第26話 昇進と台所奉行、ときどき生首
清洲城は、論功行賞の興奮も落ち着き、次なる美濃攻略に向けた準備期間に入っていた。そんな折、俺に思いがけない指令が下った。
「休暇だ」
上司の木下藤吉郎が、ボリボリと尻を掻きながら言った。だが、その顔はいつになく真剣で、どこか疲れている。
「てめえは組頭になったんだ。一度、実家の岩倉に戻って、親父殿に報告してこい。ついでに、いろいろと準備もしとけ」
休暇。その甘美な響きに、俺の脳内麻薬がドパドパと分泌された。休みだ。このブラック企業・織田家では非常に珍しいまとまった休みだ。
実家に帰れば、あのカビ臭い長屋とはおさらばできる。少しはマシな布団で寝られるし、長屋の砂利飯よりは美味い。
「ありがとうございます! 行ってきます! 探さないでください!」
俺は食い気味に返事をすると、最低限の荷物をまとめようとした。だが、藤吉郎が俺の襟首を掴んだ。
「待て。……戻ってきたら、地獄が待ってると思えよ」
「へ?」
「俺も昇進したんだよ。『台所奉行』にな」
藤吉郎が、顔を引きつらせて言った。
台所奉行。
名前は美味そうだが、要するに城内の兵糧・炭薪・資材の管理責任者らしい。織田家の財布と胃袋を握る、超重要なポストである。
「し、知ってますけど。……何か問題でも?」
「馬鹿野郎! 計算だぞ!? 読み書きだけじゃなくて!!」
藤吉郎が頭を抱えた。
「炭が何俵、米が何石、味噌が何樽……。毎日毎日、帳簿と睨めっこだ! 前任者が残した帳簿がズレまくってて、何が何だか分からねえ!」
藤吉郎の目が血走っている。戦場での鋭さとは違う、事務作業に追い詰められた奴の目だ。
「茂助、てめえは賢そうだ。戻ってきたら、手伝え。……いや、てめえに全部任せるかもしれん」
嫌な予感がした。
だが、俺は現代人だ。義務教育で「算数」を叩き込まれている。
俺には『九九』がある。この時代なら特殊技能に違いない。「ににんがし」と唱えれば一瞬だ。ここでドヤ顔で九九を披露して、楽な仕事だけをもらうか?
俺は咳払いを一つした。
「……あの、藤吉郎様。九九とか、ご存知ですか?」
藤吉郎がピタリと動きを止め、眉をひそめた。
「ああん? 馬鹿にするな。九九の法など、役人や商人なら誰でも暗唱できるわ。」
俺は息を呑んだ。
マジかよ。戦国時代でも九九って常識なのか!
危ない。現代知識でドヤ顔しようとしたら常識も知らない馬鹿扱いされるところだった。
「だがな、大きい桁の計算を頭の中だけでやれるか。だからこうして、算木を盤面に並べて位取りをするんだよ!」
藤吉郎が頭をかきむしる。まだそろばんが普及していないようで、複雑な計算は算木を使うらしい。
……木の棒?筆算ですればいいのに。俺はそう思ったが、あえて口には出さなかった。
変に突っ込んで、電卓もないエクセルもない時代の計算の手伝いに巻き込まれたらたまらないからだ。俺は今から待ちに待った休暇なのだ。
「あー、俺、頭悪いんで! 木の棒とか無理なんで! じゃあ行ってきます!」
俺は逃げるように清洲城を飛び出した。
弥七たちが「茂助様、寂しいです!」「早く戻ってきてください!」と涙ながらに見送ってくれたが、俺の心は晴れやかだった。
悪いな、お前ら。俺はしばしの間、実家というぬるま湯に浸からせてもらうぜ。藤吉郎の仕事なんて知るか。
清洲から岩倉までは、徒歩で数時間ほどの距離だ。道中、俺は鼻歌交じりに歩いた。初夏にしては涼しい風が心地よい。
田んぼでは農民たちが田植えに精を出している。平和だ。数日前にあんな殺し合いをしていたのが嘘のようだ。
街道を歩いていると、向こうから一人の男が歩いてくるのが見えた。
異様な風体だった。着物はボロボロで泥だらけ。だが、朱色の柄の長槍を握り、虎柄の布を巻いている。そして何より、腰に「何か」をぶら下げている。
布に包まれた、丸い物体が三つ。ドス黒いシミが滲んでいる。
「……うわっ」
俺は関わり合いにならないよう、目を逸らしてすれ違おうとした。だが、男が足を止めた。
「……おう。てめえ、茂助じゃねえか」
ドスの利いた声。俺はビクリとして顔を上げた。伸び放題の髪、鋭い眼光、そして顔についた乾いた血痕。
あっ、こいつ見覚えがある。夜中の城壁で石をぶつけた、あのヤンキーだ。
「……い、犬千代様?」
「おうよ。奇遇だな。今、清洲城から追い出されてきたところだ」
前田犬千代だ。彼はニヤリと笑ったが、その笑顔は血生臭かった。
「その節は世話になったな。てめえが見逃してくれたおかげで、俺は戦場に間に合ったぜ」
「は、はあ……。追い出されたって?」
俺は後ずさりした。彼の腰にぶら下がっている「丸いもの」。
あれは間違いなく、人間の生首だ。しかも三つもある。ハエがたかっている。グロテスクすぎる。俺は吐き気をこらえた。
「どうだ、見てくれよ。この首!」
犬千代は自慢げに腰の包みを叩いた。
「今川の部将、首級三つだ! 一番槍とはいかなかったが、これだけの手柄を立てれば、お館様も俺の勘当を解いてくれるはずだった!」
彼はまだ出仕停止の身分だ。
今回の桶狭間も、命令されたわけではなく、勝手に押しかけて無断で参戦したらしい。現代で言えば、クビになった社員が、勝手に営業先に行って契約を取ってきたようなものか。パワフルすぎる。
