第24話 勝鬨(かちどき)の裏側、英雄は家に帰りたい
雨上がりの空は、嘘のように澄み渡っていた。西の地平線に沈みゆく夕日が、桶狭間の谷間を鮮血のような赤色に染め上げている。
俺は、戦場の片隅にある大木の根元に座り込んでいた。全身が泥と、他人の返り血と、雨水でコーティングされている。水分を含んだ藁の鎧は、もはや防具ではなく、俺を地面に縛り付ける拘束具のように重い。指先が震えて止まらなかった。アドレナリンが切れ、急激な寒気と虚脱感が襲ってきているのだ。
「……終わった、のか?」
俺は呆然と呟いた。
周囲では、生き残った織田兵たちが、狂喜乱舞している。
勝った。勝ってしまった。
三千対二万五千。常識的に考えれば全滅必至の戦いで、俺たちは敵の総大将を討ち取るという、歴史的な大番狂わせを成し遂げたのだ。
俺は知っていた。歴史の授業で寝ていた俺でも、織田信長は天下に近づくから、ここでは負けないとだけはわかっていた。だから楽勝だと思っていた。
甘かった。
勝つという結果に至る過程が、こんなに血生臭く、恐ろしいものだとは想像もしていなかった。俺は安全な観客席にいるつもりだったが、実際はリングの上で殴り合うエキストラの1人だったのだ。
「……帰りたい」
俺は膝に顔を埋めた。暖かい風呂に入りたい。ふかふかのベッドで寝たい。コンビニで買ったポテチを食いコーラを飲みながら、ネット動画をダラダラ見たい。そんな当たり前の日常が、今の俺には遠い銀河の彼方にあるように思えた。
***
日が暮れ、近くのお寺で行われていた首実検も終わり、織田軍は清洲城への帰路についた。
雨上がりの夜道を、松明の列が長く長く続いている。兵士たちは興奮し、勝鬨を上げ、歌を歌っている。勝利の美酒に酔いしれる彼らの声は、今の俺には遠い世界の出来事のように響いていた。
俺は、隊列の最後尾を、幽霊のようにトボトボと歩いていた。
隣には、いつもの調子を取り戻した木下藤吉郎がいる。
「へへっ、聞いたか茂助。一番手柄は簗田政綱様になるという噂だぞ」
藤吉郎が嬉しそうに話しかけてきた。
「敵の本陣がこの桶狭間にあることを見抜き、奇襲の策を献じた功績だそうだ。まあ、妥当だな」
「……そうですか。よかったですね」
俺は心底ホッとした。随分と目立ったような気もしていたが、俺はひっそりと静かに暮らしたい。
できれば、引きこもりたいが、この時代では働かざる者食うべからずを地で行ってるので、流石にそれは無理だとわかっている。
それで、俺の予言とかは、全て簗田様の手柄として処理されたらしい。これで俺が軍師とか預言者扱いされて、胃の痛い会議に呼ばれることもないと思う。
義元を討ち取った毛利様と服部様も、大きな恩賞を貰えるらしい。俺のことは邪魔な足軽として記憶から消してくれたらいいな。
あんな陽キャたちとは友達にはなれないし、どちらかと言うとイジメてきそうなタイプだ。
「だがなぁ、茂助」
藤吉郎が小声で言った。
「本当にいいのかよ。お前が一番槍で、簗田様の手柄も半分はお前のもんだろ」
「あんたが後ろから突き飛ばしたんでしょ!! 俺は目立ちたくないんです! 何もしてない、いいですね?」
俺は必死に念を押した。藤吉郎は肩をすくめた。
「俺が突き飛ばした? それはよくわかんねーが、わかったよ。お前がそう言うなら黙っとく。……だが、俺と組の連中は見てたからな。お前の働きを」
藤吉郎がニカっと笑う。
こいつ何言ってんだと思ったが、まぁ、それだけで十分だ。これ以上、話が大きくなってほしくない。
しばらく無言で歩いていた藤吉郎が、ふと足を緩めた。
その表情から、先ほどまでの明るさが消えていることに、俺は気づいた。
「……おい、茂助」
「なんです?」
「……三人、死んだぞ」
俺の足が止まった。
「え?」
「俺たちの組だ。木下組から、三人の戦死者が出た」
藤吉郎の声は低く、押し殺すような響きがあった。
「権兵衛と、助八と、藤太だ。……乱戦の最中、流れ矢に当たったり、敵の槍に突かれたりしてな。助けられなかった」
俺は言葉を失った。
顔が浮かぶ。
権兵衛は、俺が考案したオセロでいつも負けて悔しがっていた男だ。
助八は、兵糧作りの時に「焦げてるけど美味い」と笑っていた。
藤太は、この前の模擬戦で穴から飛び出して大活躍していた。
戦は勝ったはずなのに。
それでも、死んだのか。
「……俺の、せいですかね」
俺は震える声で聞いた。
俺が自分のことだけ考えずに、ちゃんと指示を出していれば。いや、俺なんかに戦の指示なんて出せなかった。
そもそも俺が現代の知識で中途半端に介入したせいで、彼らは油断したんじゃないか?
