第22話 泥塗れの暴走、目指すは聖域(サンクチュアリ)
胃袋に落ちた米と塩分が、爆発的な熱量となって全身を駆け巡った。
震えが止まる。視界がクリアになる。
先ほどまで脳内で警報のように鳴り響いていた空腹のランプが消え、代わりに新たな、より強烈で具体的な指令が点灯した。
生き延びろ。安全な場所へ潜り込め。
俺の生存本能が、この混沌とした戦場の中で、唯一のターゲットを捕捉していた。
戦場の中央、泥と血と死体の渦の中心に鎮座する、あの朱塗りの輿。
あれだ。あそこしかない。
この吹きっさらしの地獄の中で、唯一、屋根があり、壁があり、床が乾いている場所。
外界のあらゆる脅威、空から降る矢、飛び散る肉片、降り注ぐ雨、そして何より死の恐怖を物理的に遮断してくれる、鋼鉄の核シェルターに見えた。
中に誰がいようと知ったことではない。引きずり出してでも、俺はあの箱に入らねばならない。そうでなければ、俺の精神が崩壊する。
もう、一秒たりとも、この剥き出しの戦場に立っていたくなかった。
「……あの中へ」
俺は泥の中から立ち上がった。
左の脇腹には、依然として敵兵から突き入れられ、鎧の下の分厚い藁束に絡まって抜けなくなった槍がぶら下がっている。まるで体から生えた異様な枝のようだ。動くたびに、槍の柄が揺れ、肋骨を圧迫する鈍い痛みが走る。
だが、そんな痛みなどどうでもよかった。
足元はおぼつかない。だが、目的意識だけが異常に冴え渡っていた。
ズブリ、ズブリ。
足が泥に沈む音が、自分の心音のように重く響く。
目の前には、パニックに陥った今川兵たちが密集している。彼らは逃げ場を失い、右往左往していた。
「どけ……どいてくれ……!」
俺は呻いた。声は掠れて出ない。喉が渇いて張り付いている。
だが、俺の姿を見た瞬間、密集していた今川兵たちが、弾かれたように道を空けた。
「ひぃッ! く、来るぞ!」
「泥の化け物だ! 目を合わせるな!」
悲鳴が上がる。
彼らの眼には、俺はどう映っているのか。
全身を分厚い泥と水分で膨張した藁で着膨れさせ、身体からは雨上がりの急激な体温上昇による白い湯気を上げ、脇腹に槍が刺さったまま平然と歩いてくる巨人。
それは武者ではない。この桶狭間の淀みから生まれた、怨霊そのものだったろう。
痛みを感じず、死ぬこともなく、ただひたすらに前進してくる怪物。
ザッ、ザッ、ザッ。
俺が一歩進むたびに、人の壁が割れる。
モーゼの十戒のように。
誰もこの不気味な物体に触れたくないのだ。
その恐怖による空白地帯を、俺は最短距離で突っ切った。
足元には、無数の死体が転がっている。あるいは、まだ息のある負傷兵が。
俺は彼らを踏まないように、しかし止まることなく進んだ。泥と血が混ざり合った赤黒い液体が、草鞋の中に入り込んでくる不快感。鉄の錆びた臭いと、内容物が漏れ出した臓腑の臭いが鼻腔を焼き焦がす。
吐き気がこみ上げるが、吐くものがない。
織田の精鋭たちが、今川軍を押し込んでいる気配がする。
「信長様に続けぇ!」
「敵は総崩れだ! 本陣へ突っ込めぇ!」
勇ましい鬨の声が聞こえるが、今の俺には遠い世界のBGM程度の意味しかない。俺の頭の中は、「個室に入って鍵をかけたい」「膝を抱えて丸まりたい」という、切実な願望で埋め尽くされていた。
近づくにつれ、輿のディテールが鮮明になる。
美しい朱色の漆塗り。金の金具。屋根の四隅についた飾りが、西日を受けてギラリと輝いている。
泥まみれの戦場において、そこだけが異常なほど、清潔で、高貴で、異質だった。
入り口には高価そうなカーテンが掛かり、中の様子を隠している。
ここだけ別世界だ。泥も血もない、選ばれた者だけの空間。
(あの中なら……)
あの中に滑り込めば、もう泥水を啜らなくていい。濡れた服で震えなくていい。
俺は、砂漠でオアシスを見つけた遭難者のように、涙目でその箱にすがりついた。
「……着いた」
俺は泥だらけの手で、輿の縁を掴んだ。
温かい。木のぬくもりがある。漆の滑らかな感触が、手のひらの泥と混ざり合う。
周囲では、織田軍の突入部隊と、今川軍による凄惨な殺し合いが始まっている。金属音と悲鳴が交錯する阿鼻叫喚。首が飛び、血飛沫が輿の壁面を汚していく。
だが、不思議とこの輿の周囲半径数メートルだけは、台風の目のように静寂だった。誰もが、この本丸に手をかけることを躊躇しているかのような、見えない結界。あるいは、あまりにも高貴なオーラに気圧されているのか。
そんな空気など読めるはずもない俺は、祈るような気持ちで、入り口に手をかけた。
(頼む。空っぽであってくれ。誰もいないでくれ)
もし誰かいたら、土下座してでも入れてもらう。いや、足元のスペースに丸まらせてもらうだけでもいい。とにかく、この吹きっさらしの恐怖から逃げ出したい。
俺は衝動的に、御簾を強引に引きちぎった。
バリッ!
