第30話 重役襲来、米と筋肉の板挟み
清洲城の台所は、冬支度と戦準備で戦場のような忙しさになっていた。
その中で俺は、山積みになった帳簿の裏で、死んだ魚のような目をしていた。
「……炭の在庫、よし。味噌の樽、よし。……あー、目がチカチカする。おまけに腰が痛え……」
先日、津田家の庭先で見栄を張って巨大な庭石を持ち上げたせいで、俺の腕と腰は絶賛筋肉痛だった。
俺は「台所奉行補佐」という肩書きを与えられていた。やることは、紙の端に数字を書き殴って筆算をし、ひたすら在庫をチェックするだけだ。
最初に藤吉郎から「なんだそのミミズのような文字は」と怪しまれた際、「南蛮の数字なんじゃないですかね」と適当に誤魔化したら、この時代の人たちの間では『南蛮数字』とそのまま定着してしまった。
俺はただ、早く仕事を終わらせてサボりたい一心で計算をこなしていた。
だが、俺の仕事はこれだけではない。
「吉晴殿! こちらにおられましたか!」
詰所の入り口から、真面目そうな若武者が顔を出した。従兄弟であり、俺の組の副将を務める堀尾但馬だ。
「どうした、但馬。俺は今、味噌の在庫を合わせるのに忙しいんだ」
「申し訳ありませぬ。ですが、練兵場にて三太夫が『新入りの気合が足りん』と金棒を振り回して暴れ出しまして……。止めていただきたいのです」
「あいつも、同じ新入りだろ……!」
俺は筆を投げ出した。これだ。これが俺の現状だ。
午前中は台所でひたすら計算。午後は自分の組に戻って、荒くれ者たちの指揮と仲裁。完全なるダブルワーク。しかも、どっちも面倒くさい中間管理職だ。
「分かった、すぐ行く。……勘兵衛! あとは頼んだぞ!」
俺は部下の勘兵衛に帳簿を押し付け、バキバキに痛む腰を庇いながらドタドタと走り出した。
練兵場へ行って、ビビりながら三太夫を宥め、部下たちの装備の不備をチェックし、また台所に戻って夕食の配給手配をする。体が二つ欲しい。
***
夕方。再び台所の詰所に戻ってきた俺は、机に突っ伏していた。泥だらけの具足と、墨で汚れた手。文官と武官の悪いとこ取りだ。
その時。詰所の入り口が開き、静かな、しかし凛とした声が響いた。
「……ここが、近頃噂の台所か」
現れたのは、一人の武将だった。三十代前半だろうか。派手さはないが、仕立ての良い着物を着こなし、知的な顔立ちをしている。
誰だこいつ。見たことない顔だ。俺は疲れ切っていたので、少しぶっきらぼうに答えた。
「……あー、すいません。本日の受付は終了しました。納入なら明日の朝に……」
俺が手を振って追い払おうとすると、奥から木下藤吉郎がすっ飛んできた。
「ひぇぇぇ! に、丹羽様!? こ、こんなむさ苦しい所へ何用で!?」
藤吉郎が額を床に擦り付けていり。
ニワ?
俺は慌てて姿勢を正した。藤吉郎がビビってるってことは、それなりに偉い人なんだろう。ヤバい、失礼な態度をとってしまった。
「楽にせよ、藤吉郎。……今日は、そこの大男に用があってな」
丹羽と呼ばれた男が、俺を見た。その目は、値踏みするようでありながら、どこか楽しげだ。
「貴殿が堀尾茂助か。……噂は聞いている。農民との『灰と薪の交換』のきっかけを作り、南蛮数字なるもので城の帳簿を一手に捌く、優秀な裏方とな」
優秀とかじゃないです。自分が重い薪を運びたくなくて、筆算で楽をしてるだけです。
「は、はい。茂助です。……何か?」
「茂助、貴殿に一つ問う」
男の目が少し鋭くなった。
「今、美濃攻めの準備が進んでいる。仮に兵三千五百を動かすとして、一ヶ月で必要な米の数は?」
いきなり算数の問題かよ。勘弁してくれ。こっちは腰が痛いんだ。
だが、答えないと帰してくれそうにない。俺は溜息をつき、手元の裏紙に筆を下ろした。
一人一日5合。兵3500で17500合。つまり一日17.5石。
俺は紙に「17.5 × 30」と書き殴り、パパッと筆算をした。
「……一ヶ月で、525石ですね。味噌はその十分の一で約53石です」
俺が紙を見ながらボソボソと答えると、男は目を見開いた。
「……速い。算木も使わず、紙に妙な線を引いただけで、その桁の答えを出すか」
男は、俺が紙に書き殴った数字を、まるで魔法の呪文でも見るかのように興味深そうに覗き込んだ。この時代の人にとって、筆算のスピードは手品のように見えるらしい。
「……恐ろしい男だ。昼は偉丈夫として荒くれ者を束ね、裏では便利な計算係として数字を操るか。……これなら信長様が目をかけるわけだ」
男がニヤリと笑った。その笑顔は、「こいつは使える(こき使える)」と確信した上司の顔だった。嫌な予感がする。俺はもう手一杯なんですけど。
その時だ。
ドス、ドス、ドス……。
重く、規則正しい足音が響き、詰所の入り口が乱暴に開けられた。
現れたのは、岩のような巨漢だった。綺麗に整えられた髭と厳しい眼光。
あ、正月に対馬の家でオセロ対決をした、あのおっさんだ。名前は確か……シバタ?