「許されなかったんですか……?」
「門前払いだ! 小姓が出てきて『勘当中の身で勝手な真似をするな』と一蹴しやがった。お館様とは顔も合わせてもらえねえ!」
犬千代がギリッと歯ぎしりをした。
「三日三晩、死ぬかと思ったぜ! 返り血で前が見えなくなるまで戦って、俺の槍の錆にしてやったわ! それが、無価値だと突き返されたんだ。やってられねえ!」
三日三晩?一日で終わったのに誰と戦ってたんだ?この馬鹿は。
「で、てめえはどうだったんだ? 茂助」
犬千代が、俺の顔を覗き込んできた。
「噂じゃあ、お前らの組も相当な働きをしたって聞いてるぜ。」
「い、いえ、俺はそんな……」
「謙遜すんな。で、首は何個取った? 一個か? 二個か?」
犬千代の目が輝いている。「俺も頑張ったが、お前も頑張ったな」と同調を求める目だ。俺は気まずそうに視線を逸らした。
「……全くです」
「あ?」
「一個も取ってません。……敵陣のど真ん中で、必死に身を守ってただけです」
犬千代の動きが止まった。彼は目をパチクリさせて、俺と、自分の腰の首を見比べた。
「……一個も?」
「はい。全くです」
「嘘つけ! そんな体格で首取ってないなんてわけあるか!」
「本当ですって。生き残るのに必死で、首を取る余裕なんてなかったんですよ……」
俺が正直に言うと、犬千代は呆れたような顔をした。
「……まあいい。生きてるだけマシか。で、恩賞はどうだったんだ?」
俺は言いづらかったが、事実を伝えた。
「……俺、出世しました」
「は?」
「組頭ってのになりました。給料も数倍になりました」
沈黙。長い沈黙が流れた。街道を渡る風が、気まずさを運んでくる。
「……はあァァァァァ!?」
犬千代が絶叫した。
「ふざけんじゃねえぞ! 俺は! 命懸けで! 敵将の首を三つも取って! それで追い返されたんだぞ!?」
犬千代が俺の胸倉を掴んだ。
「なんで首一つ取ってねえ、ただ生き残っただけのてめえが、組頭に出世してんだよ! おかしいだろ! 織田家の評価基準はどうなってんだ!」
「し、知りませんよ! 強いて言うなら、俺、あの時は簗田様と一緒にいたんで……たぶん、その道案内の功績の巻き添えというか、そっちの評価かなぁって……」
「簗田だと!? なんでてめえみたいなのが、そんなオイシイ所に混ざってんだよ!」
「たまたまですって! 俺だって出世したくなかったんですよ! 責任重いし!」
「自慢か! 嫌味か!」
犬千代は理不尽な怒りを俺にぶつけた。
ごもっともだ。俺だってそう思う。
命懸けで首を三つも取った奴がクビのままで、たまたまMVP(簗田様)の近くにいただけの俺が出世するなんて、どう考えてもおかしい。織田家の査定はマジで狂っている。
「あと、藤吉郎様も出世しましたよ」
「あいつ、まだ生きてたのか?」
「台所奉行になりました」
「奉行ォ!? あの猿が!?」
犬千代はさらに目を剥いた。
「俺が泥水すすって戦ってる間に、あいつはぬくぬくと飯の管理かよ! くそっ、やってられねえ!」
犬千代は俺を突き放し、地団駄を踏んだ。
「まあいい! 見てろよ茂助! 俺は必ず復帰して、てめえなんかより遥かに出世してやる! 『槍の又左』の名にかけてな!」
犬千代は悔しそうに吠えると、首の包みを担ぎ直し、来た道をドカドカと戻り始めた。その背中は、怒りと、そして焦りに満ちていた。
俺はその背中を見送った。悪いな、犬千代。俺もお前と同じくらい、この理不尽な出世を呪っているんだよ。
犬千代との遭遇でどっと疲れた俺は、再び岩倉への道を歩き出した。日が頂点を過ぎた頃、全く懐かしいとは感じない岩倉の町並みが見えてきた。
そして堀尾屋敷。
屋敷といっても、立派な門構えがあるわけではない。土壁で囲まれた、少し大きめの農家といった風情だ。門番などいない。いる余裕がないのだ。門扉は開け放たれ、中ではお手伝いさん――中間と言うらしい――が、庭の掃除をしたり、薪を割ったりしているのが見える。
「……帰ってきた、か」
俺は立ち止まり、その光景を眺めた。清洲城の威圧感とは違う、土と生活の匂い。ここが、今の俺の実家だ。
俺は、着物の裾についた泥を払い、深呼吸をした。ここに入れば、俺は「茂助」ではなく、「吉晴」にならなければならない。親父殿への報告。そして、出世したことによる新たなプレッシャー。
「……気重だなあ」
俺は呟いた。だが、腹は減った。爺の作る飯が食いたい。
俺は意を決して、門をくぐった。
「たのもー。……吉晴だ。戻ったぞ」
庭で薪を割っていた中間が、俺に気づいて顔を上げた。
「あ、若様!?」
中間が斧を取り落とし、屋敷の中へ向かって叫んだ。
「殿ー! 若様がお戻りです! ご無事で帰られましたぞー!」
バタバタと足音が響き、屋敷の奥から人が出てくる気配がする。
もう慣れたもんだ。俺は苦笑いした。
戦は終わった。だが、俺の安息の日は、ここでも長くは続きそうになかった。
門の向こうから、父・泰晴の厳格な咳払いが聞こえてくる。俺は背筋を伸ばし、足を踏み入れた。
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