第27話 実家という名のアウェー、俺は誰の子ですか
岩倉の堀尾屋敷。
「若様がお戻りです!」という中間の叫び声が、静かな屋敷に響き渡った。
俺は、玄関で草鞋を脱ぎながら、大きく伸びをした。
ここに来るのは三回目だ。勝手は知っている。
その時だった。
廊下を早足で歩いてくる足音がした。
現れたのは、小柄な女性だった。
彼女は玄関に立つ俺の姿を見ると、ピタリと足を止めた。その目には、既に涙が溜まっていたが、それは感動の涙ではなかった。諦めと、絶望と、そして微かな嫌悪が混ざったような、冷たい目だった。
「……あなたが、今の『吉晴』なのですね」
「……え?」
誰だ?
女の人? それも、そこそこ年配の……もしかして、母親か!?
聞いてないぞ! 男だけじゃなかったの!?
母上(仮)の目が点になった。
彼女の視線は、俺の顔を見上げ、次に丸太のような腕を見、そして鴨居に頭がぶつかりそうなほどの巨体全体を舐め回した。
「……あー、はい。吉晴です。」
俺が頭を下げると、母上(仮)は顔を歪め、悲鳴のような声を上げた。
「その名で呼ばないで! ……あの子は、私の吉晴は、もっと色が白く、線が細く、優しい子でした。……あなたのような、熊のような大男ではありません!」
母上の拒絶。明確な拒絶だった。
彼女は知っていたのだ。本物の息子が戦場で死んだことを。そして、信長のパワハラ人事によって、どこの馬の骨とも知れぬ大男(俺)が、死んだ息子の名前を奪って、ここに立っていることを。
母親からすれば、俺は息子の席を奪った侵入者でしかない。
「信長様のご命令……聞き及んでおります。死んだあの子の代わりに、あなたを嫡男として迎え入れよ、と。……ですが、心までは騙せません! 息子の死を悼むことさえ許されず、見知らぬ男を息子と呼ばねばならぬとは……っ!」
母上は泣き崩れた。
俺は言葉を失った。「通りすがりのニートです」なんてもちろん言えるわけがない。
「騒ぐな、いと」
奥から、父・泰晴が現れた。相変わらずの仏頂面だが、その歩調にはわずかな焦りが見える。
「あなた! あんまりです! あの子が不憫でなりません!」
「……黙れ。この男は、名実ともに堀尾茂助吉晴なのだ」
泰晴は、母上を制して言い放った。
「戦場の空気は男を変える。死線をくぐり抜け、修羅場を生き延びたことで、魂が肉体を作り変えたのだ。見ろ、この逞しい姿を。これこそが、織田家の先陣を切った『鬼』の姿だ」
無茶苦茶な理屈だ。魂が肉体を作り変えるって、どこのファンタジーだよ。
だが、家長である父の言葉は絶対だ。
母上は「そんな……」と口元を押さえ、泣き崩れた。その涙は、帰ってきた息子への嬉し涙ではない。私の知っている息子はもういないという、絶望の涙だった。
俺は胸が痛んだ。
軽い気持ちで帰省した自分が恥ずかしい。俺がここにいる限り、彼女の本当の息子は帰ってこない。俺は、残酷な嘘の上に立っている。
「……母上。ご心配をおかけしました」
俺は、せめてもの罪滅ぼしに、深く頭を下げた。
母上は俺の顔を見ようともせず、奥へと下がっていった。
残された玄関に、気まずい沈黙が流れる。
「……気にするな」
泰晴が、俺の方を向いた。
「母親というのは、過去の幻影を追うものだ。お前は、今のお前であればいい」
それは、父なりの優しさなのか、それとも家の存続のためなら偽物でも構わんという冷徹さなのか。俺には分からなかった。
***
その夜。
囲炉裏を囲んでの夕食となった。
母上は「気分が優れない」と部屋に籠もって出てこない。まあ、そうだろうな。
席についたのは、父・泰晴と、俺。
そして、もう一人。
「……兄上、おかえりなさいませ」
十歳くらいの少年が、俺の正面に座っていた。
誰だこいつ。
弟か? 弟もいたのかよ! 聞いてないぞ!
