第33話 泥沼の森部、ブラック職場と死の突撃
木曽川の支流が入り組む湿地帯。美濃国、森部。
足元は最悪だった。連日の雨でぬかるんだ地面は、底なし沼のように俺たちの足を掴んで離さない。
「……はぁ、はぁ。死ぬ。歩くだけで死ぬ」
俺は、泥水に膝まで浸かりながら、ぜえぜえと息を切らしていた。
周りを見渡すと、前田犬千代を先頭に、俺の家臣団と、犬千代の従者・長八が続いている。全員、泥まみれだ。
ふと、隣を歩いていた従兄弟の但馬が、不思議そうな顔で俺に尋ねた。
「そういえば吉晴殿。……愛馬の『軽トラ』でしたっけ? どうなされたのですか? このような行軍こそ、馬の力が必要では?」
俺はニヤリと笑った。この質問を待っていた。俺は足を止め、遠くの空を見上げるようなポーズをとった。
「……軽トラは、俺が置いてきた。この戦いにはついていけない」
俺は内心でガッツポーズをした。いつか言いたかったセリフトップ5に入るこの台詞!
実際には、こんな泥道であんな言うこと聞かない駄馬に乗ったら、矢の雨に撃ち抜かれる最悪のシミュレーション結果であったため、厩に放置してきただけだが、言い方ひとつでハードボイルドな雰囲気になる。
「……はぁ。さようで」
但馬は、気の抜けた返事をした。
「おい茂助! 敵はもう目の前だぞ! 柴田様と森様の部隊に遅れるな!」
先頭を行くヤンキー武者、犬千代が怒鳴る。首を取って名誉を挽回するため、全身から湯気が出るほどのやる気に満ちている。
「若! あそこに見えるのが敵ですか!」
人斬り三太夫が、舌なめずりをした。
「へへっ、良さそうな鎧を着てやがる。あれを剥ぎ取りゃあ、いい金になりますぜ」
先頭集団(三太夫・但馬)は色めき立っている。
後方にいる七人の部下たちも、金に目がくらんでギラついている。彼らは、元は食い詰め浪人だ。稼げるなら泥水だってすする覚悟はある。
「一稼ぎして、借金返すぞ!」
「鎧一領でも剥ぎ取れば、当分は食える!」
彼らのモチベーションは「名誉」と「金」だ。
だが、その殺気は本物だ。
その時。川の対岸から、太鼓の音が響いた。
ドンドンドン!
斎藤龍興率いる美濃軍、六千の兵が動き出したのだ。
「来たか……! 待ちくたびれたぜ!」
犬千代がニヤリと笑い、長槍を構えた。
「行くぞオラァァァ!! 一番首は俺のもんだ!!」
犬千代が、たった一人で敵の大軍に向かって走り出した。
長八が「殿ぉぉぉ! お待ちください! 死にますぞ!」と荷物を揺らして追いかける。
「続くぞ! 若に続けェ!」
三太夫が叫び、但馬も抜刀して突っ込んでいく。残りの七人もその後を追随していく。
俺と勘兵衛だけが取り残された。
「……行かなきゃダメ?」
「仕方ない! 行きましょう! 置いていかれます!」
勘兵衛が悲鳴を上げた。俺は泣く泣く走り出した。前には敵、後ろには借金。デスマーチの始まりだ。
***
乱戦が始まった。
湿地帯の足場の悪さが、逆に幸いした。大軍である斎藤軍は動きが取れず、小回りの利く犬千代と三太夫たちが、ゲリラ的に暴れまわっている。
まぁ、俺達はそこまで相手にされておらず、敵本隊は柴田隊と森隊の方に向かっているようだ。
「ヒャッハー! 金だ金だァ!」
俺の部下たちは、敵を倒すことよりも、手っ取り早く戦利品を得ることに夢中だった。倒した敵の太刀を奪い、懐を探る。戦い慣れている。彼らはプロの戦場稼ぎだ。
俺と勘兵衛はというと、戦場を見下ろせる小高い土手の上にある、大岩の陰に隠れていた。ここなら下から見つかりにくいし、安全だと思ったのだ。
だが、戦場の神様は、俺たちを見逃してはくれなかった。
「どけどけェ!! 雑魚ども!!」
雷のような怒号と共に、一人の巨漢が戦場を蹂躙していた。
敵将だ。身長が俺を超えようかという大男。手には、人間一人分はありそうな巨大な戦斧を持っている。
「我こそは足立六兵衛! 首取り足立とは俺のことよ!」
足立六兵衛。
「首取り足立」の異名を持つ、美濃きっての豪傑らしい。来る道中に但馬から得々と話を聞いていた。
『首取り足立と出会ったら、それが最期になるでしょう。そんな武将です』
「ぐわぁぁぁ!」
土手の下で戦っていた俺の部下が一人、六兵衛の斧で吹き飛ばされた。
鎧ごと粉砕されている。即死だ。
「チッ、やられたか!」
他の部下たちは、仲間の死を見ても悲鳴を上げることはなかった。
「運が悪かったな」という冷めた目で一瞥し、すぐに散開して六兵衛を囲む。
「囲め! こいつの首は手柄だぞ!」
「斧に気をつけろ!」
彼らは恐怖していない。むしろ、大物を狩ろうとする狩人の目だ。
だが、六兵衛の力は圧倒的だった。
「虫ケラどもが!」
六兵衛が斧を一閃させると、包囲網が崩れる。
「こいつ、やべえぞ!」
俺の家臣たちは、六兵衛の圧力に屈し、蜘蛛の子を散らしたかのように、散り散りとなった。
そして、六兵衛が大きくステップを踏んで、家臣を追いかけ回しているうちに……あろうことか、俺たちが隠れている土手の真下へやってきた。
そして、岩の陰から恐る恐る下を覗き込んでいた俺と、バッチリ目が合った。
「見つけたぞ! 上にもネズミが隠れておったか!」
終わった。見つかった。
「ヒッ、逃げるぞ!」
俺はパニックになり、反射的に後ずさりしようとした。
だが、ここは連日の雨でドロドロになった湿地帯である。土手の縁ギリギリにいた俺が、慌てて強く足を踏ん張った瞬間――足元の泥が、ズルッと無情に崩落した。
「あえっ!?」
俺は派手に転倒し、そのまま土手の急斜面を頭から真っ逆さまに滑り落ちていった。
完全に泥のウォータースライダーだ。
桶狭間に引き続いて、なんでこうなるの!?
