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第25話 論功行賞と、憂鬱な出世辞令


 桶狭間の熱狂から三日が過ぎた。

 清洲城下は、未だに勝利の余韻に浸っていた。酒が振る舞われ、餅が撒かれ、どこに行っても織田様万歳の声が響いている。奇跡的な勝利は、領民たちにとって神風そのものだったのだろう。

 だが、俺の心は、鉛色に沈んでいた。


 長屋の中は、静かだった。いつもの朝なら、狭い板の間の場所取りで喧嘩が起きたり、弥七の寝相の悪さに文句を言ったりする声で騒がしいはずだ。だが今は、三つ分の寝床がぽっかりと空いている。

 権兵衛、助八、藤太。

 帰ってこなかった三人の荷物が、主を失って隅に置かれている。


「……起きるか」

 俺は身体を起こした。全身の筋肉痛はまだ引かない。今日は、死んだ三人のささやかな弔いと、そして生き残った者への「論功行賞ごほうび」の日だ。


 長屋の裏手、湿った土の上に、俺たちは小さな土饅頭を作った。墓石なんて立派なものはない。河原で拾った手頃な石を置いただけの、仮の墓だ。


「……権兵衛は、オセロが好きだったな。いつも角を取られて悔しがってた」

「助八は、俺の作った黒焦げの兵糧を、一番美味そうに食ってくれた」

「藤太は、穴掘りが上手かった。一番深く掘って、誰よりも上手く隠れていたのに……流れ矢なんて、運が悪すぎるよ」

 俺は呟きながら、墓前に供え物を置いた。あの「味噌焦げ飯」だ。他に供えるものがない。だが、あいつらにとっては、これが最後の晩餐の味だったはずだ。


「……すまねえな。俺だけ生き残って」

 俺は手を合わせた。涙は出なかった。ただ、胸の奥に重い石が詰まっているような感覚だけがある。周囲の部下たちは泣いていた。俺の沈黙と、じっと墓を見つめる背中は、彼らの目には「深すぎる悲しみを背負う、寡黙な隊長」として映っているようだった。


「茂助様……」

 弥七が鼻をすすりながら言った。

「あいつらの分まで、俺たちが強くなりましょう。木下組を、日本一の組にしましょう」

 やめてくれ。そんな熱い目標を掲げないでくれ。俺はただ、定時に帰って、安全に暮らしたいだけなんだ。三人の死が教えてくれたのは「強くなろう」じゃなくて「戦場はクソだ」という真理だけだ。

 だが、俺はそれを口には出せなかった。俺は無言で頷き、立ち上がった。


 ***


 昼過ぎ。

 俺と藤吉郎は、正装をして、清洲城の大広間にいた。論功行賞。今回の戦で手柄を立てた者への、表彰式だ。

 広間には、錚々(そうそう)たる武将たちが並んでいる。柴田様、森様、佐久間様ら重臣たち。皆、晴れやかな顔をしている。織田家の存亡をかけた博打に勝ったのだから当然だ。

