかもしれない。
「ぐぇっ!?」
俺の下敷きになった男が、空気が抜けるような音を出した。
俺の体重と装備重量のプレスだ。男は抵抗する間もなく、白目を剥いて気絶した。
「抵抗するな! 伏せろォォ!!」
俺は残りの二人に向かっても叫んだ。
その形相は、「鬼」そのものだっただろう。
あまりの迫力に、残りの二人も腰を抜かし、その場にへたり込んだ。
「ひぃっ! 助けてくれぇぇ!」
「こ、降参だ! 命だけは!」
そこへ藤吉郎たちが雪崩れ込み、戦意を喪失した二人を瞬く間に取り押さえ、縛り上げた。
「……制圧完了!」
藤吉郎が叫んだ。
一瞬だった。難所「水の手」は織田軍の手に落ちた。
俺は、気絶した男の上で、ぜぇぜぇと息をしていた。背中がズキズキと痛む。
「……茂助。無茶をしやがる」
藤吉郎が、俺の背中に刺さった矢を引き抜きながら呆れたように言った。
「味方の射線に入るとはな。……だが、おかげで無傷で捕らえられた。貴重な『案内役』として使えるぞ。それに運よく敵にはバレなかったようだ」
俺は、気絶した男の顔を見た。
生きている。呼吸している。
俺は安堵で力が抜け、その場にへたり込んだ。
「……よかった……」
俺は懐を探った。
一粒だけ残っていた、数日前に彼らがくれた焼き栗。
俺はそれを握りしめた。
裏切ったことには変わりない。彼らは捕虜となり、厳しい尋問を受けるだろう。
だが、命だけは繋がった。
「よし! 水の手は奪った! 合図だ!」
藤吉郎が、腰にぶら下げていた水筒代わりの「瓢箪」を取り出した。
そして、その瓢箪を槍の先に固く結びつけた。
「これを掲げろ! 本隊への合図だ!」
藤吉郎が高々と瓢箪を突き上げる。
松明の光に照らされ、ゆらゆらと揺れる瓢箪。その影が、断崖の上の夜空に大きく浮かび上がる。
「見ろ茂助! これが俺の『馬印』だ!」
藤吉郎が、狂気じみた笑みを浮かべて叫んだ。
「何もない農民だった俺が、天下に名を轟かす第一歩だ! この瓢箪、城を一つ落とすたびに、一つずつ増やしてやる! やがて千成となるまでな!」
千成瓢箪。
俺は、縛られて転がされている三人の兵士たちを見ないようにして、暗い井戸の底を覗き込んだ。
自分の顔が映っているような気がした。
泥まみれで、情けない顔が。
城の陥落は、時間の問題だ。
だが、俺の心は晴れなかった。
「鬼の茂助」。
その名は、俺の意志とは関係なく、敵を瞬時に制圧する武人として、さらに広まっていく。
(……帰りてえなぁ)
俺は心の中で泣いた。
山頂の本丸から、敵襲を知らせる鐘の音が、狂ったように鳴り響き始めた。