「木下! いるか!」
柴田と呼ばれた男が、腹の底に響く声で言った。
「し、柴田様!?」
藤吉郎が直立不動になる。
「単刀直入に言う。……薪と油だ。我が柴田隊の割り当て分を増やしてくれ」
「ふ、増やすですか!? しかし、各隊への規定の量は既に……」
「足りんのだ」
柴田がピシャリと言った。
「我が隊は美濃攻めに備え、夜間も休まず槍の手入れと夜襲の稽古を行っている。……今の量では、夜を明かす前に明かりも火も消える」
藤吉郎は困り果てた顔をした。
「お、お言葉ですが、柴田様。物資には限りがございます。柴田様の隊だけ特別扱いは……」
「特別扱いではない! 必要なものを寄越せと言っているのだ! 戦場で槍が錆びていては話にならん!」
柴田が一歩踏み出した。威圧感がすごい。藤吉郎が助けを求める目で俺を見てくる。やめてくれ。
その時、柴田の鋭い視線が俺を捉えた。
「む……? 貴様、オセロで手合わせした……『鬼の茂助』だな。なぜこんな所で筆など握っておる」
「あ、どうも。お久しぶりです……」
「丁度いい。頭の固い事務屋ではなく、武辺者であり、盤上で俺を負かした貴様なら話が早かろう。茂助、貴様が薪と油を出せ!」
柴田の矛先が完全に俺に向いた。
俺は硬直した。
薪と油を新しく出せば、在庫の数字がズレる。つまり、帳簿の数字を全部修正して、またあの面倒な筆算を何十回もやり直さなきゃならない。
残業確定だ。絶対に嫌だ。
かといって断れば、このゴリラみたいな人に物理的に殴られるかもしれない。横を見ると、さっきの知的そうなおっさん、丹羽が、面白そうに事の成り行きを見守っていた。
(……くそっ、どうする? オセロで勝ったからって俺に振るな! 正規の在庫を動かしたら俺の計算の手間が増える!)
その時、俺の視界の端に、倉庫の奥に積まれているゴミの山が目に入った。城の修繕で出た木っ端と、古くなって酸化し、食用には向かない廃油の壺だ。
あれなら帳簿に載っていない。勝手に処分しても数字はズレないし、計算し直す必要もない!
「あ、あのっ……!」
俺は裏返った声で叫んだ。
「せ、正規の薪と油は無理です! 無い袖は振れません!」
柴田の眉がピクリと動いた。俺はヒッとなりながら、ゴミの山を指差した。
「だ、だから……あれで勘弁してください! あそこのゴミ!」
「ゴミだと?」
「い、いえ! 木っ端と古油です! 捨てる予定の帳簿外のやつだから、いくら持ってっても計算し直さなくていいんです! 火がつけば何でもいいんでしょ!?」
俺はヤケクソだった。
「ゴミを渡すなんて失礼だ」とか考える余裕もない。とにかく俺の事務作業を増やさずに、今すぐ帰ってほしかったのだ。
柴田は、俺が指差した廃材の山へと歩み寄り、木くずを手に取った。そして、濁った油の壺の匂いを嗅いだ。
沈黙が流れる。藤吉郎が「終わった……殺される……」と青ざめている。俺も死を覚悟した。
「……ふん」
柴田が鼻を鳴らした。
「……悪くない」
え?
「乾燥した木っ端は火付きが良い。この古油も、匂いはキツイが火持ちは十分だ。……見栄えの良い薪など、戦場では無用。燃えればそれでいい」
柴田は、俺の方を振り返り、ニヤリと笑った。
「実戦を知らぬ事務屋は規定がどうこうとうるさいが、貴様は体裁より実を取るか。盤上でもそうであったが、勝ちにこだわるその姿勢……気に入った!」
柴田は俺の背中をバンと叩いた。筋肉痛の腰に響いて、声が出そうになる。
「この廃材、全部もらうぞ! 礼を言う!」
柴田は部下たちにゴミを運ばせ、嵐のように去っていった。
俺はその場にへたり込んだ。
助かった。
「……見事な機転だ、茂助」
丹羽が感心したように頷いた。
「頑固な柴田殿を、帳簿外の廃材で納得させるとはな。……私は丹羽長秀だ。覚えておけ。いずれ、私の下で働いてもらうかもしれんぞ」
ニワ・ナガヒデ。
名前を言われてもピンとこないが、藤吉郎が「えっ、俺じゃなくて茂助を!?」とショックを受けているあたり、かなり偉い人らしい。
「は、はあ……。機会があれば……」
俺は曖昧に答えた。出世コースとか派閥争いとか勘弁してくれ。俺はただ、平穏無事に給料をもらいたいだけなんだ。
丹羽長秀は、満足げに頷いて去っていった。
***
その日の夜。
長屋に戻った俺は、どっと疲れが出て畳に寝転がっていた。
三太夫が「若、明日の訓練の予定ですが」と聞いてくるが、答える気力もない。
「……明日は座学だ。座学。みんなで寝るぞ」
「へい、精神統一ですね!」
勝手に解釈してくれる部下たちがありがたい。
だが、周囲の評価は止まらない。
『鬼の茂助は、南蛮数字なるもので城の帳簿を瞬時に終わらせるらしい』
『鬼柴田にゴミを押し付けて納得させたらしい』
噂は尾ひれをつけて広がり、俺は「腕っぷしも立つ便利な事務員」として名が売れてしまっていた。
なんか、織田家のツートップに目をつけられてしまった気がする。
事務仕事も現場仕事も、どっちも増える未来しか見えない。これは、次の美濃攻めで、俺が面倒なポジションに投入されるフラグに他ならない。
「……胃薬が欲しい」
戦国時代に胃薬はない。あるのは、苦い薬草と、もっと苦い現実だけだ。
俺は、懐に入れていた黒い兵糧丸を一つ、口に放り込んだ。苦い。だが、この苦さだけが、今の俺の唯一の味方のような気がした。
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