運の悪いことに、その滑り落ちる先は、下で見上げている六兵衛の真正面である。
「なっ、なんだ貴様!?」
六兵衛が驚いて斧を構えるなか、俺の百キロ近い巨体が、ボウリングの球のように猛スピードで足元へ突っ込んでいく。
「どまれぇ! どまれェェェ!」
俺は叫んだが、慣性の法則と重力は泥の斜面では絶対に止まらない。
俺の兜を被った頭が、六兵衛の向こう脛に激突した。
ゴスッ!!
「ぐおっ!?」
不意を突かれた六兵衛が、バランスを崩してよろめいた。
豪傑といえども、急斜面を滑り降りてきた百キロの巨漢による渾身のヘッドスライディングには耐えられなかったらしい。脛の骨が砕けんばかりの衝撃に、六兵衛の巨体が大きく傾く。
その一瞬の隙を、あの男は見逃さなかった。
「もらったァァァ!!」
横合いから、朱色の閃光が走った。
前田犬千代だ。
彼は泥にまみれながらも、鋭い眼光で六兵衛の喉元を狙い、槍を突き出した。
ズドン!!
槍が、六兵衛の首を貫いた。
鮮血が舞う。豪傑の巨体が、ゆっくりと崩れ落ちる。
ドサリ。
俺のすぐ横に、死体が転がった。
「……討ち取ったりィィィ!!」
犬千代が絶叫した。
その手には、切り落としたばかりの六兵衛の首があった。
「見たか! これが『槍の又左』の実力よ!!」
犬千代は全身で喜びを表現している。
長八がへたり込んで「よかった……殿が生きておられる……」と泣いている。
俺は、泥の中でうつ伏せになったまま、荒い息をついていた。
助かった。
まただ。逃げようとして泥で滑り落ち、敵の足元へ自爆特攻をかましただけなのに、それが決定打になってしまった。
「……茂助!」
犬千代が、血まみれの顔で俺に笑いかけた。
「てめえ、最高の相棒だぜ! あそこで土手を滑り降りて足元を崩すとはな! まさに阿吽の呼吸! 俺が突きやすいように身を挺して体勢を崩させるとは、恐れ入ったぜ!」
違います。
ただの滑落事故です。
「若! ご無事ですか!」
三太夫と但馬が駆け寄ってくる。
その後ろから、生き残った六人の部下たちも集まってきた。
彼らは死んだ仲間の遺体から、使える装備を剥ぎ取っていた。手際が良い。
だが、その目はひどく冷ややかだった。
***
戦いは、織田軍本隊の到着により、織田方の勝利で終わった。
夕暮れ時。
俺たちは、泥のように疲れて川辺で休んでいた。
勘兵衛が、帳簿を片手に難しい顔をしている。
「……今回の戦。我らの得たものは、敵兵の具足と太刀が数本。……死んだ一人の埋葬費と、遺族への手当の手間を考えると、大赤字です」
勘兵衛の言葉に、六人の部下たちの空気が変わった。
彼らは、俺の方を見て、ヒソヒソと話し始めた。
「おい、聞いたか。今回は前田様の『私戦』扱いらしいぞ」
「じゃあ、織田家からの恩賞はなしか?」
「ああ。俺たちの若は、一銭も貰えねえってことだ」
「いや、下手したら処分まであるぞ」
「ふざけんな。死に損じゃねえか」
彼らの不満は、金だけではなかったみたいだ。
さっきの俺の行動――六兵衛の足元へ土手を滑り降りたヘッドスライディングだ。
「うちの大将、頭がおかしいぜ」
「ああ。あんな化け物の足元に、高所から自ら飛び込みやがった」
「部下を盾にするどころか、自分が鉄砲玉になりやがる。……ついていけねえよ」
彼らは、俺を勇敢な将ではなく、命知らずの狂人と判断したようだ。
俺は、泥だらけの手を見つめた。
勝利の美酒なんてない。
犬千代は、あの後も疲れ知らずで戦い続け、他に二人の武将を討ち取ったようで、六兵衛の首と二つの首ををぶら下げて意気揚々と引き上げていく。
この戦いは勝利に終わった。
だが、俺に残ったのは解決しない資金難と、部下からの冷ややかな視線だけだった。




