第23話 一番首の争奪戦、俺はただの踏み台
頭上から、死の閃光が奔った。
目の前の白塗りのオッサン、今川義元の名刀が、亀のように縮こまった俺の背中めがけて、断頭台の刃のように振り下ろされたのだ。
ヒュッ!!
風を切る音が鼓膜を裂く。
――死んだ。
俺はギュッと目を閉じた。
冷たい刃の気配が、俺の首筋のうぶ毛を逆撫でする。
その、千分の一秒。
「我こそは織田家家臣、服部小平太なりィ!!」
横合いから、雷のような名乗りが轟いた。
俺が思考する間もなく、血走った目の若武者が、長く鋭い朱槍を繰り出し、義元の脇腹へ、特攻のごとく突きかかった。
ドスッ!!
肉を貫く鈍い音。
若武者の槍が、義元の黄金の具足の隙間を縫い、深々と突き刺さった。
「ぬぅぅッ!?」
義元が苦悶の声を上げ、その衝撃で上体がガクンと揺らいだ。
ガキンッ!!
凄まじい金属音が、俺の耳元で炸裂した。
衝撃が走る。
だが、痛みがない。
恐る恐る目を開けると、俺の左脇腹から突き出ていた「敵兵の槍」が、根元から断ち切られ、地面に転がっていた。
義元の太刀は、横からの槍の一撃を受けたことで軌道がわずかに逸れ、俺の首ではなく、俺に刺さっていた槍を綺麗に切り落としたのだ。
(……き、切れた!?)
俺は腰を抜かしたまま、切断面を見た。スパッと見事な切り口。もしあと数センチずれていたら、俺の胴体がああなっていた。
「おのれェェ、小童がァァァ!」
義元は脇腹から血を流しながらも、倒れなかった。
それどころか、鬼のような形相で太刀を翻した。
槍を突き刺したまま硬直していた若武者へ、返しの刃が襲いかかる。
ザンッ!
「ぐあああああっ!」
若武者が悲鳴を上げ、膝から崩れ落ちる。
膝を斬られた。鮮血が噴き出す。
だが、彼は再び立ち上がる。槍を杖にして踏みとどまり、血を流しながらも義元を睨みつけている。
「まだだ……! この小平太、この手柄、誰にも渡さんぞ!」
怖い。
狂気だ。
腹を刺されても太刀を振るうオッサンも、膝を斬られても手柄に執着する若者も、どっちも人間じゃない。
俺みたいな一般人が混ざっていい場所じゃない。逃げなきゃ。
俺は泥まみれのまま、四つん這いで後ずさりした。
「じゃ、邪魔だ! どけデカブツ!」
頭上から怒号が降ってきた。
見ると、もう一人の武者が、後ろから猛然と迫ってきていた。
「我こそは毛利新介!!」
その男もまた、高らかに名乗りを上げた。
「義元ォ! 覚悟ォッ!」
新介と呼ばれた義元は、俺の背中をジャンプ台にして高く跳び上がり、手負いの義元に組み付いた。
ドスッ!
「ぐぇっ!」
俺は踏まれた衝撃でカエルのような声を出し、再び泥に顔を埋めた。
肋骨がきしむ。さっき切られた槍の残骸が腹に食い込む。
踏んだり蹴ったりだ。俺は英雄たちの踏み台かよ。
ドスドスッ!
バシャッ!
俺のすぐ横で、義元と新介が取っ組み合いになり、泥沼に転がり込んだ。
泥水が俺の顔にかかる。
近い。近すぎる。
俺は息を殺し、蓑虫のように縮こまった。動いたら殺される。巻き込まれる。
「放せ! 無礼者!……く!!」
義元が暴れる。新介が馬乗りになって押さえ込む。
義元は新介の指に噛み付いた。指を食いちぎる勢いだ。獣の咆哮。
だが、新介も引かない。彼は懐から短刀を抜き、義元の首筋に突き立てた。
ゴリッ。
生々しい、硬いものを削る音がした。
義元の動きが、ピタリと止まる。
新介は、雄叫びを上げながら、刀で首を――。
「ひぃっ……!」
俺は限界だった。
見ていられない。グロテスクすぎる。
俺は四つん這いで、泥水を跳ね上げながら逃げ出した。
数メートル離れた大木の根元まで、芋虫のような速度で這って逃げる。
「……、討ち取ったりィィィ!!」
背後で、毛利新介の絶叫が響き渡った。
振り返ると、彼の手には、白塗りの化粧が剥げ落ち、苦悶の表情で固まった生首が握られていた。
「この毛利新介が! 今川義元を討ち取ったぞォォォ!!」
新介の声が、戦場に響き渡る。
ウオオオオオオオオオオオ!!!
周囲の織田兵たちが勝鬨を上げる。
地響きのような歓声。
戦いは終わった。大将の死により、敵軍は崩壊したのだ。
俺は大木の陰で、荒い息をつきながら座り込んでいた。
助かった。
本当に、何もしてないけど、助かった。
あのハットリさんが来てくれなきゃ、俺は今頃、あのオッサンの足元に転がる肉塊の一つになっていただろう。
その時。
首を持った毛利新介と、足を引きずりながら立ち上がった服部小平太が、激しく言い争いながら、俺の方を睨んだ。
「……おい、そこの大男!」
小平太が血相を変えて詰め寄ってきた。目が血走っている。膝から血を流しながらも、その殺気は衰えていない。
「てめえ! さっきあそこでうずくまってやがったな! 邪魔なんだよ!」
「は、はい! すいません! 死ぬかと思って!」
「てめえがデカイ図体で視界を塞ぐから、俺の一番槍が浅くなったじゃねえか! あそこで一突きで仕留めていれば、俺が首を取れていたんだ!」
理不尽だ。
俺が囮みたいになってたから、一突きできたんじゃないのか。
だが、彼らは必死だ。
大将首を取るというのは、最大の誉なのだ。
誰が一番の功労者か。その論功行賞に、彼らは命を懸けている。
もし俺がここで、「いや、俺が義元を引きつけて隙を作ったんですよ」なんて言い出したらどうなるか。
手柄を横取りしようとする邪魔者として、この場で興奮した彼らに斬り殺されかねない。
俺の生存本能が、最大音量で警報を鳴らした。
関わるな。
手柄なんていらない。歴史に名前なんて残らなくていい。
俺はただ、生きて帰りたいだけだ。
「い、いえ! 俺は何も! ただ転んで気絶してただけです! 何も見てません! お二人の手柄です! 素晴らしい働きでした! 万歳!」
俺は全力で手柄を放棄し、地面に額を擦り付けた。
これぞ、現代社会で培った「責任回避の土下座」だ。
「ふん、腰抜けが」
新介が鼻を鳴らして俺を見下ろした。
「まあいい。義元の首は俺が取った。一番手柄は俺だ」
「何を! 一番槍をつけたのは俺だぞ! お館様の前で白黒つけてやる!」
二人は俺のことなど道端の石ころのように忘れ、手柄争いをしながら信長本陣の方へ走っていった。
残されたのは、首のない死体と、泥まみれの俺。
「……ふぅ」
俺は全身の力が抜け、泥の中に大の字になった。
よかった。
本当に、無視されてよかった。
雨が上がった。
雲の切れ間から、西日が差し込んでいる。
俺は、泥と血の匂いが充満する戦場の片隅で、ただ呆然と空を見上げていた。
全身の感覚が麻痺し、指一本動かせない。
終わったのだ。
俺の、一番長い一日が。
西の空が、毒々しいほど赤く焼け始めていた。
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