「お、おう。……大きくなったな?」
俺は名前が分からないので、適当に誤魔化した。
少年は、利発そうな目をしている。彼は、俺の顔をじっと見つめていた。母上のように拒絶しているわけではない。まるで珍しい生き物を観察するような、好奇心に満ちた目だ。
「兄上。……母上は泣いておられました」
少年が小声で言った。ドキリとする。
「『あんな大男は吉晴ではない』と。……僕も、そう思います。兄上はもっと、小さい人でしたから」
子供は残酷だ。ストレートに言ってくる。
俺は箸を止めた。まぁ、他人だからしゃーない。
「でも、父上は言いました。『あれは強いぞ』と。……兄上、桶狭間で一番槍をつけたというのは、本当なのですか?」
少年が身を乗り出してきた。
彼の興味は、俺が「本物かどうか」よりも、「強いのかどうか」に向いているようだ。戦国の世に生きる武家の次男坊。力への憧れがあるのだろう。
「え、あー……一番槍というか……まあ、一番前にはいたな(転がり落ちたけど)」
「すごいです! やっぱり、戦に出ると人は変わるのですね! 僕も兄上のようになれますか? こんなに大きくなれますか?」
少年――弟の氏光と言うらしい――が目を輝かせる。
俺は苦笑いした。
なれるわけがない。これは現代の食品添加物とジャンクフードの結晶だ。
「……好き嫌いせず食えば、なれるかもな」
俺は自分の膳に乗っていた焼き魚を、氏光の皿に移してやった。氏光は驚いた顔をしたが、すぐに「ありがとうございます!」と嬉しそうに魚にかぶりついた。
母上には拒絶されたが、弟は、この強そうな新しい兄に興味津々のようだ。それだけで、少しだけ居心地の悪さが和らいだ気がした。
***
食後。
俺は父・泰晴に呼ばれて、奥の間へ行った。そこには、帳簿と、数枚の書状が置かれていた。
「吉晴。これからの話をせねばならん」
父上の声が真面目モードに切り替わる。
「組頭になったということは、お前は自分の『組』を持たねばならんということだ」
「はい。藤吉郎様からも言われました」
「織田家から支給されるのはお前への扶持(給料)だけだ。その中から、若党や中間を雇い、装備を整え、養わなければならん」
泰晴が帳簿を開いた。
「今、堀尾家の財政は火の車だ。負けて以来、所領は減り、蓄えも底をつきかけている」
厳しい現実だ。実家は太いスポンサーどころか、倒産寸前の中小企業だった。
「だが、お前が出世したことで、風向きが変わった。……岩倉のものたちが、お前を頼って集まってきている」
泰晴は、庭の方を顎でしゃくった。縁側の向こう、闇の中に、数人の男たちの気配がする。
「見ろ。あれが、仕官を求めてきた者たちだ」
俺は目を凝らした。庭先に、十数人の男たちが土下座していた。ボロボロの着物を着た、無精髭の男たち。元は岩倉織田家に仕えていたが、落城して失職し、浪人となった者たちらしい。
「彼らを……雇えと言うのですか?」
「そうだ。彼らは食い扶持を失い、路頭に迷っている。だが、腕は立つし、戦場を知っている。……何より、今の堀尾家には、彼らを雇う余裕も、新品の具足を買い与える金もない」
父上は冷徹に言った。これは、リストラされた元同僚たちの救済措置であり、同時に俺への戦力増強の命令だ。中古の人材を、中古の装備で運用する。まさに弱小企業の経営戦略だ。
「……分かりました。面接します」
俺は縁側に出た。男たちが一斉に顔を上げる。その目は、飢えた狼のようにギラついていた。
「雇ってくれ」「飯をくれ」「俺を使え」という無言の圧力が凄い。
俺は、一番ガタイの良い、強面の男を指名した。顔に大きな刀傷がある。どう見てもカタギじゃない。
「名前は?」
「……三太夫」
声が低い。地響きみたいだ。