乾いた音がして、布が裂ける。視界が朱色に染まる。
その瞬間。
「――痴れ者がッ!!」
鼓膜を劈くような一喝と共に、強烈な殺気が噴き出した。
中から現れたのは、空虚な空間ではなかった。
俺の希望的観測をあざ笑うかのような、圧倒的な「存在」がそこにいた。
黄金の具足。
白塗りの顔。
お歯黒の闇のような口腔。
男は輿の中で小さくなっているどころか、むしろその狭い空間を支配する魔王のように鎮座していた。
異様だった。
戦場の泥臭さとは無縁の、厚化粧の粉っぽい匂いと、仏壇の線香を百倍に濃縮したような甘ったるいお香の匂い。それがムッとするほどの濃度で漂ってくる。
その場違いな香りが逆に、この男の人外めいた不気味さを際立たせていた。
バカ殿? 軟弱な公家かぶれ?
誰だ、そんなデマを流したのは。
目の前にいるのは、数万の人間を顎で使い、生殺与奪の権を握り続けてきた、純粋な支配者のカリスマそのものだった。
肌は白く塗られているのに、その下の筋肉が隆起しているのが分かる。眼光は鋭く、蛇のように冷たい。
これが、戦国大名今川義元
「ひッ……!?」
俺は悲鳴を上げて、しりもちをついた。
終わった。
最悪の「ハズレ」だ。
空き部屋だと思って開けたトイレに、ヤクザの親分が入っていたような絶望感。
しかも、この親分は、殺る気だ。
義元の手には、すでに抜き身の太刀が握られていた。
二尺六寸の長大な刃。その妖しい光は、夕日を反射してギラギラと輝き、泥まみれの俺の姿を鏡のように鮮明に映し出していた。
「尾張の野猿風情が……この義元の聖域を、その汚らわしい手で穢すか」
義元が、ゆっくりと立ち上がった。
太っていると聞いていたが、その肉体は弛んでいなかった。分厚い脂肪の下に、鋼のような筋肉が詰まっている、あの日、祖父の膝の上で見た巨漢の相撲取りのような威圧感。
彼は輿から一歩踏み出し、俺を見下ろした。
その目は、人間を見ている目ではない。路傍の石ころか、這い回る蟲を見るような、冷徹な無関心と侮蔑。
俺の全身の毛穴が収縮した。
呼吸が止まる。心臓が早鐘を打つ。
「……ひ、ひぃぃ……」
声が出ない。
逃げなければ。
だが、腰が抜けて足が動かない。それに、背後は泥濘だ。下手に動けば転ぶ。
義元が太刀を上段に構えた。
隙がない。
構え一つで空気が歪むようだ。
誰かが言っていた。海道一の弓取り。東海の覇者。
その時は意味がわからなかったが、いや、今で理解しているわけではないが、なんとなくわかった。
その純粋な暴力の結晶が、今、俺の脳天に振り下ろされようとしている。
藁の鎧? 関係ない。ギラリと光るあんな業物で斬られたら、藁ごと真っ二つだ。いや、俺ごと両断されて、背後の泥に埋まるだろう。
「……あ、あ……」
言葉にならない命乞い。
義元の唇が、微かに歪んだ。嘲笑か、それとも哀れみか。
白い顔の中で、お歯黒の黒い口が裂けるように開く。
「死ねぇい!!」
風を切る音。
銀色の閃光が走る。
速い。見えない。
思考する時間などなかった。
戦おうなどという気概は、微塵も湧かなかった。
ただ、「顔を守りたい」「痛いのは嫌だ」という、幼児退行したような防衛本能だけが体を動かした。
俺は反射的に、地面に額を擦り付けるように体を丸めた。
亀のように首をすくめ、背中を丸め、両手で頭を抱える。
無防備な背中を、敵の刃に晒す。
武士にあるまじき、究極の土下座スタイル。
「ごめんなさぁぁぁい!!」
俺の情けない絶叫が響く。
頭上には、死神の鎌のように、天下人の太刀が迫っていた。
そして。
俺の意識は、恐怖で白く塗りつぶされた。
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