「馬鹿言え」
藤吉郎が強く否定した。
「お前が教えた鎧のおかげで、助かった奴が何人もいる。弥七なんか、胴丸の上から殴られたが無傷だった。……お前がいなけりゃ、俺たちは全滅してたかもしれん」
藤吉郎は悔しそうに唇を噛んだ。
「だが、戦だ。……全員が生きて帰れるなんて甘い話はねえ。勝っても負けても、誰かが死ぬ。それが戦場だ」
俺は黙って頷いた。
分かっていたつもりだった。頭では理解していた。
だが、実際に知っている顔が二度と戻らないという事実は、俺の胸に鉛のような重りを落とした。
勝利の美酒なんて、どこにもない。あるのは、生き残った者の安堵と、死んでいった者への罪悪感だけだ。
俺たちは再び歩き出した。
足取りはさらに重くなった。
勝利に沸く行列の中で、俺たち木下組の周りだけ、少し静かな空気が流れていた。
***
街道沿いには、勝利の噂を聞きつけた近隣の村人たちが集まっていた。
彼らは松明を掲げ、兵士たちに握り飯や水を差し出している。
「織田様が勝ったぞ!」
「今川を追い返したんだ!」
「ありがてえ、ありがてえ!」
農民たちは涙を流して喜んでいた。
もし今川軍が勝っていれば、彼らの村は略奪され、田畑は荒らされ、女子供は連れ去られていただろう。彼らにとって、この勝利はどっちの大名が偉くなるかというゲームの話ではない。明日、自分たちが生きていけるかという、生活の防衛そのものなのだ。
ゲームのように、数字だけで管理されてるのではない。人は現実に生きているんだ。
俺は、できるだけ目立たないように、うつむいて歩いていた。
合わせる顔がない。俺は三人死なせた。英雄なんかじゃない。
「……お侍様、水はいりませぬか?」
道端の老婆が、柄杓を差し出してきた。
俺は立ち止まり、泥だらけの手でそれを受け取った。
「……ありがとう」
一気に飲み干す。冷たい水が、乾いた喉に染み渡る。
生きている。水が美味いと感じる。
権兵衛たちは、もうこの水を飲むことはできないんだ。
「怪我はありませんか? 大変でしたねぇ」
老婆が労ってくれる。
彼女は俺のことを鬼とか泥の怪物だとも呼ばれていたことを知らない。ただの人として接してくれている。
その皺だらけの手が、俺の泥まみれの手を包んだ。温かかった。
「……ああ。生きて帰れました」
俺は柄杓を返し、小さく礼を言った。
老婆の背後では、若い母親が赤ん坊を抱いて、兵士たちに頭を下げている。
あの子たちが明日も笑って暮らせるなら、権兵衛たちの死にも、少しは意味があったのだろうか。
そう思いたい。そう思わなければ、やってられない。
周りの兵士たちが「俺が首を取ったんだ!」「俺の槍さばきを見せたかった!」と武勇伝を語り、農民たちにちやほやされている中、俺だけは無言でその場を離れた。
英雄になんてならなくていい。
誰かに崇められなくていい。
ただ、こうして無事に水を飲める日常があれば、それでいい。
清洲城の灯りが見えてきた。
あそこには、俺の煎餅布団がある。カビ臭い長屋がある。
そして、帰ってこなかった三人の、空いた寝床があるはずだ。
「茂助様、早く帰って飯にしましょう!」
先に行っていた弥七が、振り返って手を振った。
彼も泣き腫らした目をしているが、今は努めて明るく振る舞っているようだ。生き残った俺たちには、飯を食って、寝て、また明日を生きる義務がある。
こうして、俺の人生で一番長い一日は終わった。
桶狭間の戦い。
後に歴史の転換点と呼ばれるこの戦いで、俺は「歴史を変えるような大活躍」をしたはずだが、幸いにもそれは公式記録には残らなかった。ただ、三人の仲間の命と引き換えに、俺は生き延びた。
俺は泥だらけの手で顔を拭い、大きく息を吐いた。
「……腹減ったな」
俺は懐を探った。最後の一個。泥で汚れた焦げた味噌飯が出てきた。泥を手で払って、俺はそれを口に放り込んだ。苦くて、しょっぱくて、ジャリジャリしていた。
涙の味が混じったそれは、確かに、生き延びた味がした。
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