「得意なことは?」
「人斬り。……桶狭間では、落ち武者狩りをしていた」
即答だった。怖い。採用したくない。だが、こういう手合いが一番、裏切らずに働くのも知っている。飯さえ食わせれば忠犬になるタイプだ。
「……採用。明日から俺の護衛な」
「はっ!」
三太夫が頭を下げる。
次に、ひょろりとした、色の白い優男が進み出てきた。武士というより、商人のような風体だ。
「某は野々村勘兵衛。算術と読み書きが得意でござる。戦はからっきしですが、兵糧の管理や金勘定ならお任せを」
「採用! 即採用!」
俺は食い気味に言った。計算ができる人材は貴重だ。俺が面倒な事務仕事をしたくないからな。
そんな風にして、俺は次々と「訳あり」な男たちを採用していった。
彼らに共通しているのは、「食わせてくれるなら命を張る」という、切実なハングリー精神だった。
十名を採用したところで、打ち止めた。
「……父上。これぐらいで」
「そこまで雇えるほど給金が出るのか。流石、信長様……だが、もう一人、連れて行く者がいる」
泰晴が手を叩いた。
襖が開き、一人の若者が入ってきた。
年齢は俺より少し若いか。真面目そうな顔立ちで、きちんとした身なりをしている。
「お初にお目にかかります。堀尾但馬と申します」
若者が深々と頭を下げた。
「……誰?」
「お前の従兄弟だ」
泰晴が説明した。
「分家筋の者だが、武芸百般に通じ、礼儀作法もしっかりしておる。……お前は腕っぷしは強いが、作法や細かい指図は苦手だろう」
バレてる。
「但馬を副将として連れて行け。お前の手足となり、荒くれ者たちをまとめる助けになるはずだ」
「はっ! 吉晴殿の盾となり、矛となりまする!」
但馬が熱い眼差しを向けてくる。
なるほど、コネ採用か。
だが、しっかり者の従兄弟というのはありがたい。三太夫みたいな猛獣使いは、俺には荷が重いからな。
「よし、採用! 頼むぞ但馬!」
「ははっ!」
こうして、俺の「堀尾組」の陣容が決まった。
人斬り権六、計算係の勘兵衛、そして真面目な従兄弟の但馬。
その他バラエティ豊かすぎるメンバーだ。
***
翌朝。
俺は、新しく雇った十人の部下と、従兄弟の但馬を引き連れて、清洲へ戻る準備をしていた。
実家の蔵から持ち出した古い槍や具足を彼らに支給し、一応それなりの部隊の体裁を整える。
出発の間際、弟の氏光が駆けてきた。
「兄上!」
氏光は、俺の腰に差した刀を見て、目を輝かせている。
「その刀、今度見せてくださいね! あと、戦の話も!」
「ああ。今度戻った時にな」
俺は氏光の頭をポンと撫でた。
母上の姿はなかった。まだ部屋にこもっているらしい。それでいい。無理に会っても、お互いに辛いだけだ。俺は、彼女の息子を殺した歴史の共犯者なのだから。
「吉晴。……励めよ」
父上が、短く言った。
俺は一礼し、岩倉の屋敷を後にした。
帰り道。五月の風が吹いている。俺の後ろには、十人のむさ苦しいおっさんたちと、真面目な但馬が続いている。彼らの生活も、命も、全部俺の双肩にかかっている。
「……重いなあ」
俺は呟いた。
物理的な荷物はないが、責任という名の荷物が、藁の鎧よりも重くのしかかっている。
清洲城が見えてきた。あそこには、藤吉郎がいる。信長がいる。そして、新たな仕事が待っている。
そういえば、藤吉郎は台所奉行とかで大変って言ってたな。まあ、あいつなら上手くやるだろう。俺は俺の組の面倒を見るので手一杯だ。
そう思っていた俺の甘い考えは、城門をくぐった瞬間に粉砕されることになる。そこには、帳簿の山に埋もれて死にかけている、猿の姿があったのだ。
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