 一段高い座に、織田信長が現れた。空気が張り詰める。信長は上機嫌だった。だが、その眼光の鋭さは変わらない。


「これより、恩賞を与える!」

 信長の声が響く。まずは一番手柄。名前を呼ばれたのは、やはり簗田政綱だった。

「簗田。敵本陣の特定、および奇襲ルートの選定。貴様の情報なくして、この勝利はなかった。……沓掛くつかけの領地と、黄金を与える!」

「ははっ! 有難き幸せ!」

 簗田が平伏する。ざわめきが起こる。武功ではなく、情報が一番手柄とされたことは、織田家の家臣団にとっても衝撃だったようだ。


 俺は心の底から拍手を送った。そうだ、あんたが一番だ。そうすれば俺は目立たなくなる。頼むから、このまま俺のことは呼ばないでくれ。

 続いて、義元を討ち取った毛利新介と服部小平太が呼ばれ、感状と刀、そして領地が与えられた。彼らは誇らしげに俺の顔にチラリと視線を送った。


 そして。

「……木下藤吉郎」

 信長の声が、俺たちの頭上に落ちてきた。藤吉郎がビクリと震え、前に進み出る。

「は、はっ!」

「貴様の組、見事な働きであった。……兵糧の確保、砦での陽動、そして本戦での先駆け。小勢ながら、大軍を掻き回す役目を果たしたな。加増の上、奉行職に任命する」

「も、勿体なきお言葉……!」

 藤吉郎が感涙にむせぶ。


 よし、これで終わりか? 俺は藤吉郎のオマケだ。ここで名前が出なければ、ただの足軽としてスルーされるはずだ。

「……して、その後ろにおる巨漢」

 信長の視線が、俺を貫いた。ギクリとした。無視してくれ。俺は背景だ。壁の染みだ。

「茂助。前へ」

 終わった。

 俺はガタガタ震えながら、藤吉郎の横に進み出た。

 全家臣の視線が俺に集中する。「またあやつか」「あやつが例の?」「あやつの噂は本当なのか?」「戦場でも鬼のような働きだったらしいぞ……」ヒソヒソ話が聞こえてくる。やめてくれ、俺はただのデブだ。


「面を上げよ」

 俺はおずおずと顔を上げた。信長は、ニヤニヤと楽しそうに俺を見ていた。

「貴様には驚かされた。……雨を予言し、障害を厭わず進み、最後は義元の前に立ちはだかった。……だが、貴様は手柄を主張せなんだな」

「は、はい……。俺は何もしておりませんゆえ……」

 俺は正直に答えた。信長は鼻を鳴らした。

「謙虚か、あるいは無欲か。……まあよい。お主の希望通り記録には残さぬ。だが、貴様の働き、わしは見ていたぞ」

 信長は懐から、一通の書状を取り出し、俺に放って寄越した。


「褒美だ。……今日より貴様を『足軽組頭くみがしら』に任ずる。藤吉郎の与力よりきとして、その異能を存分に振るえ」

 ……は?

 俺は書状を凝視した。組頭。

 つまり、昇進だ。ただの平社員から、係長?への昇進。

 給料はちょっと上がるが、責任だけが倍増する、あの中間管理職の入り口だ。

「え、あの、辞退とか……」

「不服か? ならば手打ちにするが」

「謹んでお受けいたします!!!」

 俺は額を床に打ち付けた。最悪だ。出世してしまった。 


 組頭なんて一番なりたくないポジションだ。上からは無茶振りをされ、下からは突き上げられる。板挟み地獄の始まりだ。ニートにとって、これ以上の罰ゲームがあるだろうか。

「励めよ。……次は美濃だ。貴様の『鼻』と『勘』、また借りにいくぞ」

 信長はそれだけ言うと、奥へ引っ込んだ。


 広間に残されたのは、呆然とする俺と、満面の笑みの藤吉郎。

「やったな茂助! これでお前も一国一城の主への第一歩だ! 俺の右腕として馬車馬のように働いてもらうからな!」

 藤吉郎が俺の背中を叩く。馬車馬。一番聞きたくない単語だ。

 俺は天井を仰いだ。神様。俺が願ったのは平和な生活であって、中間管理職の悲哀ではないのですが。  


 ***


 長屋への帰り道。俺の足取りは、来る時よりもさらに重くなっていた。

 組頭への昇進。

 信長からの期待。

 そして、謎のタヌキ武者との遭遇。

 俺がただ「サボりたい」と願って行動すればするほど、周りが俺を「大物」へと押し上げていく。この悪循環は、いつ止まるのだろうか。

 長屋が見えてきた。弥七たちが外で待っている。俺の姿を見つけると、「茂助様! どうでしたか!?」と駆け寄ってくる。


「……昇進したよ。組頭だそうだ」

 俺がボソッと言うと、彼らは爆発したように喜んだ。

「おめでとうございます!」

「さすが茂助様!」

「これで給金が増えますね! 新しい具足が買えます!」

 彼らの無邪気な笑顔を見て、俺は少しだけ救われた気がした。

 まあいい。給料が増えれば、こいつらに腹一杯飯を食わせてやることもできる。権兵衛たちの墓に、もっとマシな供え物をすることもできる。

「……ああ。今夜は宴会だ。俺の奢りだ」

 俺が言うと、さらに大きな歓声が上がった。俺は苦笑いした。

 

 桶狭間の戦いは終わった。

 だが、俺の戦いは終わらない。ブラック企業・織田家での、出世という名の責任地獄が、ここから本格的に始まるのだ。

 俺は空を見上げた。青空が広がっている。

 

 ――帰りたい。

 その願いは、今日も空しく吸い込まれていった。


 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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